352年 デジクさん74歳
352年
重厚なオーク製の扉が閉まった瞬間、会議室の空気は厳冬の夜まで下がったかのように凍りつく。
葉巻の煙が、シャンデリアの鈍い光に照らされて澱んでいる。長テーブルの端、奥座に座る独裁者、老年の女が手元の書類に目を落としたまま口からゆっくりと紫煙を吐き出した。
その静寂は出席している高級官僚や将軍たちにとって、目隠しをされ銃殺刑の執行を待つ時間に等しかった。
その女性、皺の浮かんだ目元は鷹のごとく鋭く、そして口元が皮肉気に傾く。齢七十を過ぎても思考のキレは衰えず、一代で連邦をまとめ上げた手腕を知らぬものはこの場にはいない。
すっかり白く染まった頭髪は肩口で切りそろえられ、その身に軍服を模した濃緑色の衣服を纏っていた。
目だけ笑わぬその笑顔は場に緊張を走らせる。そうして唯一の女性の声が室内に木霊した。
「同志———。君の最近の報告書だが……どうも、数字が反革命的な動きを見せているようだ。心当たりはあるかね?」
テーブルの中ほどに座っていた、経済部門の責任者の顔から一瞬にして血の気が引いた。彼は震える手でずれた眼鏡を直そうとしたが指が言うことを聞かない。
「スタリナ最高指導者、それは……誤解です! 輸送網の遅延については先日の事故が原因でして、決して意図的なものでは」
「言い訳は結構だよ」
スタリナと呼ばれた女は初めて顔を上げ、濁ったエメラルドグリーンの瞳で男を射抜いた。その口元にはかすかな、そして残酷な笑みが浮かんでいる。
「君の熱意は以前から疑わしかった。休憩が必要だろう。……最長のバカンスがね」
崩壊と慟哭。スタリナが軽く指を鳴らすと、背後の影から
「ま、待ってください最高指導者!?私は忠実です! わわ、私は祖国のためにすべてを捧げてきた!」
彼は椅子を転げ飛ばしながら弁解するが、すぐに両脇を屈強な職員たちに固められた。彼の慟哭が、静まり返った室内で異様に響く。
「同志ッ、同志スタリナァァァ!?お願いだ、再考を!!私は……私は無実だ!うああああっ?!」
彼は肩を掴まれながらも、必死に老独裁者の足元へ這い寄ろうとした。しかし、軍靴の音と共に無慈悲に引きずられていく。誇り高かったはずの高級官僚は、今や言葉にならない獣のような哭鳴を上げ涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに、髪を振り乱しながら出口へと運ばれていった。
「助けてくれぇ!だ、誰か!?友よ、同志たちよぉぉぉ!!」
呼びかけられた軍人は、視線を机の一点に固定したまま微動だにしなかった。他の出席者たちも同様だ。彼らは自分が次の標的にならないよう息を殺し、石像のように固まっている。
やがて重い扉の向こうで叫び声が遠ざかり、再び静寂が戻った。スタリナは何事もなかったかのように葉巻を灰皿に圧しつける。
「さて、同志諸君」
新たに手にした葉巻を愛用のシガーカッターに当てる。
ざくりと、切断された葉巻の端が床に落ちて首のように跳ねた。彼女は機嫌よく葉巻に火をつけながら、しかし骨の髄まで響くような声で言った。
「経済計画の続きを話そうか……次は、誰の番かな?」
出席者たちの背筋に、拭い去ることのできない戦慄が走った。
カゾルミアを併呑した周辺国は赤きクーデターの大波に呑まれた。そしてその後継となったのは巨大な連邦。
スタリナと呼ばれた女独裁者によって築かれたその国家はのちに力を蓄え、海を隔てた大国と世界を割る冷戦を引き起こす。しかしそれを語るのは別の段とする。
彼女の本当の過去を知る者はこの世にもういない、後から知ったものはすべて粛清されたから。
その一欠片の記憶は旧カゾルミア東部都市跡地、299年のことだ。当時のカゾルミアへ反旗を翻した、と喧伝された革命軍に追走された一人の少女、スネジンカとの別れ。
「お願いです、デジクさんだけでも投降してください…!」
「そ、そんな…こと…」
「デジクさん!!!」
「い……嫌だ!!!!!!」
初めて他人の言葉を断った。
信頼する相棒を狙う輩、それに巻き込みたくないとする思いだとわかっている。だからこそ彼女は拒否した。命を預けられる存在、そんなかけがえのないスネジンカのために戦いたいと思えたのだ。
「スネジンカさんを…一人になんかし…ない。私も一緒に…戦うから」
しかしその結末は呆気なかった。銃撃戦の中で彼女は負傷、感染症により高熱を出して昏倒した。気づいたときにはとある捕虜収容病院のベッドの上にいた。
スネジンカは、彼女の治療と身の安全を引き換えに投降したらしい。その身がどうなろうと覚悟の上だった。
「我々は君たちへ理不尽を押し付けることが出来る強い立場にいた。君たちは我々よりも弱い立場にいた、それだけだ」
ベッドから起き上がった少女は顔を伏せたまま動かない。仇敵の男は気にした風もなく続ける。
「捕虜として生き残り、私に理不尽を押し付けることのできる強い立場になれ」
いつの間にか、男はいなかった。
清潔な布団の上で握りしめられた少女の拳の中で、爪が手のひらを破って血をこぼす。
「…ちくしょう」
今にも弾けんとする激情を秘めた呟きが、ラジオからの停戦協議決裂のニュースにかき消された。
すべては五十年前のその時から始まった。他人の頼みを断ることすら出来ない気弱な少女が、血と鋼をもって君臨する独裁者へと至るきっかけ。
「生きている限り、どんな手を使っても、這い上がって、必ずあいつらに同じ思いを味わわせてやる…!」
両目から溢れたその涙は今生で流す最後のもの。そうしてデジクは健やかだった少女時代に別れを告げた。