トレセン学園の広大なダートコースに、荒い息遣いと、一定のリズムで土を蹴る音が響いていた。
「はぁっ……、ふぅっ……、はぁっ……!」
ナイスネイチャは、額から滝のような汗を流しながら、指定されたラップタイムをひたすらに刻み続けている。
■
海へのツーリングから数週間。彼女のトレーニングメニューは、かつてないほどハードなものになっていた。いや、「派手さがない」という意味では以前と同じなのだが、その質と密度がトレーナーの手によって、格段に上がっていたのだ。
視界の端では、才能に溢れた同年代のウマ娘たちが、風を切り裂くような豪快なスプリント練習を行っている。周囲の目を引く華やかなその走りに、かつてのネイチャなら「やっぱり主役は違うねぇ」と、無意識に走るペースを緩めてしまっていたかもしれない。
だが、今の彼女の視線は、決してよそ見をしない。
コースの脇に立ち、ストップウォッチを片手に自分だけを真っ直ぐに見つめてくれている、たった一人の共犯者の存在があったからだ。
「……よし、ネイチャ。そこまで。ラストスパートも設定タイムからコンマ一秒の誤差もない。完璧なペース配分だよ」
ゴールラインを駆け抜けたネイチャに、トレーナーが静かな、けれど確かな称賛の声をかける。
「はぁーっ……、し、死ぬかと思いました……っ」
ネイチャは膝に手をつき、肩で大きく息をした。肺が焼け付くように熱い。彼が課すメニューは、常にネイチャの限界ギリギリを見極めて設定されている。決して無理はさせないが、甘えも許さない。
「お疲れ様。よく耐え抜いたな」
トレーナーは近づいてくると、清潔なタオルを、ネイチャの頭にふわりと被せた。
「あ、ありがとうございます……っ」
「少し歩いて息を整えよう。……手首、貸して」
彼はストップウォッチを持ったまま、もう片方の手でネイチャの右手首をそっと握った。心拍数の戻りを確認するためだ。
「あ、はい……」
タオルの下で、ネイチャはコクリと頷く。彼の少しひんやりとした指先が、脈打つ手首の内側に触れる。ただそれだけの、スポーツトレーナーとしてはごく当たり前の、業務的な動作だ。
けれど、至近距離に立つ彼から、微かにあの『コーヒーとオイルの混ざった匂い』が漂ってきた瞬間。
――ドクン、と。ネイチャの胸の奥で、脈拍が不自然に大きく跳ねた。
(……え?)
「……ん? 今、一瞬脈が飛んだな。どこか苦しいか?」
手首の脈の変化を正確に読み取った彼が、少しだけ心配そうに顔を覗き込んでくる。その真っ直ぐな瞳と、至近距離にある大人の男の顔に、ネイチャはほんの少しだけ頬を熱くした。
「い、いえ! なんでもないです! ちょっと息が上がりすぎちゃったっていうか、ほら、若さゆえの躍動感的なアレですよ、あはは」
慌てて手を引き抜き、不自然にならない程度にスッと距離を取るネイチャ。
(な、なに今の。変にドキッとしちゃったじゃん……)
相手はトレーナーだ。それ以上でも以下でもない。
ツーリングに連れて行ってもらったのも、海で「主役」と言ってくれたのも、全部私をアスリートとして奮い立たせるための、彼なりの指導の一環だ。頭では完全に理解しているはずなのに、最近、ふとした瞬間に近くに寄られたりするだけで、変に意識してしまう自分がいる。
「……そっか。まあ、疲労も溜まってる頃だからな。無理は禁物だ」
ネイチャの内心の微かな動揺など露知らず、彼は微笑んでスポーツドリンクのボトルを手渡してくれた。
「あ、ありがと、ございます……」
ボトルを受け取る指先が少しだけ触れる。ネイチャはなんとか平常心を装って、冷たい液体を喉に流し込んだ。変に火照ってしまった身体が、少しだけ冷まされていく気がした。
■
「……あの、トレーナーさん」
ベンチに並んで座り、休憩を取りながら、ネイチャは少しだけ不安げに口を開いた。
「私のメニュー、ほとんどが基礎体力作りと、ひたすら同じペースで走る地味なやつばっかりじゃないですか」
「うん、そうだね」
「これって……本当に、効果あるんでしょうか。他の子たちは、もっと実戦的っていうか、派手なスパートの練習とかしてるのに」
自分の走りが泥臭いことは百も承知だ。
けれど、毎日毎日ひたすら土を蹴り、ラップを刻み続けるだけの地味な日々に、ほんの少しだけ「本当にこれで主役になれるのだろうか」という迷いが顔を出してしまう。
そんなネイチャの不安を察したのか。彼は自身のジャージのポケットから、小さな『コーヒー豆』を一粒取り出し、ネイチャの手のひらにコロンと乗せた。
「えっ、コーヒー豆?」
「ネイチャ。コーヒーを美味しく淹れるために一番重要な工程は、なんだと思う?」
唐突な問いかけに、ネイチャは目を瞬かせた。あの執務室で、彼から教わった手順を思い出す。
「ええっと……お湯の温度とか、注ぐスピード、ですか?」
「それも大事だ。でも、一番味を左右するのは『蒸らし』の時間なんだよ」
彼は真っ直ぐにターフを見つめながら、静かに語り始めた。
「挽いたばかりの粉に、少量のお湯を含ませて、じっと待つ。……この時、粉の中ではガスが放出されて、お湯が豆の奥深くまで浸透するための道が作られている。外から見ればただただ数十秒間、何もせずにじっと待っているだけの地味な時間に見えるかもしれない」
「……」
「でも、ここで焦って次のお湯を注いでしまえば、コーヒーの旨味成分や香りが十分に引き出されることはなく、薄くて、嫌な香りと、渋み、だけが残ったコーヒーに成ってしまう」
彼はそこで視線をターフから手元のストップウォッチへ、そして隣に座るネイチャへと移した。
「今の君のトレーニングは、まさにこの『蒸らし』の期間だ。……周りのウマ娘が派手にお湯を注いでいるのを見て、焦る気持ちはわかる。でも、君が持っている本当のポテンシャルを極限まで引き出すためには、今、この泥臭くて苦しい下拵えの時間が絶対に不可欠なんだ」
彼の言葉は、いつだって魔法みたいに、ネイチャの心のど真ん中を射抜いてくる。不安で揺れていた水面が、ピタリと静まるような感覚だった。
「……そっか。私、今、美味しくなるために蒸らされてる途中なんですね」
「そういうこと。君のペース配分の正確さと、後半にバテない基礎体力は、間違いなく君の最大の武器になる。俺のストップウォッチが、その成長を証明してるよ」
彼はそう言って、カチリとストップウォッチのボタンを押して見せた。
■
ネイチャは手の中に転がる一粒のコーヒー豆を、ギュッと握りしめた。
――不思議だなぁ。とナイスネイチャは思う。
トレーナーの言葉を聞くと、足の疲れも、肺の苦しさも、全部「意味のあるもの」に変わっていく。この人が私を見てくれているなら。
この人が「絶対に美味しくなる」と信じて、私にお湯を注いでくれるなら、どんな地味で泥臭いことだって、耐え抜いてみせると思えてしまう。
「……ふふっ。わかりました。トレーナーさんがそこまで言うなら、信じて蒸らされてやりますよ」
ネイチャがいつもの勝気な笑みを取り戻すと、彼も満足そうに頷いた。
「ああ。最高の主役にしてみせる。……そうだ、ネイチャ」
「はい?」
「今度の週末、予定は空いてるか? 少し、付き合ってほしい場所があるんだ」
週末のお出かけ。その唐突な誘いに、ネイチャはほんの少しだけ目を瞬かせた。
「えっ、あ、はい。空いてますけど……なんか特別な用事ですか?」
「うん。君に、渡しておきたいものがあってね」
「渡しておきたいもの……?」
ネイチャは首を傾げた。新しいランニングシューズだろうか。それとも、効率よく心拍数を測るための新しいスマートウォッチとか、そういう実用的なものかもしれない。
「……まさか、さらにハードな練習メニューがびっしり書かれた分厚いファイルとか、そういうオチじゃないですよね?」
照れ隠しのように、わざとジト目を向けて茶化してみる。
「ははっ、違うよ。息抜きも兼ねての用事だから、安心していい」
「それならいいですけど。……じゃあ、お言葉に甘えて付き合いますよ」
ネイチャは立ち上がり、ジャージのズボンについた芝生をパンパンと払った。胸の奥が、ほんの少しだけ、心地よく跳ねたような気がした。けれど、彼女はそれを大きく伸びをする動作で誤魔化し、いつもの飄々とした態度を崩さなかった。
「じゃあ、また週末の朝に、正門前で」
「はいっ。よろしくお願いします」
穏やかに微笑むトレーナーに背を向け、ネイチャはロッカールームへと歩き出す。
ジャージのポケットの中で、もらったばかりの一粒のコーヒー豆を、指先でそっと転がした。ただの息抜きのお出かけ。そうわかっているはずなのに、なぜだか少しだけ足取りが軽い。
彼女の心の奥底でもまた、あのコーヒー豆のように、確かな熱を持ったまま、静かに『蒸らし』の時間が刻まれ始めていた。