ウマ娘ストーリー・another   作:灯火011

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第3話:挽きたての珈琲と、世界一軽い契約

 トレセン学園の広大な敷地内に立ち並ぶ、トレーナーたちの執務室が集まる棟。

 

 その真新しいドアの前に立ち、ナイスネイチャは小さく深呼吸をした。

 

(……なんか、緊張するなぁ)

 

 学園のトレーナー室といえば、トップウマ娘を抱えるエリートたちの熱気や、山積みにされたデータファイル、壁に飾られた栄光のG1トロフィー、そして何より「絶対に勝つ」という息の詰まるようなプレッシャーで満たされているのが常識だ。

 

 万年3着、自称・名脇役のネイチャにとって、そういった空間はどうにも居心地が悪く、普段からあまり近づかないようにしていた。

 

 しかし、意を決してドアノブを回し、中へと足を踏み入れた瞬間。ネイチャは少しだけ拍子抜けしてしまった。

 

 

「お邪魔しまーす……って、あれ?」

 

 そこは、彼女が想像していたむせ返るような熱血空間とは全くの無縁だった。

 

 部屋はひどくスッキリと片付いており、少しだけ開け放たれた窓からは、秋の爽やかな風が静かに吹き込んでいる。棚の上にトロフィーの類は一切なく、代わりにそこにあったのは、見覚えのある黒いフルフェイスのヘルメットと、使い込まれたレザーのライディンググローブだった。

 

「いらっしゃい、ナイスネイチャ。散らかってて悪いね、適当に座って」

 

「いえいえ……っていうか、全然散らかってないですよ。なんか、すっごく落ち着く空間ですね」

 

 窓際のデスクから立ち上がった青年――河川敷で出会った『バイク乗りのお兄さん』こと、彼女をスカウトに呼んだ新任トレーナーが、いつもの穏やかな笑みで迎えてくれた。

 

 ネイチャが来客用のソファに腰を下ろすと、彼は執務机の奥から、見覚えのある道具のセットを取り出してきた。

 

「あ、それ……!」

 

「うん。この間、河川敷では俺が一人で飲んでて、君には淹れてあげられなかったからね。今日はゆっくり、味わってもらおうと思って」

 

 彼がローテーブルの上に並べたのは、あの手挽きのコーヒーミルと、小さなドリップセット、そして銀色の電気ケトルだった。

 

 学園のカフェテリアに行けば、ボタン一つで美味しいコーヒーが出てくる機械があるというのに、彼はわざわざ自室で一から道具を広げている。

 

「ここでも、豆から挽くんですか?」

 

「ああ。手間はかかるけど、このプロセス自体が好きなんだ。……ほら」

 

 彼は、ガラスの瓶から一回分のコーヒー豆をミルにザラザラと流し込むと、それをネイチャの目の前へと差し出した。

 

「えっ、私に?」

 

「自分の分は、自分で挽く。その方が美味く感じるからね。ハンドルを時計回りに、少し力を入れて回すだけだよ」

 

「ははぁ、なるほど。なんか面白そう。じゃあ、お言葉に甘えて……」

 

 ネイチャは少し面白がりながらミルを受け取り、ソファに座ったまま、両足で挟むようにしてハンドルを回し始めた。

 

——ゴリッ、カリカリ、ゴリ、カリカリカリ……。

 

 静かな部屋に、豆が砕ける小気味良い音が響き始める。

 

 手に伝わってくる硬い豆の感触と、それを少しずつすり潰していく微かな振動。そして何より、挽き始めると同時に、ミルの隙間からふわりと立ち上ってくる、深く香ばしい匂い。

 

「わぁ……」

 

 ネイチャは思わず、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 河川敷の時は、風に乗って遠くから香ってきただけだった。けれど今、自分の手で豆を挽くことで、その香りの輪郭がはっきりと、より濃厚に感じられる。

 

「……なんかこれ、無心になれますね」

 

「だろ? この手間に意味があるんだよ」

 

 そして、ネイチャが豆を挽き終わる頃合いを見計らって、彼はケトルでお湯を沸かし、ペーパーフィルターをセットした陶器のドリッパーを用意した。

 

「お疲れ様」

 

 とネイチャからミルを受け取り、挽きたての粉をフィルターへと静かに移す。

 

 

 ケトルから落ちる細いお湯を、そっと粉の中心に滴らせながら、彼が静かに口を開いた。

 

「……今日の模擬レース、本当にいい走りだったよ」

 

 お湯を含んだコーヒーの粉が、まるで深く息を吸い込むように、もこもこと小さなドーム状に膨らんでいく。

 

「あ、ありがとうございます。……でも、結局3着でしたし。一番前を走ってた子とは、やっぱり地力が違うっていうか」

 

「3着になれたんだ。あのハイペースな展開で」

 

 彼は、膨らんだ粉からポタポタとお湯が落ち切るのを、じっと辛抱強く待っていた。

 

 焦って次のお湯を注げば、味のバランスが崩れてしまう。コーヒーの最も美味しい成分を抽出するための、大切な「蒸らし」の時間。

 

「レースも、このコーヒーを淹れるのと同じさ」

 

 やがて、彼は再び、のの字を描くようにゆっくりと、細いお湯を注ぎ始めた。……ツー、ポタ、ポタと、透き通った琥珀色の液体がサーバーへと落ちていく。

 

「最初から派手に飛ばせばいいってもんじゃない。周りのハイペースに惑わされず、じっと辛抱強く、自分のリズムを守る。展開の熱に耐えて、焦らずに丁寧に下拵えをし続け……そして、ここぞという自分のタイミングが来るのをじっと待つんだ」

 

「……」

 

「そうやって、泥臭く丁寧に積み重ねた時間が、最後に最高の一杯(けっか)を生み出す。……今日の君の走りは、まさにそれだった。圧倒的な才能をごぼう抜きにするような派手さはないかもしれない。でも、自分の現在地を見失わず、最後まで丁寧にレースを組み立てる君の強さを、俺は誰よりも評価しているよ」

 

 彼の言葉は、ドリップされるお湯のように静かで、熱く、けれどネイチャの胸の奥の、一番冷えて自信を失っていた部分にじんわりと染み込んでいった。

 

 派手な主役たちにはない、自分だけの泥臭い走り。それを『最高の一杯を生み出すための大切な下拵え』だと、彼は肯定してくれたのだ。

 

「……やだなぁ」

 

 ネイチャは、顔がカァッと熱くなるのをごまかすように、ソファのクッションをぎゅっと胸に抱きしめた。

 

「そんな真面目な顔で、ド直球に褒められると……なんか、照れちゃいますよ」

 

「本当のことだからね。……よし、入った」

 

 彼はサーバーを軽く揺らして味を均一にすると、二つのマグカップにコーヒーを注ぎ分けた。一つをネイチャの前のローテーブルに置き、自分ももう一つのマグカップを持って、向かいのソファに腰を下ろす。

 

「いただきます」

 

「どうぞ」

 

 ネイチャはマグカップを両手で包み込むように持ち、ふーっ、と少しだけ息を吹きかけてから、初めて彼の淹れたコーヒーを一口、こくりと飲んだ。

 

「……んっ。あ、美味しい……!」

 

 思わず声が出た。

 

 いつも自動販売機で買っている甘い缶コーヒーとは全く違う。しっかりとした苦味の奥に、ほんのりとした甘みと、スッキリとした酸味が同居している。熱い液体が喉を通って胃の腑に落ちると、全身の強張りがフッと解けていくような心地よさがあった。

 

「河川敷で匂いだけ嗅いだ時も美味しそうだなーって思ってましたけど、実際に飲むと格別ですね」

 

「ネイチャが自分で豆を挽いたからな。手間をかけた分、美味いんだよ」

 

 彼はそう言って目を細め、自身のコーヒーを一口飲んだ後。マグカップをテーブルにコトリ、と置き、

 

「で、ナイスネイチャ。……俺と、契約してくれない?」

 

 まるで『今日の天気はいいですね』とでも言うような、ひどく自然で、穏やかなトーンでそう告げた。

 

「…………ぶふっ!?」

 

 ネイチャは、思わず口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになり、慌ててむせた。

 

「ゲホッ、ゴホッ! え、ちょっ……」

 

「おっと、大丈夫か?」

 

「だ、大丈夫じゃないです! え、軽っ!? 軽くないですか!?」

 

 目を丸くして身を乗り出すネイチャに、彼は

 

「あはは、ごめんごめん」

 

 と頭を掻いた。

 

「契約って、専属契約のことですよね!? なんかもうちょっとこう、分厚い書類をバーン! と机に置いて、『君と一緒にG1の頂点を目指したいんだ!』みたいな、情熱的な握手とかあるもんじゃないんですか!?」

 

「俺、そういう暑苦しいの苦手でさ。それに、君には変なプレッシャーをかけたくなかったんだよ」

 

 彼は、秋風に揺れる窓辺に視線をやりながら、優しく微笑んだ。

 

「君のあの自然体な走りを、一番近くで見守っていたい。君が美味しいコーヒーを淹れるためのサポートを、俺にさせてほしい。……それだけだよ」

 

 その飾らない言葉に、ネイチャは毒気を抜かれたようにぽかんとしてしまった。

 

 他の子たちが受けているような、重い期待や熱烈なラブコールではない。私のことを「主役にしてやる」なんて大それた嘘も吐かない。でも、これが彼なりの、一番誠実で、一番彼らしい「スカウト」なのだと、なぜかスッと理解できた。

 

(……ほんと、変なトレーナーさん)

 

 ネイチャは、マグカップをテーブルに置き、小さく、けれどとても温かい息を吐いた。そして、いつもの少し自嘲気味な笑みではなく、等身大の、一人の女の子としての心からの笑顔を浮かべた。

 

「私、才能とか全然ないですよ? すぐ卑屈になるし、ブロンズコレクターだし」

 

「かまわない」

 

「手、焼かせちゃうかもしれませんよ?」

 

「それも楽しみだ」

 

 即答する彼に、ネイチャは「もう、敵わないなぁ」と小さく呟き、そして――スッと、右手を差し出した。

 

「……じゃあ。こんな私でよければ、喜んで」

 

 彼もまた、テーブル越しに右手を伸ばし、ネイチャの小さな手をしっかりと握り返した。

 

 大げさな宣言も、重苦しい誓いもない。

 

 ただ、世界一軽くて、世界一温かい契約の瞬間だった。

 

「これからよろしく頼むよ、ネイチャ」

 

「はいっ。こちらこそ、よろしくお願いします、トレーナーさん。……あ、でも」

 

 繋いだ手を離し、ネイチャは少しだけ悪戯っぽく彼を見上げた。

 

「……もしよかったら、いつか私を一回、あのバイクの後ろに乗っけてくれませんか? 河川敷で見た時、風を切るのすっごく気持ちよさそうだったんで」

 

「ははっ、任せて。じゃあ、そうだな。さっそく、次の休日は少し遠出してみようか」

 

 二人の笑い声が、秋風の吹き込む爽やかな執務室に響く。

 

 繋がれたばかりの二人の手のすぐ傍ら。ローテーブルの上には、湯気を立てる二つのマグカップと。

 

 そして、彼がポケットから無造作に取り出して置いた、銀色に光る『大型バイクのキー』が、これからの二人の新しい旅立ちを祝福するように、静かに並んで輝いていた。

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