役立たずの三輪   作:メカ丸ゥゥゥウウウ!

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※性転換タグ、つまり男です。ただの癖です。


渋谷の跡で③

 凍てつくような冷気と、それを一瞬にして掻き消した圧倒的な呪力の重圧。

 極限の死闘が繰り広げられていた渋谷の路上に、突如として奇妙で、そしてひどく歪な静寂が舞い降りていた。

 

 巨大なクレーターの縁、真人を取り込んだ羂索のすぐ隣。

 そこに立っていたのは、気を失い歌姫の腕の中にいたはずの少女、三輪霞であった。

 

 血と土埃に塗れたスーツ、切り揃えられた水色の髪。どこからどう見ても、京都校の二年生である三輪霞その人の姿である。

 だが、その場にいる呪術師の中で、彼女を三輪霞だと認識できている者は誰一人としていなかった。

 

 彼女の全身から音もなく立ち昇る、あまりにも古く、深淵のように黒く澄み切った呪力。そして、一切の感情の揺らぎを感じさせない、ガラス玉のように透き通った瞳。

 先ほど空間を支配した威圧感はすでに幻のように消え去っているが、だからこそ、余計にその存在の異質さが浮き彫りになっていた。

 

「……お前は、誰だ」

 

 張り詰めた静寂を破ったのは、歌姫の震える声であった。

 自らの腕の中から一瞬にして姿を消した教え子。そのガワを被って羂索の隣に立つ得体の知れないナニカに対し、歌姫は明確な恐怖と怒りを滲ませて問い詰めた。

 

 問われた少女は、ゆっくりと歌姫の方へ首を向けた。

 そして、かつての三輪が目上の者に向けるような、極めて礼儀正しい、穏やかな口調で答えた。

 

「私は、蘆屋貞綱(あしやさだつな)と申します」

 

 その名が発せられた瞬間。

 歌姫たちの前に立ち、刀を構えていた一級術師、日下部の喉の奥から、「はっ!?」という信じられないような短い悲鳴が漏れた。

 

(……あ、あしや、さだつな……!? 馬鹿な、そんなはずがあるか!)

 

 日下部の脳裏で、呪術界の歴史、とりわけ彼自身が修めている剣術の系譜が激しくフラッシュバックした。

 

 蘆屋貞綱。

 

 呪術の歴史を学んだ者であれば、とりわけシン・陰流を修める者であれば、その名を知らぬ者はいない。江戸時代後期に実在したとされる、シン・陰流一門の開祖。

 しかし、彼が歴史的な視点において怪物として名を残しているかといえば、答えは否である。

 

 貞綱は、弱者のための防衛技術である簡易領域を考案した教育者として、また、一部の文献では高名な医者として人々を救っていたと記されている。

 決して、五条悟や両面宿儺のように、その圧倒的な暴力で時代を蹂躙し、歴史に血塗られた名を刻んだ化け物ではない。記録上は、あくまで優秀な一人の術師に過ぎないはずなのだ。

 

(だが……先ほどの、空間そのものを圧殺するような威圧感。あれが、ただの歴史上の教育者の放つ気配か!? )

 

 日下部の背筋を、冷たい汗が止めどなく流れ落ちる。

 

「蘆屋、貞綱……? ふざけないで! 三輪はどうなったの! あの子に何をしたのよ!!」

 

 歴史の真実などどうでもいい。歌姫は、ただ教え子の安否だけを求め、血を吐くような叫びを上げた。

 

 その歌姫の悲痛な叫びに対し、貞綱は何も答えず、ただ静かに微笑を浮かべているだけだった。

 代わりに口を開いたのは、隣に立つ羂索であった。

 

「あまり彼女を責めないでやってくれ。彼女は何も悪くない。ただ、目覚める時が来ただけだ」

 

 羂索は、まるで自身の芸術品を自慢するような、酷薄な笑みを浮かべた。

 

「三輪霞という少女はね、この蘆屋貞綱という規格外の魂を宿すためだけに用意された、精巧な器に過ぎないんだよ。彼女は、実の母親の腹の中にいた頃から、貞綱の呪物を埋め込まれていた。あの特徴的な水色の髪も、染めたわけでも突然変異でもない。生前の貞綱を想起させる、魂の形が肉体に滲み出た結果さ」

 

「……な、に……?」

 

 上空で箒に乗る西宮が、絶望に顔を歪めた。

 家族のために、貧しい生活の中で必死に刀を振るってきた三輪。その彼女の人生の全てが、生まれる前からこの男の手によって仕組まれた、ただの培養期間だったというのか。

 

「虎杖悠仁のケースとは違う。あの小娘の自我は、完全に貞綱の魂に上書きされ、消滅した。身体の主導権は全て貞綱にある」

 

 羂索の冷酷な宣告が、渋谷の夜空に響き渡る。

 

「もう、君たちの知る三輪霞の意識が戻ることは、二度とない」

「ふざ、けるなァァァァァァッ!!」

 

 歌姫が、西宮が、そして京都校のメンバー全員が、限界を超えた怒りと激情を爆発させた。

 大切な仲間を、何一つ知らない少女の人生を、ただの器として使い捨てた悪魔への殺意。全員の呪力が極限まで膨れ上がり、総攻撃を仕掛けようとした、その瞬間。

 

ピキィィィィンッ……!

 

 彼らの足元から、再びあの凍てつくような冷気が猛烈な勢いで広がり始めた。

 裏梅である。

 裏梅の目は、激昂する虎杖たちには向けられていなかった。その鋭く冷酷な視線は、羂索の隣に立つ貞綱を、極度の警戒感を持って真っ直ぐに睨みつけていたのだ。

 呪術全盛の世を生きた裏梅の本能が、目の前の少女が放つ異質さに警鐘を鳴らし、今にも氷の呪法で攻撃を仕掛けようと呪力を練り上げている。

 

「待て、裏梅。味方だ」

 

 羂索が、手を上げて裏梅の殺気を制止した。

 そして、互いの間に生じた奇妙な緊張を解くように、和やかな口調で紹介を始めた。

 

「こっちは蘆屋貞綱。私が腹を痛めて産んだ、私の子供だ。そして貞綱、こっちは裏梅。呪いの王、両面宿儺の付き人であり、彼の料理人だと思ってくれればいい」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 貞綱のガラス玉のような瞳に、微かな人間らしい光が宿った。

 

「料理人さん、ですか」

 

 貞綱は、三輪の面影を残した愛らしい顔で、パッと花が咲いたように微笑んだ。

 

「それは素晴らしい。それなら今度、ぜひ私にも平安時代の料理を作っていただけませんか? 昔の味というものに、少し興味がありまして」

 

 戦場に全くそぐわない、日常の雑談のような貞綱の言葉。

 それに被せるように、羂索が肩をすくめながら軽口を叩いた。

 

「裏梅、作ってやってくれ。ああ、でも人肉以外で頼むよ。この子はそういうのは食べ慣れていないからね」

 

 その羂索の冗談めかした言葉が、最悪の化学反応を引き起こした。

 裏梅の眉間がピクリと跳ねる。裏梅にとって、自らの料理は敬愛する宿儺様ただ一人に捧げるための至高の芸術であり、ぽっと出の小娘に振る舞うなど言語道断の屈辱であった。

 だが、裏梅が怒りの声を上げるよりも早く。

 

「……え?」

 

 貞綱の顔から、先ほどの朗らかな笑みが完全に消え去っていた。

 彼女の表情に浮かび上がったのは、驚愕、そして、心の底からの深い憐れみであった。

 

「……人肉、ですか」

 

 貞綱は、裏梅の顔を悲痛な眼差しで見つめ、痛ましく呟いた。

 

「平安の世とは……それほどまでに貧しく、凄惨な時代だったんですね。食べるものもなく、同胞の骸を食んで命を繋がねばならないほど、飢えに苦しんでいたとは……。お可哀想に」

 

 貞綱の生きた江戸時代後期。歴史上では天保の大飢饉などに代表される、凄惨な飢餓の歴史でもあった。貞綱の認識において、人肉食とは、飢饉によって草の根すら尽き果てた町人が、餓死した他者の死肉を泣きながら食べて生き延びるという、地獄の底の底で行われる究極の悲劇でしかなかった。

 まさか、平安を生きた呪いの王たちが、それを珍味として進んで美食の対象としていたなど、想像すらできなかったのである。

 

 静寂。

 裏梅は、目の前の小娘が、純粋な同情の目を向けていることを見抜いた。

 そして、その憐憫の情が、人肉を好んで食す自身の主人――両面宿儺にまで向けられているという事実を、完璧に理解した。

 

 宿儺様を、飢えた哀れな民として下に見るような、その目。

 裏梅の脳内で、仮初めの仲間という認識が完全に消し飛んだ。今、目の前にいるのは、ただ殺すべき、万死に値する無礼者でしかない。

 

「……貴様ァッ!!」

 

 裏梅の両腕から、絶対零度の吹雪が生み出されようとした。

 

 だが。

 裏梅が呪法を完全に発動させ、攻撃のモーションへと移ろうとした、その直前のコンマ一秒。

 

 裏梅の身体が、まるで操り糸を切られた人形のように、何の前触れもなく前のめりに倒れ伏した。

 氷の呪力は霧散し、ピクリとも動かない。

 外傷はない。呪力の激突もなかった。ただ、脳の機能が完全に停止し、意識を刈り取られたかのような、極めて不自然な気絶であった。

 

「……おや」

 

 羂索が、倒れた裏梅と、微動だにせず立っている貞綱を交互に見比べた。

 貞綱は、極めて涼しい顔で、三輪の口調のまま静かに答えた。

 

「正当防衛です。……少し、頭の血を巡らせすぎたようですね」

 

 貞綱が何をしたのか。だが、表面上はただ裏梅が勝手に倒れたようにしか見えなかった。

 

「ふざけるなッ!!!」

 

 この戦場において、あまりにも場違いで、異常な和気あいあいとした悪魔たちの狂宴。

 それに完全にブチ切れた者が、一人いた。

 脹相である。

 彼は母を弄び、虎杖を殺させようとした羂索への怒りを極限まで高め、両手のひらを真っ直ぐに合わせて、体内の血液を限界まで圧縮した。

 

「穿血!!」

 

 赤血操術の奥義。音速を超えて放たれる、極限まで圧縮された血液のレーザーが、一直線に羂索の眉間を穿たんと発射された。

 いかなる呪術師であろうと、直撃すれば頭蓋を粉砕される必殺の軌道。

 羂索は、動かなかった。

 

 その前に、音もなく滑り込んできたのは、貞綱であった。

 彼女は、刀を抜くことも、防御の姿勢をとることもしなかった。

 ただ、まるで雛鳥が親から餌を待つかのように、両手をだらりと下げたまま、真正面から迫り来る音速の血の刃に向かって、小さく口を開いたのだ。

 

 圧縮された血液が、貞綱の開かれた口内へと完璧に直撃した。

 裏梅の手のひらを容易く貫通し、コンクリートを何枚もぶち抜くほどの威力を誇る穿血。普通であれば、後頭部ごと脳髄を吹き飛ばされて即死するはずの一撃である。

 

 しかし。

 脹相は、自らの血を放ち続けながら、信じられない光景を目の当たりにしていた。

 貞綱の頭は、吹き飛んでいない。

 それどころか、彼女の白く細い喉の仏が、上下に大きく動いているのが見えた。

 

「……な、に……?」

 

 ゴクリ、ゴクリ、ゴクリ。

 まるで、仕事終わりの社会人がよく冷えたビールを喉に流し込むかのように。あるいは、砂漠を何日も歩いた旅人がオアシスの水を飲み干すかのように。

 貞綱は、自らの口蓋に直撃した破壊的な血液の奔流を、その莫大な運動エネルギーごと、一滴残らず飲み込んでいたのだ。

 彼女の口腔内から食道、そして胃に至る消化器官の全てが、飛来する物理的エネルギーを完全に殺し、同時に猛毒であるはずの呪肉した血液をただの栄養素として分解する。

 

 あまりの非現実的な光景に、脹相は思わず術式を解き、穿血の放出を止めてしまった。

 放水が止まったホースのように、血液の刃がプツリと消える。

 

「……ぷはぁっ」

 

 貞綱は、小さく息を吐き出すと、口の周りにべったりと付着した脹相の赤い血を、艶かしい舌でペロリと舐め取った。

 

「ごちそうさまでした。……少し、鉄分が強いですが、なかなかの滋味ですね」

 

 貞綱は、満足げに微笑んだ。

 

 異常。狂気。あるいは、人知を超えた何か。

 殺意の塊であったはずの音速の攻撃を、ただの飲み物として処理するその常軌を逸した行動に。

 怒りに燃えていたはずの脹相でさえも、背筋に強烈な悪寒を走らせ、ドン引きしたように数歩後ずさることしかできなかった。




九十九の手記によると、魂ってのは基本、多少混じることはあっても一つになることはないらしい
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