第1話『歪みと貴婦人』
「……不合格ですわね」
トレセン学園のカフェテリア。静寂な空間に、涼やかでいて、絶対的な冷たさを孕んだ声が響いた。
テーブルを挟んで向かい側に座っていた若手トレーナーの顔から、さっと血の気が引くのがわかる。彼が徹夜で仕上げてきたであろう、分厚く、美しく製本された「ジェンティルドンナ育成計画書」は、ページを数枚めくられただけでテーブルの端へと追いやられていた。
「な、なぜでしょうか……! 今のあなたの走りを完璧にデータ化し、最新のスポーツ科学に基づいた無駄のないローテーションを組みました。私ならば、必ずあなたを三冠へ――」
「ええ、確かに、とてもよくまとまったレポートです」
ジェンティルドンナは優雅に紅茶のカップを持ち上げ、芳醇な香りを軽く楽しんでから、彼を一瞥した。
「ですが、それは『私でなくとも達成できる』計画です。貴方は私の才能という数字に寄りかかり、安全で、誰もが納得する道筋を描いただけ。……覇道とは、己の力で切り拓くもの。安全なレールを敷くことしかできない者に、私の隣を歩く資格はありませんわ」
有無を言わさぬ覇気に当てられ、若手トレーナーは逃げるようにカフェテリアを後にした。
――これで何人目か。と、ジェンティルドンナは溜息を吐く。
学園が誇る素晴らしい素質を持つウマ娘、その一人である彼女の元には、日々多くのトレーナーが列をなす。しかし、彼女に言わせれば、そのどれもが彼女の強烈な光に魅入られただけの蛾に等しい。
なぜならば、彼女が求めているのは、付き従うだけの従者でも、ご機嫌取りでもないからだ。
(……つまらない)
窓の外、活気に満ちたターフを見下ろしながら、ジェンティルドンナは小さく息を吐いた。
圧倒的な実力を持つがゆえの孤独。彼女の目に映る世界は、常に少しだけ物足りない。
そんな彼女の視界の端を、ふと、ある一人の男が横切った。
ヨレたジャージに、少し無精髭の混じった顎。手にはバインダーを持っているものの、特に誰を指導するでもなく、コースの脇をぼんやりと歩いている。
中堅どころの年齢のはずだが、彼には現在、担当のウマ娘がいない、しがないトレーナーだ。学園の噂によれば……過去に色々あって、すっかり情熱をすり減らしてしまった抜け殻、だという。
ジェンティルドンナも最初は、彼を視界に入れることすらなかった。勝利への渇望を失った敗残兵など、一顧だにする価値もないからだ。
■
――しかし。数日前から、彼女の優れた観察眼は、彼の奇妙な行動を捉え始めていた。
男はターフを歩きながら、ふと立ち止まる。そして、前を走っていたウマ娘が落とした極小の蹄鉄の破片を拾い上げ、ゴミ箱へ捨てた。
別の日。彼は書類を運ぶ職員とすれ違った。職員が落とした一枚のプリントを、彼は流れるような動作で拾い、誰にも気づかれずに職員のバインダーの一番後ろへと挟み込んだ。
また別の日には、若手トレーナーがホワイトボードに書いた練習メニューの前で立ち止まり、数字のわずかな矛盾――おそらくタイム設定のミス――に気づくと、無言で赤ペンを入れ、すぐに立ち去った。
誰に褒められるためでもない。誰かに感謝されるためでもない。
ただ、そうせずにはいられないかのように、彼は学園のあちこちにある「小さな綻び」を縫い合わせて回っていた。
(……不思議な男だこと)
情熱を失った抜け殻の行動にしては、あまりにも手際が良く、そして無機質だった。ジェンティルドンナから見た彼の目は、決して誰かのためを思って動いている者のそれではなかったのだ。
その疑問が確信に変わったのは、翌日の早朝だった。
朝露がターフを濡らし、鳥のさえずりすらまばらな午前五時。自主トレーニングのために外に出たジェンティルドンナは、屋外の隅にある用具洗い場の裏手で、奇妙な音を聞いた。
金属がすれる、カチャッ、カチャッという音。
何事だろうか、と近づいてみると、そこにはあの男がいた。老朽化し、以前からポタポタと水漏れを起こしていた外の水道管。彼は泥でジャージの膝を汚すことも厭わず、工具を手に黙々とレンチを回していた。
「……」
男が最後の締め込みを終え、蛇口をひねる。水は勢いよく出た後、ピタリと止まった。一滴の水漏れもない。彼は満足そうに頷くでもなく、ただ工具を雑にツールボックスへと放り込んだ。
「……随分と、朝早くからご苦労なことですわね」
背後から声をかけられ、男はビクッと肩を揺らしたが、振り返ってジェンティルドンナの姿を認めても、特に表情を変えなかった。
「……なんだ。朝練か」
「ええ。ですが、貴方の奇行が気になって足を止めてしまいましたわ」
ジェンティルドンナは静かに歩み寄り、完全に水が止まった蛇口と、泥だらけの男の膝を交互に見つめた。
「清掃員でも用務員でもない、トレーナーである貴方が、なぜあのようなことを? 学園長に点数でも稼ぐつもりかしら」
「……そんな趣味はない」
男は立ち上がり、泥をパンパンと払いながら、ぶっきらぼうに答えた。
「じゃあ、ただのお人好し?」
「……違う。俺はこういうのが『嫌い』なんだよ」
男の目が、少しだけ細められた。そこには、過去にすり減ったはずの情熱とは違う、どこか冷たく、硬質な光が宿っていた。
「存在し、そこにあるものは、100パーセント正常に動かないと気に喰わないんだ。少しでも歪んでいたり、欠けていたり、油が切れていたり。本来の機能を発揮していない状態を見ると……どうしようもなく苛立つ。直さずにはいられない。それだけだ」
その言葉を聞いた瞬間。ジェンティルドンナの脳裏で、これまでの彼の奇妙な行動の全てが一本の線で繋がった。
(……なるほど。そういうことでしたのね)
彼のそれは、ウマ娘への愛情でも、学園への忠誠心でも、勤勉さでもない。
言ってしまえば、異常なまでの『完璧主義』だ。1ミリのズレ、1秒の遅れ、ほんの僅かな綻びすら許容できない、病的なまでの気質。
彼が過去に担当を失い、情熱を失ったように見えた理由も、おそらくそこにある。彼が求める「正常」のラインが高すぎるのだ。機械ではないウマ娘にとって、彼の求める完璧さは、間違いなく心を削る刃となる。だから周囲から人が消えた。
それは彼自身を縛る忌まわしい呪いであり――。
(同時に。圧倒的な高みを目指す私にとっては、これ以上ないほど鋭い『剣』となりえる、かしらね)
自然と、彼女の口角が吊り上がった。
他者に甘えを許さない。自身にも妥協を許さない。理不尽なまでに完璧を求めるその眼差しは、誰よりも高く飛ぼうとする彼女にとって、極上の研磨剤になる。
「ふふっ……あはははっ!」
「……何がおかしい」
「いえ。とても面白い方だと思いまして」
ジェンティルドンナは一歩踏み出し、男の目の前まで間合いを詰めた。彼女の視線が、男と真っ直ぐに交差する。
「ねえ、貴方。現在、担当はいらっしゃらないわよね?」
「……ああ。俺はもう、誰かを教えるつもりはない。俺の指導は……色々と破綻している。ウマ娘にも、完璧を求めてしまう」
「結構ですわ。お暇ならば、私を一ヶ月、指導してくださらない?」
男は怪訝な顔をした。目の前にいるのは、誰もが羨む学園の至宝だ。
「俺の言っている意味がわかっているのか? 俺は、指導において一切の加減ができない。相手が誰であろうと、歪みがあれば力ずくで矯正する。……お前が思っているような、生易しいものじゃないぞ」
「だからこそ、私からお願いしているのです」
ジェンティルドンナは、王者の風格を纏いながら優雅に微笑んだ。
「貴方のその呪いのような完璧主義が、私の足を止める鎖となるか。それとも、私の玉座を飾る箔となるか。……試してみたくありませんこと?」
朝の日差しがターフを照らし始める中。
冷めきっていたはずの男の目に、抗いがたい熱が僅かに灯るのを、貴婦人は確かに見逃さなかった。