299年
清潔なベッドは、冷たいコンクリートの床へと変わっていた。窓のない地下施設であるそこは収容所というより、人間を道具へと造り変える精錬所と呼んだほうが適切だろう。
捕虜という名のクズ鉄を集め、溶かし、型に嵌め、鋼に鍛造する工場。
スパイ養成施設、退院したデジクはそこに送られ日々拷問のような訓練を受けていた。自分含め五十人ほどの男女が集められ、すべてカゾルミア人だった。捕虜や人買いがほとんどで、志願した者は一人もいなかった。
「貴様らカスのようなカゾルミア人が世のため人のため貢献できるのだ。這いつくばって感謝の言葉を垂れろ」
トレーナーと呼ばれる彼は周辺国の人間で、集ったカゾルミア人をスパイとして教育する役割をもった人間だった。
まず始めに尊厳を奪われた。人間としての行動を禁じられ犬として調教される。トレーナーと呼ばれる所以だろう。
ここで人としてのプライドを折ることができたものだけが次に進んだ。できぬものは処分されて脳だけ再利用された。
以前の自分なら決してできぬ真似をデジクは、した。嘲笑され、時に折檻され、それでもトレーナーの望むままに笑顔で犬となった。その心中を微塵も悟らせぬままに。
次に人間未満の扱いを受けながら本格的な訓練に入る。体力錬成、言語学習、対人訓練 etc。拷問することも拷問に耐える訓練も受けた。
「次はこれだ」
トレーナーが差し出したのは、無色透明の液体が入った複数のアンプル。
「ベラドンナ、ストリキニーネ、アコニチン———。致死量、発現時間、解毒剤の有無。すべてを脳に刻め。それを愛の囁きと共に相手に飲ませる術を学べ」
初めから六割強が脱落した時点でようやく人並みの扱いを受けられ、地獄のようだった環境に余裕が生まれた。
そして男女二人組で訓練を行うことが多くなる。デジクの相手は真面目な青年だった。
カゾルミアの九等民の生まれで、兄弟姉妹たちの為にと軍事工場で働いていた珍しい男の出稼ぎ労働者。しかし周辺国の機械兵に工場が襲われ、捕虜になってここにきたという。
そんな環境で男女の距離が近ければ、親愛の情を抱くものも現れる。それがトレーナーの思惑の内だということに気づかずに。
最後の試験だった。青年と共に呼びだされたデジクはトレーナーに告げられた。
「パートナーを殺せ。手段は問わない。生き残ったほうをここから出してやる。両者生きていれば両方処分する」
スパイとは時として情を抱き、抱かれた者も切り捨てなければいけない。それができるか確かめるのが目的。
二人はこれまで訓練で扱った刃物と毒物を持たされ、個室に監禁された。
「そ、そんなこと……で、できるわけ」
真っ青になって震える青年に、ゆっくりデジクは近づく。その歩みに青年はもしやと身を固くする。
「……私が、死にます。あなたはここから出て、ご家族に会いに行ってください」
薄く微笑んだデジクが小瓶に入った液体を取り出す。青年が止めようとするが構わずにそれを呷る。
「ガハッ」
胸を押さえ吐血するデジク。床に仰向けに倒れこんで痙攣し静かになった彼女を、青年は呆然と見ていた。
ようやく現実を受け入れた頃に、扉に向かった。背後の彼女の死体を視界に入れたくなくて、背を向けたままで鍵のかかったままの扉を叩く。
「……見ているんでしょう!?ここから出してください!」
扉の先からは何も返ってこない。
「ちょっと、なんとか言っふぁ——」
青年が自分の口から間抜けな音を出した瞬間、目の前の扉に鮮血が飛び散った。
彼は首が温かく濡れた感触を覚え、そして顎に何者かの手が絡みついていることにも気づいた。徐々に強くなっていく首の熱感に変だと思い手を当てると、真っ赤な血は自分のものだと気づく。
振り返ることもできず、彼は扉に凭れるように倒れこんだ。その背後に立っていたのは、自決したはずのデジクだった。
冷え切った目に口元を赤く染めたまま、片手のナイフから今しがたの凶行の赤い証が滴る。
「こんな即効性の毒が、あるわけがないでしょう……」
毒を飲んだと思い込ませ、青年が自分は助かると気を抜いたときに首を掻っ切る。
体格に優れた男性を相手に正面から殺し合いするのは難しいと考えての油断させての暗殺。そこに躊躇はなかった。
トレーナーは勘違いしていた。デジクから尊厳を奪う必要がないことに。ここにくる以前の段階で、彼女は人としての感情を封じていた。いかな理不尽も受け入れ、いずれ何倍にして返してやると決めて。そのために尊厳も矜持も殺し、犬にもなってやると。
死体を物のように足でどかして血塗れの扉を開く。そこには臨戦態勢の機械兵とトレーナーの姿があった。
それに対してデジクはナイフと持っていた凶器を捨て手を上げた。
「素晴らしい、よくぞやりとげた。喜べ、今から貴様は国へ忠実でいる限り身の安全が保障される。そしてただ一振りの武器となれ。
そうしてデジクは
鍛造された鋼は工作、篭絡、暗殺といった任務を経てより鋭く磨かれていく。しかしあまりに切れ味が良くなれば、持ち主の身も容易く切り裂く凶器となることにまだ気づけない。
数十年後、周辺国の諜報部で政変が起きた時、元トレーナーとなっていた男が裏路地で死亡した状態で発見された。その死体は首を鋭利な刃物で切り裂かれ殺されていた。
307年
夜半の月が国立ホテルを照らしていた。過剰にも思える外灯に煌々と照らされた出口はずいぶんと金を掛けたつくりだ。その中、大理石拵えの広々としたロビーをシャンデリアが燦燦と照らす。ドレスコードが必要であり、誰もが値の張る衣装に身を包んでいたのは一目瞭然だった。今日は然る大企業の懇親会が開かれ、類縁を始めとした関係者で賑わい華やかな雰囲気で人の出入りが多い。
エレベーターで最上階に行くと、そこはホテルのオーナーや招かれた人間の一部が使える特別なスイートエリア。調度品から消耗品である敷物ですら特注のものであり、その歓待に応える人間の身分はいかばかりか。
広間、遊技場、フォットネスルーム、大浴場、ラウンジ、ベッドルームなど、それに付随するコックやバトラー、警備員が24時間体制で控えるその階は、そこそのものが別のホテルのようなサービスであった。
その一つ、ある寝室に冷たい月光が差し込んでいた。
暗がりの室内、バルコニーに続くカーテンが夜風に揺れ、室内には高価な葉巻の残り香と、女の甘い香水の匂いが混じり合っている。
ベッドの上、標的である国営企業の役員が半裸で、深い眠りというよりは昏睡に近い状態で横たわっていた。無味無臭の神経毒が、彼の意識を闇の底へ引きずり込んでいたのだ。
デジクは絹のガウンを羽織り、鏡の前で髪を結う。鏡に映るその瞳は、先ほどまで男を蕩けさせていた熱を失い、今はただ凍てつくような冷徹さを湛えている。
数年前までの幼さの残る少女でなく、男を踏みつけ傅かせるかのような圧のある艶。一種のカリスマ性と呼べるものだが、それが花開きかけていた。
編み込みで前髪を押さえ二つのシニョンで頭部を飾った長髪、その豪奢なアッシュブロンドは生来のものではなく染めたもので、これは姿を偽る必要があることを示していた。
背こそ変わらないが、ガウンの胸部を盛り上げる膨らみや腰の丸みは、明らかに女として円熟したもの。
彼女は化粧台の引き出しの二重底から注射器とアンプルを取り出す。あらかじめ細工され準備されたもので、今回は小道具を持ち込むことが出来なかったためだった。
今回の注文は心臓に極度の負担がかかった男が突然死した風に装わせる、それゆえにこのような迂遠な手段で眠らせ殺害するのだ。
肘の裏から注射された薬が身体に回る頃には、自分がここにいるはずもないことを思い巡らす。その傍らに、薄めた同じ毒の付着した使用済みの注射器を転がしておくことも忘れない。この毒は薄めることで強心、強壮の薬にもなる。これで薬を使って夜を楽しんだ末路と思われるだろう。
女は化粧を整え露出の多いパーティドレスを纏い、透けたボレロを羽織り部屋を出た。外のSPらしい黒服に微笑みかけて堂々とフロアを後にする。
権力のある人間のプライベートに踏み入ることを厭ったSPに要人の死体が発見されたのは、昼にほど近い時間だった。
(つまらない任務だった)
真夜中にもかかわらず、自分の車を回してくれた
自動車専用道路である
『任務は完了したようだなスタリナ』
「つつがなく」
『ふん!流石だな』
鼻を鳴らす電信越しの相手は周辺国諜報部の上役。スタリナと呼ばれたデジクは戸籍のない諜報員、つまりスパイだ。
カゾルミアを滅ぼした周辺国は夷を以て夷を制す占領政策をとった。当初は機械兵を用いた占領構想だったが、白日の下になった非人道的な製造過程が世界中から非難を浴びて断念したそうだ。
そのため旧カゾルミア人の中から選別した者を教育、スパイとして調教し“狗”と呼んで工作活動に当たらせた。
彼、彼女らには戸籍も名前も与えられず偽の身分を適宜与えられる。スパイだと敵対勢力に発覚した時には、無情にも使い捨てられる運命にあった。
『さすがは元カゾルミア人。色を使うのも人を殺すのも慣れたもんだな、ええオイっ!』
その暴言にデジクは沈黙で返す。抗弁する価値もないと断じたために。
今回の任務は他国へ、軍需産業である自社の機密情報を他国へ流していた者の粛清。背景や内容は別口ですべて把握できたため、引き出す情報のない間抜けな当人は見せしめに、わかる者にはわかるように殺めたのだ。
『……まあいい。次の任務だスタリナ。詳しくは追って送る、以上だ』
不毛な任務報告が終わり、デジクは心裡で呟いた。
(いずれ貴様にも“理不尽”を強いてあげる)
表情は平静であっても、その
今回のような任務そのものには何も感じなくなっていた。人を殺すことなど後始末が面倒くらいにしか思わない。今日はそれもないから楽なくらいだ。
(いつからこうなったんだろう)
そんな益体もない思考が浮かぶ。前方の車の赤いテールライトをぼんやりと眺めて、ふとある任務を思い出す。自分の中にあった僅かな躊躇が死んだ日を。
「あの人を殺した時だ」
第二次カゾルミア首都攻囲戦。その時の自分は任務で、前線から下がった野戦病院へ衛生兵として潜入した。その内容は敵勢からの防諜、とは名ばかりで試しの任務だったのだろう。このスパイが使えるかどうかの。
そして捕虜となった一人の女性を故意に殺害した。スネジンカの義姉であるマルフーシャを、殺したのだ。