役立たずの三輪 作:メカ丸ゥゥゥウウウ!
10月19日。
陽の光が届かない、地下深くの密閉された空間。某所にある放棄されたダムの内部施設には、コンクリートの冷たい匂いと、淀んだ水の腐臭、そして鼻を突く強烈な血の匂いが充満していた。
薄暗い裸電球の光に照らされた部屋の中央。そこに置かれた古びたバスタブには、全身を包帯でぐるぐる巻きにされた一人の少年が沈んでいた。
京都呪術高等専門学校二年、
天与呪縛。
それは自身が結んだ縛りではなく、生まれた時から強制された縛り。生まれながらにして右腕と膝から下の肉体を欠損し、全身の毛穴から常に針で刺されるような激痛が走る、呪われた肉体。その代償として、広大な術式範囲と莫大な呪力出力を得た彼は、普段は傀儡である究極メカ丸を通すことでしか外界と接触することができない。
血と体液に塗れた浴槽の中で、与は浅い呼吸を繰り返していた。肺が動くたびに、全身の皮膚がひび割れるような激痛が脳髄を焼き焦がす。
しかし、今の彼を支配しているのは、肉体の痛みなどではなかった。
それを遥かに上回る、灼熱のマグマのような激情と殺意が、彼の濁った瞳の奥で赤黒く燃え滾っていた。
重い鉄の扉が、軋む音を立てて開かれた。
足音は二つ。
一人は、袈裟を身に纏い、額に縫い目を持つ男、夏油傑。
もう一人は、継ぎ接ぎだらけの顔に無邪気な笑みを浮かべた特級呪霊、真人。
「やあ、待たせたね。与幸吉くん」
夏油が、まるで友人の家を訪ねてきたかのような、気安い口調で声をかけた。
「……」
与は答えない。ただ、浴槽の縁に置かれた血まみれの腕を微かに震わせながら、入り口に立つ二人を憎悪の眼差しで睨みつけていた。
与幸吉は、呪術高専の内通者であった。
彼が敵対勢力である夏油たちに情報を流していた理由はただ一つ。真人の生得術式無為転変によって、この呪われた肉体を健常な状態に治癒してもらうためである。
ただ、皆と一緒に歩きたかった。皆と同じ空気を吸い、同じ景色を、自分自身の目で見たかった。
そのささやかな、しかし彼にとっては途方もなく遠い願いを叶えるためだけに、彼は悪魔と契約を結んだ。
情報を提供する代わり、与幸吉の身体を健常な状態に変化させ、かつ京都校の人間には絶対に手を出さない。それが、彼らが結んだ縛りであったはずだった。
「さて、約束通り君の身体を治しに来たわけだが……少し、不機嫌そうだね」
夏油がわざとらしく首を傾げる。
「……白々しい、口を叩くな」
与の喉から、ひび割れたガラスが擦れ合うような嗄れた声が漏れた。
「交流会で、あの花御という呪霊が、京都校の生徒を巻き込んだ。……縛りは破られた。俺が内通者を続ける理由は、もう無い」
与の言葉に、真人がケラケラと笑い声を上げた。
「あははっ! だって仕方ないじゃん、花御は戦うのが大好きなんだからさ。それに、誰も死んでないんだから別にいいでしょ?」
「黙れ……呪霊」
与の殺気が膨れ上がる。だが、彼の怒りの真の矛先は、花御の暴走だけではなかった。
「……交流会よりも、前だ」
与の双眸が、夏油の目を真っ直ぐに射抜いた。
「ここ数ヶ月、三輪の身体に……ナニカが作用しているのは明らかだった」
与の脳裏に、自身が密かに好意を寄せる少女、三輪霞の姿が浮かび上がる。
三級呪術師であったはずの彼女の肉体が、突如として規格外の耐久力と呪力出力を発揮し始めた事実。合同訓練で見たその動きは、天与呪縛の禪院真希すら凌駕するほどの身体能力を孕んでいた。交流会において、彼女が特級呪霊の必殺の呪力砲を、手のひらの火傷一つで凌ぎ切ったという報告を聞いた時、与の疑念は確信へと変わっていた。
あんなものは、努力や才能の開花などという生易しいものではない。
外部からの、何らかの強烈な呪術的干渉。
「五条悟の六眼ですら、その違和感の正体を完璧には見抜けなかった……。そんな芸当ができる集団を、俺は一つしか知らない」
与の全身の包帯から、どす黒い呪力が漏れ出し始める。
「貴様らが……三輪に、何をした?」
絞り出すような与の詰問。
それに対し、夏油は隠し立てする様子もなく、あっさりと、そして残酷な微笑を浮かべて白状した。
「ああ、そのことか。気づいていたんだね、思ったよりもやるじゃないか」
夏油は袖に手を入れたまま、淡々と事実を告げた。
「彼女の肉体の奥底にはね、とある呪物が埋め込まれているんだ。極めて強力で、古い時代のものがね。それが今、彼女の器の中で少しずつ融け出し、肉体のポテンシャルを強引に引き上げている」
「……ッ!!」
与の呼吸が止まった。愛する少女の体内に、この得体の知れない悪党どもの呪物が仕込まれている。その事実が、彼の臓腑を氷のように冷たく凍らせた。
「貴様……京都校の人間には手を出さないという縛りは……!」
「おや、勘違いしないでくれ。私がその呪物を彼女に埋め込んだのは、君と縛りを結ぶよりもずっと前の話だよ」
夏油の細められた目が、三日月のように吊り上がる。
「それに、今現在、彼女の身体を内側から弄り回しているのは、私ではなく、その呪物自身だ。私は指一本触れていない。……つまり、何一つとして縛りには引っかからないのさ」
嘲笑。
完全に弄ばれていた。最初から、彼らは与幸吉という人間を盤上の駒としか見ておらず、彼の大切な人間を人質――あるいは実験動物として利用していたのだ。
「……殺す」
与の呪力が限界を超えて膨張し、バスタブの水が沸騰したように泡立ち始める。
「貴様ら……絶対に、ここで……!!」
その瞬間、真人が無邪気な足取りで与の目前まで歩み寄り、自身の右手を異形の刃へと変形させた。
「あーあ、交渉決裂だね。じゃあ、死んでよ」
真人の刃が、無抵抗な与の首筋へと振り下ろされようとした。
「待て、真人」
夏油の冷徹な声が、真人の動きをピタリと止めた。
「……なんでさ。もうこいつ、俺たちに従う気ないよ?」
不満げに振り返る真人に対し、夏油は静かに首を振った。
「他者間との縛りを甘く見るな。自分自身との縛りとは違い、他者との縛りを破った場合、いつ、いかなる形で、どのような災いが降りかかるか全くの未知数だ。彼をここで治癒しなければ、私たちが縛りを破ったことになる。計画に不確定要素を残すのは愚策だよ」
「……ちぇっ。つまんないの」
真人は大きくため息をつき、刃に変えていた右手を元の掌に戻した。
そして、酷く退屈そうな顔で、与幸吉の頭部にその掌をペタリと触れた。
「無為転変」
真人の術式が発動した瞬間。
与幸吉の魂の形が、真人の掌を通して直接弄り回された。
バキバキバキッ!! という、人間の身体から鳴ってはいけない悍ましい音が浴槽内に響き渡る。
欠損していた右腕の骨格が急速に形成され、筋肉が絡みつき、皮膚が覆う。膝から下の両脚が、泥が形を得るように肉体へと変換されていく。全身の毛穴から絶え間なく発信されていた激痛の信号が、電源を切られたかのように一瞬にしてフッと消失した。
「……」
与は、信じられないものを見るように、自身の新しく形成された右手を見つめた。
痛くない。光を感じる。肌で温度を感じる。
十七年間、彼を苦しめ続けた呪いが、いとも容易く、呪霊の手のひら一つで解除されてしまったのだ。
与はゆっくりとバスタブの縁に手をかけ、立ち上がった。水滴が滴り落ちる五体満足の肉体。足の裏が、コンクリートの冷たい床をしっかりと踏みしめる。
初めて立つ、自分自身の足。
「どう? 嬉しい? 痛くない身体、最高でしょ?」
真人が顔を覗き込み、悪戯っぽく笑いかける。
だが、与の表情には一切の歓喜も、感動も浮かんでいなかった。ただ、極寒の吹雪のように冷たい殺意だけが、その瞳の奥で静かに定着していた。
「……何それ。五体満足になったのに、全然はしゃがないじゃん。つまんない人間」
真人が露骨に顔をしかめる。
与は、浴槽の横に用意されていた自身の衣服を手に取り、ゆっくりと羽織りながら、低く、這いずるような声で告げた。
「……はしゃぐのは、事が済んだ後だ」
三輪の体内に潜む爆弾。京都校の仲間たちへの脅威。
それら全てを排除し、彼自身の手で皆の元へ帰るまで、喜ぶことなど許されない。
「あっそ。じゃあ、遊ぼうか!」
真人の両手に呪力が収束し、殺戮の形へと変形を始める。明確な戦闘態勢。
しかし、与は微動だにしない。
ただ、彼の背後の暗がりから、ギチギチという無機質な駆動音が響き始めた。
暗闇の中から浮かび上がったのは、与幸吉が使役する傀儡。木と金属で構成された究極メカ丸。
その数、実に十三体。
「へぇ、いっぱいいるね!」
真人が歓喜に顔を歪める。
「私が手を貸そうか?」
夏油が背後から声をかけるが、真人は「いらない!」と即座に拒否し、床を蹴って十三体のメカ丸の群れへと単騎で突撃していった。
凄まじい破壊音が地下施設に響き渡る。
真人の無為転変は魂を持たない無機物には効かない。だが、純粋な身体能力と、変幻自在に形を変える肉体を使った体術だけでも、呪霊としての真人の力は圧倒的だった。
腕を巨大な刃に変え、迫り来るメカ丸を一刀両断する。飛びかかってきた機体を、肥大化させた脚で壁ごと粉砕する。
弾け飛ぶ装甲、飛び散る木片とオイル。
ものの数分。十三体のメカ丸は、真人の暴力の前に全て破壊され、無惨なスクラップと化して床に散乱していた。
「あーあ、脆いなぁ。もっと歯ごたえあると思ったのに」
真人はオイルを舐め取りながら、不満げに周囲を見渡した。
全てのメカ丸を破壊した今、その場に、肝心の与幸吉本人の姿はどこにもなかった。戦闘の混乱に乗じて、すでにこの部屋から姿を消していたのだ。
「……つまんな。俺はネズミの狩りがしたいんじゃなくて、ちゃんとした勝負がしたいんだよねぇ」
真人が退屈そうに首を鳴らした、その直後だった。
真人が立っていた足元の分厚いコンクリートの床が、下層からの途方もないエネルギーによって爆発的に突き破られた。
瓦礫と共に下から突き上げられたのは、鋼鉄で覆われた巨大な拳。
それが、一切の反応を許さぬ速度で真人の顎を完璧に捉えた。
「ガッ……!?」
真人の身体が、まるで重力など存在しないかのように、一直線に遥か上空へとカチ上げられる。
地下施設の天井を突き破り、さらにもう一つのフロアの床を粉砕し、ダムの外部へと放り出される。
真人は空中でクルリと体勢を立て直し、ダムの巨大なコンクリートの外壁の上へと音もなく着地した。
「いったぁ……。不意打ちはズルいなぁ」
真人は殴られた顎を撫でながら、ゆっくりと視線を前方へと向けた。
そして、そこに着地した存在を見て、彼の継ぎ接ぎだらけの顔が、この日一番の歓喜に歪んだ。
「あははっ! なぁんだ、本命が隠れてたのか!」
真人の視線の先。
ダムのコンクリートの上に、重々しい金属音と共に降り立った影。
それは、与幸吉の天与呪縛によって長年蓄積された莫大な呪力を動力源として稼働する、漆黒の装甲に身を包んだ鋼鉄の巨人。
全長、およそ二メートル五十センチ。
つい先ほど破壊した傀儡の色違いでありながら、全身に圧倒的なまでの呪力を内包した、戦術の極致。
呪術師は、それをメカ丸と呼ぶ。
「さあ、始めようか……特級!」
メカ丸の内部から響く与幸吉の怒りの声が、大気を震わせた。
三輪霞を、そして京都校の仲間を縛る呪いを全て断ち切るための、彼の命を懸けた孤独な死闘が、今、幕を開けたのであった。
実際のところ、メカ丸はどうすべきだったのか。メカ丸が呪霊一派を見つけられないだろうし羂索からの接触と仮定して、縛りを結ぶか殺されるかなら一か八かで縛りを結んだ方が動向を探れる分マシだと思われる。どうせメカ丸が断っても次善の策で動いただろうから、渋谷事変での活躍含めてメカ丸を責めたくはないかな。常時拷問並の天与呪縛は可哀想よ。賛否両論ありますが、最終的に亡くなったところ含めてメカ丸は好きです。