役立たずの三輪 作:メカ丸ゥゥゥウウウ!
東京都立呪術高等専門学校の一室。薄暗い空間には、古びた畳の匂いと、微かな線香の香りが漂っていた。
上座に座る京都校学長・楽巌寺嘉伸は、集まった生徒たちを前に、一切の感情を交えない冷徹な声で告げた。
「――宿儺の器、虎杖悠仁。これを交流会の中で殺せ。これは呪術界の総意であり、事故として処理する」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気は重く沈み込んだ。他校の生徒とはいえ、人間を殺せという明確な指示。加茂憲紀は目を伏せて静かにそれを受け入れ、西宮桃や禪院真衣もそれぞれの思惑から無言を貫く。
だが、その張り詰めた空気を、乱暴な舌打ちが切り裂いた。
「くだらん」
東堂葵だ。巨体を揺らし、彼は苛立ちも露わに立ち上がった。
「俺は俺の導きで動く。テメェらのつまらん謀略に付き合う気はない」
「東堂、待て!これは学長からの――」
「やかましい!」
制止しようとする加茂の言葉を怒声で遮り、東堂は部屋の襖を蹴り破る勢いで出て行った。後に残されたのは、厄介な戦力を欠いたという事実と、静寂だけである。
加茂は小さく息を吐き、残されたメンバーを見渡した。東堂が単独行動に出ることは予想の範疇だ。問題は、残りの戦力でいかに確実に虎杖悠仁を仕留めるかにある。
加茂の視線が、ふと一人の少女で止まった。
青い髪をスーツに包んだ三級呪術師、三輪霞。
彼女はまっすぐに加茂を見つめ返していた。その瞳に怯えはない。たとえ内心では嫌だなーと思いつつも、彼女の心臓の鼓動は奇妙なほど落ち着いていた。
加茂の脳裏に、ここ数週間の三輪の姿が浮かぶ。合同訓練で見せた彼女の動きは、もはや三級のそれとは次元が違っていた。振るう刀の速度、踏み込みの深さ、そして何より、常軌を逸した肉体の耐久力と呪力出力。まるで隠し持っていた牙を突然剥き出しにしたかのような、急激な成長。今の彼女は、間違いなく準一級、あるいは一級にすら手が届き得る実力を持っている。
「……三輪。お前の最近の仕上がりには目を見張るものがある」
加茂は静かに切り出した。
「東堂が抜けた今、確実に仕留めるには手数が要る。真衣、お前が遠距離から牽制と死角からの狙撃で隙を作れ。俺が術式で対象の動きを封じる。そして三輪――お前が、その瞬間に首を落とせ」
三輪は小さく顎を引き、頷いた。
「了解しました、加茂先輩」
三輪の内心は、自分でも驚くほど冷えていた。
(私が、人を殺す。……でも、手が震えない。なぜか、絶対にやれるという確信がある)
最近の自身の身体の変調。底なしに湧き上がる力と、異常なまでの肉体の強靭さ。彼女はそれがなぜ起きているのか理解していなかったが、戦場において自分が強いという事実は、思考をひどくクリアにさせた。彼女は自身の強さを過信せず、ただ盤上にある自分という駒の性能を客観的に評価し、最適解を導き出そうとしていた。
ーーー
サイレンの音が森に響き渡り、京都校と東京校の交流会・団体戦が幕を開けた。
鬱蒼と生い茂る木々の間を、京都校の面々は疾走する。
予想通り、開始早々に東京校の先陣を切って東堂の前に現れたのは、標的である虎杖悠仁だった。森の奥から、巨木がへし折れるような凄まじい衝突音が轟く。二人の規格外の肉弾戦が始まった証拠だ。
「予定通り行くぞ。散開しろ!」
加茂の合図で、京都校のメンバーは蜘蛛の子を散らすように森の闇へと溶け込んだ。
三輪は太い木の枝を蹴り、宙を舞うように移動していた。
(軽い……)
体重が消えたかのような錯覚。枝から枝へ飛び移る足には、疲労の欠片もない。視覚は薄暗い森の中でも対象の呪力の残滓を鮮明に捉え、聴覚は数十メートル先の打撃音の重さまで正確に聞き分けていた。まるで、自分の身体が自分のものではない、完璧に調整された戦闘兵器にでもなったかのようだった。
だが、三輪はその異常性に振り回されることなく、冷静に状況を俯瞰していた。
(標的は東堂先輩と交戦中。東堂先輩の術式は厄介だけど、今の虎杖悠仁の動きは単調。真衣の射撃で注意を引けば、加茂先輩の縛りが決まる。そこを私が……斬る)
森の開けた場所。
虎杖と東堂の拳が交差しようとしたその瞬間、遙か後方から、乾いた銃声が響いた。
真衣の放った銃弾が、虎杖の側頭部を掠める。致命傷にはならないが、意識を逸らすには十分すぎる一撃。
「なっ!?」
虎杖の意識が僅かに真衣の方向へ向いた瞬間、木々の陰から加茂が躍り出た。
「
事前に用意しておいた輸血パックから放たれた血の軌跡が、空中で網目状に広がり、虎杖の四肢を壁のようの木の幹へと縫い止める。強固な血の拘束に、虎杖の動きが完全に停止した。
「今だ、三輪!」
加茂の鋭い声が響く。
しかし、その声が届くよりも早く、三輪はすでに標的の頭上、空中へと身を躍らせていた。
本来、三輪が扱うシン・陰流簡易領域は、縛りにより両足を大地に固くつけ、特定の型をとることで初めて発動する技術である。だが、今の彼女の身体は、無意識のうちにその縛りがなくてもできるという確信があった。
空中に浮遊した状態のまま、三輪の周囲に半径2.21メートルの簡易領域が展開される。
領域内に侵入したものを、自動で迎撃するシン・陰流最速の斬撃。
「抜刀!」
重力に従い、落下するエネルギーを全て刀に乗せる。鞘走りの甲高い音が鳴り響き、青白い呪力の刃が虎杖の首筋へと一直線に迫った。標的の命を確実に刈り取る、必殺の軌道。三輪の優れた観察眼は、この一撃が確実に決まることを予見していた。
だが、彼女の視界の端で、巨漢の男が手を振り上げたのが見えた。
東堂葵。
彼が、両手を勢いよく打ち合わせた。
乾いた拍手の音が森に響いた瞬間、世界が反転した。
三輪の刃の先にあったはずの虎杖悠仁の姿が、かき消えるように消失する。代わりにそこにいたのは、団体戦のために用意されたと思われる低級の呪霊だった。
東堂の術式、不義遊戯(ブギウギ)。一定以上の呪力を持つモノの位置を、拍手によって入れ替える能力。東堂は、虎杖と、あらかじめ認識していた近くの呪霊との位置を瞬時に入れ替えたのだ。
「…っ!」
三輪は空中で僅かに目を見開いたが、決してパニックには陥らなかった。
対象が呪霊に変わろうとも、放たれた刃を途中で止めることはできない。ならば、そのまま振り抜くのみ。
軽い音と共に、大木もろとも呪霊が、まるで豆腐のように綺麗に真っ二つに両断された。切断面は鏡のように滑らかであった。
三輪は両断した大木の側に音もなく着地し、即座に刀を正眼に構え直す。周囲の気配を探り、次の一手に備える。その動きに、一切の無駄も隙もなかった。
「……クソッ。東堂の奴、やはり邪魔をしてきたか」
木の上に着地した加茂が、忌々しそうに舌打ちをする。
彼の視線の先では、位置を入れ替えられて難を逃れた虎杖が、地面を転がりながら体勢を立て直していた。そしてその横には、不敵な笑みを浮かべる東堂が立っている。
「加茂先輩、どうしますか」
三輪は前を向いたまま、静かに問いかけた。その声色に焦りはない。あくまで冷静な戦況分析を求めている。
加茂は瞬時に思考を巡らせた。
東堂の不義遊戯は、複数人での連携をいとも容易く崩壊させる。同士討ちの危険性が跳ね上がり、さらに今の東堂は明らかに虎杖を獲物として守る動きを見せている。これ以上の戦闘は、標的の暗殺どころか味方の被害を拡大させるだけだ。
「……引くぞ、三輪」
加茂の決断は早かった。
「東堂がいる以上、多対一は逆に不利に働く。一度体制を立て直す。禪院にも撤退の合図を送れ」
「了解」
三輪は刀を鞘に納め、一切の未練を残さずに踵を返した。
強大な力を得たからといって、功を焦るような愚かな真似はしない。彼女はあくまで、与えられた役割を全うする歯車として冷徹に行動した。
木々を飛び移り、急ぎその場を離脱する加茂と三輪。
しかし、戦場は彼らを休ませてはくれなかった。
森を抜け、開けた場所に出ようとしたその時、三輪の異常に発達した感覚が、前方から迫る複数の鋭い呪力の気配を捉えた。
「加茂先輩、前方から敵です!」
三輪の警告とほぼ同時。
頭上の枝葉を突き破り、黒い影が二つ、彼らの前に立ちはだかった。
長い薙刀を担いだ禪院真希と、式神を使役する伏黒恵。
東京校の迎撃部隊であった。
「……チッ、待ち伏せか」
加茂が身構え、血液を凝固させる。
三輪は再び柄に手をかけ、目の前の強敵たちを見据えた。先ほどの暗殺失敗の動揺など、微塵もない。彼女の研ぎ澄まされた観察眼は、すでに真希の隙のない構えと、伏黒の呪力の流れを正確に測り始めていた。
自身の内に眠る巨大な力の正体を知らぬまま、三輪霞は次なる死地へとその足を踏み入れたのである。