忘却の底で、君を待つ   作:冬獅郎

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時間の続き

 トントントン、という硬い木の音が鳴っている。

 鼻の奥に、飯の匂いが入ってきた。

 出汁の匂い。焦げた醤油と、魚の脂が焼ける匂い。

 

 重てえまぶたをこじ開ける。

 見慣れたボロアパートのシミだらけの天井。

 首を振るだけで、生温い風しか出さないオンボロの扇風機。

 だが、体を起こして台所の方を見た瞬間、息が止まった。

 

 そこに、エプロン姿の女が立っていた。

 

 髪を後ろで適当に束ねて、白い首筋が見えている。

 手慣れた様子で鍋をかき混ぜ、味見をして小さく頷く。

 

「……夢か?」

 

 声が勝手に漏れた。

 それに反応して、彼女が振り返る。

 

「あ、おはようデンジ君。やっと起きた?」

 

 レゼだ。

 幻覚じゃねえ。本物のレゼが、俺の汚い台所に立っている。

 甘い石鹸の匂いが、アパートの埃っぽい空気を完全に上書きしていた。

 

「な、なんで……いんの?」

 

「なんでって」

 

 レゼは当然のように味噌汁をお椀によそいながら言った。

 

「夏休みだからだよ」

 

 頭が回るまで、少し時間がかかった。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 三日前の終業式。

 クソ暑い教室で返された、期末テストの数学。

 赤い字で書かれた『42』という数字を見て、俺は机に頭を擦り付けた。ギリギリ赤点回避だ。

 これで夏休みの地獄の補習はねえ。日雇いのバイトに毎日入れる。

 

 放課後の図書室。

 冷房の効いた静かな空間で、ドヤ顔でその答案を見せた時だった。

 

「よかったね。これでバイトできるね」

 

 レゼは笑って、それからふと、少しだけ眉を下げた。

 

「でも、夏休みに入ったら屋上でお弁当も渡せないね」

 

「あー……まあ、昼は適当にコンビニのパンでも齧るわ。夜はマヨネーズ舐めりゃ死にはしねえし」

 

「だめ」

 

 強い口調だった。

 彼女の緑の目が、真っ直ぐにこっちを見る。

 

「朝と夜は私が家に行って作る。お昼はお弁当を持たせてあげる」

 

 意味が分からなかった。

 

「は? ……いや、お前……自分の休みはどうすんだよ」

 

「これが私の夏休みの予定。……文句ある?」

 

 文句なんて、あるわけがない。

 毎日、朝も夜も、レゼが飯を作ってくれる。夢みたいな話だった。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 そんな都合のいい話が、現実に起こるなんて思ってなかった。

 あの時は、半分からかわれているのだと思っていた。

 まさか、本当に朝からアパートに押しかけてくるとは。

 

 ちゃぶ台の上には、湯気を立てる味噌汁と、焼けた塩鯖。そして炊きたての白米。

 冷蔵庫にはこんな上等なもんは入ってなかったはずだ。米も魚も、全部レゼが持ってきてくれたってことか。

 

「……ほら、冷めないうちに食べて」

 

 促されるまま、割り箸を割る。

 

「……いただきます」

 

 味噌汁を一口啜る。

 熱い汁が食道を通って、空っぽの胃袋に落ちていく。

 次に塩鯖。箸を入れると、パリッという音と一緒に脂が溢れ出した。

 身を白米と一緒に口へ放り込む。

 濃い塩気が、舌の上に広がる。

 

「……うめぇ」

 

「ふふ、よかった」

 

 レゼは向かい側に座り、頬杖をついてこちらを見ている。

 

 俺の部屋に、レゼがいる。

 飯を作ってくれて、俺が食うのを見て笑っている。

 これって、まるで新婚生活じゃねえか。

 

 俺の人生、今までクソみたいなことばっかりだったけど、ここにきて急にボーナスタイムに入ったのか?

 あとでデカい落とし穴があっても文句言えねえレベルだぞ、これ。

 

「……ごちそうさまでした」

 

 気づけば、米一粒残さず胃袋に叩き込んでいた。

 

「はい、これお昼ご飯」

 

 レゼは手際よく食器を重ねると、布で包んだ弁当箱を突き出してきた。

 ずしりとした重み。

 プラスチックの容器越しに、微かな温もりが掌に伝わってくる。

 

「今日もバイトでしょ。頑張ってね」

 

 弁当を受け取り、無意識に鼻の下を擦った。顔が熱い。

 

「……おう。サンキュな」

 

 玄関で靴を履き、錆びついたドアノブを握る。

 いつもなら気が重くなるだけの日雇いバイトも、今日は足が軽い。

 

「行ってきます」

 

 振り返ると、レゼが台所の奥から顔を出していた。

 エプロン姿。少し乱れた髪。

 

「行ってらっしゃい」

 

 胸の奥がギュッと締め付けられるような熱を抱えたまま、扉を押し開ける。

 息が詰まるような真夏の日差しの中へ、勢いよく飛び出した。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 バタン。

 

 重い扉が閉まる音。途端に、換気扇の低い唸りだけが六畳の空間に取り残された。

 

「……行ってらっしゃい、か……」

 

 誰もいない玄関のタタキへ向けて、唇だけを動かす。空気を震わせただけの音は、すぐに消えた。

 部屋に沈殿しているのは、焦げた醤油と魚の脂の匂い。

 

 流し台には、空になった茶碗が二つ。

 スポンジを握り、洗剤を泡立てる。蛇口から落ちる冷たい水が、指先から急速に体温を奪っていく。けれど、胸の奥の肋骨の下あたりには、さっきまで彼が座っていた場所から移ってきたような、重たい熱が燻っていた。

 

 早起きをして、エプロンを身につけ、料理を作って茶碗を洗う。ただのおままごとだ。

 ……でも、新婚生活みたいだと思ってしまってる自分もいる。その単語を想像するだけで、冷たい水に浸したはずの指先から、またじんわりと熱が戻ってくる。

 

 洗い物を終え、タオルで水気を拭き取る。窓ガラス越しに見下ろすと、目玉を焼くような強烈な陽射しの中、アスファルトの照り返しを受けて駅へ向かう、金髪の後頭部が見えた。

 

 バイト先のカフェ。場所は聞いていない。

 一人でこの部屋に取り残されると、急に肺が狭くなったように呼吸が浅くなる。もう少しだけ、彼の歩く軌跡を視界に入れておきたかった。

 

「……ちょっとだけ」

 

 エプロンを外し、ハンガーに掛ける。自分の服に着替えてドアノブを回す。

 ほんの少しの好奇心が、塞がったはずの傷口を無理やり抉じ開けることになるとも知らずに。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 アスファルトが焼ける匂い。

 陽炎が揺れる道を、私は彼の残り香を追って歩いていた。

 

 デンジ君は駅前の賑やかな通りを抜け、少し寂れたエリアへと入っていく。

 雑居ビルや、古い倉庫が並ぶ一角。

 

 彼が角を曲がり、ある細い路地に入った瞬間だった。

 私の足が、縫い止められたように動かなくなった。

 

 ──ここだ。

 

 心臓が、早鐘を打った。

 喉がひゅっと鳴り、空気が入ってこなくなる。

 

 目の前に広がる、薄暗い石畳の路地。

 湿った苔の匂い。

 古びたビル壁のシミ。

 

 デジャヴなんて生温いものじゃない。

 私の網膜は、この場所を鮮明に焼き付けている。

 

 前世。

 まだ私が爆弾の悪魔の心臓を持っていた頃。

 デンジ君と一緒に逃げるために、駅の改札を引き返し、花を持って走った道。

 

 そして、マキマと、その眷属であるネズミたちに殺された場所。

 

 視界が歪む。

 アスファルトの隙間から、今にも大量のネズミが湧き出してきそうな錯覚。

 

 耳鳴りがする。

 身体を貫いた、熱くて残酷な最期の感触。

 

「……っ」

 

 無意識に、自分の首元──チョーカーの上から喉を押さえていた。

 呼吸が浅くなる。

 指先が震える。

 

 怖い。

 ここは、私の処刑場だ。

 夢の終わり。希望の断絶点。

 

 引き返したい。

 逃げ出したい。

 

 けれど。

 路地の向こうに、見慣れた金髪の後ろ姿が見えた。

 デンジ君が、ある店の扉を開けて入っていく。

 

 目を見開く。

 震えが止まり、代わりに、信じられないという感情が胸を埋め尽くした。

 

 彼が入っていった店の看板。

 古びた木の扉に、手書きの文字。

 

 『二道』

 

 ──嘘でしょ。

 

 そこは、あの日。

 私がどうしても辿り着けなかった、約束の場所。

 

 死んでしまったせいで、彼を何時間も待たせてしまった、後悔の場所。

 

 どうして?

 どうして今の貴方が、ここにいるの?

 記憶のない貴方が、なぜ、よりにもよってこの場所を選んだの?

 

 運命なんて言葉じゃ片付けられない。

 まるで、あの日途切れた時間の続きを、一人で守っていてくれたみたいで。

 

 吸い寄せられるように、その店へと足を運ぶ。

 恐怖はもうなかった。

 あるのは、泣き出したくなるほどの愛おしさだけ。

 

 震える手で、ドアノブを回す。

 

 カランコロン。

 

 乾いたベルの音が、過去と現在を繋ぐように鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 足を踏み入れた瞬間、肌を焼くような路地裏の熱波とヘドロの臭気が、分厚い見えない壁に遮断される。

 冷房の効いた、ひんやりと重たい空気が全身を包み込んだ。

 深く焙煎されたコーヒー豆の焦げたような苦い匂いと、古い木材に染み付いたワックスの匂いが、干からびた鼻腔を満たしていく。

 

 外の殺人的な蝉時雨は、もう聞こえない。

 店内を支配しているのは、壁に掛けられた古びた柱時計が時を刻む、カチ、カチという規則正しい金属音だけだ。

 

 飴色に磨き上げられた床。

 ビロード張りの椅子。

 天井の木製ファンが、緩やかに冷たい空気を撹拌している。

 西日がステンドグラスを通して差し込み、空気中を舞う埃が、金色の粒子となってキラキラと漂っていた。

 

「いらっしゃいませー」

 

 カウンターの奥から、間延びした声が掛かる。

 聞き覚えのある、少し嗄れた、不器用な響き。

 

 心臓が跳ねる。

 

 入り口のマットの上に靴裏を縫い付けられたまま、視線を向ける。

 カウンターの中。

 サイフォンの赤いアルコールランプの光に照らされて、立っている影があった。

 

 真っ白なワイシャツ。

 身体にフィットした黒いベスト。

 そして、首元には少し歪んだ蝶ネクタイ。

 

 汗の染み込んだTシャツでも、着崩した制服姿でもない。

 布地の擦れる微かな音。グラスを磨く手の動き。

 少し猫背な姿勢は、紛れもなく彼そのものだ。

 

 デンジ君が、そこにいる。

 

 肺の空気が全部抜けて、新しい酸素の吸い込み方が分からなくなる。

 視界の端がぐにゃりと歪み、ステンドグラスの光が乱反射して目に刺さる。

 

 あの日。

 どうしても辿り着けなかった場所。

 『あのカフェで待ってる』という勝手な約束を結んで、私のことを信じて、一人で待っていてくれた場所。

 私は行けなかった。あの路地裏の暗がりで、永遠に彼を一人ぼっちにした。

 

 何時間待たせたのだろう。

 デンジ君はどんな顔をして、開かない扉を見つめていたのだろう。

 その取り返しのつかない空白の時間が、今、目の前にある。

 

「……あ?」

 

 入り口に立つ不審な気配に気づいたのか、彼が顔を上げた。

 逆光の中で、琥珀色の瞳が大きく見開かれる。

 

「……レゼ?」

 

 素っ頓狂な声。

 磨いていたグラスが、カタリと乾いた音を立ててカウンターに置かれた。

 

「お前、なんで……ここ……」

 

 その間の抜けた顔を見て、ようやく気管が開き、細い糸のような空気が肺に滑り込んできた。

 幻覚ではない。

 ここは、ただの日本の、夏の喫茶店だ。

 

 足が震える。

 一歩、また一歩。床板を軋ませながら、磁石に吸い寄せられるようにカウンターへ近づく。

 

「……デンジ君」

 

 名前を音にするだけで、喉の粘膜が焼け焦げそうに熱くなる。

 

「おい、大丈夫か? 顔色すげえ悪いぞ。熱中症か?」

 

 彼が慌ててカウンターから身を乗り出し、こちらのおでこに手を伸ばそうとする。

 そのごつごつとした手のひらの温度が近づいてくる気配だけで、目の奥から熱い液体が溢れ出しそうになる。

 

「ううん……違うの」

 

 必死に奥歯を噛み締め、首を横に振る。

 

「ただ、びっくりして。……デンジ君、ここで働いてたんだ」

 

「あ、ああ。まあな」

 

 彼は伸ばしかけた手を引っ込め、照れくさそうに鼻の下を擦った。そして、自分の窮屈そうな格好を見下ろす。

 

「マスターに拾ってもらってよ。けど、似合わねぇだろ? ……首のこれ、すげえ苦しいんだよな」

 

 首元の蝶ネクタイを指で引っ張り、首をぐるぐると回す。

 

「ううん」

 

 カウンターの一番端、壁際の丸いスツールに腰を下ろす。

 革張りの座面が、小さく沈み込んだ。

 

「すごく、似合ってるよ」

 

 カウンターの中に立つ彼は、不思議なほどその空間の空気に馴染んでいた。

 

「……へへ、そっか?」

 

 デンジ君は頬の筋肉を緩め、氷のたっぷり入ったピッチャーを傾けた。

 カラン、と氷が分厚いグラスにぶつかり、涼やかな音を立てる。

 

「ほら、水。外、ヤバいくらい暑かったろ」

 

 コルクのコースターの上に置かれたグラス。

 表面にびっしりとついた水滴が、重力に従ってツーッと滑り落ち、木のカウンターに小さな染みを作っていく。

 

「ありがとう」

 

 グラスを両手で包み込む。

 結露したガラスの刺すような冷たさが掌から神経を伝わり、沸騰しそうだった脳の温度を少しずつ下げていく。

 

 奥の厨房から、初老のマスターらしき人が豆を挽く低い機械音が聞こえるだけで、ホールには客の姿はない。

 

「……なんか、変な感じだ」

 

 不意に、デンジ君が呟いた。

 彼は濡れた布巾でカウンターの水滴を拭き取りながら、手元を見つめている。

 

「変な感じ?」

 

「ああ」

 

 彼は手を止め、入り口の分厚い木の扉と、こちらの顔を交互に見た。

 

「俺、ずっとここで……待ってた気がすんだよ」

 

 グラスを握る指先から、一気に血の気が引いた。

 

「レゼがそのドアを開けて入ってくるのを、何時間も、何日も……ずっと一人で待ってたような……そんな気がする」

 

 彼は自嘲するように鼻で笑い、自分の胸元を軽く叩いた。

 

「わりぃ、変だよな。……多分なんかの夢だ、忘れてくれ」

 

 鼓膜の奥で、激しい耳鳴りが鳴り始めた。

 視界の輪郭が、ぐしゃりと音を立てて崩れていく。

 

 覚えているわけがない。

 今の彼には、あの血塗られた前世の記憶など一欠片も残っていないはずだ。

 

 なのに。

 脳ではなく、もっと深い、魂の底のような場所で、置き去りにされたあの日の時間を、引きずり続けていた。

 来ない私を、信じて。

 

 喉の奥から、何か熱い塊がせり上がってくる。

 鉄の味がするほど強く下唇を噛み締め、両目で天井のファンを睨みつけた。

 瞬きをすれば、すべてが決壊してしまう。

 

「お、おい! どうした!? なんか腹いてえのか!?」

 

 異変に気づいたデンジ君が、狼狽えた声を上げる。

 おろおろと布巾を持ったまま手を泳がせる姿が、視界の端でぼやけて揺れる。

 

 シャツの袖口で、乱暴に目元を擦った。

 摩擦で皮膚がヒリヒリと痛む。

 

「ううん……」

 

 無理やり口角を引き上げ、声帯を震わせる。

 

「外が暑すぎて、ちょっとクラッときただけ。……注文、いい?」

 

「マジで大丈夫か? しんどかったら言えよ。……何飲む?」

 

「マスターのオススメをひとつ」

 

「了解」

 

 彼が奥へオーダーを通す。

 カチャカチャと陶器が触れ合う音。お湯が沸騰する低い音。

 そのすべてが、鼓膜を優しく撫でる。

 

 頬杖をつき、彼が働く背中を見つめる。

 白いシャツ越しに動く肩甲骨。あの頃よりも、少しだけ骨格が太くなった背中。

 

 私は、あの路地裏で死ななかった。

 デンジ君は、一人で待ち続けずに済んだ。

 今、ここで扉を開けて、彼の姿を見てコーヒーを待っている。

 

 けれど。

 これ以上の奇跡を望めば、必ずしっぺ返しが来る。

 私のような人間が、この温かい光の中に長居してはいけない。

 デンジ君の中に、私という存在を"綺麗な思い出"として完全に焼き付けて、終わらせる。

 

 数分後。

 白い湯気を立てる陶器のカップが、目の前に置かれた。

 

「おまたせ」

 

 ソーサーの上で、黒い液体が小さく波打っている。

 小さなピッチャーからミルクを注ぎ、角砂糖を二つ落とす。

 銀色のスプーンでゆっくりと回すと、黒と白が混ざり合い、渦を巻いた。

 

「ねえ、デンジ君」

 

「ん?」

 

 彼はカウンターに肘をつき、こちらを見ている。

 

「今度の週末、空いてる?」

 

「週末? まあ、バイト休みだけど……なんかあんのか?」

 

 スプーンをソーサーに置き、彼の琥珀色の瞳を真正面から射抜く。

 

「隣町で、お祭りがあるの。花火も上がるんだって。……私と一緒に行かない? デート、しよ?」

 

 柱時計の音が、三回、空間を叩いた。

 

 デンジ君は口を半開きにしたまま、瞬きを忘れたように固まっている。

 やがて、その白い頬から首筋、そして耳の先まで、一気に沸騰したように赤く染まっていった。

 

「デ、デートぉ!?」

 

 店内の空気をビリビリと震わせる、裏返った大きい声。

 奥でマスターがくすりと笑う気配がした。

 

「ま、マジかよ! 俺と!?」

 

「うん。……嫌?」

 

 少しだけ上目遣いを作ると、彼は首がちぎれそうな勢いで横に振った。

 

「嫌なわけねーだろ! 行く! 絶対行く!」

 

 カウンターから身を乗り出し、鼻息を荒くする姿。

 胃の底で重く渦巻いていた泥のような感情が、少しだけ熱に溶けていく気がした。

 

「よかった。……楽しみにしてるね」

 

 カップを持ち上げ、縁に唇を当てる。

 甘くて、温かくて、舌の根に少しだけ焦げたような苦味がへばりつく。

 カフェの静かな空気の中で、花火の火薬の匂いが、幻覚のように微かに鼻先を掠めた気がした。

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