レゼと屋上でパンを分け合ってから、さらに三日が過ぎた。
あの日、レゼは最後に『美味しい』と笑った。だから俺は、俺たちの間にある見えない壁が、少しは薄くなったのだと信じていた。
だが、現実は違った。
教室に戻ると、彼女は以前にも増して頑なな拒絶を纏うようになっていた。
相変わらず、レゼはクラスから浮いていた。
休み時間になれば、誰とも言葉を交わさずに席を立ち、どこかへ姿を消す。
美人すぎて話しかけづらい、と男どもは遠巻きに見ているだけだ。
だが、俺に対する態度は、単なる無関心とは明らかに違っていた。
目が合いそうになれば、怯えたようにサッと視線を逸らされる。
話しかけようと立ち上がれば、逃げるように教室を出て行く。
それは、俺という存在だけを明確に意識し、そして徹底的に遠ざけようとする"回避"だった。
まるで、俺に近づけば、何か取り返しのつかないことが起きるとでもいうように。
……わけが分からねえ。
金曜日の放課後。
掃除用具入れに体を預け、一人で帰っていくレゼの小さな背中を睨みつけた。
あの屋上での時間は、俺の妄想だったのか?
『身体は覚えてるんだね』と泣きそうな顔をしたレゼは、どこに行ったんだ?
胸の中に、消化不良の苛立ちが黒い靄になって溜まっていくのがわかった。
*****
その日の夜。
日付が変わる頃、俺のアパートに小さな絶望が訪れた。
「……あー、クソッ。マジかよ」
狭い玄関で、沈黙した洗濯機を蹴り飛ばした。
ズガンッ、という鈍い音が響くが、機械はうんともすんとも言わない。
ここ数日、脱水のたびに怪獣みたいな轟音を上げていたが、ついに寿命が尽きたらしい。
ただでさえ金がねえのに、買い換える余裕なんてあるわけがない。
思わず舌打ちが漏れる。
溜まりに溜まった洗濯物──汗臭いシャツや、雨に濡れた靴下──を、黒いゴミ袋に乱暴に詰め込んだ。
「……行くしかねえか」
サンダルを突っ掛け、夜の街へと繰り出した。
目指すのは、商店街の外れにあるコインランドリー。
こんな時間だ。世界には俺しかいないんじゃないかと錯覚してしまうくらい、人気がなかった。
六月の夜風は湿気を含んでいて、肌にねっとりと張り付く。
街灯がチカチカと点滅し、アスファルトに長い影を落としている。
ゴミ袋を担いで、無人の商店街をひたすら歩く。
頭の中には、まだ屋上で見たレゼの笑顔──不格好で、弱々しい笑顔──がこびりついて離れなかった。
*****
自動ドアが開く。
洗剤の粉っぽい化学的な匂いと、冷房の効いた冷たい空気。そして乾燥機が吐き出す熱気。
「……あ」
少し寒すぎるくらいの店内には、先客がいた。
一番奥のベンチ。
大型のドラム式洗濯機の前で、膝を抱えて座り込んでいる人影。
制服じゃない。
大きめの、グレーのパーカーをすっぽりと被っている。中は短パンなのか、白い素足が覗いている。
顔は見えない。しかし、その小さい背中が、華奢な肩のラインが、屋上で見た姿と重なった。
「……レゼ?」
思わず声をかけると、フードの奥で翡翠の瞳が揺れた。
彼女は俺を見て、幽霊でも見たように目を見開いた。
逃げようとして、腰を浮かせかけ、諦めたようにまた座り込んだ。
逃げ場なんて、この狭い店内にはない。
「……こんばんは、デンジ君」
「お前、こんな時間に何してんだよ。補導されんぞ」
「……デンジ君こそ」
「俺は洗濯機が死んだんだよ。……お前、家ここら辺なのか?」
喋りながら空いている洗濯機に服を放り込み、ポケットを探った。
小銭入れの中身は寂しいもんだった。
洗濯代を入れたら、財布の中はすっからかんだ。
ジャラッ。
コインを投入し、スタートボタンを押す。
ゴウン、ゴウン。
水が注がれる音が響き始める。
喉が渇いた。自販機の明かりが目に痛いが、ジュース一本買う金もねえ。
ため息をついて自販機の前から離れると、ガタン、ガタンと二回、取り出し口に落ちる音がした。
振り返ると、レゼが立っていた。
彼女は冷えた缶コーヒーを二本取り出し、その一本を俺の頬にピタッと押し当てた。
「……うおっ、冷たっ」
「……奢り。この前、パンくれたから」
「マジ? サンキュー」
ありがたく受け取って、プルタブを開けた。
ブラックコーヒーの香りが漂ってくる。
甘い方が好きだけど、ブラックも飲めない訳じゃない。乾いた喉に流し込んだ。
「なかなかウメェよな、このメーカー」
「……デンジ君」
レゼが、じっと俺の手元の缶を見つめていた。
その目が、どこか懐かしむように、そして不思議そうに細められた。
「……コーヒー、飲めるんだね」
「あ? なんだよそれ」
俺は唇についた雫を手の甲で拭った。
「飲めるに決まってんだろ。俺だってもう高校生だぞ。……まあ、砂糖入りの方が好きだけどよ」
「そっか。……そうだよね」
レゼは寂しそうに微笑むと、自分のカフェオレを一口飲んだ。
今の会話の何が面白かったのか、さっぱり分からない。
俺は彼女の隣、ベンチの端に腰を下ろした。
店内には俺たち二人だけ。
回る洗濯物を見つめながら、俺はずっと喉に引っかかっていた棘を、吐き出すことにした。
「……なあ」
「なに?」
「お前さ、なんで俺のこと避けてんの?」
レゼの肩が、ピクリと跳ねた。
缶を握る指が白くなる。
「……避けてないよ」
「嘘つけ。学校じゃ俺の顔も見ねえじゃんか。屋上の時は普通だったのに」
詰め寄ると、レゼは唇を噛んで俯いた。
フードを目深に被り直し、表情を隠す。
その拒絶が、余計に苛立ちを募らせた。
「俺、なんかしたか? パンが不味かったか? それとも……」
「……違う。デンジ君のせいじゃないよ」
レゼの声が、絞り出すように漏れた。
「じゃあなんだよ」
「……私が、ダメだから」
「は?」
「私は……デンジ君と仲良くしちゃいけないの」
レゼの声が震えた。
その言葉の裏に何があるのか、俺には想像もつかない。
親が厳しいのか、あるいは俺みたいな貧乏人と関わるとロクなことがないと思っているのか。
ただ、レゼが自分自身を責めていることだけは分かった。
「近くにいると……思い出すから」
「何をだよ」
「いろいろ。……嫌なこととか、自分がした悪いこととか」
レゼは自分のパーカーの袖口を鼻に近づけ、クンクンと嗅ぐ仕草をした。
まるで、そこに目に見えない汚れがこびりついているかのように。
「……この匂い、落ちないんだよね。何度洗っても、どれだけ強い洗剤を使っても……私の中まで染み付いてて、汚れたままで」
彼女の目は、回る洗濯機の中の泡を見つめていた。
服の汚れは落ちる。
でも、自分についた"汚れ"は落ちない。
そう言っているように聞こえた。
俺には、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
こいつは毎日風呂に入ってるだろうし、パーカーからは柔軟剤のいい匂いがする。
何が汚れてるんだ?
レゼが勝手に自分を卑下して、壁を作っているのが、無性に腹立たしかった。
俺の目には、誰よりも綺麗に見えてるのに。
勝手に決めつけてんじゃねえ。
飲み干した空き缶を、床に乱暴に置く。カンッ、と硬い音が響いた。
ベンチを蹴るようにして、横に座るフードに向かって思い切り身を乗り出す。
「……っ、デンジ君?」
そのまま彼女の首元、グレーのフードの隙間に鼻先を突っ込む。
驚いて仰け反ろうとする肩を腕で押さえ込み、肺の底まで思い切り息を吸い込んだ。
「ちょっ……! な、何して……!」
レゼが悲鳴を上げて仰け反る。
顔を離して、真っ直ぐにレゼの目を見た。
至近距離。
その翡翠の瞳に、俺の間抜けな顔が映っている。
「……臭くねえぞ」
「え……」
「お前、いい匂いすんじゃんか。……花みてえな匂いとさ。あと、なんか……前にも嗅いだことある気がする匂いだ」
理由は分からない。
でも、知らない匂いじゃなかった。
思い出せないのに、知っている感じだけが残っている。
「俺はこの匂い、好きだぜ。だから汚れてなんかねえよ」
レゼが大きく目を見開く。
時が止まった。
蒼白だった彼女の頬が、見る見るうちに赤く染まっていく。
耳まで真っ赤だ。
彼女は口をパクパクさせた後、慌てて両手で顔を覆った。
「……バカ。……変態」
「褒めたのにそりゃねーだろ!」
「……そういうとこだよ、本当に」
罵倒の割には、声が柔らかい。
そして、湿っぽい。
少しの沈黙の後、肩に重みを感じた。
レゼが、俺の方に寄りかかってきていた。
フード越しの頭の重さが、俺の左肩に乗る。
「……少しだけ」
指の隙間から、くぐもった声が聞こえる。
「洗濯、終わるまで……このままでいい?」
「……おう。重くねえしな」
レゼは何も返さなかった。
ただ、肩にかかる重さが、少しだけ増したような気がした。
背もたれに体を預け、天井を見上げる。
蛍光灯がチカチカと点滅している。一匹のハエが、光の周りを飛んでいる。
隣からは、レゼの体温と、さっきのいい匂いが漂ってくる。
ゴウン、ゴウン、ゴウン。
洗濯機が回る。
水流が叩きつけられ、泡が生まれ、そして消えていく。
俺には、レゼが何を怖がっているのかも、どんな事情があるのかも分からない。
ただ、彼女が自分を"汚い"なんて思う必要がないことだけは確かだ。
だって、こんなにいい匂いがするんだから。
終わりのブザーが鳴るまで、あと二十五分。
俺たちは言葉を交わすことなく、ただ肩を寄せ合って、混ざり合う水と泡の行方を見つめていた。
外では、風が少しだけ強くなっていた。