ウマ娘ストーリー・another   作:灯火011

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番外編『完璧な男の去った学び舎で』

 絶対女王ジェンティルドンナと、狂気的な完璧主義者のトレーナー。

 

 二人がトレセン学園を去り、新たなビジネスの舞台へと旅立ってから数ヶ月後。

 

 彼らが嵐のように駆け抜けたトレセン学園には、奇妙な『空白』と、ある種の『伝説』が残されていた。

 

 

「……先輩。第3コーナーの芝の反発係数、コンマ数パーセントですが、先週より落ちていませんか? うちの担当の踏み込みが、ほんの僅かですが甘くなっている気がして」

 

 トレセン学園、トレーナー室が並ぶ廊下。若手トレーナーが、コーヒーサーバーの前で頭を抱えながらぼやいていた。

 

 それを聞いたベテラントレーナーは、紙コップを手に苦笑した。

 

「お前の目も肥えてきたな。だが、お前の担当のせいじゃない。……芝のメンテナンス業者のローラー掛けの速度が、規定より『秒速0.5メートル』早かったせいだ」

 

「えっ、そんな僅かな違いで?」

 

「ああ。以前なら、あいつが業者のトラックの横を並走して、ストップウォッチ片手に『遅い!やり直し!』と怒号を飛ばして完璧に修正させていたからな」

 

 ベテラントレーナーは、少しだけ寂しそうに窓の外のターフを見つめた。

 

「彼が学園を去ってから、機材の微細な歪みや、データサーバーの0.1秒のラグが目に付くようになった。……俺たちは、あの『氷の完璧主義者』がいかに異常な精度でこの学園のインフラを陰から支えていたか、いなくなって初めて思い知らされているというわけだ」

 

 若手トレーナーは、深いため息をついた。

 

「ジェンティルドンナの引退と同時に、スパッと辞表を出しましたからね……。学園長はデータ管理部門のトップとして彼を慰留したそうですが、『俺の計算式は、彼女の走りを観測するためだけに存在する。他のウマ娘のデータを処理するメモリは、一メガバイトも残っていない』と一蹴したとか」

 

「彼らしいさ。……で、今はジェンティルドンナが立ち上げた新興企業の『副社長』兼『戦略統括本部長』だ。しかも、戸籍上でも彼女の夫としてな」

 

 若手トレーナーは、ブルッと身震いした。

 

「恐ろしい夫婦ですよ。絶対女王のカリスマと覇気に、あの男の1ミリの狂いも許さない異常な計算式が加わったんです。先週なんて、老舗のスポーツメーカーをたった一回の商談で完全買収したって、経済ニュースで持ちきりでしたよ」

 

「ターフの敵が、同業他社に変わっただけさ。彼に『不完全なノイズ』と認定された企業は、軒並みその完璧な設計図に飲み込まれていくんだろうな。……くわばらくわばら」

 

 

 同じ頃。

 

 都内の落ち着いたカフェで、一人の女性がタブレット端末で経済ニュースのライブ配信を見つめていた。

 

 かつて、あの氷のトレーナーの厳しすぎる指導に心が折れ、彼の元を去った『元担当』の先輩ウマ娘である。彼女も既に学園を卒業し、今は社会人として平穏な日々を送っていた。

 

 画面の中では、ジェンティルドンナが新規事業の立ち上げに関する記者会見を行っていた。洗練されたスーツに身を包み、堂々と、そして傲岸不遜なまでの自信に満ちた笑顔で記者たちの質問に答える姿は、ターフにいた頃と何一つ変わらない『絶対女王』そのものだった。

 

(……本当に、どこにいても輝く人ね)

 

 元担当の彼女が、ふっと微笑ましく画面を眺めていた、その時。

 

 ジェンティルドンナの背後、カメラのピントがわずかにボケる位置に、見慣れたシルエットが映り込んだ。

 

『――こちらの事業における今後の展望ですが……』

 

 ジェンティルドンナが身振り手振りを交えて熱弁を振るう中、その後ろに立つ男(トレーナー)が、スッと動いた。

 

 彼は、ジェンティルドンナの右手が動く軌道をコンマ1秒で予測し、机の上に置かれていた水の入ったグラスを、彼女の指先が触れる『数ミリ手前』のタイミングで、音もなく2センチ右へずらしたのだ。

 

 さらに、ジェンティルドンナが少し前傾姿勢になったのに合わせて、マイクの角度をほんの数度、完璧な集音ができる位置へと微調整する。

 

 全ては、会見の主役である彼女が、一切のストレス(ノイズ)を感じることなく、完璧なパフォーマンスを発揮するため。誰にも気づかれない、異常なまでの『エスコート』。

 

「……ふふっ」

 

 それを見た元担当の彼女は、カフェの席で思わず吹き出してしまった。

 

(あの人、本当に何も変わっていない)

 

 1ミリのズレを許さない、強迫観念のような完璧主義。かつての自分たちを恐怖させ、押し潰したその「呪い」は、今もなお健在だった。

 

 だが、画面の向こうの彼の瞳は、自分たちに向けていたような『機械的な冷たさ』ではなかった。彼の視線は、ジェンティルドンナの細胞一つ一つの挙動を愛おしむように見つめ、彼女が最も輝くための完璧な環境を整えることに、狂気的なまでの『悦び』を見出しているのが痛いほど伝わってきた。

 

「……よかったわね、トレーナーさん。貴方のその重すぎる完璧を、笑って受け止めてくれる人がいて」

 

 彼女は、画面の中で誇らしげに笑う最強の夫婦に向けて、心からの祝福と共に、そっとコーヒーのカップを持ち上げた。

 

 

 そして、トレセン学園・理事長室。

 

「――完璧だ。文字のインクの濃淡、行間のミリ単位の揃い具合、そして一切の感情を排した論理的な退職理由。……ここまで芸術的な『辞表』は、私の長い教育者人生でも初めて見たぞ!」

 

 理事長である秋川やよいは、デスクの上に置かれた一枚の退職届を眺めながら、バサァッ! と扇子を広げて高らかに笑った。

 

 その対面に座るシンボリルドルフは、優雅に紅茶を啜りながら、静かに肩を竦めた。

 

「彼が去ってから、学園の施設管理部が悲鳴を上げていますよ。『今まであの人が無給で直してくれていた歪みが、一気に表面化してきた』と。……彼を失ったことは、学園にとって大きな痛手でしたね」

 

「肯定! だが、引き留めることなど不可能だ。彼の世界は既に、ジェンティルドンナという一個体を完璧に観測するためだけに最適化されてしまっているのだからな!」

 

 やよいは扇子を閉じ、ふと、面白そうな、そして底知れぬ凄みを含んだ笑みを浮かべた。

 

「それにしても、ルドルフ会長。最近の彼らの動向を知っているか?」

 

「ええ。新会社の立ち上げから瞬く間にシェアを拡大し、先日は大手スポーツブランドを買収。……凄まじい手腕です。経済界の覇王にでもなるつもりでしょうか」

 

「それもあるだろう。だが、私が注目しているのはそこではない」

 

 やよいは、手元にあった経済紙の小さな切り抜きをルドルフの前に差し出した。

 

 そこには、『ジェンティル・コーポレーション、北欧のオーガニックベビー用品最大手と、国内の最高級知育玩具メーカーを立て続けに買収』という記事が載っていた。

 

 ルドルフは、その記事を数秒見つめ――やがて、ハッと息を呑んだ。

 

「……まさか」

 

「そのまさかだ!」

 

 やよいは、立ち上がって窓の外のターフを指差した。

 

「あの氷の完璧主義者が、自社の事業ドメインと全く関係のない企業を、採算度外視で強引に買収した! 彼がそんな『非論理的』な行動に出る理由など、一つしかない!」

 

 やよいの目が、爛々と輝く。

 

「ジェンティルドンナは、新たな命をその身に宿しているのだろう! そしてあの男は、生まれてくる我が子に『1ミリの不純物(ノイズ)も混じっていない、世界で最も完璧で安全な環境』を提供するためだけに、世界のトップ企業を丸ごと買い上げているのだ!!」

 

「……っ」

 

 ルドルフは、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

 

 愛する我が子のために、ベビーベッドや玩具を()()()()……などという『不完全』な事はしない。ベビー用品メーカーごと買収し、自らの完璧な設計図通りに()()()()()()()()()()()()()。あまりにも狂気的で、あまりにもスケールが大きすぎる、過保護の極みだ。

 

「……恐ろしいですね。あの絶対女王の力と才能を受け継ぎ、さらにあの男の『完璧な環境』で0歳から英才教育を施される子供……」

 

 ルドルフは、数年後、あるいは十数年後のトレセン学園の未来を想像し、美しく整った顔を微かに引きつらせた。

 

「ええ……。もしその子がウマ娘としてこの学園の門を叩く日が来れば、それはトレセン学園の歴史において、かつてない暴風雨の始まりになるでしょうね」

 

「その通り! だが、それこそが我が学園の望むところだ!」

 

 やよいは、未来の新たな怪物の誕生を祝うように、両手を大きく広げた。

 

「絶対女王と、狂気の設計者。二人が残した伝説は、決して終わらん! むしろ、より完璧で、より恐ろしい形となって、必ずこのターフへ帰ってくる! 嗚呼、実に楽しみだ! はーっはっはっはっはっ!!!」

 

 冬晴れの空の下。学園長の高らかな笑い声が、響き渡る。

 

 かつてこの学園で、誰よりも不器用で、誰よりもウマ娘の走りの『美しさ』に執着した一人のトレーナー。彼が学園を去った後も、その彼が狂おしいほどに愛した「完璧な物理法則」と「絶対女王の覇道」の記憶は、語り草となって色褪せることはない。

 

 そして彼らもまた、ターフとは違う新たな戦場で、今日も1ミリのズレも許さない完璧なエスコートと共に、圧倒的な覇道を歩み続けているのだった。

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