役立たずの三輪 作:メカ丸ゥゥゥウウウ!
そう……術式対象に概念が絡む特級呪霊だ
ゴボッ、というくぐもった水音が、与の自身の喉の奥から鳴った。
勝利を確信し、未来への希望に手を伸ばそうとしたその瞬間。彼の視界は突如として天地を反転させられ、絶対的な死の冷たさが全身を駆け巡っていた。
与の首元には、背後から音もなく忍び寄った複数の下級呪霊――鳥のような鋭い嘴を持った異形の群れが、その鋭利な凶器を深く、そして致命的な角度で突き立てていた。
頸動脈が断ち切られ、気管が完全に破壊される。
痛覚すらも麻痺するほどの圧倒的な生命力の流出。与は声を発することはおろか、空気を肺に吸い込むことすらできなかった。
(あ、れ……? なんで……俺は、奴を斬って……)
薄れゆく意識の中で、与はぼんやりと自身の足元を見た。
そこには、先ほどの抜刀によって腹から鎖骨にかけて切り裂かれ、血の海に沈んでいる真人の姿があった。
だが、その真人の死体は、風船が萎むようにボコボコと形を崩し、やがてただの泥のような呪力の残滓となって霧散していったのだ。
(……分身。俺が斬ったのは、最初から、魂を分割して作り出された囮の方だったのか……)
絶望的な事実の悟り。
真人は、領域を展開した時点で既に自身の魂を分割し、本体は死角へと身を潜めていたのだ。簡易領域で必中効果を防がれることも、カウンターで斬り伏せられることも、全ては特級呪霊の掌の上で踊らされていたに過ぎなかった。
カラン、コロン。
背後から、静かな下駄の足音が響いた。
与幸吉の背後に歩み寄ってきたのは、袈裟を纏った男――夏油傑であった。
「……凄かったよ、君」
夏油は、首から血を吹き出しながら立ったまま硬直している与の背中を見つめ、心からの感嘆を込めた声で称賛の言葉を送った。
「本来、数の優位性で相手を圧倒し、盤面を制圧するのが傀儡操術の最大の強みだ。だが君は、自らに厳しい縛りを課すことでその最大の利をあっさりと捨て去り、全エネルギーを術者本人の強化へと注ぎ込んだ」
夏油の冷徹な分析が、虚ろになりかけた与の耳に、遠い世界のノイズのように響く。
「その見事な決断力と、極限の死線で黒閃を引き起こした呪術師としてのセンス。見事と言うほかない。真人のような、魂に直接干渉しなければ殺せないという特殊なギミック持ちの呪霊でなければ、最初の段階で、相手がいかなる特級呪霊であろうと難なく祓っていただろうね」
夏油は、与幸吉という呪術師の到達した高みを、純粋な評価として認めていた。
惜しむらくは、彼が戦った相手が悪すぎたこと。ただそれだけである。
「本当に惜しい才能だ。もし君が私たちの側に――」
「夏油」
夏油がそれ以上言葉を続けようとしたのを、背後から現れた真人の無邪気な声が遮った。
本物の真人だ。傷一つない、継ぎ接ぎだらけの顔に退屈そうな笑みを浮かべ、彼は首を傾けた。
「もう、死んでるよ」
真人のその言葉を合図にするように。
夏油が使役していた鳥型の呪霊たちが、与の首から嘴を引き抜き、泥のように溶けて消滅した。
支えを失った与の肉体は、操り糸を切られた人形のように、重力に従って前へと崩れ落ちた。
べチャッ、という生々しい音を立てて、コンクリートの地面に倒れ伏す。
真人の無為転変によって健常な肉体を手に入れ、初めて自分の足で大地を踏みしめてから、わずか数十分後の出来事であった。
傷口から溢れ出した大量の鮮血が、冷たいダムの床を赤黒く染め上げ、不規則な水たまりとなって広がっていく。
「……おや。この歳になると、どうも独り言が多くなっていけないね」
夏油は、物言わぬ屍となった与を見下ろし、わざとらしく肩をすくめた。
「若さゆえの慢心か、それとも健常な肉体を手に入れたことによる全能感か。いかに特級クラスの出力を得ようとも、一瞬の隙が命取りになる。呪術戦の残酷な基本だね」
「あははっ! なにそれ、お説教? ウケるんだけど!」
真人は夏油の揶揄を茶化して笑い飛ばし、血だまりを避けるように軽やかにステップを踏んだ。しかしその内心は穏やかではない。万が一の保険。領域展開時の濃密な呪力に紛れるように分離させた本体。今虎杖と出会えば一撃で祓われる矮小な存在でしかないのが今の真人だ。
「まあいーや。少しは楽しめたし。帰ろ帰ろ!」
二人は、与の亡骸をその場に放置したまま、背を向けて歩き出した。
その帰り道、夏油は隣を無邪気に歩く真人を横目で見ながら、誰にも悟られない思考の海へと深く潜っていた。
夏油の瞳の奥に、暗い野望の炎が灯る。
(まだ、真人を誰かに祓われるわけにはいかないんだ。私たちの悲願のため……いや、それ以上に。あの子のためにも、真人にはもっともっと強くなってもらわないとね)
夏油の脳裏をよぎったのは、透き通るような水色の髪をした少女の姿であった。
三輪霞。
彼女の深く、暗い肉体の底に封じ込めた、夏油――羂索の最高傑作。
我が子が完全に目覚め、この世界をともに楽しむための盤面を整えるには、真人の術式を用いた混乱と変革が必要不可欠なのだ。
その日――世界が地獄へと変わる10月31日は、もう目前にまで迫っていた。
ーーー
所変わって、夕暮れ時の京都呪術高等専門学校。
西の空が燃えるような茜色に染まり、長く伸びた影が木造の校舎を包み込んでいた。
やや季節外れのヒグラシの鳴き声が遠くで響く、穏やかで静寂に満ちた時間。
三輪霞は、縁側にちょこんと座り、膝を抱えて夕日を見つめていた。
彼女のすぐ隣には、木と金属で構成された不気味な傀儡――究極メカ丸が、力なく壁に寄りかかっていた。
「少し、眠りにつく」
そう言ってから、この傀儡は一切動かなくなってしまった。内部の呪力反応も完全に途絶えており、まるでただの精巧な木彫りの人形のようだ。
三輪は、その動かないメカ丸の頭を、起きないかどうか優しくつついた。
「ねえ、メカ丸。聞いてるか分からないけど……」
三輪の澄んだ声が、静かな縁側に溶けていく。
「この前の東京校との交流会で、私がすごく活躍したってことで……なんと、一級術師への推薦をもらっちゃったんだ。信じられないよね? 三級の私が、いきなり推薦なんて」
三輪は照れくさそうに笑いながら、自身の手を見つめた。
目にも留まらぬ抜刀で特級呪霊の腕を斬り落とし、その砲撃を凌いだ、自分の身体。あの時の、得体の知れないナニカに侵食されるような恐怖と違和感は、今でも彼女の心の奥底に小さなトゲとして残っている。
しかし、周囲の評価は極限状態での才能の開花であり、彼女自身もその不可解な強さを呪術師としての責任へと変換し、真面目に受け止めていた。
「それでね、明後日、昇級のための任務があるの。もしそこで結果を出して、同じ準一級になれたら……みんなで、お祝いしてくださいね」
三輪は、隣で沈黙を続けるメカ丸の顔を覗き込んだ。
無機質なガラスの瞳には、茜色の夕日が反射しているだけで、何の感情も浮かんでいない。
それでも、三輪は優しい微笑みを浮かべて、大切な約束を口にした。
「その時は……メカ丸の、本体も一緒に」
いつか会える。
包帯に巻かれていて、痛くて外に出られないという彼の本当の姿に、いつか絶対に会いに行く。
笑い合って、他愛のない話をして、一緒にご飯を食べるんだ。
三輪のその純粋で、何の疑いも持たない希望の言葉は、夕暮れの風に乗ってどこまでも優しく響いた。
しかし。
彼女の微笑みに対する返事は、いつまで待っても返ってくることはなかった。
通信の途絶えた冷たい機械の身体は、彼女の温かい手のひらの下で、ただ残酷なまでの沈黙を保ち続けるだけだった。
誰も知らない。
彼女の隣にいるはずの少年の魂が、すでに冷たいコンクリートの上で血に塗れて散ってしまったことを。
ガサッ