忘却の底で、君を待つ   作:冬獅郎

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雨音が止むまで

 六月の雨は、油を含んでいるみたいに重たく、東京の街全体を灰色に塗り潰していた。

 5時限目、数学Ⅱ。

 私は頬杖をつき、教科書を見ているふりをしながら、視線を右隣へと滑らせた。

 空席だった。

 机の上には、誰かの悪戯書きが彫り込まれた跡だけが残っている。

 

 今日で、三日目だ。

 

 三日前。彼が来なかった一日目の朝、私はどんな顔で彼に会えばいいのか、一晩中悩んだ末に登校した。

 前夜の、コインランドリーでの出来事が、どうしても頭から離れなかったからだ。

 

 冷房の冷気と、乾燥機の熱気の中で、彼は私の首筋に顔を埋めて、こう言った。

 

『お前、いい匂いすんじゃんか。花みてえな匂いと……あと、なんか懐かしい匂いだ』

 

 いきなり女の子の首筋の匂いを嗅ぐなんて、デリカシーのかけらもない。

 もしかしたら、他の子にも同じようなことをしているのだろうか。

 そう想像すると、胸の奥で、黒い泥のような感情が静かに湧き上がってくる。

 けれど、前世の記憶がない彼が、本能的に私を「懐かしい」と感じてくれているのだとしたら。

 それは、とても素敵なことなのかもしれない、とも思った。

 

 ……なんて。

 

 そんなことを反芻するだけで、カッと顔が熱くなる。

 この世界の私は、任務のために表情を自在に操る訓練など、当然受けていない。

 ただの、不器用な女子高生だ。

 だから、もし彼が今日も、あの屈託のない顔で話しかけてきたら、どう返そうか。

 心臓を早鐘のように鳴らしながら、教室の扉を開けた。

 

 そう、思っていたのに。

 彼に会うことすら、叶わなかった。

 

 担任は事務的に「風邪だ」とだけ告げた。

 張り詰めていた緊張がふっと切れ、心配と、肩透かしを食らったような寂しさが、同時に胸を満たした。

 明日になればまた会える。そう思っても、胸に空いた穴は塞がらなかった。

 二日目。彼は来なかった。

 そして三日目の今日も、窓の外では重たい雨が降り続いている。

 

 ……おかしい。

 

 胸の奥に、小さな鉛の塊が落ちたような重さを覚える。

 私は無意識に、スカートのポケットからスマホを取り出していた。

 メッセージを送れば、すぐに理由が分かるかもしれない。

 けれど、液晶画面の上で私の指は凍りついた。

 

 ──知らない。

 

 呆然とした。私はデンジ君の連絡先を知らない。

 LINEも、電話番号も。

 抱きしめられた時の体温や、胸の奥で響くエンジンの音色は、こんなに鮮明に焼き付いているのに。

 今の私は、彼の電話番号ひとつ知らない、ただのクラスメイトに過ぎないのだ。

 その事実が、たまらなく惨めで、焦燥感を掻き立てた。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 昼休み。

 私は意を決して、前の席で弁当を広げていた男子生徒に声をかけた。

 デンジ君と話しているのを見かけたことがある。

 

「……ねえ」

 

「ぶふっ!?」

 

 彼は口に含んだパンを詰まらせそうになり、信じられないものを見るように私を振り返った。

 

「えっ、あ、レゼさん……? 俺に話しかけてる……?」

 

 周囲の話し声が、ふっと止んだ気がした。

 私は転校してきてから、必要以上に誰とも馴れ合わなかった。

 そんな私が自分から話しかけたことに、彼は明らかに動揺し、顔を赤くしている。

 悪いけど、今はその反応に構っている余裕はない。

 

「デンジ君の家、知ってる?」

 

「え? あー……確か、商店街の裏の……」

 

「詳しく教えて」

 

 私が詰め寄ると、彼は慌ててノートの端を破り、ペンを走らせた。

 

「こ、これ! 地図書いといたから! 商店街抜けたとこの、ボロいアパート!」

 

「……ありがとう」

 

 私はその紙切れをひったくるように受け取った。

 震える線で描かれた地図と住所を見る。

 

「彼、一人暮らしなの?」

 

「ああ、親戚もいなくて一人で住んでるって言ってたぜ。あんなとこで寝込んでたら、誰にも気づかれなくてヤバそうだよなー」

 

 彼が軽口のように言ったその言葉が、私の心臓を冷たく鷲掴みにした。

 

 一人暮らし。親戚もいない。

 誰にも気づかれない。

 

 デンジ君は、何も言わなかった。

 けれど、その生活がどれほど綱渡りで、孤独なものかは、今の言葉と、彼の浮き出た鎖骨やカサついた肌を合わせれば、十分に想像がついた。

 前世の彼は、違った。何度バラバラになっても、血を飲めば立ち上がる不死身のエンジン音を響かせていた。

 でも、今の彼はただの人間だ。栄養が足りなければ枯れるし、寒ければ風邪を引く。誰にも気づかれずに、部屋で死んでしまうことだって、あり得る話だ。

 

『死なれたら、困る』

 

 そんな言い訳が、脳内を反響していた。

 気がつけば、私は鞄を掴んで立ち上がっていた。

 午後の授業なんて、どうでもいい。

 放課後まで待っていたら、手遅れになるかもしれない。

 私は唖然とするクラスメイトたちを背に、教室を飛び出した。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 傘を開いて外に出ると、雨足は強くなっていた。アスファルトを叩く音が、焦燥感を煽るようにうるさい。

 雨足が強まる中、私は校門を抜け、駅とは逆方向、商店街の方へと走り出した。

 

 スーパーマーケットにたどり着き、自動ドアをくぐる。

 冷房が効いた店内は、外の湿気とは別世界のように涼しい。

 カゴをひったくるように手に取った。

 

 まずはドラッグストアのコーナーへ。

 解熱鎮痛剤。冷却シート。成分表を見ても違いがわからないので、一番高くて、即効性がありそうなものを乱暴に選んだ。

 

 次は衣料品コーナー。

 男性用の肌着とTシャツをカゴに放り込む。汗だくの彼を着替えさせる必要があるからだ。

 迷いはない。ここまでは、戦場の衛生兵みたいに迅速だった。

 けれど、食料品売り場の明るい照明の下に来た時、足がピタリと止まってしまった。

 スポーツドリンク、ゼリー飲料。

 そこまではよかった。

 でも、その奥に並ぶ色とりどりの食材たちが、私の思考を鈍らせた。

 卵、長ネギ、お米。

 それらを見た瞬間、ふと、『少しでも美味しいものを食べさせてあげたい』なんていう、場違いに甘い考えが頭をもたげてしまったのだ。

 どのお米がおいしいかな。卵は高いほうが栄養あるかな。

 早退までして駆けつけたはずなのに、スーパーの放つ平和な日常の空気に当てられて、私は一瞬で"普通の女子高生"の顔になってしまっていた。

 

 初めての看病。初めての手料理。

 そんな甲斐甲斐しい彼女のようなイベントに、心のどこかで酔っていたのだと思う。

 その数分の迷いが、どれほど平和ボケした愚かなものだったか。

 彼のアパートの扉を開けた瞬間に、嫌というほど思い知らされることになった。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 鉄骨の錆びついた外階段を上る。

 カン、カン、と響く足音が、雨音に吸い込まれていく。

 二階の、一番奥の部屋。

 表札はない。ドアの塗装は剥げかけ、郵便受けにはチラシが詰め込まれたままになっている。

 生活感があるようで、ない。まるで、いつ消えてもおかしい人間が住んでいるような、儚い佇まい。

 

 ドアの前に立ち、深く息を吸い込んだ。

 心臓がうるさい。

 敵のアジトに潜入する時だって、こんなに緊張したことはなかった。

 このドアの向こうに、彼がいる。私の知らない、無防備な彼が。

 インターホンを探したが、壊れて配線がむき出しになっている。

 仕方なく、私はドアノブに手をかけた。

 

 ガチャリ。

 

 回った。

 鍵がかかっていない。

 

「……不用心すぎる」

 

 呆れると同時に、嫌な想像が脳裏をよぎる。

 

 鍵をかける余裕すらなかった?

 

 急いでドアを開ける。

 瞬間、熱気と、カビと、そして独特の澱んだ臭いが鼻腔を突き刺した。

 

「……っ、デンジ君!?」

 

 呼びかける声が、無意識に裏返った。

 返事がない。

 薄暗いワンルーム。散乱したゴミ。その奥に、煎餅布団の塊がある。

 動いていない。

 微動だにしていない。

 

 嘘でしょ……?

 

 心臓が早鐘を打つ。

 靴を脱ぐ時間すら惜しかった。土足のまま駆け寄りたい衝動を必死に抑え、もつれる足で部屋に上がり込んだ。

 布団までの数メートルが、永遠のように長い。

 

 もし、冷たくなっていたら。

 もし、もう呼吸をしていなかったら。

 

 最悪のイメージが脳内を駆け巡る。

 膝を打ち付けるようにして枕元に滑り込み、震える手を彼の首筋へ伸ばした。

 

「……っ!!」

 

 指先に触れた熱に、指が弾かれた。

 熱い。熱すぎる。

 これは風邪なんて生温いものじゃない。

 体温計なんていらない。触れただけで分かる。40度近い。

 彼の肌は干からびた土のようにカサカサで、唇は白くひび割れている。

 呼吸は浅く、速く、まるで壊れかけた鞴のような音を立てている。

 

 ドサッ。

 

 握っていたスーパーの袋が、手から滑り落ちた。

 中から、呑気に選んだ食材たちが、ゴロゴロと転がり出る。

 その光景が、あまりにも滑稽で、残酷だった。

 

「……バカみたい」

 

 唇を噛み締めた。血の味がするほど強く。

 何が『お見舞い』だ。何が『普通の女子高生』だ。

 

 私がスーパーで『どのお米がおいしいかな』なんて迷っていた数分の間も、彼はここで孤独に死にかけていたんだ。

 呑気に食材を選んでいた自分の平和ボケした脳みそを、今すぐ壁に叩きつけてやりたい衝動に駆られた。

 今の彼は、不死身のチェンソーマンじゃない。

 放っておけば壊れてしまう、ただの男の子なんだ。

 視界が滲む。でも、泣いている場合じゃない。

 乱暴に袋を引き裂いて、スポーツドリンクを取り出した。

 キャップをねじ切るように開ける。

 デンジ君の首の後ろに手を回し、上体を起こす。

 重い。今の私はただの女子高生だから、彼の身体がずっしりと重く感じる。

 ぐらりと揺れる彼の頭を、必死に自分の肩で支える。

 

「……デンジ君、飲める? お願い、飲んで……!」

 

 ペットボトルの口を、ひび割れた唇に当てる。

 少しずつ、慎重に傾ける。

 とぷ、と液体が口内へ流れ込む。

 だが。

 

「……ごっ、……げほっ、うぇっ……!」

 

 彼は激しくむせ返り、液体を吐き出した。

 飲み込めない。嚥下反射が弱りきっている。

 吐き出されたスポーツドリンクが、顎を伝ってTシャツを汚していく。

 

「っ、ごめん……!」

 

 焦ってボトルを傾けすぎたせいだ。

 デンジ君は苦しそうに咳き込み、身体をくの字に折り曲げた。

 ダメだ。こんな流し込み方じゃ、気管に入って肺炎を起こすかもしれない。

 今は確実に、水分を体内に入れないと。

 私はペットボトルのキャップに、少量のスポーツドリンクを注いだ。

 顎を支えて、上を向かせる。

 唇の隙間から、キャップの縁を差し込み、ほんの一口分だけ流し込む。

 

「……ん……」

 

 ごくん。

 

 喉が動いた。飲んだ。

 安堵の息を漏らすと同時に、そのキャップ一杯分のスポーツドリンクが、彼の乾ききった身体へゆっくりと吸収されていくのを見届けた。

 

 二杯、三杯。

 

 根気強く、同じ動作を繰り返した。

 焦ってはいけない。一度に流し込めば、また戻してしまう。

 キャップに注ぎ、唇に運び、喉が動くのを待つ。

 地味で、神経を使う、果てしない作業だ。

 けれど、彼の命を繋ぐためには、これしかなかった。

 作業に集中しようと努めても、至近距離にある彼の長い睫毛や、私の頬にかかる熱い吐息を感じるたび、心臓が痛いほど脈打ってしまう。

 その鼓動が彼に伝わらないよう祈りながら、私は十回、二十回と、ひたすらにキャップを運び続けた。

 

 三十杯目を超えたあたりで、彼の眉間の皺が少しだけ緩んだのが分かった。呼吸のリズムが、ヒューヒューという苦しげな音から、スー、スーという寝息に近いものへと変わっていく。

 

「……よかった」

 

 二十分近くかけて、ペットボトルの三分の一ほどを飲ませ終えた私は、大きなため息をついてその場に座り込んだ。

 緊張の糸が切れ、ドッと疲れが押し寄せてくる。

 でも、まだ休んでいる暇はない。

 彼が吐き出した水分と、大量の寝汗で、Tシャツがぐっしょりと濡れている。

 このままじゃ気化熱で体温を奪われすぎてしまうし、何より不衛生だ。

 

 着替えさせないと。

 私は立ち上がり、台所へ向かった。身体を拭くためのお湯を入れる容器を探す。

 

 ……ない。

 

 ボウルはおろか、洗面器すらない。

 あるのは、焦げ付いた片手鍋と、積み上がった汚れた食器だけ。

 

「……徹底してるなぁ。ウェットティッシュも買ってくるんだった」

 

 思わず苦笑し、自分のハンカチを水道の蛇口に持っていった。

 水を含ませ、固く絞る。

 枕元に戻り、彼のTシャツの裾に手をかける。

 躊躇している場合じゃない。

 シャツをまくり上げ、濡れたハンカチを彼の肌に滑らせた。

 熱い。

 ハンカチ越しでも、彼の体温が火傷しそうなほど伝わってくる。

 痩せているけれど、筋肉のついた胸板。あばらが浮いた脇腹。

 汗と汚れを丁寧に拭っていく。

 冷たいハンカチが触れるたびに、デンジ君が無意識に気持ちよさそうに身じろぎをする。

 首筋を拭っていた時、ふと、あの夜の記憶が蘇った。

 

『お前、いい匂いすんじゃんか』

 

 コインランドリーで、彼は私の首元に顔を埋めてそう言った。

 あの時、私の肌には硝煙の匂いがこびりついていたはずなのに。彼はそれを『花みたいだ』と笑ったのだ。

 今、私の鼻腔を満たしているのは、すえた汗と、埃っぽい生活臭。

 花のような甘さはどこにもない。顔をしかめたくなるような、ただの病人の臭いだ。

 それなのに。

 

「……全然、嫌じゃないよ」

 

 独り言のように呟いた。

 濡れたハンカチが、熱を帯びた肌の上を滑る。

 汚いなんて、ちっとも思わなかった。

 この匂いが、デンジ君がここで息をして、懸命に生きている何よりの証拠に思えたからだ。

 彼が私の匂いを許してくれたように、私もこの人間臭い彼を、まるごと守ってあげたかった。

 

 上半身を拭き終わり、買ってきたばかりの新品のTシャツ袋を開ける。

 真っ白で、パリッとした木綿の匂いがする。

 ぐったりと力の入らない彼の身体を支え、腕を通す。

 意識のない男の子を着替えさせるのが、こんなに大変だなんて知らなかった。

 

 頭を通し、背中を浮かせて裾を整える。

 私の額にも、じわりと汗が滲んだ。

 清潔な服に着替え、乾いたタオルケットをかけ直すと、彼は随分と安らかな顔になっていた。

 

 ハンカチを洗いに立ち上がる。

 そこで初めて、自分のお腹がグゥと鳴った。

 そういえば、朝から何も食べていない。

 私のお腹が空いているということは、彼はもっと空いているはずだ。

 何か、お腹に入れられるものを。

 再び台所へ向かい、冷蔵庫の前に立った。

 この中には何がある? デンジ君を生かす何かが、少しぐらいは入っているはずだ。

 

 期待と不安を混ぜ合わせながら、勢いよく扉を開ける。

 ブーンという低い音。

 庫内を照らす冷たい光が、そこにある"無"を暴き出した。

 

 飲みかけの水。

 変色したマヨネーズ。

 カピカピに乾燥した、食パンの耳が一枚。

 それだけ。

 たった、それだけ。

 

「……ふざけないでよ」

 

 低く、震える声が漏れた。

 絶望を通り越して、どす黒い怒りが湧き上がってくる。

 こんなガラクタだけで、どうやって生きろっていうの。

 マヨネーズのボトルを握りしめた手に、ミシミシと力が籠る。容器が歪む。

 

「……許さない」

 

 明確な殺意が、自分の中で冷たく燃え上がるのを感じる。

 

「こんなの、許さない……。せっかく見つけたのに。また……こんなつまらない理由でいなくなるなんて、絶対に許さない」

 

 冷蔵庫の扉を、ドンッと乱暴に叩きつけた。

 誰に対する怒りなのか分からない。

 でも、この貧困とかいうふざけた敵が、私のデンジ君を殺そうとしていることだけは分かった。

 

 ダメ。嫌だ。こんな惨めな場所で、誰にも知られずに飢えて死ぬなんて終わり方、私が認めない。

 私のデンジ君を、こんなくだらない理由で奪われてたまるか。

 床に散らばったスーパーの食材を、一つずつ拾い上げた。

 お米。卵。長ネギ。

 指先の震えは止まっていた。

 もう、迷いはない。

 制服の袖をまくり上げる。

 彼をこの世に繋ぎ止めるための、私の戦いが始まった。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

「……よし」

 

 買ってきたお米のパックを開ける。

 一人暮らし用の小さな片手鍋を、軽く水洗いする。

 ボウルなんてないから、鍋に直接お米を入れる。

 水道水を流し込む。

 六月の水道水は生温いけれど、手に触れる水の感触は鮮明だった。

 

 ザッ、ザッ。

 

 お米を研ぐ音。手のひらに当たる硬い粒の感覚。

 それは、武器を組み立てる時の冷ややかな金属の感触とはまるで違う、普通の証だった。

 

 水加減は……これくらいかな。

 おかゆにするなら、普通のご飯よりも水を多くする。確か五倍くらいだったはずだ。

 私は水を足して、鍋をコンロに置いた。

 つまみを捻る。

 ボッ、と青い炎がついた。

 お湯が沸くまでの間に、長ネギを洗う。

 小さなペティナイフを手に取る。

 

 トントントン。

 

 ネギを刻む音。

 自分でも驚くほど、その音はリズミカルだった。

 ナイフの扱いは手慣れている。それが今は、人の命を奪うためではなく、生かすための料理に使われていることが、なんだか不思議で、少しこそばゆい。

 

 鍋が沸騰し始めた。

 火を弱め、蓋を少しずらして乗せる。

 吹きこぼれないように。焦げ付かないように。

 時々、お玉で底からゆっくりとかき混ぜる。

 お米が水分を吸って、ふっくらと花開いていくのが分かる。

 出汁の素を少し入れる。

 塩をひとつまみ。

 味見をする。

 

「……うん、普通」

 

 特別美味しくはないけれど、不味くはない。

 お店に出せるような味じゃないけれど、風邪引きの胃袋にはこれくらい優しい方がいいはずだ。

 最後に溶き卵を回し入れ、刻んだネギを散らして火を止める。

 蓋をして、少し蒸らす。

 換気扇が回っている。

 ゴウンゴウンと、コインランドリーの洗濯機みたいな音がした。

 部屋の中には、出汁と、お米の炊ける優しい匂いが充満している。

 さっきまでの、澱んだ病気の臭いはもうない。

 鍋の前に立ち尽くし、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 私の記憶の中には、爆発音と悲鳴しかない。

 そんな私が、こんなに穏やかな匂いの中に立っている。

 デンジ君のために、心を込めてご飯を作る。

 ただそれだけのことが、こんなにも満ち足りた気持ちになるなんて知らなかった。

 

「……柄じゃないな」

 

 自嘲気味に笑う。

 でも、不思議と悪い気はしなかった。

 雨音はまだ続いているけれど、部屋の中は温かい湯気と、彼の安定した寝息で満たされていた。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 鍋の蓋を開けると、ふわりと白い湯気が立ち上った。

 とろりとした、ごく普通の、黄金色のおかゆ。

 お盆代わりの古雑誌にそれを乗せて、彼の枕元へと戻った。

 背後で衣擦れの音がして、デンジ君が身を起こしたところだった。

 熱で潤んだ瞳が、ぼんやりと焦点を結ぼうとして、私を捉えている。

 幻覚を見ているような顔だ。

 無理もない。三日間放置された自分の部屋に、クラスメイトの女が立っているのだから。

 

「……あ、起きた?」

 

 努めて明るく声をかけた。

 彼は、私の顔と、手元のおかゆを交互に見て、眉間に深い皺を刻んだ。

 

「……なんだそれ」

 

「おかゆ。……お腹、空いてるでしょ?」

 

「……レゼが作ってくれたのか?」

 

「うん。勝手に台所借りちゃった。ごめんね」

 

 怒られるだろうか。

 プライドの高い男の子なら、勝手なことをされるのを嫌がるかもしれない。

 けれど、デンジ君は力なく首を振った。

 

「……いや。……いい匂いする」

 

 その言葉に、胸の奥がキュッとなる。

 私は枕元に座り、フーフーと息を吹きかけて、おかゆを冷ました。

 自分の息がかかったものを彼に食べさせるなんて、少し恥ずかしい。

 でも、今の彼にはレンゲを持つ力も残っていないように見えた。

 

「……はい、あーん」

 

 まるで子供扱いだ。

 彼は一瞬ためらったけれど、空腹には勝てなかったらしい。素直に口を開けた。

 

 パクッ。

 

 彼が食べるのを、固唾を飲んで見守った。

 味はどう? 薄くない? 卵は固まりすぎてない?

 彼はゆっくりと咀嚼し、ゴクリと飲み込んだ。

 そして、ほう、と白く濁った息を吐いた。

 

「……うめえ」

 

 掠れた、けれど心からの声だった。

 

「……マジかよ。これ、ホントにレゼが作ったのか?」

 

「ホントだよ。……味、変じゃない?」

 

「いや、すげぇ美味い……。店で食うやつみてぇだ」

 

 彼は目を細めて、天井を見上げた。

 

「……あったけえ。なんか、胃袋が生き返るわ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、私の指先が微かに震えた。

 私が作ったものが、彼の命を繋いでいる。

 今まで、私の手は奪うためにしか使われてこなかった。

 誰かの体温を奪い、呼吸を止め、未来を消すための技術。

 それなのに今、私はこの手で、彼を生かしている。

 

「もう一口、いいか?」

 

「……うん」

 

 私は無言で、次々と彼の口へおかゆを運んだ。

 彼は「うめえ」「卵が入ってやがる」と嬉しそうに呟きながら、鍋一杯分を綺麗に平らげた。

 その姿を見ていると、胸の奥が熱くて、痛くて、どうしようもなかった。

 

 こんなに無防備に、私を信じて食べてくれるなんて。

 もし私が毒を入れていたら、君は死んでいたんだよ?

 そんな危うささえも、愛おしくてたまらない。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 食後。

 私は彼に水と薬を飲ませ、温くなった冷えピタを剥がして、新しいものを貼った。

 ひんやりとしたジェルが額に乗ると、デンジ君は気持ちよさそうに目を閉じた。

 部屋の中は静かだった。

 雨音だけが、世界を隔てるカーテンのように響いている。

 

「……レゼ」

 

 半ば夢の中にいるような、とろんとした声で、デンジ君が呟いた。

 その瞳は、熱で朦朧としながらも、真っ直ぐに私を見ていた。

 

「……どうしたの?」

 

「パンの耳じゃなくてよぉ……あったけえ飯と……美人が隣にいて……」

 

「……うん」

 

「……なんか、夢みてえだ」

 

 彼はへらっと笑った。

 そして、私の心臓を射抜くようなことを、吐息のように漏らした。

 

「……あーあ。お前が俺の彼女だったら……最高なのになぁ……」

 

 ドクン。

 

 心臓が、大きく跳ねた。

 呼吸が止まる。

 

「……え?」

 

「毎日楽しいだろうなぁ……。飯もうまくて……隣にいてくれて……」

 

 夢を語る子供のような、純粋無垢な願望。

 それは"私"という人間への、これ以上ない肯定だった。

 

「……そんな生活が出来たら、世界一、幸せだな……」

 

 最期の言葉は、寝息に溶けて消えた。

 彼はそのまま、深い眠りに落ちていった。

 規則正しい呼吸音が聞こえ始める。

 私は、動けなかった。

 彼を目隠しするように、そっと手のひらで目を覆う。

 視界を奪わないと、私の表情を見られてしまいそうで怖かった。

 涙が一粒、彼にバレないように頬を伝った。

 

 嬉しい。

 どうしようもなく、脳髄が痺れるほど嬉しい。

 けれど、それ以上に絶望的だった。

 私は、彼を騙している。

 彼が夢見ている"優しいレゼ"は、本当は大量の人を殺した兵器なのに。

 

「……バカ」

 

 長い沈黙の後、私は絞り出すように呟いた。

 そのまま、彼の手を握りしめる。

 この温もりが、私の罪を焼き尽くしてくれればいいのに。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 数分後。

 そっとデンジ君の手を布団に戻し、立ち上がった。

 空になった鍋と、お椀とレンゲをシンクに運ぶ。

 彼を起こさないように、水量を絞って蛇口をひねる。

 

 シャー……。

 

 細い水音が、静寂に溶けていく。

 スポンジに洗剤をつける。

 冷たい水に指を浸し、鍋をこする。

 こびりついたお米の粘り気が、水流に流されて消えていく。

 私の手は、手際よく動いた。

 まるで、ずっとこの部屋に住んでいる住人のように。

 

 ……変なの。

 

 小さく笑みがこぼれる。

 背後には、眠るデンジ君。

 手元には、洗い物。

 それは、絵に描いたような"家庭"の風景だ。

 私に最も縁遠く、そして心のどこかで焦がれていた時間。

 

 キュッ、と洗い終わったお椀の音が鳴る。

 食器は綺麗になった。

 私の過去も、嘘も、罪も。

 こんな風に洗剤で洗って、水に流せたらいいのに。

 そうすれば、私は胸を張って『あなたを愛している』と伝えられるのに。

 

 洗った食器を水切りカゴに伏せ、手を拭く。

 そして私は、再び冷蔵庫を開けた。

 ……やっぱり、ほとんど空っぽだ。

 さっき私が詰め込んだお米と卵以外、棚は白く広々としている。

 病み上がりには、ヨーグルトやゼリーがもう少し必要な気がする。スポーツドリンクも、あと一本しかない。私自身も、朝から何も食べてない。そろそろ空腹の限界だった。

 それに。

 振り返り、呼吸を繰り返すデンジ君を見た。

 さっき着替えさせたばかりなのに、もう首元のTシャツが汗で張り付いている。

 

「……読みが甘かったな」

 

 小さく舌打ちした。

 スーパーで買った着替えは、もう使い切ってしまった。

 これほど酷い発汗は想定外だった。このペースじゃ、朝までにあと二、三枚は必要になる。

 それに、私のこの窮屈な制服も、長時間の看病には向かない。

 

「すぐ戻るから」

 

 眠る彼に小さく声をかけ、財布だけを持って静かに部屋を出た。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 近くのコンビニで買い物を済ませ、アパートに戻るまでの時間は、十五分もかからなかったはずだ。

 雨はまだ降り続いている。

 ビニール袋の中身は、ゼリー飲料と追加の男性用肌着、それに自分用のおにぎりとTシャツとスウェット。

 私は足早に階段を駆け上がり、音を立てないようにドアを開けた。

 

「ただいま、デンジく……」

 

 小声で言いかけて、言葉が喉に詰まった。

 

「……う、ぅ……」

 

 苦しげなうめき声。

 煎餅布団の上で、デンジ君が身をよじっていた。

 熱にうなされているのか、荒い呼吸を繰り返しながら、何もない虚空に向かって手を伸ばしている。

 その指先は震えていた。

 暗闇の中で、見えない何かを必死に探すように。

 あるいは、置いていかれることを恐れる子供のように。

 

「……」

 

 ドサリ、と買い物袋を床に置いた。

 私は靴を脱ぎ捨て、彼の元へ駆け寄った。

 空を切っていたその手を、両手で強く握りしめる。

 

「……ここにいるよ」

 

 私の声が届いたのか、彼の眉間の皺がわずかに緩んだ。

 握り返してくる力は弱いけれど、すがりつくような必死さがあった。

 熱い。さっきよりも熱が上がっているかもしれない。

 もし私が戻らなかったら、彼は一晩中、こうして熱い闇の中で手を伸ばし続けていたのだろうか。

 

「……ホント、甘いなぁ、私」

 

 ため息が一つ、漏れた。

 私は枕元に座り直し、握った手を自分の頬に寄せた。

 

「……朝までだよ」

 

 誰に言い訳するでもなく、呟いた。

 

「熱が下がるまで。……それだけ」

 

 それは任務でも、罪滅ぼしでもない。

 ただの、恋する女の子のわがままだ。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 深夜三時。

 雨はいつの間にか止んでいた。

 私は壁に背を預け、彼の寝顔を見守り続けていた。

 時折、彼が苦しそうに咳き込むと、背中をさすり、浮いてきた汗をハンカチで拭う。

 狭い六畳一間。カビ臭くて、物が散乱している底辺の暮らし。

 なのに、高級なホテルのベッドで寝るよりもずっと心が落ち着くのは、ここに"嘘"がないからだろうか。

 

 いつの間にか、私も眠ってしまっていたらしい。

 カクン、と頭が揺れて目が覚めると、カーテンの隙間から白々とした朝の光が差し込んでいた。

 

 チュン、チュン。

 

 雀の鳴き声が、世界が動き出したことを告げている。

 

「……ん……」

 

 隣で気配が動いた。

 デンジ君が、ゆっくりと目を開けた。

 その瞳には、昨夜のような熱っぽさはなく、理性の光が宿っていた。

 

「……デンジ君?」

 

 私は恐る恐る、彼のおでこに手を当てた。

 熱くない。平熱だ。

 下がった。乗り越えたんだ。

 

「……レゼ?」

 

 彼は掠れた声で私を呼び、キョトンと周囲を見回した。

 そして、目の前にいる私と、差し込む朝の光を見て、驚いたように目を見開いた。

 

「お前……ずっといたのか?」

 

「……うん。ちょっと、心配で」

 

「一晩中?」

 

「……帰るタイミング、逃しちゃって」

 

 私は照れ隠しに肩をすくめた。

 デンジ君は呆然としていたが、次第に状況を理解したのか、顔がみるみる赤くなっていった。

 自分がどれだけ無防備な姿を晒していたか、そして私がどれだけ密着して看病していたか、理解したらしい。

 彼は赤くなった顔をゴシゴシと擦り、それからボソッと言った。

 

「……サンキューな」

 

「え?」

 

「起きた時、独りじゃなかったの……久しぶりだわ。……すげー助かった」

 

 飾り気のない、真っ直ぐな感謝だった。

 その言葉が、私の胸の奥にじんわりと染み込んでいく。

 

「……どういたしまして」

 

 私が微笑むと、彼は急にソワソワし始めた。

 視線を泳がせ、自分の頭をガシガシとかいている。

 

「あー、その……俺、なんか変なこと言わなかったか?熱のせいで、なんか……変な夢見てた気がしてよぉ」

 

 ああ、なるほど。

 夢現の中で口走った言葉を、朧げに覚えているのかもしれない。

 その問いかけに、私の心臓がドクンと跳ねた。

 

 昨日の言葉──『お前が俺の彼女だったら……最高なのになぁ』。

 

 言わない方がいい。忘れたふりをするべきだ。

 でも、私の中の弱くて卑屈な部分が、鎌首をもたげた。

 確かめたかったのかもしれない。

 あれは熱に浮かされた戯言で、正気の彼なら『そんなこと言うわけない』と笑い飛ばしてくれることを。

 私は、自分が選ばれるはずがないことを確認して、安心したかったのかもしれない。

 

「……言ってたよ」

 

「えっ!? な、なに言ってた!?」

 

 私は彼から視線を逸らし、膝の上の自分の手を見つめた。

 

「……レゼが……彼女だったら、最高なのになぁ……」

 

 最初は冗談めかして言うつもりだった。

 でも、言葉にすればするほど、その言葉の持つ意味が私の喉を締め付けた。

 ちょっとだけあった演技の自信が、音を立てて崩れていく。

 

「……とか、言ってた……気がする……」

 

 最後は、蚊の鳴くような声になってしまった。

 自分の声が、情けないほど震えているのが分かる。

 部屋に、重たい沈黙が落ちた。

 朝の光の中で、埃がキラキラと舞っているのが見える。

 恐る恐る顔を上げると、デンジ君は石のように固まっていた。

 耳まで、いや、首筋まで真っ赤だ。

 

「……」

 

「……」

 

 否定して。

 『嘘だろ』って、『熱のせいだ』って笑ってよ。

 そうすれば、私は『だよね』って笑って、この想いに蓋ができるのに。

 

「……あー」

 

 長い沈黙の後、デンジ君が深く、深く息を吐いた。

 彼は私の方を見ようともせず、明後日の方向を向いたまま、ボソボソと口を開いた。

 

「……マジか。口に出てたか」

 

 その声は震えていた。

 拒絶でも、嘲笑でもない。

 ただひたすらに、恥じらっていた。

 

「……え?」

 

「いや、だってよ……」

 

 彼は布団の端をギュッと握りしめ、さらに身体を小さくした。

 

「……あんな弱ってる時に、うめえ飯食わせてもらって……ずっとそばに居てくれたんだぜ?」

 

「……」

 

「そりゃ……思うだろ。……こいつとずっと一緒だったら……毎日最高だろうな、って……」

 

 声がどんどん小さくなっていく。

 聞き取れないくらいの、独り言のような呟き。

 

「……だから、まあ……嘘じゃねえよ。……本心、だ」

 

 最後の言葉は、ほとんど吐息だった。

 彼は顔を膝に埋めてしまい、真っ赤な耳だけが私に向けられていた。

 

 ドクンッ!!

 

 私の思考回路が、音を立てて焼き切れた。

 予想していた"否定"なんて、どこにもなかった。

 そこにあったのは、不器用で、無防備で、どうしようもないほど純粋な"肯定"だけ。

 

 ──ずるい。

 

 私は口元を手で覆った。

 顔が熱い。涙が出そうだ。

 私なんかが、こんな風に思われていいはずがない。

 私は爆弾で、人殺しで、嘘つきなのに。

 なのに、デンジ君は、そんな私の全てを最高だと言ってくれた。

 沈黙が続いた。

 互いの心臓の音が聞こえてきそうな距離。

 このままじゃ、爆発してしまう。

 私が。私の心が。

 

「……っ」

 

「……っ」

 

 限界だった。

 二人同時に、何かを言おうとして、言葉に詰まる。

 その時。

 

 グゥゥゥ〜……。

 

 部屋中に、間の抜けた音が響き渡った。

 デンジ君のお腹だ。

 

「……あー!クソッ!腹減った!!」

 

 彼は真っ赤な顔のまま、強引に話題を変えた。

 そのあまりの唐突さと、必死な様子がおかしくて、愛おしくて。

 

「……ふふっ」

 

 私はこらえきれずに吹き出した。

 緊張の糸が切れて、笑いが込み上げてくる。

 

「……なんだよ!笑うなよ!」

 

「ごめん、ごめんね。……ふふ、そうだね。ご飯にしよっか」

 

 私は涙目で笑いながら、立ち上がった。

 昨夜のおかゆはもう空っぽだ。

 でも、食材はまだ少し残っている。

 私は手際よく新しいお米を研ぎ、残りの卵を使って、簡単な雑炊を作ることにした。

 二人並んで、小さなちゃぶ台で朝ごはんを食べる。

 お互いに顔を見合わせることもできず、ただ黙々とレンゲを動かす。

 出来立ての熱い雑炊が、喉を通る。

 

「……ふぅ、食った食った」

 

 デンジ君が空になった鍋の底を名残惜しそうに見て、レンゲを置いた。

 私はその視線の先にある、部屋の隅の冷蔵庫を見た。

 中身は空っぽだ。

 この朝ごはんが終われば、彼はまた「あの日常」に戻る。

 パンの耳と、水だけの生活。

 昨日抱いた怒りが、静かな決意へと変わっていく。

 

「……ねえ、デンジ君」

 

「ん?」

 

 私は箸を置き、彼を真っ直ぐに見た。

 

「いつも、あんなものしか食べてないの?」

 

 私の視線の意味を悟ったのか、彼は気まずそうに頭をかいた。

 

「……まあな。自立支援の金なんて、家賃払ったらスズメの涙だしよ」

 

「……」

 

「パンの耳にマヨネーズ塗って食うのも、慣れりゃあ悪くねえんだぜ?」

 

 彼は強がって笑った。

 でも、もう騙されない。

 昨日の、死にそうになっていた彼の姿が脳裏に焼き付いている。

 胸が、きゅうっと締め付けられた。

 

「……そんなものばっかり食べてたら、また体調崩しちゃうよ」

 

「え?」

 

「デンジ君は気づいてないかもしれないけど……昨日だって、私が来なかったら、本当に死んでたかもしれないんだよ?」

 

 少し強い口調で言うと、デンジ君はきょとんとして、それから少し照れくさそうに頬をかいた。

 

「……けど、レゼが来てくれたじゃん」

 

「……今回は、たまたまだよ。三日も学校に来ないなんておかしいって思ったから……。でも、もしこれが休日を挟んでたら、きっと……気づけなかった」

 

 想像するだけで、背筋が凍る。

 私は自分の能天気さを呪った。

 そうだ。彼が学校に来なくなった初日に、すぐにここに来ていれば。

 くだらないことで悩んだりしないで、すぐに駆けつけていれば、彼がここまで苦しむこともなかったのに。

 私が迷っていた時間は、彼にとっては命を削る時間だったんだ。

 二度と、こんな思いはさせない。

 後悔と自責が、熱い塊になって喉元までせり上がってくる。

 それを飲み込み、私は顔を上げた。

 

「……デンジ君」

 

「ん?」

 

 私は、はっきりと告げた。

 

「決めた」

 

「何をだよ」

 

「明日から、私が君の食事を管理する」

 

 デンジ君がポカンと口を開けた。

 言葉の意味を咀嚼するのに数秒かかり、やがて顔が青ざめた。

 

「はあ!? いやいや、待てって、なんでそんな話になんだよ! 第一、俺には金が……」

 

「お金なんていらないよ」

 

「へ?」

 

 私は立ち上がり、彼の目の前で宣言した。

 

「ただ、食べてくれればいいの。……もう二度と、こんなところで倒れてほしくないから」

 

 デンジ君は瞬きを繰り返した。

 信じられない、といった顔だ。

 無理もない。無償の施しなんて、彼が生きてきた世界には存在しなかっただろうから。

 

「……まずは、お昼休み」

 

「え?」

 

「屋上に来て。……お弁当、持ってくるから」

 

 デンジ君は「弁当……?」と間の抜けた声を出し、それから恐る恐る尋ねてきた。

 

「……マジで? ドッキリとかじゃなくて?」

 

「マジだよ。這ってでも来てね」

 

 私が笑うと、彼は顔中の筋肉が緩んだような満面の笑みを浮かべた。

 裏表のない、太陽みたいな笑顔。

 

「行く! 絶対行く!」

 

 その笑顔を見届け、私はアパートを後にした。

 外の空気は雨上がりで澄んでいたけれど、私の心臓はまだ早鐘を打っている。

 お弁当なんて、作ったことないのに。

 ママに作り方を聞かなくちゃ。

 デンジ君は、どんなおかずが好きなのかな。

 とりあえず、冷蔵庫にあるもので、最高のものを作ろう。

 私の日常に、"デンジ君のためにお弁当を作る"という、新しくて甘酸っぱい予定が加わった。

 それは、どんな任務よりも重要で、胸が躍るミッションだった。

 

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