熱狂と喧騒に包まれたウイニングライブが終わり、世界中が絶対女王の引退の余韻に浸っている夜。
都内の静かな一等地に佇む完全会員制レストランの個室には、心地よい静寂が降りていた。
シャワーを浴びてターフの泥と汗を綺麗に洗い流し、落ち着いた漆黒のドレスに着替えたジェンティルドンナは、グラスの中で揺れる琥珀色の液体を、ただ静かに見つめていた。
テーブルを挟んだ向かい側。そこには、いつものように彼女の専属トレーナーである男が座っている。だが、今日の彼は、明らかに『いつも』とは違っていた。
デスクの傍らに、彼を象徴するあのタブレット端末はない。
室温を測ることも、明日の消費カロリーを計算して料理の塩分濃度に口出しすることもない。ネクタイは僅かに緩められ、肩の力は抜け、ただ一人の男として、静かにグラスを傾けている。
それは、出会ってから彼が初めて見せる、計算も修正もない『自然体』の姿だった。
「……随分と、腑抜けた顔をしていますわね」
ジェンティルドンナは、からかうような、それでいてひどく愛おしむような声で微笑みかけた。
「……無理もないだろう」
男は、自嘲気味にふっと息を吐いた。
「俺の頭脳の全リソースを占めていた巨大な計算式が、今日、完全に解を出し終えてしまったんだ。明日のメニューも、次走のローテーションも、もう考える必要がない。……ただの抜け殻みたいなものさ」
ウマ娘としての『限界値』を彼が描き、彼女がそれを叩き割る。
その狂気的で完璧な終わりのない応酬こそが、彼を突き動かしてきた全てだった。それが完成してしまった今、彼の『完璧主義の呪い』は、解けたというよりは、満たされて静かな眠りについたのだ。
ジェンティルドンナは、左手の薬指で煌めくリングを優しく撫でながら、そんな不完全で自然体な彼を、ひどく心地よく受け止めていた。
「抜け殻でも構いませんわ。私が一生かけて、新しい中身を詰め込んで差し上げますから」
「……全くだ」
男は苦笑し、手元のグラスを軽く回した。そして、ふと真顔に戻ると、揺れるキャンドルの火越しに、ジェンティルドンナの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……なあ、ジェンティル」
「何かしら」
「なぜ、俺だったんだ」
それは、全てが終わった今だからこそ口にできた、彼自身の根源的な問いだった。
「俺は狂っていた。ウマ娘の感情など無視して、ただ数字と完璧さだけを求める、欠陥品だ。お前ほどの実力と美貌、そして家柄があれば、もっとふさわしい男はいくらでもいただろう。優しくて、お前を甘やかして、普通の幸せを与えてくれるような人間が」
「……」
「それなのに、なぜ……俺なんだ」
静かな個室に、彼の不器用な問いが落ちる。ジェンティルドンナは、その問いに対して少しも悩む素振りを見せなかった。
ただ、最高に楽しそうに、そして誇らしげに、三本の手指を立ててみせた。
「三年、ですわ」
「……三年?」
「ええ。出会ってから今日この日まで、貴方と共に駆け抜けた三年間」
彼女は、立てた指を一つずつ折りながら、愛おしむように言葉を紡いだ。
「貴方はこの三年間……私の走りの全て、呼吸の全て、細胞の震えの全てを、誰よりも近くで『見て』くれました」
「私の我が儘も、極限の疲労からの不満も、言葉にならない怒りすらも、全てノイズとして『聞いて』、受け止めてくれました」
「そして、世界の果てであろうと、どれほど強大な重圧の中であろうと……私の全てを計算し尽くし、ただの1ミリの傷も負わせることなく、私を完璧に『エスコート』してくれました」
ジェンティルドンナは、最後に残った拳をゆっくりと開き、テーブルの上に伸ばして、男の手に重ねた。
「私の人生において、これ以上の理由がありますか?」
男は、息を呑んだ。
「貴方が私を完璧な女王にしてくれた。私の人生の最も熱く、最も美しい時間を、貴方がその生涯の全てを懸けて証明し続けてくれた。……そんな男を差し置いて、他の誰の手を取れというのです?」
彼女の言葉には、一片の迷いもなかった。
彼の狂気的な完璧主義は、世間から見れば欠陥だったかもしれない。だが、ジェンティルドンナにとって、それこそが世界で最も重く、最も純粋な『愛』の形であったのだ。
「……私の最強には、貴方が必須なのです。ターフを降りたこれからの人生においても、ね」
重ねられた手から伝わる、温かくて力強い熱。
男は、しばらくの間、何も言えずにただ彼女の顔を見つめていた。やがて、彼は観念したように目を閉じ、深く、静かに息を吐いた。
「……完敗だ。お前には、本当に敵わない」
男は、重ねられたジェンティルドンナの手を握り返し、そして、これまでで一番穏やかで、人間らしい、優しい微笑みを浮かべた。
「これから先の数十年……お前がターフ以外で見せる全ての表情も、俺の眼球で完璧に観測し、誰よりも見事な設計図を描いてやる。……覚悟しておけよ、俺の女王」
「ええ。せいぜい期待しておりますわ、私のただ一人のパートナー」
祝福の夜。
グラスが触れ合う静かな音が、二人の永遠の始まりを告げるように、個室の空気に優しく溶けていった。