忘却の底で、君を待つ   作:冬獅郎

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忘却の底から

 踵を返す。

 視界の端から、デンジ君の輪郭が滲んで消える。

 それだけで、世界の色が彩度を失い、ただの蒸し暑い、ありふれた夏の夜の闇へと戻っていくのを感じた。

 

 下駄がアスファルトを擦る。

 鼻緒が指の股に食い込む痛みだけが、かろうじて私をこの現実に繋ぎ止める頼りない楔だった。

 

 背中が焼けるように熱い。

 視線を感じる。

 

 彼はまだ、そこに立っているのだろうか。

 呆然と地面を見つめ、裏切られた痛みに顔を歪めているのだろうか。

 

 振り返りたい衝動が、喉元までせり上がる。

 今すぐにでも踵を返して、その大きな胸に飛び込んで、力の限り抱きしめたい。その不器用な熱に溶けてしまいたい。

 

 けれど、血が滲むほど奥歯を噛み締めてそれを殺す。

 ここで振り返ってしまえば、積み上げてきた嘘も、覚悟も、すべてが崩れ落ちてしまう。

 

『俺、お前のことが好きだ』

 

 彼の声が、耳の奥にこびりついて離れない。

 ただ真っ直ぐにぶつけられた、飾り気のない無骨な言葉。

 

 嬉しかった。

 

 前世では、私が彼を誘導し、無理やり言わせてしまったようなものだったから。彼自身の意志で、彼自身の言葉で紡がれたそれが、たまらなく愛おしかった。

 

 しかし、その純粋すぎる熱情は、私への甘い告白であると同時に、決して触れてはいけない猛毒のように、内臓をじわじわと焼き焦がしていく。

 誰も彼を殺そうとしないこの平和な世界で、彼が初めて知った、誰かを想う純粋な熱。

 この世界のデンジ君にとっては、これが"初めて"の恋なのだろう。

 

 けれど、私にとっては違う。

 これは"二度目"だ。

 一度目の生で、私が彼に与えたのは、偽りに塗れた愛の言葉と、甘いひと夏の青春と、抜け出せない恋の罠、そして死だった。

 今の穏やかな日々は、その罪の上に築かれた砂上の楼閣に過ぎない。

 

 償いにもならない、ただの自己満足。

 だから、これでいい。

 これ以上彼を汚さないよう、綺麗な思い出のまま消え去ること。それだけが、もう二度と彼を壊さないための唯一の方法だった。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 この世界に生まれ落ちてから、流れる時間はひどく穏やかで、柔らかかった。

 

 毎朝、豆を挽く低い音と、少し焦げたような珈琲の匂いで目が覚める。

 休みのたびに、不器用な日曜大工に精を出す父親。肩車をされた時に鼻先をかすめる、日向の匂いがする綿シャツ。絵本のページをめくる指はごつごつと太く、頭を撫でてくれる掌はいつも重くて、温かかった。

 キッチンからは、かすかな鼻歌が途切れなく聞こえてくる。オーブンから漂う、バターと砂糖が熱される甘い匂い。母親の柔らかなセーターに飛び込むと、ふわりとバニラと清潔なタオルの香りがした。細く涼やかな指先が、毎朝時間をかけて、鏡の前で髪を編み込んでくれる。

 

 三人で手を繋いで歩く、公園の青々とした芝生の匂い。

 石畳で転んで膝を擦りむけば、大げさなほど心配する二つの声が降ってくる。泥を払ってくれる大きな手と、可愛らしいキャラクターの柄がプリントされた絆創膏。

 痛みを誤魔化すように、口の中に放り込まれる甘いキャンディー。舌の上で溶ける、苺の甘ったるい味。

 

 学校へ行き、退屈な授業のチャイムを聞き、帰れば湯気を立てる夕食が待っている。

 ただそれだけの、ありふれた、けれどひどく満たされた日々。

 それが、世界のすべてだと思っていた。

 

 ──けれど。

 

 その穏やかな幸せの底に、時折、ひどくリアルで生臭い悪夢がぱっくりと口を開けていた。

 人の理解を超えた『悪魔』という異形が跋扈する狂った世界。

 その夢の中では、甘い焼き菓子の匂いなどしない。鼻腔を焼くのは、濃密な血の匂いと、ツンと鼻を突く硝煙の臭いだけ。

 

 自分の手が首元に伸び、そこに生えている金属のピンに指をかける。

 ためらいもなく、それを引き抜く。

 火花。

 鼓膜を破る爆発音とともに、自らの頭部が熱に包まれて吹き飛ぶ。

 なめらかな人間の皮膚が焼け落ち、黒く硬い装甲へと変貌していく、悍ましい感覚。

 

 爆弾の怪物。

 それが夢の中での、私の姿だった。

 

 ひんやりとした重い銃身が、吸い付くように手のひらに馴染む感触。

 ピンを引き抜いた瞬間の、指先に伝わる僅かな抵抗と金属の擦れる音。

 爆風とともに人間の肉が弾け飛び、ねっとりとした生温かい血の雨が、全身に降り注ぐ光景。

 耳の奥にこびりついて離れない、命が消える瞬間の断末魔。

 

 最初は、ただのタチの悪い夢なのだと自分に言い聞かせた。

 けれど、ひどい寝汗をかいて柔らかいベッドで目覚めた後も、両手に生々しく残る命を奪った時のずっしりとした重みと、指の間にまとわりつく血の粘り気が、どうしてもただの幻だとは思えなかった。

 洗面台に向かい、石鹸で何度手を洗っても、その匂いは決して消えない。

 

 痛くもない。怖くもない。寒さに震えることも、飢えに苦しむこともない、温かい現実。

 それなのに、夢の中の絶望と暴力の感触の方が、今の陽だまりのような生活よりもずっと、この身体の奥底に馴染んでしまう。

 

 やがて、それが単なる想像の産物などではなく、自分がかつて歩んだ、血塗られた前世の記憶なのだと気づいてしまった。

 その事実を決定的に悟った朝。

 洗面台の鏡の前に立ち、何もない滑らかな自分の首筋を見つめた。

 指を這わせると、そこにあるはずのない冷たいピンの感触が、幻影として指先に蘇る。

 

 この甘く温かい世界に完全に溶け込んでしまえば、自分がかつて大量の命を奪い、誰かの未来を無惨に引き裂いたという罪の重みすら、都合よく忘れてしまう気がした。

 それは、奪われた命に対する最大の冒涜だ。

 

 だから、分厚く硬い黒革のチョーカーを手に入れ、自分の首にきつく巻いた。

 冷たい留め具の金属がうなじに触れ、革の縁が柔らかい皮膚に食い込む。

 息を飲み込むたびに感じる、微かな圧迫感と息苦しさ。

 それは、無防備な幸せを享受しようとする自分自身への罰であり、内なる人殺しの怪物を決して目覚めさせないための、見えない鎖だった。

 

 それ以来、子供らしい無邪気な言葉は完全に消え失せた。

 これほど優しく善良な両親が愛しているのは、彼らが思い描く理想の娘であって、殺人兵器の魂が寄生した薄汚れた異物ではない。

 その決定的な断絶が、世界と私の間に分厚い防弾ガラスを降ろした。

 

 教室に充満する、チョークの粉の匂い。

 他愛のない笑い声や、放課後の娯楽の話題が飛び交う空間は、鼓膜を塞ぎたくなるほど息苦しかった。

 

 この血塗られた手で、誰かの温かい手に触れることなど許されない。

 だから、誰とも関わりを持たないようにした。

 

 話しかけられても、当たり障りのない相槌だけを打つ。休み時間は常に窓の外の流れる雲を見つめ、ただ無為にチャイムが鳴るのを待った。

 どうせここは、私にとっての偽物の世界だ。

 誰も彼もが、明日が来ることを疑いもしない。

 無邪気な笑い声が鼓膜を揺らすたび、自分の皮膚の下に巣食う、血生臭い怪物の輪郭だけが残酷なほど色濃く浮き彫りになっていく。

 

 平和な世界は、たしかに望んでいたはずだった。

 温かい夕食も、柔らかなベッドも、すべて手に入れた。けれど、満たされれば満たされるほど、硬いチョーカーが首に食い込み、胸の奥には冷たい隙間風が吹き込む巨大な"穴"が空いていった。

 

 なぜ、こんなにも息苦しいのか。

 その穴の正体には、とうに気づいていた。

 

 どうしても辿り着けなかった、あの日のカフェでの待ち合わせ。

 血と暴力にまみれた前世の中で、唯一私に差し出された、彼と過ごした極彩色の世界。

 兵器としての使命も、自らの命すらもすべてを投げ打ってでも一緒に逃げたかった、あの少年への癒えない渇望だけが、この身体を内側から焼き焦がしていた。

 

 もし、前世で彼と出会っていなければ。

 この心に、こんな修復不可能な穴など開かなかったのかもしれない。血塗られた怪物の記憶を抱えながらも、精巧な偽物として、この平和な世界を何食わぬ顔で生き抜くことができたのかもしれない。

 

 けれど、一度知ってしまったあの世界の色は、決して消えることはない。

 そして、もう二度と見ることはない。

 

 一度死んで生まれ変わったこの二度目の人生で、そんな都合の良い奇跡が起きるはずがない。とっくに諦め、絶望の底に沈んでいた。

 

 ──あの日。六月の、まとわりつくような湿気に満ちた教室の扉を開けるまでは。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 重い引き戸を引き開けた瞬間。

 澱んだ空気と、三十人の退屈そうな視線が突き刺さる中、窓際の一番後ろの席。

 

 気だるげに机に突っ伏していた金髪が、教師のくぐもった声に反応して、ゆっくりと持ち上がった。

 

 翡翠と、琥珀。

 

 視線が空中で完全に絡み合った瞬間、教室の喧騒も、扇風機の回る音も、周囲の三十人の息遣いも、すべてが消失した。

 世界中の時間が、凍りついた。

 心臓が、肋骨を内側から叩き割るほどの勢いで、激しく跳ね上がる。

 

 デンジ君。

 見間違うはずがない。

 私の人生を狂わせ、私を殺し、そして私が愛した唯一の男の子。

 

 彼もまた、この平和な世界に生きていたのだ。

 目が合った瞬間、首を締め付けていた革の息苦しさが吹き飛び、私の中の暗い"穴"が、凄まじい音を立てて熱で満たされていくのを感じた。

 

 今すぐ駆け寄り、その名前を呼びたくなる。

 その手を取って、抱きしめたい。もう二度と離れないように。

 

 けれど、弾けそうになった歓喜を、目に見えない無数の冷たい手が鷲掴みにして、無理やり現実に引きずり下ろした。

 

 近づいてはいけない。

 

 冷ややかな理性が、脳の奥で強烈な警鐘を鳴らした。

 彼は、前世の血塗られた記憶を何一つ持っていない。

 あの地獄のような殺し合いの痛みも、私が彼の心臓を狙った敵であるということも。

 ただの、少し口が悪くて、不器用な高校生として、この平和な世界に根を下ろそうと必死に息をしているのだろう。

 そのささやかで無防備な平穏を、私が壊すわけにはいかない。

 私は爆弾だ。人殺しの化け物だ。不用意に近づけば、必ず彼を傷つけ、血で汚してしまう。

 

 だから、赤の他人のふりをして、遠くからその横顔を眺めるだけでいい。そう決めていた。

 

 ──なのに。

 

 鉄線で幾重にも縛り上げたはずの決意は、彼を前にしてあっさりと崩れ去った。

 

 六月の、じっとりとした熱気が淀む屋上。給水塔の裏。

 誰にも見つからないよう一人で息を潜めていた私の領域に、半額シールの貼られた焼きそばパンを鷲掴みにして、土足で踏み込んできたあの日。

 震える私の手から不格好なおにぎりをひったくり、破れた海苔を不器用に巻き直して無造作に突き返してきた、あの粗野な優しさ。

 

 深夜のコインランドリー。

 粉っぽい洗剤の匂いが充満する、冷房の効いた無機質な空間。

 私の首筋に強引に顔を近づけ、『いい匂いがする』と、私がひた隠しにしていた目に見えない罪の匂いごと、その全てを全肯定してくれたあの夜。

 

 気づけば、彼と過ごす他愛のない時間のために、不器用な嘘を重ねるようになっていた。

 

 気づけば、誰も寄せ付けなかったはずのこの身体が、理性を超えて彼の体温を求めてしまっていた。

 

 気づけば、血塗られた前世の罪すら忘れ、彼の隣で心の底から笑っていた。

 

 ──デンジ君と一緒にいる時間だけが、この色褪せた退屈な世界で唯一、鮮烈な色彩と熱を帯びていた。

 

 彼が『うめえ』と言って私の作った料理を咀嚼する時、私は初めて、この世界で呼吸をしていいのだと許された気がした。

 

 人を殺すための手が、誰かを生かすために使われる喜び。

 それは麻薬のように甘く、脳髄を痺れさせ、私を後戻りできない深みへと沈めていった。

 

 ダメだとわかっていても、抗えなかった。

 だってそれは、あの路地裏で死ぬ直前に夢見た、君と送るはずだった平和な学校生活そのものだったから。

 

 ……でも、それも今夜で終わりだ。

 唇には、先ほど交わした口付けの感触が、まだ生々しく残っている。

 熱くもなく、甘くもない。ただ体温の移動だけを伝える薄弱な接触。

 彼との繋がりを、この身体に、この記憶に少しでも残したくて、しなくてもいいことをしてしまった。

 

『私のことは忘れて』

 

 口ではそう言った。他の誰かと幸せになってほしいと、本心から祈っているつもりだった。

 けれど、本当に彼のためを思うなら、祭りの約束などせず、何も告げずに静かにこの街から消え去ればよかったのだ。

 

 それなのに。

 わざわざ隣を歩き、わざわざ花火を見上げ、わざわざ唇を重ねた。

 

 デンジ君のためだなんて、ただの浅ましい綺麗事だ。

 本当は、忘れてほしくない。

 

 私の匂いを、体温を、彼の中に焼き付けたかった。

 いつか彼が他の女の子と恋に落ちて、その唇を重ねる時、ふと私の輪郭を思い出してほしかった。一生消えない傷跡として、彼の中に呪いのように残り続けたかった。

 

 そんな身勝手で、醜く、どうしようもない本音が、泥のように喉元までせり上がってくる。

 ……だめだ。

 そんなことを願えば、私は本当に彼を壊すだけの化け物になってしまう。

 せっかく彼が手に入れた、この無防備で優しい世界を、私自身の底知れないエゴで汚してはいけない。

 溢れ出しそうになる真っ黒な熱を、血が滲むほど奥歯を噛み締めて、必死に胃の腑へと押し戻す。

 

 私を忘れて、幸せになってほしい。

 それは純粋な祈りなどではない。醜い本音で彼を呪い殺してしまわないために、私自身にかけた強力な暗示だ。

 

 デンジ君なら、きっと叶えてくれる。

 彼は強いから。いつか、少し変わった転校生のことなんて記憶の彼方に追いやり、普通の女の子と恋をして、普通の家庭を築いていく。

 私が与えることのできなかった"普通"を、誰かと手に入れる。

 

 ……そうであってほしい。

 

 そう強引に思い込もうとしなければ、今すぐにでも踵を返し、足が彼のもとへ駆け出してしまいそうだった。

 首元のチョーカーに指先が触れる。

 

 冷たい革の感触。

 これは、私が"私"に課した戒め。

 人殺しである血塗られた自分を縛り付けるためのもの。

 デンジ君を愛する資格のない私が、その境界線を越えないための鎖。

 

 もう、外すことはない。

 この鎖とともに、私は新しい街へ行き、過去を抱えて生きていく。

 

 湿った夜風が頬を撫でる。

 涙は出ていなかった。

 泣く資格なんてない。

 私は彼を捨てたのだ。

 二度も。

 一度目はカフェに行かずに。二度目はこうして、背中を向けて。

 

 

 

 さようなら、デンジ君。

 私の、最初で最後の、大好きな人。

 

 

 

 心の中で、最後の別れを告げた、その刹那。

 突如として背中から巨大な質量がぶつかり、肋骨がきしむほどの強さで抱きすくめられていた。

 

 背中に張り付く、燃えるような体温。

 耳元にかかる、荒い吐息。

 拘束具のように回された腕は、微かに震えている。

 その震えが、背後の彼が抱える恐怖と、怒りと、どうしようもないほどの熱情を皮膚越しに直接伝えてくる。

 

「……デンジ、君……?」

 

 掠れた音が唇からこぼれる。

 どうして。あんなに酷い言葉で突き放したのに。引越しでいなくなるだけの転校生なんて、追う価値もないはずなのに。

 振りほどこうと動かした身体が、耳元に落ちた声によって完全に縫い止められた。

 

「……ずっと、後悔してた」

 

 掠れた、けれど芯のある声。

 鼓膜ではなく、心臓の奥底を直接揺らすような響き。

 背中から伝わる体温が、火傷しそうなほどに熱さを増す。

 密着した肩甲骨越しに、不器用な心臓の音が響いてくる。

 ドクン、ドクンと。

 それは、脆くて、ひどく温かい鼓動だった。

 

「あの時……あの砂浜で……」

 

 呼吸が、止まる。

 全身の血液が瞬時に凍りつく感覚。

 

 砂浜。

 この世界の彼が、決して知るはずのない言葉。

 

 ──思い、出したの?

 

 足元の地面が音を立てて崩れ落ちるような、強烈なめまい。

 

「……こうやって、力いっぱい抱きしめてたら……レゼは、いなくなんなかったんじゃねえかって……」

 

 首筋に、絞り出すような湿った吐息が落ちる。

 彼を縛り付けていた痛切なまでの後悔の重さが、その腕の力と声の震えから、ひしひしと伝わってくる。

 

 違う。

 そんな、泣き出しそうな優しい声で呼ばないで。

 すべてを思い出してしまったのなら、憎んで。罵倒して。

 この手は、君の心を騙し、その胸を裂いて心臓をえぐり出そうとした。私は、決して君に触れてはいけない、薄汚れた人殺しの化け物なのだから。

 

 吐き気を催すほどの罪悪感が、どす黒い泥となって食道から喉元までせり上がってくる。

 絶叫しそうになる衝動を血が滲むほど奥歯で噛み殺し、拘束具のように強い腕の中で、ただ力なく首を振った。

 

「……離して」

 

 懇願するような、消え入りそうな音が、自分の喉からこぼれ落ちた。

 

 背中に張り付く彼の体温が、熱くて、痛い。

 このまま彼の腕の中にいれば、何もかもが許されて、この温もりに完全に溶けてしまえそうな錯覚に陥る。

 

 だからこそ、突き放さなければならない。傷つける前に。壊してしまう前に。彼自身が、自分が今何を抱きしめているのかを正確に理解して、その瞳に軽蔑の色を浮かべる前に。

 

「……私は、君のことを何回も殺したよ」

 

 言葉にするたび、それが鋭い棘となって自らの内側を切り裂いていく。

 否定してほしいわけじゃない。

 ただ、事実を突きつけて、彼を遠ざけなければならない。

 

「君だけじゃない……関係ない人まで巻き込んで、たくさん殺して……学校も、街も壊して……」

 

 あの日、台風のように暴れ回り、多くの命を無差別に奪った感触が、手のひらに生々しく蘇る。

 首の骨が砕ける感触。肉が焼け焦げる匂い。飛び散る生温かい血飛沫。

 

 その血塗られた手で、彼にお弁当を作っていた。

 そのひどく汚れた手で、熱を出した彼の額を測り、髪を撫でていた。

 

 人を殺すための指先で、誰かの明日を繋ぐような真似事をした。その事実がたまらなくおぞましく、自分の存在そのものがひどくグロテスクなものに思えた。

 彼の胸に背中を預けながら、自分がどれほど穢れた存在であるかを噛み締める。

 温かい。夜風の中で、背中から伝わる彼の体温はこんなにも温かいのに。内側だけは、どす黒い泥に浸かったようにひどく冷え切ったままだ。

 

 首に巻かれた分厚い革のチョーカーが、皮膚に食い込む感覚が強くなる。

 

 これは罰だ。

 身の程をわきまえず、平和な日常という陽だまりのような夢を見てしまったことへの。そして、彼に血塗られた過去をすべて思い出させてしまった、取り返しのつかない罪に対する絶対の戒め。

 

「……私なんかが、一緒にいていいはずがない……よ」

 

 絞り出した音は、虫の音に紛れ、夜の闇に吸い込まれて消えた。

 拒絶されるべきだった。

 かつての私が彼にそうしたように、ただ冷酷に突き放され、無惨に切り捨てられるのが、正しい物語の結末というものだ。

 

 それでも。

 腹部を強く締め付ける彼の腕は、微塵も緩むことはなかった。

 それどころか、肋骨がきしむほどの容赦のない力が込められ、背中から伝わる体温が、火傷しそうなほどに跳ね上がる。

 

「……うるせえ」

 

 耳元で、低く、けれど確かな熱を帯びた声がした。

 

「化け物だとか、何回殺したとか……そんなもん、今の俺に関係あるかよ」

 

「……あるよ、関係ある……!」

 

 声を荒らげた。耳にこびりつく甘い熱から逃れるように。

 

「私はあなたを騙してた。近づいたのも、優しくしたのも、全部……」

 

「……お前が来なかったら、俺は死んでた」

 

 不格好な懺悔を根元からへし折るように、彼が唐突に言った。

 

「……え?」

 

「……熱出してぶっ倒れてた時。……レゼが部屋に来てくれなかったら、俺はあそこで一人で死んでた」

 

 予想だにしない言葉に、思考が完全に空白になる。

 首筋に重い顎が乗せられ、耳元で独り言のような低い振動が続く。

 

「俺はよぉ、あの時……誰かがそばにいてくれるのが、こんなにあったけえんだって初めて知ったんだ。あの手のひらの温度を知って、もっと生きてたいって、そう思ったんだよ」

 

 視界が、大きく揺らいだ。

 雨の日の、湿ったカビの匂い。息も絶え絶えだった彼のために、焦がしてしまった不格好なおかゆを少しずつ口に運んだ、あの静かな時間。

 

「今の俺が生きてんのは、お前が俺を見つけてくれたからだ。……お前が俺のために怒って、俺のために笑ってくれたからだ」

 

 背中から流れ込んでくる絶対的な体温が、長年凍りついていた心臓の表面を、音を立てて溶かしていく。

 

「俺たち、一回死んだんだろ? ……だったら、今のこの人生は、神様がくれた二回目のチャンスじゃねえか」

 

「……二回目……?」

 

「ああ。やり直しの時間だ。……だったらよぉ」

 

 身体を締め付けていた拘束が解かれる。

 肩を掴まれ、強引に反転させられた。

 正面から向き合う。

 暗がりの中、見下ろしてくる琥珀色の瞳だけが、ただ真っ直ぐな熱を持っていた。

 

「今度こそ、逃がさねえ」

 

 ごつごつとした手が、まっすぐに伸びてくる。

 私の首元へ。自分自身にかけた、罪と戒めの鎖へ。

 反射的に身を竦めた。

 これは安全装置だ。これを外してしまえば、ただの無力な少女になってしまう。

 兵器としてのアイデンティティを失い、かといって普通の人間にもなれない、中途半端で空っぽな存在に。

 

「……だめ」

 

 喉からこぼれた微弱な抵抗の音は、彼には届いていないようだった。あるいは、意に介していなかったのか。

 

 躊躇いは一切なかった。

 粗野で、でもひどく温かい指先が、首輪の冷たい留め具に触れる。

 硬い金属音が、夏の夜気を切り裂いて鮮明に響いた。

 首を締め付けていた革の圧迫感が、ふわりと消滅する。

 

 夜風が直接、首元の素肌を撫でた。

 心細いほど涼しく、そして軽い。

 

 それは、私を縛り付けていた"爆弾"としての過去が剥がれ落ちた瞬間だった。自分が兵器でも悪魔でもない、ただの"レゼ"という一人の人間に戻った瞬間。

 

 首から離れた黒いチョーカーは、そのまま彼の大きな手の中に収まった。

 血の匂いが染み付いた、分厚い革。

 彼はそれを忌み嫌うように投げ捨てることもなく、ただ掌で強く握りしめ、そのまま自分のズボンのポケットへと無造作に突っ込んだ。

 

「……あ……」

 

 言葉の形を成さなかった。

 喉の奥から、制御不能な熱の塊がせり上がってくる。

 

 瞬きをした途端、視界を覆っていた膜が弾け、ひどく熱い雫がとめどなく顎を伝い落ちた。

 拭う間もなく、自分でも驚くほど次から次へと溢れ出して止まらない。

 

「……レゼ」

 

 大きく、少しごつごつとした手が、濡れた頬を包み込んだ。

 親指が、溢れ続ける雫を拭うように優しく肌を滑る。

 その不器用な指先の感触に触れた瞬間、何重にも張り巡らせていた鉄線が完全に千切れ、抑え込んでいた感情が濁流となって決壊した。

 

「……う、ぁ、ああぁ……っ」

 

 膝からごっそりと力が抜け、崩れ落ちそうになる身体を彼の胸に押し当てる。

 薄いシャツの生地を、指の関節が白くなるほどの力で握りしめた。

 痛みを殺すための習慣も、感情を切り離すための訓練も、もう何の役にも立たない。

 肺がひきつり、酸素がうまく吸えない。しゃくり上げるたびに背中が不様に跳ねる。

 涙と鼻水でシャツをぐしゃぐしゃに汚しながら、何度も、何度も、ひび割れた声帯で彼の名前を呼ぶ。

 デンジ君は何も言わずに、代わりに背中に回した腕で、わずかな隙間すら潰すように身体を強く引き寄せた。

 そして、もう片方の大きな手が、後頭部をそっと包み込んでくれた。

 指先が、不器用に、けれどひどく優しいリズムで髪を梳いていく。

 その大きく温かい掌の動きに合わせて、全身の強張りが嘘のように溶け落ちていく。

 耳を押し当てた胸の奥からは、一定のリズムで血を送り出す、穏やかな心臓の音が聞こえる。

 視界が涙で完全に潰れ、目の奥の熱がすべて枯れ果てるまで。

 その絶対的な体温は、ずっとそこにあった。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

「……本当に、遠くに行っちゃうんだよ」

 

 鼻の奥がツンと痛み、掠れた音が漏れる。

 記憶が戻ろうと、今すぐ周囲の状況が覆るわけではない。物理的な距離が、容赦なく口を塞ごうとする。

 

「……もう、会えなくなっちゃうかもしれない」

 

 視線が、真正面から絡みつく。

 夜の闇の中でも、琥珀色の瞳だけが真っ直ぐな熱を帯びていた。

 

「迎えに行く」

 

 鼓膜を直接打つような、重く、硬い響き。

 

「……え?」

 

「もう、待ってるのはごめんだからな」

 

 肺の動きがピタリと止まる。

 脳裏を過るのは、冷たいカフェの空気。

 花束を抱え、私が来ると信じて一人座り続けていた彼の姿。

 あの日のひどく冷たい時間を、もう二度と繰り返すつもりはないのだと、その低い振動が告げていた。

 

「……デンジ君……っ」

 

 喉から熱い塊がせり上がり、声の形が崩れる。

 

 腰を強く引き寄せられた。

 足元がふらつき、硬い胸板にぶつかる。

 今度は、絶対に逃げない。

 つま先立ちになり、太い首に両腕を回す。

 爪が、彼の首筋に深く食い込んだ。

 

 背伸びをして、自らその熱に食らいついた。

 

 唇が、重なり合う。

 

 先ほどの、ただ触れるだけの冷たい接触とは違う。

 逃がさない。互いの乱れた呼吸を、急速に跳ね上がる鼓動を、直接貪り合うような重い口付け。

 噛み付くような勢いで開かれた唇の隙間に、彼の熱い舌が迷いなく侵入してきた。

 

 ──あ。

 

 肺の酸素をすべて奪い取られるような、強烈な吸引。

 脳髄が沸騰し、思考が白く塗り潰される。

 絡み合う粘膜が、熱い。

 互いの唾液が混ざり合い、喉が鳴る。その不器用で、生々しい嚥下音が、耳の奥に直接響いた。

 歯と歯がぶつかり、口の中が切れて鉄の味がした。それが涙のしょっぱい味と混ざり合い、逃げ場のない熱の中で溶け合う。

 

 息が詰まる。わずかに唇を離して酸素を吸い込もうとするけれど、それすらもどかしく、彼がすぐに追いかけてきて再び激しく塞がれた。

 まるで、一つの命を二人で分け合っているみたいだ。

 何度も、何度も、角度を変えて、確かめるように。

 

 前世で交わすはずだった失われた時間をすべて埋め合わせるように。いや、それどころか、今この瞬間のすべてを焼き尽くそうとするように、皮膚の温度を擦り合わせる。

 押し付けられた唇から、彼が生きているという確かな脈動と、獣のような荒い息遣いが直接流れ込んでくる。

 

 もう、元には戻れない。

 

 どれだけの時間、そうしていたのか。

 肺が限界を迎え、ゆっくりと、未練を残すように唇が離れていく。

 

 チ、と。

 小さな、濡れた音。

 

 二人の唇の間に、ひと筋の銀の糸が伸びた。

 夏の夜の湿った闇の中で、街灯のわずかな光を吸って、それはかすかに、美しく煌めいている。

 繋がれた体温の残滓のように、それはゆっくりと、けれど確実に二人を繋ぎ止め、重力に耐えかねてどちらからともなく切れて、唇の上に静かに落ちた。

 

 至近距離にある顔。

 少し赤く染まった頬。荒い息。

 なんてことのない、少し間抜けで、ひどく熱を帯びた輪郭。

 

 彼の手が、私の手を掴む。

 無言のまま、指と指の間に自分の指を深く滑り込ませ、骨が痛むほどきつく絡め合わせてきた。

 その容赦のない圧力が、「もう二度と離さない」という絶対の意志を伝えてくる。

 

「帰ろうぜ」

 

 夜の闇に向かって、デンジ君が歩き出す。

 繋がれた手に引かれ、後に続く。

 夜の坂道を、ゆっくりと下っていく。

 もう、どこへも逃げる必要はない。

 一度死んで、すべてを失ったはずの二つの命が、今こうして隣で強い熱を交わし合っている。

 血の匂いも、惨劇の記憶も、すべてこの夏の夜の湿気に溶けていく。

 

 運命がまた引き裂こうとしても、どれだけ途方もない距離が立ち塞がろうとも、きっとこの手は離れない。

 きつく絡め合わせた右手から流れ込んでくる、脈打つようなこの熱だけを、ずっと。




ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
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