ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない― 作:野塩いぜ
無機質な白。それが、アレクセイ・イズマイロフの視界を占めるすべてだった。
『ユースティティアの天秤』本部、地下拘束室。
魔力遮断の結界が幾重にも張られたその冷たい部屋で、彼は膝を抱えてうずくまっていた。
頬には、まだ鈍い痛みが残っている。
彼が作り上げた美しいお姫様の幻影は、彼女の拳によって無惨に打ち砕かれた。
部屋の隅には、組織から支給された食事が置かれている。
灰色のトレイに乗った、カロリーと栄養素だけを計算された無味乾燥な固形食。アレクセイはそれに一切手を付けず、ただじっと、自分のひんやりとした指先を見つめていた。
(僕は、罰を受けているんだ)
現実から目を背け、魔法で箱庭を作っていた自分への罰。
だから、何も口にする資格はない。このまま静かに、ひっそりと消えてしまえばいい。
そんな思考の海に沈んでいた、その時だった。
重厚な金属の扉が、電子音と共に開く。
現れたのは、アレクセイの幻影を叩き割った張本人――ウルリカ・シュミットだった。
「……まだ食ってないのか」
彼女は呆れたような声を出し、部屋の隅で手付かずになっている灰色の固形食を一瞥した。
アレクセイはビクッと肩を揺らし、さらに小さく丸まる。
「……いらない。お腹、空いてないから」
「嘘をつけ。腹の虫が鳴く音は、結界越しでも聞こえるぞ」
ウルリカはズカズカと部屋に足を踏み入れると、手に持っていた茶色い紙袋をアレクセイの目の前に突き出した。
「ほら、食え。外の屋台で買ってきた」
「……え?」
紙袋から漂ってきたのは、消毒液の匂いが充満するこの部屋には似つかわしくない、暴力的なまでに香ばしい匂いだった。
小麦の焼ける匂い。そして、肉と野菜が煮込まれた温かなスープの香り。
「でも、僕……」
「いいから食え」
無理やりトレイの上に紙袋を置かれ、アレクセイは戸惑ったように顔を上げた。
自分を殴った人間が、なぜ温かいご飯を持ってくるのか。彼の乏しい社会経験と知識では、彼女の行動がまったく理解できない。
「僕には、食べる資格なんて……魔法で全部誤魔化してきた、悪い魔術師だから……」
消え入りそうな声で言い訳を並べるアレクセイを見下ろしながら、ウルリカはふと、遠い日の記憶を思い起こしていた。
(……昔の、ライナーみたいだな)
ライナー。彼女の生意気な一番下の弟だ。
ある日、些細なことでウルリカと大喧嘩をしたライナーは、「姉ちゃんの作ったご飯なんか絶対に食べない!」と意地を張り、部屋の隅で今の彼と同じように膝を抱えていた。
お腹をグーグーと鳴らしながら、引っ込みがつかなくなって、ポロポロと涙をこぼしていた弟の姿。
目の前で縮こまっているこの魔術師が、かつての弟と重なって見えた。
恐ろしい力を持っていても、とっくに成人してるであろう姿でも。中身は現実の痛みを知ったばかりの、ただのひ弱な子どもなのだ。
ウルリカは小さくため息をつくと、紙袋からゴツゴツとした黒パンを取り出した。
「資格なんてどうでもいい。夢から覚めたなら、まずは腹を満たすのが現実のルールだ」
「現実の、ルール……」
「そうだ」
ウルリカは硬い黒パンを、両手で乱暴に真っ二つに引き裂いた。
パリッ、という小気味良い音と共に、中から温かな湯気が立ち昇る。
「幻じゃ腹は膨れないし、寒さも凌げない。お前がやったことは許されることじゃないが、空腹のままじゃ反省すらまともにできないだろう」
ちぎったパンの半分を、アレクセイの口元に押し付ける。
「食え。……ゆっくり噛め。誰も取らないから」
琥珀色の真っ直ぐな瞳に射すくめられ、アレクセイは恐る恐る、そのパンを受け取った。
温かい。
組織の冷たいベッドとも、自分が作っていた幻影の生ぬるさとも違う、確かな熱。
小さく口を開け、黒パンをかじる。
硬い。ボソボソしている。決して上品な味ではない。
けれど、噛み締めるほどに、素朴な小麦の甘さが口いっぱいに広がっていく。
「……あまい」
「屋台の親父がオマケしてくれたんだ。スープも冷めないうちに飲め」
アレクセイはこくりと頷き、ぽろぽろと涙をこぼしながら、不器用にパンを咀嚼し始めた。
ひっく、と子供のようにしゃくりあげながら食べるその姿を見て、ウルリカはかつて弟にしたように、少しだけ乱暴な手つきで彼の黒髪を撫でた。
無機質な白い檻の中で、二人だけの静かな食事が続く。
それは、魔術師が初めて現実の温かさを知った日であり。
彼が森の外で生きていくための、小さな第一歩だった。
第一章完結です。明日から第二章を投稿開始します。感想や評価などいただけるととても嬉しいです、よろしくお願いします。