週末の早朝。トレセン学園の正門前には、ひんやりとした秋の空気が薄霧のように立ち込めていた。
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吐く息が白く染まる季節の入り口。ナイスネイチャは、動きやすいデニムに少し厚手のパーカーという、飾り気のない私服姿でポツンと立っていた。
「……なんか、変に早起きしちゃったな」
自分の足元を見つめながら、小さく呟く。
今日はいよいよ、新しく契約を結んだトレーナーとの『初めてのツーリング』の日だ。ただの気分転換。親睦を深めるための、師弟としての健全なお出かけ。……頭ではそう理解しているはずなのに、昨夜はベッドに入ってから何度も寝返りを打ち、遠足前の小学生のように妙な胸のざわめきが収まらなかった。
――フォォォォォン……ッ。
静寂を破り、遠くからあの聞き馴染んだ四気筒エンジンの重低音が近づいてくる。ネイチャが顔を上げると、朝の斜光を反射して黒く光る大型バイクが、滑るように目の前へと停車した。
「おはよう、ナイスネイチャ。待たせちゃったかな」
「あ、おはようございます! いえいえ、私がいらん気合入れて早く来すぎちゃっただけですから!」
シールドを上げた彼が、いつもの穏やかな笑みを向けてくる。黒いライディングジャケット姿の彼は、執務室でコーヒーを淹れていた時とはまた違う、大人の男の頼もしさを纏っていた。
「ほら、これ」
彼がリアボックスから取り出して手渡してきたのは、ネイチャの頭のサイズにぴったりと合うように調整された、真新しいフルフェイスのヘルメットだった。
「わっ、わざわざ用意してくれたんですか?」
「俺の予備だけど、内装は新品に替えてあるから安心して。被り方はわかる?」
「は、はいっ。動画で少し勉強してきたので……えっと、こうして、カチッと」
不器用にあご紐を締めるネイチャを、彼は優しく見守り、しっかりとロックされているか軽く手で触れて確認した。グローブ越しの彼の手が顎先に触れた瞬間、ネイチャはビクッと肩を跳ねさせたが、彼は気にする素振りも見せずに「よし、バッチリだ」と頷いた。
「じゃあ、乗って。最初はゆっくり出すから、俺のジャケットの腰のあたりをしっかり掴んでてくれ」
「お邪魔しまーす……」
ネイチャは少しおっかなびっくり、タンデムシートへと跨った。ウマ娘の脚力なら、この程度の鉄の塊を持ち上げるのは造作もない。だが、自分がただの『乗客』として誰かの後ろに座り、命を預けるという行為は、ひどく新鮮で、不思議な無防備さを伴っていた。
「じゃ、出発するよ」
彼が左足でペダルを踏み込み、カチャン、と一速にギアを入れる。その小気味良い金属の振動が、シートを通じてネイチャの身体にも伝わってくる。
クラッチが繋がり、滑らかにアクセルが開かれる。
「ひゃっ」
フワリと身体が後ろに持っていかれそうになり、ネイチャは慌てて彼の腰回りのジャケットを両手でギュッと掴んだ。
■
街を抜け、郊外のバイパスへと入る。
信号が減り、速度が上がっていく。ヘルメットを掠める風切り音が大きくなり、風景が飛ぶような速さで後ろへと流れていく。
自分の足でターフを走る時の、息が上がり、心臓が破裂しそうになるあの苦しい熱さはない。ただ、規則正しく爆発を繰り返す四気筒のシルキーな振動と、冷たい秋の風、そして何より――目の前で風の壁となって自分を守ってくれている、トレーナーの広い背中だけがあった。
(……すごい。なんか、すっごく……)
最初は緊張でガチガチだったネイチャの肩から、次第に力が抜けていく。
彼がシフトアップするたびに伝わるリズミカルな振動。カーブに合わせて車体が傾く時の、ふっと重力が消えるような浮遊感。
冷たい風の直撃を受けないようにと、ネイチャはほんの少しだけ身を屈め、彼の背中に顔を近づけた。
ライディングジャケット越しに伝わってくる、確かな大人の体温。そして、微かに漂うオイルと、あの執務室で嗅いだコーヒーの匂いの名残が鼻をくすぐった。
(なあんか……、安心、するなぁ)
ネイチャはヘルメットの中で、こっそりと口元を緩めた。
胸の奥でトクトクと鳴っている少し早い鼓動は、きっと初めて乗るバイクのスピードのせいだ。そう結論づけて、彼女は流れる景色に身を委ねた。
■
一時間ほどのライディングを経て、視界が開けた。
「うわぁ……!」
防風林を抜けた先、目の前に広がっていたのは、太陽の光を浴びてキラキラと乱反射する、見渡す限りの広大な海だった。
海沿いのパーキングエリアにバイクを停め、二人はヘルメットを脱いだ。
「……はーっ! すっごく綺麗! 風が気持ちいいですね!」
潮風に少し乱れたツインテールを手櫛で整えながら、ネイチャは防波堤の柵に駆け寄った。
どこまでも続く水平線。
ザパーン、とリズミカルに打ち寄せる波の音。
彼はその横顔を穏やかに見つめながら、自動販売機で買ってきた温かい缶コーヒーを、ネイチャの頬にピトッと当てた。
「ひゃっ!? つ、冷た……くはないですね。あったかい」
「淹れたてには敵わないけどね。お疲れ様、ナイスネイチャ」
「えへへ、ありがとうございます」
プルタブを開け、一口飲む。缶コーヒーの甘さが、風で冷えた身体にじんわりと染み渡っていく。二人は防波堤に並んで寄りかかり、しばらくの間、言葉もなく広大な海を眺めていた。
「……海って、すごいですよね」
やがて、ネイチャがぽつりとこぼした。
「なんか、こうして見てると、自分がすっごくちっぽけな存在に思えてきちゃうっていうか。……やっぱり私って、どこに行っても『大勢の中の一人』なんだなぁ、なんて」
それは、彼女の悪い癖だった。
少しでも心が無防備になると、すぐに予防線を張って、自分を一段低い場所に置こうとする。期待して、届かなかった時に傷つくのが怖いからだ。
「……私の同期や先輩には、キラキラした星みたいな子がいっぱいいます。圧倒的なスピード、見ている人を熱狂させるカリスマ性。……ああいう子たちが、間違いなく物語の『主役』なんです」
ネイチャは缶コーヒーを見つめたまま、自嘲気味に笑った。
「私は、ただの脇役。主役の子たちが輝くための、引き立て役ってわかってるんですよ。あの……、トレーナーさんも、なんで私なんかと契約したんですか? もっと才能がある子なんて、学園にはいくらでも――」
「
彼の静かな、けれどひどく力強い声が、潮風を切り裂いてネイチャの耳に届いた。顔を上げると、彼は海ではなく、ネイチャの目を真っ直ぐに見据えていた。
「……誰が、決めたんだ?」
「えっ?」
「君が脇役だなんて、誰が決めたんだ? 君が引き立て役だなんて、一体、何の話をしているんだ?」
彼の瞳には、いつもの穏やかな優しさだけでなく、静かに燃えるような、熱が宿っていた。
「……だって、結果がすべてじゃないですか。私はいつも模擬レースで3着で、主役にはなれないっていうか……」
「レースに、最初から決められた主役なんていない。それが証拠に、君だって、この前の模擬レース……最初から3着を狙っていたわけじゃないだろう?」
彼の言葉に、ネイチャはハッと息を呑んだ。
「虎視眈々と前を狙って、一着を狙って踏み込んだ。……違うかい?」
図星だった。何から何まで、この人には見透かされている。反論の言葉を探すネイチャから視線を外さないまま、彼は一歩だけ近づき、続けた。
「ターフの上に立つ者は全員、自分の人生という物語の主人公なんだ。……周りの光が強すぎるからって、自分からスポットライトの当たらない日陰に下がる必要なんて、どこにもない。なにより俺は、君のあの泥臭い走りが
ネイチャの心臓がドクン、と大きく跳ねた。
「……俺は、誰かの引き立て役を作るために、君の手を取ったんじゃない。俺が淹れるコーヒーの相棒は、君しかいないと思ったから、君を選んだんだ」
彼は、ネイチャの震える肩に、そっと手を置いた。ライディンググローブを外した彼の手のひらは、缶コーヒーよりもずっと温かく、ネイチャの心の奥底まで届くような熱を持っていた。
「自分のポテンシャルを信じてみないか、ネイチャ」
「トレーナーさん……」
「俺が、君をセンターに立たせる。俺の持てるすべての技術と情熱を賭けて、君の足元を照らしてみせる。……だから君は、言い訳を捨てて、ただ前だけを見るんだ」
彼は、どこまでも誠実に、そして力強く断言した。
「俺は、脇役と契約した覚えはない。……俺は、俺の『主役』と契約したんだ」
その瞬間。ネイチャの視界から、広大な海も、ちっぽけな自分を縛り付けていた鎖も、すべてが真っ白に吹き飛んだ。
耳の奥で、自身の心臓の音がうるさいくらいに鳴り響いている。目頭が熱くなり、視界がじんわりと滲む。悔し涙じゃない。悲しいわけでもない。自分の心の最も柔らかい部分を、彼の手によって、強引に、けれどこの上なく優しく抉り開けられたような、未知の感情だった。
(……あ、ずるい)
ネイチャは、ギュッと目を閉じて、溢れそうになる感情を、なんとか缶コーヒーを持つ手に込めて堪えた。
(そんなこと言われたら。……私だって、その気になっちゃうじゃないですか)
自分のことを、世界で一番の『主役』だと言ってくれる人がいる。ただの通りすがりのバイク乗りだった彼が、今、私のたった一人の共犯者として、隣に立ってくれている。胸の奥で渦巻くこの熱い塊が何なのか、今のネイチャにはまだ名前をつけられなかった。
ただ、彼と走るこれからの未来が、たまらなく愛おしく、待ち遠しいものに感じられた。
「……っ、ふふっ。あーあ」
ネイチャは、乱暴に袖口で目元を拭うと、顔を上げて彼を見た。自嘲気味な笑みはもう、そこにはない。あるのは、一人のアスリートとしての、そして一人の少女としての、最高に勝気で、最高に魅力的な笑顔だった。
「トレーナーさんって、ほんと……変な人ですよね。よりによって私にそんな大役を押し付けるなんて。物好きにも程がありますよ」
「自覚はあるよ。でも、見る目には自信がある」
「……言いましたね? 後悔しても知りませんよ?」
ネイチャは、缶コーヒーをぐいっと飲み干し、空の缶をカチンと防波堤に鳴らした。
「……わかりました。そこまで言われちゃあ、私だって引き下がれません。……見せてやりますよ。脇役が、大番狂わせで主役の座を掻っ攫う、最高の逆転劇ってやつを」
「ああ。期待してる」
彼が満足そうに微笑み、二人は秋の海風の中で、互いの意志を確認するように深く頷き合った。
「さ、体も冷えるし、そろそろ学園に戻ろうか。午後からさっそく、メニューを組みたい」
「はいっ! ……あ、でも帰りは、少しだけ寄り道して帰りたいです! お腹すいちゃいましたし、海鮮丼とか!」
「ははっ、いいよ。君が主役なら、スポンサーの俺が奢らないとな」
ヘルメットを被り直し、再びバイクへと跨る二人。
「しっかり掴まっててくれ」
という彼の言葉に頷き、ネイチャは行きの時よりも少しだけ強く、そして深く、彼の広い背中に腕を回した。
(……私、絶対になってみせる。一番星のウマ娘に)
四気筒エンジンの重低音が、海岸線に響き渡る。
名脇役の少女は、人生というレースのスタートラインへと、力強くアクセルを開け始めたのだった。