忘却の底で、君を待つ   作:冬獅郎

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バイバイ

 剥き出しの首筋に、茹で上がるような生温い風がまとわりついてくる。

 夕闇が空の端からじわじわと群青色を広げ、赤錆びた鳥居の影をアスファルトの上に長く引き伸ばしていた。

 遠くからヒグラシの鳴き声が、耳鳴りのように鼓膜を震わせている。それに混じって、ドスンドスンと腹の底を直接叩くような祭囃子の太鼓の音が、風に乗って一定のリズムで流れてきていた。

 

 神社の入り口。狛犬の石座の横に背中を預け、行き交う人波を視界の端で追う。

 下駄の音。うちわの骨が軋む音。安い香水と、汗の匂い。

 すれ違う連中は皆、誰も彼もが浮き足立った熱を帯びていて、その平和な熱気が逆に内臓をヒリヒリと焼き付ける。

 

 シャツの襟元を指で引き剥がす。

 今日のためにこっそり買った、手持ちの中で一番マシな服。

 着慣れない硬い生地が汗を吸って首筋に擦れ、ひどく窮屈だ。

 ズボンのポケットには、安い革財布が沈んでいる。

 必死に働いて稼いだバイト代がパンパンに詰まった、ずっしりとした重み。

 その質量だけが、フワフワと宙に浮き上がりそうになる足元を、かろうじてアスファルトに縫い止めていた。

 

 カラン、コロン。

 

 雑踏のノイズを切り裂くように、硬い木底が石畳を打つ音が響いた。

 

 視線を上げる。

 群衆が、まるで目に見えない波に押し退けられるように、自然と道を空けていく。

 その人波の真ん中を、藍色の布地が滑るように近づいてきた。

 

 呼吸が、止まった。

 

 深い藍色の浴衣。そこに散らされた白い朝顔の模様が、神社の参道を照らす裸電球の光を吸って、暗闇の中で浮き上がっている。

 きつく締められた帯。そこから伸びる、折れそうなほど細い首筋。

 うなじにかかる黒い後れ毛が、汗で微かに濡れて艶めかしい光を放っていた。

 透き通るような白い肌と、首に巻かれた黒い革のチョーカー。

 

 ──超、くそ可愛い。

 

 脳髄が痺れ、祭りの喧騒が完全に遠のいていく。

 

「……待った?」

 

 すぐ目の前。

 鼻先を、冷たい外気を孕んだような甘い石鹸の香りが撫でる。

 周囲の熱気ごと遮断するような、澄んだ声。

 翡翠の瞳が、少しだけ小首を傾げてこちらを見上げている。

 

「……いや。今来たとこ」

 

 声が裏返りそうになるのを、喉の奥にグッと力を込めてねじ伏せる。

 口の中がカラカラに乾いている。唾を飲み込む音が、やけに大きく頭蓋骨の中で響いた。

 

 レゼがふわりと微笑む。

 途端に、鳥居の向こうで光る祭りの明かりが、目玉が痛くなるくらい一気に眩しく弾けた。

 

 鳥居をくぐり、境内の人混みへ足を踏み入れた直後。

 どっと押し寄せる人の波。

 すれ違う見ず知らずの他人の肩が、彼女の細い肩にぶつかりそうになる。

 

 はぐれてしまう。

 

 その無意識の焦りから、隣を歩く藍色の袖へ向かって、自然に右手が動いた。

 だが、布を掴むより先に。

 ひんやりとしたやわらかい感触が、手の甲に触れた。

 視線を落とす。

 俺が手を伸ばすのと全く同じタイミングで、彼女の白い指先がこちらへ伸びてきていた。

 

 触れ合う指先。

 どちらからともなく、ゆっくりと裏返る掌。

 冷え切った細い指が、吸い付くように指と指の隙間へとするりと滑り込んでくる。

 

 ギュッ、と。

 微かな力で、互いに握り返した。

 それだけで、皮膚の下の血管が沸騰したようにドクドクと脈打ち始める。

 頭に血が上って、視界がグラグラと揺れた。

 途端に、周りの景色が一気に極端な輪郭を持って迫ってくる。

 頭上の無数の提灯が、バカみたいに赤々と光っている。

 鼻を突く鉄板の焦げた匂いも、甘ったるい綿菓子の匂いも、むせ返るような人混みの生温かい熱気も、今の俺には全部が最高に心地よかった。

 

 一ヶ月前まで、口にするものなんてパンの耳と錆びた水道水くらいだった。

 毎日が薄暗くて、カサカサに乾いていた。

 それが今はどうだ。

 目が眩むような屋台の明かり。腹の底に響く太鼓の音。

 右手に繋がれた、やわらかくて冷たい体温。

 すぐ隣で、世界で一番可愛い女の子が、ピッタリと歩幅を合わせて歩いている。

 

「……デンジ君、見て」

 

 繋いでいた右手が、クイッと引っ張られた。

 やわらかい力に引かれるまま視線を落とすと、青いビニールシートが張られた水槽があった。

 裸電球に照らされた水面の下で、無数の赤い影が蠢いている。

 

 並んでしゃがみ込む。

 繋いでいた手が離れ、空気に触れた掌が少しだけ冷たくなる。

 水の冷気が火照った顔に触れた。

 店番のババアから、薄い紙の貼られたポイを受け取る。

 水槽の中を覗き込むと、自分の間抜けな顔と、隣で楽しげに目を細める彼女の顔が、揺れる水面に並んで映り込んだ。

 

 紙を水に浸す。

 狙うのは、尾ひれの長い、ひときわデカい赤いヤツ。

 息を詰め、ゆっくりと、水流を起こさないように下から近づける。

 

 紙が水を含んで、ずしりと重くなる感触。

 引き上げようとした瞬間、赤い影が激しく跳ねた。

 ピチャリと水飛沫が上がり、無惨に破れた紙枠だけが、虚しく空を切る。

 

「……へたくそ」

 

 隣から、くすりという押し殺したような笑い声が降ってきた。

 見れば、彼女のポイはまだ水に濡れてすらいない。

 白い指先が、滑らかに動く。

 狙いを定めた瞬間、翡翠の瞳がすっと細まり、バカでかい祭りの喧騒がスッと遠のいた気がした。

 

 手首が返る。

 水音すら立てずに、赤い金魚が宙を舞い、手元のお椀へと吸い込まれていく。

 

 一匹、二匹。

 薄い紙が破れる気配が全くねえ。

 手首のわずかなスナップだけで、面白いように赤い塊が掬い上げられていく。

 

「……はい」

 

 三匹目の金魚を掬い上げると、満足げに微笑んで、紐のついたビニール袋を差し出してきた。

 

「あげる」

 

 目の前で、赤い尾ひれが揺れている。

 薄いビニール越しに伝わる水の重みと、痛いほどの冷たさが、汗ばんだ掌に心地よい。

 

「……俺にかよ」

 

「うん。デンジ君、欲しそうな顔してたから」

 

 違う。俺が取って、レゼにあげたかったんだ。

 情けねえ本音は喉の奥に張り付いて、うまく音にならない。

 言葉に詰まって間抜けな顔を晒していると、彼女は悪戯っぽく笑い、ふわりと立ち上がって先を歩き出した。

 

 人混みの中に紛れそうになる藍色の背中。

 急に離された右手がひどく頼りなく感じて、慌てて冷たい水袋を握りしめ、その背中を追った。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 射的の屋台の前。

 古びた木の匂いと、火薬のツンとした匂いが鼻を突いた。

 レゼがひょいとコルク銃を構える。

 迷いなく引き金が引かれた。

 パンッ、と乾いた破裂音。一番上の棚にあった小さな景品が、あっさりと音を立てて吹き飛んだ。

 

「……これも、あげる」

 

 親父から受け取った青いハンカチを、彼女は当たり前のようにこちらの胸元へ押し付けてくる。

 

「お前、自分の分はねえのかよ」

 

「私はいいの。デンジ君が持ってる方が、似合うから」

 

 屋台の強烈な裸電球が逆光になって、顔が見えねえ。

 言葉の真意を考える暇もなく、また藍色の袖に引っ張られる。

 鉄板でソースの焦げる匂いに釣られ、焼きそばとたこ焼きの屋台に並んだ。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 神社の石段の端に並んで腰を下ろす。

 プラスチックのパックから立ち上る猛烈な湯気が、二人の顔を隔てる。

 安っぽい木の割り箸を割り、口いっぱいに頬張った。

 濃いソースと豚肉の脂、それに紅生姜の強烈な酸味。胃袋が内側からガツンと熱くなる。

 

 隣を見ると、レゼが爪楊枝に刺したたこ焼きをふーふーと吹いていた。

 熱いのだろう、時折「はふっ」と白い息を吐き出しながら、リスみたいに頬を膨らませて咀嚼している。

 

 すげえ、可愛い。

 横顔に見惚れていると、不意に、ソースまみれの丸い塊が目の前に突き出された。

 

「ん。食べる?」

 

 爪楊枝を持つ白い指先。

 顔が、異常に近い。

 ソースの匂いに混じって、甘い石鹸の香りが鼻先を掠める。

 コクンと首を縦に振ると、熱々の塊がそのまま口の中へ放り込まれた。

 

「あっつ! ほふっ、はふっ」

 

 口の中の粘膜が焼けるように熱い。舌の上で転がして無理やり飲み込むと、食道を通って胃の底に重たい熱が落ちていく。

 レゼが声を上げて笑った。

 

「あはは、熱かった? ……ねえ、焼きそばも一口ちょうだい?」

 

 自分の持っていた割り箸で、適当に麺を掴む。

 そっと差し出すと、彼女が身を乗り出してきて、ちいさな口でパクリと吸い込んだ。

 赤い唇に、ソースの艶が光る。咀嚼して、満足そうに喉を鳴らした。

 

 ……さっきまで、俺が口をつけていた割り箸だ。

 

 その事実に気づいた瞬間、一気に全身の血が沸騰して、顔面から火が出そうになる。

 

 美味い。

 脳髄が痺れるほど美味い。

 自立支援のわずかな金で、半額のパンの耳を水道水で流し込んでいた飢餓の日々が、遠い前世の記憶のように霞んでいく。

 こんな美味いものを食いながら、すぐ隣で、世界で一番好きな女の子が息をしている。

 心臓の音が、祭りの太鼓よりも大きく、速く、身体の中で反響していた。

 

 もし、これが夢なら絶対に覚めないでくれ。

 明日も、明後日も、十年後も。

 下らない話をしながら、こうして肩を並べていたい。

 

 ふと、隣の気配が動いた。

 レゼが、真っ暗な夜空を見上げている。

 提灯の赤い明かりが、宝石みたいな翡翠の瞳の中で揺れていた。

 見惚れるくらい綺麗だ。

 なのに、すぐ隣で肩の熱を感じているはずなのに、急に手すら届かないくらい遠くへ行っちまいそうな、妙に冷たい空気がその横顔に張り付いていた。

 

 空のパックをビニール袋に押し込む。カサッ、と鳴った乾いた音。

 それにビクンと肩を揺らして、彼女がこちらを向いた。

 いつもの、ふわりとした笑顔に戻っている。

 

「……行こっか、デンジ君」

 

 立ち上がり、こちらを見下ろしてくる。

 

「あ? どこにだよ。まだ屋台全部回ってねえぞ」

 

「花火。……いい場所、知ってるの」

 

 すっと、白い手が目の前に差し出される。

 

「誰もいなくて、静かで、ここよりずっと綺麗に見えるとこ」

 

 差し出された白い手。

 闇への道標。

 拒む理由など、どこにもない。

 その手を取り、立ち上がる。

 掌から伝わる彼女の体温は、夏の夜だというのに、氷のように冷たかった。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 祭りの太鼓の音が、背後でくぐもって遠ざかっていく。

 神社の裏手から丘へと続く、細い砂利道。

 足を踏み出すたびに、ジャリ、ジャリと硬い音が響く。

 草いきれと、湿った黒い土の匂いが立ち込めている。

 

 境内の明かりはもう届かない。

 灯りは遠くの街灯だけ。

 足元がおぼつかないほどの闇の中を、レゼが強く手を引いていく。

 先導するレゼの足取りは軽くて、歩幅に一切の迷いがない。

 前もろくに見えない暗闇だというのに、繋がれた冷たい手だけが、躊躇なく確実に腕を前へ引っ張り続けていた。

 

 丘の頂上。

 赤く錆びついた手すりのある、小さな展望台に出た。

 視界が急に開ける。

 眼下には、小さく縮んだ屋台の赤い明かりと、どこまでも続く真っ暗な住宅街が広がっていた。

 冷たい風が通り抜ける。

 汗ばんだ肌の熱を奪い、祭りの熱気で茹で上がっていた頭の芯を、静かに冷やしていく。

 

 レゼが赤錆びた手すりに寄りかかり、夜空を見上げた。

 隣に並んだ。

 少し身動きするだけで藍色の袖が擦れ合う、息が詰まりそうになる。

 

 下の方から、空気を裂くような音がした。

 

 ヒュルルルル……。

 

 見えない何かが真っ暗な空へ一直線に駆け上がっていく。

 直後。

 

 ドォォォォン!!

 

 腹の底を直接殴られたようなでっけえ音と一緒に、頭の上の真っ暗な空で、バカでかい光の花が弾けた。

 赤、緑、黄色。

 目玉が痛くなるくらい明るい閃光。

 その光が、隣で見上げているレゼの横顔を真っ白に照らし出して、一瞬で元の暗闇に飲み込んでいく。

 

「……綺麗」

 

 微かに震える声。

 その瞳に映る花火が、滲んだ涙で乱反射し、揺らいで見える。

 

 ドクン、と。肋骨の中で心臓がバカみたいに大きく跳ねた。

 

 今しかない。

 この光が消えてしまう前に。

 この夏が、この夜が終わってしまう前に。

 喉の奥でつっかえている熱の塊を、言葉の形にして吐き出さなきゃいけない。

 

「……レゼ」

 

 自分の声じゃねえみたいな、掠れた、ひどく不格好な音が出た。

 腹の底にグッと力を込める。

 降り注ぐ花火のでっけえ音に、かき消されないように。

 

「俺、お前のことが好きだ」

 

 レゼの細い肩が、ビクリと跳ねた。

 ゆっくりと、こちらを向く。

 逆光で表情は見えない。

 ただ、その緑の瞳だけが、暗闇の中でこちらを真っ直ぐに射抜いている。

 

「飯作ってくれるとことか、勉強教えてくれるとことか、そういうのもあるけど……そうじゃなくて」

 

 俺の脳みそじゃ、気の利いたセリフなんて出てこない。

 かっこつける余裕なんて、最初から一ミリもなかった。

 

 それでも。

 

「俺は、レゼが隣にいるだけで……心臓がうるさくて、生きてるって感じがすんだよ。……だから、これからもずっと、俺のそばにいてくれ」

 

 頭上で、連続して花火が炸裂する。

 パパパパンッ、という破裂音。

 チカチカと点滅するバカみたいに明るい光の中で、レゼの顔がはっきりと浮かび上がる。

 

 泣いていた。

 白い頬を伝う雫が、光を反射して宝石のように輝いている。

 けれど、その唇は微かに弧を描き、この世の何よりも美しく、微笑んでいた。

 

「……ありがとう、デンジ君」

 

 鈴を転がすような、澄んだ声。

 

「私も、デンジ君のことが好きだよ」

 

 心臓が跳ね上がる。

 全身の血が一気に沸騰して、頭の先まで駆け上った。

 

「ほんとか!?」

 

「うん。……本当に、大好き」

 

 たまらなくなって、目の前の細い肩めがけて勢いよく一歩、前へ踏み出す。

 

 だが。

 ザリッ、と。

 

 足元の砂利が鳴り、彼女が一歩、後ろに下がった。

 伸ばしかけた右腕が、空中で行き場をなくす。

 

「……でも、ごめんね」

 

 頭に上っていた熱が、首の裏からスーッと引いていく。

 

「……え?」

 

「君とは、付き合えないよ」

 

 淡々と。

 

「……なんでだよ。好きだって言ったじゃねえか」

 

「私、引っ越すの。パパの仕事の都合でね。……もう決まってたことなの。すっごく遠いところ。……もう、会えないくらい遠いところ」

 

 鼓膜の奥で、キーンという甲高い耳鳴りが鳴り始めた。

 

 引っ越し。会えない。

 

 耳に入ってきた言葉が、ちっとも頭の芯に届かない。

 

「嘘だろ……? 遠くたっていいじゃねぇか、電話とかあるしよ……。それに、バイトして会いに行くし、俺が卒業したらそっちに……」

 

「ううん、ダメなの」

 

 レゼが小さく首を振った。

 その翡翠の瞳から、スッと温度が消える。

 これ以上は絶対に踏み込ませないと伝えてくる、ひどく冷たくて硬い目。

 レゼはスッと手を伸ばし、俺の右手の小指に、自分の冷え切った小指を絡めてきた。

 

 あの図書室での、指切りの形。

 

「覚えてる? あのお願い」

 

 ──『壺以外なら、何でも聞いてやるよ』

 

 首筋から背中にかけて、じっとりと嫌な汗が流れ落ちる。

 

「私のことは全部忘れて。……それで、この街で、他の誰かと幸せになって。……それが、私のお願い」

 

 血管の中で、どす黒い熱が逆流する。

 

「……出来るわけ、ねぇだろ……」

 

 喉が引き攣って、うまく息が吸えない。

 

「初めてだったんだぞ……。飯作ってもらったのも、看病してもらったのも……全部、お前が初めてだったんだ!」

 

 泥水しか知らなかった毎日に、美味い飯と、あったけえ体温を教えてくれた。

 誰かと笑う楽しさを、教えてくれた。

 

 それなのに。

 

「全部チャラにして、のうのうと幸せになれってか!? 出来るわけねぇだろ!!」

 

 喉が張り裂けそうなくらい叫んだ。

 けど、レゼの表情は微塵も動かない。

 泣きそうな、でも優しい顔で笑いながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。

 

「……ごめん。ごめんね、デンジ君」

 

 冷たい両手が、頬を挟み込んだ。

 鼻先を、あのコインランドリーで嗅いだ甘い石鹸の匂いが掠める。

 唇に、やわらかいものが押し当てられた。

 熱くもなく、甘くもない。ただ体温の移動だけを知らせる、ひどく薄っぺらくて冷たい接触。

 

「……バイバイ」

 

 押し当てられていた温度が消える。

 藍色の浴衣が、真っ暗な闇に沈んでいく。

 

 カラン、コロン。

 

 下駄の硬い音が、砂利道に乾いた反響を残して遠ざかっていく。

 

 行くな。

 待ってくれ。

 

 頭の中では叫んでいるのに、足の裏が地面に癒着したみたいに、指一本動かせない。

 肺の空気が全部抜けて、呼吸の仕方がわからない。

 ただ、唇に残るわずかな感触だけが、異常な熱を持って頭蓋骨の内側をジリジリと焼き焦がしていく。

 

 行ってしまう。いなくなってしまう。

 

 頭上で、無数の花火が連続して炸裂する。

 バカみたいに明るくてうるさい世界の中で、遠ざかっていく藍色の背中だけが、ひどく鮮明に焼き付いた。

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