うだるような夏だった。
5時限目の現代文。窓枠の向こうで膨れ上がる入道雲と、耳障りなアブラゼミの鳴き声が、思考をドロドロに溶かしていく。
教室に充満しているのは、三十人分の汗と、安っぽい柑橘系の制汗スプレー、それに湿気た埃が混ざり合った、肺にへばりつくような澱んだ空気だ。
教師の眠たい声が右から左へ抜けていく中、俺は机に突っ伏して死んだように呼吸を繰り返していた。
心臓は動き、肺は酸素を取り込んでいるが、これを生きているとは呼ばない。ただ"死んでいない"だけの惰性だ。
胃袋の底が空っぽで痛い。
自治体の自立支援制度のおかげで最低限の生活費とボロアパートはあるものの、学校を辞めれば即座に路頭に迷う現実が、俺をこの退屈な椅子に縛り付けている。
今日の晩飯、どうすっかな。冷蔵庫に残ってるマヨネーズと水道水じゃ流石に死ぬよなぁ。店長に頼み込んでみるか。そんなことを思い浮かべていた、その時だ。
──ガララッ。
乾いた音が澱んだ空気を切り裂き、担任の「転入生だ」という声が響いた。
は? 今、何時だと思ってんだ。
今は昼休み明けの5時限目だぞ。こんな中途半端な時間に転校生が来るなんて聞いたことがねえ。
そのあまりの場違い感に、俺は伏せていた顔を上げた。
瞬間、肌が粟立つ。
入り口に立つその女の存在が、あまりに異質だったからだ。
透き通る白い肌に、夜の闇をそのまま切り取ったような紫がかった黒髪。
そして何より、見る者の奥底を射抜く鮮烈な翡翠の瞳。
制服の白襟の中で一際目立つ首元の黒いチョーカーが、彼女の危うい美しさを決定づけている。
「……レゼです。よろしくお願いします」
落ち着いた低い声で淡々と頭を下げる姿は、愛想を振りまく普通の転校生とは程遠い。
それでも教室中がざわつき、男子生徒たちが息を呑んだのは、彼女が単に可愛いという次元を超えた圧倒的な美女だったからに他ならない。
彼女はあてがわれる席を探すように無遠慮に教室を見渡し、その翡翠の瞳で窓際の俺を捉えた。
その瞬間、時間が止まる。
彼女の表情が凍りつき、瞳孔が極限まで収縮した。
唇をわななかせ、喉の奥で息を呑む音が聞こえる。
例えるなら、あるはずの無いものを見つけてしまったような、そんな顔だった。
ドクンッ!!
心臓が肋骨を蹴り上げる。
会ったことなんて、あるはずがない。
それなのに、俺の体は知っていると主張していた。
顔も、声も、触れた時の温度も。
理屈より先に、身体が思い出そうとしている。
「席は……デンジの隣が空いてるな。そこを使ってくれ」
教師の声で我に返った彼女は酷く狼狽し、何かを言いかけて口をつぐんだ。
上履きのゴムが床を擦る音が近づくにつれ、本能が警鐘を鳴らして喉が渇く。
隣に来た彼女に対し、俺の口が勝手に動いた。
「……よォ。よろしくな」
声をかけた瞬間、彼女はビクッと肩を震わせ、俺から顔を背けるようにして俯いた。
「……どうも」
震える声でそう呟くと、彼女は俺との間に鞄を壁として築き、教科書へと視線を落とす。
その横顔は、先程までの落ち着きが完全に消え失せ、死人のように蒼白だった。
*****
それから三日が過ぎても、転入生のレゼはクラスから浮いたままだった。
その容姿ゆえに注目は集めるものの、彼女自身が誰とも関わりを持とうとせず、休み時間になればすぐに席を立ってどこかへ消えてしまうからだ。
四日目の昼休み。
教室のざわめきと熱気が鼓膜にまとわりつく。
椅子を蹴るように立ち上がり、購買で買った半額の焼きそばパンを鷲掴みにして廊下へ出た。
向かう先は屋上の給水塔の裏。
鍵が壊れていることを知っているのは学校中で俺だけだ。
……そう思っていたが、どうやら間違っていたらしい。今日はそこに先客がいた。
レゼだ。
彼女は体育座りで膝を抱え、フェンスの隙間から眼下のプールを凝視している。
手には封も切っていないコンビニのおにぎりが一つ。
吹き荒れる風が彼女のスカートや髪を激しく乱しているにも関わらず、彼女は瞬き一つせず、大事そうにおにぎりを包み込んだまま固まっていた。
「なんだ、こんなとこに居たのかよ」
声をかけると、レゼは短い悲鳴を上げておにぎりを取り落とした。
慌てて空中で掴もうとした手が空を切り、おにぎりは無惨にも地面へ転がる。
少し砂のついたそれを拾い上げた彼女の視線が、俺を射抜いた。
「……びっくりした。……どうして来るの」
「俺ァ自分の特等席に来ただけだぜ。……隣、座るぞ」
返事も待たずにドカッと隣に腰を下ろすと、汗ばんだ肌の匂いと微かな石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。
レゼは身を縮めたが、逃げようとはしなかった。
沈黙の中、うるさいほどの蝉時雨だけが降り注ぐ。
レゼは砂を払ったおにぎりの包装を剥がそうとしているが、指先が小刻みに震えていて上手くいかないみたいだ。
パリパリと海苔が割れる音が虚しく響くばかりで、フィルムの端すら摘めずにいる様子に、苛立ちを覚えて彼女の手からおにぎりをひったくった。
「貸せ。見てらんねえよ」
「あ、待って、自分で……」
制止を無視して慣れた手つきでフィルムを引き抜き、海苔を巻き直して突き返す。
レゼは呆気にとられた顔で俺を見つめたあと、おずおずとそれを受け取った。
一瞬だけ触れた指先は、ひどく冷たかった。
「……ありがとう」
俺は「おう」と短く返し、自分の焼きそばパンにかぶりつく。
レゼも小さく一口かじると、再び視線をプールへ戻して口を開いた。
「……ねえ、デンジ君」
「んぐ、なんだよ」
モグモグとパンを咀嚼しながら答える。
「質問。……君は、泳げる?」
「はあ?」
まただ。既視感。
脳味噌の裏側を、ザラザラした何かで引っ掻かれた感覚。
「……泳げるかって聞いてるの」
「あ? そんなもん当たり前だろ」
鼻を鳴らして答える。
なんでそんなことを聞くのか分からない。けれど、口が勝手に動いた。
「俺、昔から水泳だけは得意なんだよ。バタフライだって平気で泳げるぜ」
嘘じゃない。
体育の授業でプールに入った時、俺は誰よりも速かった。
誰も教えてくれた記憶などないのに、水の中に入れば体が勝手に動き、水の掻き方も息継ぎのリズムも最初から知っていた。
「……へえ。誰かに習ったの?」
こちらを向いたレゼの翡翠の瞳が、俺の答えを恐れるように揺れている。
頭をガシガシとかきながら、記憶の霧を晴らそうと足掻いた。
けど、思い出せそうで、思い出せねえ。
いつもそうだ。もどかしい。
「いや……それがよ。なんかすっげー美人に、手取り足取り教えてもらった気がすんだけど……なんでか思い出せねえんだ」
言葉にした瞬間、脳内に鮮烈な映像がフラッシュバックする。
夜の学校、誰もいないプール。
青白く光る水面と、揺れる月。
そして冷たい水の中で触れ合う、誰かの温かい肌の感触と、『私が全部教えてあげる』という甘い声。
心臓が、肋骨の裏側でギリギリと嫌な音を立てて軋む。
気管が詰まり、上手く息が吸えない。鼻の奥がツンと痛んだ。
「……昔から俺はひとりのはずなんだけどな。親もいねーし、教えてくれるような奴なんざいなかったはずなのに」
首を傾げる俺の隣で、レゼが息を呑んだ。
見開かれた瞳が潤み、泣き出しそうな顔で俺を見つめている。
空中で何かを掴もうと彷徨った彼女の指先は、迷った末に膝の上へと戻っていった。
「……そっか。……身体は、覚えてるんだね」
「あ? なんか言ったか?」
「ううん。……よかったね、泳げて」
なんだかよく分からない感想を口にして、レゼは膝に顔を埋めてしまった。
肩が微かに震えている。
「……泣いてんのか?」
「……泣いてない」
絶対嘘だ、と思った。
なんでかわからねぇが、レゼをこのまま放っといちゃいけない気がした。
手元のパンを見る。
半額シールが貼られた、潰れてソースまみれの焼きそばパン。
両手で掴み、強引に半分に引きちぎる。具のほとんど入っていない不格好なパンの塊が二つできた。
「……ほらよ。大したもんじゃねぇけど、半分やるよ。……お前、泣きそうな顔してっから」
顔を上げたレゼは驚いたように目を丸くし、濡れた睫毛を伏せてから、ふにゃりと眉を下げて微笑んだ。
それは不格好で弱々しく、けれど今まで見た誰よりも可愛い、女の子の笑顔だった。
「……ありがとう。デンジ君」
パンを受け取った彼女は、それを宝物のように愛おしそうに一口かじり、「美味しい」と呟いた。
俺たちはそれ以上何も話さず、並んで座ってパンを胃に流し込んだ。
吹き抜ける風が鼻先の石鹸の匂いを濃くし、蝉の声だけが遠のいていった。