「これが、向こう一週間のメニューだ。……一応言っておくが、これは『お前がこなせるかどうか』を基準にして作っていない。現在の俺の目から見て、お前の走りに存在する『ノイズ』を全て排除するために必要な、最低限のプロセスだ」
仮契約の初日。
彼に指定されて訪れたトレーナー室は、およそ人が生活し、感情を交わす場所とは思えない異様な空間だった。
壁際の書棚には、国内外のレースデータやスポーツ力学、栄養学の専門書が、背表紙の高さと色合いで寸分の狂いもなく整然と並べられている。デスクの上にはペンの一本すら無造作に置かれておらず、観葉植物の葉の向きすら計算されているかのような静謐さ。チクタクと時を刻む壁掛け時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
無機質で、冷徹。
それが、彼の内面の写し鏡なのだとジェンティルドンナは直感した。
■
差し出された分厚いバインダーを開いた彼女は、その中身に目を落とし――美しい眉を、ほんのわずかに動かした。
そこには、およそ一般的な「トレーニングメニュー」と呼べるような代物は存在しなかった。『ランニング◯◯周』『筋力トレーニング◯◯セット』といった大雑把な記述は一切ない。
代わりに記されていたのは、異常なまでに細分化された、機械の設計図のような指示書の束だった。
【06:00 - 06:15】体温、血圧、心拍数の計測。前日の疲労度に基づく筋肉の張りの数値を10段階で自己申告し、それに基づき規定のストレッチ(A-4からC-2までのパターンから選択)を実施。
【06:15 - 06:45】トラックでの基礎走行。ただしタイムは問わない。要求するのは、右脚の踏み込み時の足首の角度を常に72度から74度の間に保つこと。および、ストライド(歩幅)を215センチで固定すること。誤差はプラスマイナス2センチまでを許容とする。
【06:45 - 07:00】重心移動の修正。コーナー突入時の遠心力に対する体幹の傾きを……
「……なるほど」
バインダーを閉じるパタン、という乾いた音が室内に響く。ジェンティルドンナは、微かに口元に笑みを浮かべた。
「貴方がこれまで、誰一人として担当を長続きさせられなかった理由が、痛いほどによくわかりましたわ」
「……」
「これは、ウマ娘を育てるためのメニューではありません。精巧な時計の歯車を削り出すための、狂気を孕んだ仕様書です。生身の肉体と感情を持つウマ娘に対し、貴方は『機械としての完璧な挙動』を求めている」
普通の中堅トレーナーであれば、彼女のこの指摘に対して狼狽するか、あるいは「君のためを思って」と弁解するだろう。
しかし、彼は表情一つ変えなかった。ただ、昏く冷たい瞳でジェンティルドンナを見据え、淡々と告げた。
「そうだ。俺は、そういうやり方しかできない」
彼の声には、自嘲すら含まれていなかった。ただの事実の羅列。
「俺の目には、どんなに優れた走りも『不完全』に映る。右の蹴りが0.05秒遅い。左肩の開きがわずかに大きい。呼吸のタイミングが半拍ズレている。……そういうノイズが、どうしようもなく目に付き、
「それが、どれほどの苦痛を伴う矯正であっても?」
「ああ。……だから、ウマ娘は皆、俺の元を去った。当然だ。走る喜びも、レースの興奮も、俺のメニューには一切存在しないのだからな。あるのはただ、終わりのない『修正作業』だけだ」
彼はそこまで言うと、ふと視線を落とし、自らの両手を見た。
「俺は、狂っているのだろう。ウマ娘の個性や感情といった曖昧なものを、愛せない。ただ『完璧な運動法則』だけを求めている。だから、最初から言ったはずだ。俺は指導者には向いていない、と」
「……ええ」
ジェンティルドンナは、ゆっくりと立ち上がった。そして、彼の手からバインダーをひったくるように奪い取ると、傲岸不遜な笑みを浮かべてみせた。
「ですが、貴方は一つだけ勘違いをしていますわ。……相手が、このジェンティルドンナであるということを」
彼女はバインダーを小脇に抱え、足音を鳴らしてドアへと向かった。
「その狂気、私が見事に乗りこなして差し上げます。せいぜい、貴方のその神経質な眼球から血が流れるほど、私の走りを凝視することですわね」
ドアが閉まる音と共に、仮契約の火蓋が切って落とされた。
■
それからの日々は、ジェンティルドンナにとってさえ、想像を絶する領域の連続だった。トレーニングが始まると、彼は人が変わったように――いや、完全に「機械」と同化したかのように、ターフの脇に立ち尽くした。
手にはストップウォッチすら持っていない。ただ、彼の双眸が、ハイスピードカメラの如き精度で彼女の一挙手一投足を捉え、切り刻み、解体していく。
「ストップ」
トラックを駆け抜ける彼女の耳に、拡声器を通した彼の冷たい声が届く。
「第3コーナー、入り口。左の踏み込みが指定の角度から3度ズレた。その結果、重心が外側に2ミリ逃げている。やり直しだ」
「……っ!」
「ストップ」
「呼吸が浅い。酸素の取り込み量が規定値に達していない。その状態でスパートをかければ、ラスト50メートルで乳酸値が想定の120%に達する。やり直し」
「ストップ」
「前傾姿勢が深い。それはお前の『癖』だ。今はその癖を殺せ。俺の設計図に不要なものは持ち込むな」
異様なまでの、細かく、容赦のないダメ出し。そこには「惜しい」「よくやった」「あと少し」といった、人間の感情を介在させる言葉は一切ない。
0か1か。完璧か、そうでないか。
彼が提示する『完璧の枠(フレーム)』から髪の毛一本分でもはみ出せば、即座に修正の指示が飛ぶ。
(……なるほど、これは……!)
初日のトレーニングが終わる頃には、ジェンティルドンナの強靭な肉体も、未知の疲労に悲鳴を上げていた。常に自分の身体を俯瞰し、関節の角度から筋肉の収縮率に至るまでを意識的に制御し続けること。それは、本能のままに大地を蹴るウマ娘にとって、自らを狭い檻の中に押し込めるような強烈なストレスだった。
息を乱し、芝の上に膝をつく彼女を見下ろし、男は淡々と言った。
「言ったはずだ。俺のやり方は破綻していると。……明日はメニューをこなさなくていい。契約破棄の手続きは、俺から理事長秘書に言っておく」
男はそう言い残し、背を向けようとした。これまでのウマ娘たちと同じだ。彼女もまた、自分の狂気に耐えられず、心を折られた。彼にとってそれは「いつも通りの日常」に過ぎない結末だった。
「……お待ちなさい」
だが。背後から響いたその声には、疲労こそ滲んでいたものの、絶望や挫折の色は微塵も混じっていなかった。
男が振り返ると、ジェンティルドンナはゆっくりと立ち上がり、土に汚れたジャージを優雅に払い落としていた。額には大粒の汗が浮かび、肩で息をしている。それにもかかわらず、彼女の瞳には、煌々と燃え盛るような『覇気』が宿っていた。
「誰が、破棄すると言いましたの?」
「……何?」
「確かに、貴方の要求は異常です。不快極まりない。走ることをロボットの反復運動か何かと勘違いしている」
彼女は一歩、男に近づいた。
「ですが……貴方のその異常な眼力と、完璧を設計する頭脳が『本物』であることは認めざるを得ません。事実、貴方の指摘通りにフォームを修正した瞬間、私の身体にかかる空気抵抗と、ターフから受ける反発力は、かつてないほどに最適化されましたわ」
ジェンティルドンナは、にやりと不敵に笑った。
「ならば、私には逃げ出す理由がありません。貴方の提示する『檻』がどれほど狭く、息苦しかろうと……私がこの肉体で、その檻ごと規格外に拡張してしまえばいいだけのこと」
男は目を見開いた。彼の狂気的なまでの完璧主義を前にして、反発するでもなく、怯えるでもなく、それを「己を磨くための試練」として正面から叩き潰そうとする存在など、初めてだったからに他ならない。
「明日も同じ時間、同じ場所で。……いいえ、明日はさらにメニューの精度を上げなさい。私を退屈させたら、承知しませんわよ?」
そう言い残し、彼女は誇り高く去っていった。一人残された男は、彼女の走ったトラックの芝を静かに見つめた。そこには、彼の緻密な計算と設計を完璧になぞりながらも、明らかに「彼の想定した器」を超えようとする、力強い蹄鉄の跡が深く刻まれていた。
「……お前もバケモノか。ジェンティルドンナ」
彼自身の口から漏れたその呟きには。呪いのような完璧主義に囚われてから長らく忘れていた、微かな『歓喜』の響きが混じっていた。