春のうららかな陽気が、少しだけ開け放たれた窓からトレーナー執務室へと舞い込んでくる。
風に乗って運ばれてきた微かな桜の香りを上書きするように、部屋の中には、深く香ばしいコーヒーの匂いが満ちていた。
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――カリカリ、ゴリッ、カリカリカリ……。
「……うん。こんなもんかなー」
来客用のソファに腰を下ろし、小気味良い音を立ててコーヒーミルを回していたナイスネイチャは、ハンドルの手応えが軽くなったのを確認して顔を上げた。
あの日、初めてのツーリングで海へ行き、そして真新しいライディングジャケットを身に纏ってから、しばらくの月日が流れていた。
その間、ネイチャのレース成績は見違えるように安定し、ついには大舞台で見事な『1着』をもぎ取り、名実ともに物語の「主役」としての地位を確立しつつあった。
泥臭く、焦らず、自分のペースを守り抜く。あの秋に教わった『下拵え』の成果は、今や誰の目にも明らかな輝きとなってターフを駆け抜けている。
「お疲れ様。すごく手際が良くなったな」
執務机でパソコンに向かっていたトレーナーが、手を止めて優しく微笑む。
「えへへ。伊達に毎週末、お湯を注いでませんからね」
ネイチャは得意げに笑うと、ローテーブルの上に用意した陶器のドリッパーに、挽きたての粉をサラサラと移した。以前は彼が淹れてくれるのを待つだけだったが、今ではこうして、ネイチャが自ら進んでコーヒーを淹れるのが、この部屋のすっかり見慣れた日常風景になっていた。
細口のケトルから、ツー、と一筋のお湯を落とす。
粉の表面全体にお湯を含ませたら、そこでピタリと動きを止める。三十秒間の、大切な『蒸らし』の時間だ。
「……ねえ、トレーナーさん」
「ん?」
「私、少しは『美味しく』なれましたかね? あの頃に比べて」
ポタ、ポタとサーバーに琥珀色の雫が落ちる音だけが響く中、ネイチャはドリッパーを見つめたまま、ふと口にした。それは、アスリートとしての自分への問いでもあり、彼の隣に立つ相棒としての問いでもあった。
「もちろんだ。今の君の走りは、誰が見ても極上の『最高の一杯』だよ」
「……そっか。なら、よかったです」
ネイチャは口元を緩めると、再びゆっくりと、のの字を描くようにお湯を注ぎ始めた。
やがて部屋いっぱいに香りが広がり、二つのマグカップにたっぷりのコーヒーが注ぎ分けられる。
「はい、お待ち遠様です。主役、直淹れの特製コーヒーですよ」
「ありがとう。いただきます」
マグカップを受け取った彼が、一口飲む。
その目元が「美味い」と柔らかく細められるのを見て、ネイチャは心の底からホッと息を吐き、自分も一口飲んだ。苦味の奥にある甘さが、春の陽気のようにじんわりと身体に染み渡っていく。
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穏やかなコーヒーブレイクを終え、ネイチャは席を立った。
空になったマグカップと、ドリッパー、そして今日持参したばかりの『自分専用の真新しいコーヒーミル』を洗い場へ持っていき、丁寧に水気を拭き取る。
「さてと。そろそろ午後のトレーニングの時間ですね」
「ああ。今日は軽めの調整でいこう」
立ち上がった彼に頷きながら、ネイチャは拭き終わった道具を手にしたまま、部屋の壁際に設置された飾り棚の前へと歩み寄った。
そこには、彼が通勤で使っている黒いヘルメットとレザーグローブ、そして休日のツーリングの時にだけネイチャが被る、あの赤のラインが入ったお揃いのヘルメットが並んで置かれている。
ネイチャは、手に持っていた自分専用のコーヒーミルとマグカップを、バッグにしまうことなく。
――コトリ、と。
二つのヘルメットが並ぶそのすぐ隣のスペースに、静かに置いた。
「……あれ? ネイチャ、それ持って帰らないのか?」
上着を羽織ろうとしていた彼が、不思議そうに目を瞬かせる。ネイチャは棚に並んだ道具たちを見つめたまま、背中で両手を組み、くるりと彼の方を振り返った。
「んー、毎回寮から持ち運ぶのも面倒くさいなって思いまして。それに……」
ネイチャは少しだけ上目遣いになり、悪戯っぽく、けれどどこまでも真剣な瞳で彼を見つめた。
「ここに置いておけば、トレーナーさんが疲れた時、いつだって私が極上の一杯を淹れてあげられますから。……邪魔、ですか?」
――それは、ただ道具を置くというだけの行為ではない。
『私の居場所は、これからもずっとここにある』という、彼女なりの、言葉にしない独占欲と決意の証明だった。バイクの後ろのシートも、この執務室のソファも、そしてあなたの隣も。引き立て役でもただの乗客でもない、私という『主役』の指定席なのだと。
彼女の意図に気づいたのか、彼は少しだけ目を丸くした。春風が窓を揺らし、二人の間をふわりと通り抜けていく。
やがて彼は、困ったような、けれどどうしようもなく嬉しそうな、ひどく優しい笑顔を浮かべた。
「……いや。全然、邪魔じゃないよ」
彼は棚の方へと歩み寄り、ネイチャのミルの位置を、自分のヘルメットの隣にぴったりと揃えるように少しだけ動かした。
「むしろ、初めからそこが定位置だったみたいに馴染んでる。……これからもよろしく頼むよ、俺の専属バリスタさん」
「ふふっ。はい、任せてくださいな」
並んで置かれた二つのヘルメットと、二つのコーヒーセットが、春の日差しを受けて寄り添うように、優しく光っている。
「さ、トレーニングに行こっか! トレーナーさん!」
かつての自嘲気味な笑みはもう、どこにもない。
誰よりも自分を信じてくれる特等席を手に入れた一番星のウマ娘は、春のターフへと向かって、ひときわ軽やかな足取りで駆け出していった。