役立たずの三輪   作:メカ丸ゥゥゥウウウ!

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本日二話目です。

明日も12:00と18:00です。日曜日からはまた18:00投稿に戻ります。


渋谷の跡で⑤

 血と泥に塗れた渋谷の路上。

 極大の絶望へと突き落とそうとした自らの暗い衝動を、器に残された無意識の抵抗によってすんでのところで押し留められた蘆屋貞綱は、ゆっくりと自らの頬から右手を下ろした。

 そして、先ほどまで浮かべようとしていた悪魔の薄ら笑いを綺麗さっぱりと消し去り、再び慈愛に満ちたお姉ちゃんの完璧な微笑みを顔に貼り付けた。

 

「……悠仁」

 

 貞綱は、膝をついて震えている虎杖悠仁の前に両膝を突き、その白く滑らかな両手で、虎杖の無骨な右手をそっと包み込むように握り締めた。

 反転術式による治癒を終えたとはいえ、虎杖の拳は激しい戦闘の余波で硬く強張り、あちこちにタコができていた。しかし、貞綱の手のひらを通して伝わってくるその感触には、いかに彼が超人的な身体能力を持っていようとも、まだわずかに子供特有の柔らかさと、未成熟な命の温もりが残されていた。

 

 十五歳の、普通の少年。

 本来であれば、友人と笑い合い、下らないテレビ番組を見て日々を過ごしているはずの、ただの子供の手。

 

 その温もりを両手で包み込まれた虎杖の脳裏に、凄惨な記憶がフラッシュバックする。

 自らの肉体を乗っ取った呪いの王、両面宿儺が為した極悪非道の所業の数々。

 渋谷の街を無差別に切り刻み、数多の命を塵のようにすり潰し、そして、人が死にゆく様を腹の底から愉快そうに嗤い転げていた、あの悍ましい姿。

 

 宿儺は、どこまでいっても呪いだ。人間の命など、道端の石ころや這い回る虫けらと同等にしか思っていない、純粋で絶対的な天災。今日この絶望の底に突き落とされるよりもずっと前から、頭では理解していたはずの残酷な現実。

 

 ならば。

 今、自分の手を優しく握り締め、祖父のように温かい正の呪力で傷を癒してくれた、目の前のこの存在は一体何なのだろうか。

 

 三輪霞という先輩の肉体を乗っ取り、五条悟を封印した黒幕をお母さんと呼び、そして初対面の自分を弟と呼んで微笑む化け物。

 彼女は、人間なのか。それとも、宿儺と同じ、人を嗤う呪いなのか。

 虎杖の疲弊しきった脳では、最早その判断をつけることは不可能だった。

 

 だが、それでも。

 彼女が何者であろうと、藁にも縋る思いで助けたい人がいる。自分の目の前で頭を吹き飛ばされた釘崎野薔薇。そして、この地獄の渋谷で傷つき、今も死の淵を彷徨っているであろう、数え切れないほどの人々。

 自分がもう一度立ち上がり、彼らの命を繋ぎ止めるためには、五条悟不在の今、この目の前の得体の知れない力に頼るしかなかった。

 

「……お前は」

 

 虎杖の喉から、掠れた、血を吐くような声が漏れた。

 

「お前は……呪いか?」

 

 それは、虎杖悠仁という少年の魂からの、切実な問いかけであった。

 もしお前が宿儺と同じ呪いなら、俺のこの願いすらも嘲笑い、踏みにじるのだろうか。

 

 その想定外の、しかし本質を突いた問いかけに、貞綱は目を丸くし、小首を傾げて少しだけ悩むような素振りを見せた。

 

(私が、呪いか……ですか)

 

 貞綱は、江戸時代後期における、自らの長大な記憶の海を静かに遡った。

 

 彼女はこれまでの生涯で、数え切れないほどの人間を絶望の淵に突き落とし、その人生を狂わせ、不幸にしてきた。

 しかし同時に、高名な医者として、あるいはシン・陰流という弱者のための防衛術を広める教育者として、数え切れないほどの人間を救い、光を与えてきてもいた。

 

 そこに、高尚な理念や、善悪の確固たる基準など存在しない。

 人を不幸にして呪いが向けられるのを悦とする時は、ただそうした。

 人を救って、次世代へと命を繋ぐことを悦とする時は、ただそうした。

 

 全ては、その時の気分。

 絶対的な力を持つ強者ゆえの、恐ろしいほどの気まぐれ。彼女の行動原理は、大自然の移ろいと同じくらい、人間にとっては理不尽で予測不可能なものであった。

 

(でも……今はどうかと言えば)

 

 貞綱は、目の前で必死に自分に縋りつこうとしている、心が傷だらけの少年の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

(今は、この可愛い弟の、必死のお願いを聞いてあげたい気分ですね)

 

 自分は呪いか、それとも人間か。

 そんな定義づけなど、彼女にとっては些末な問題でしかない。

 貞綱は、ふわりと花が咲くような、この日一番の優しく美しい微笑みを浮かべた。

 なら、彼に対する返答として、こう言うのが一番の正解だろう。

 

「――あなたがそう願うなら」

 

 呪いと呼ぶなら、呪いになろう。救済者と呼ぶなら、救済者になろう。

 

 その言葉の奥に潜む、底知れぬ空虚さと絶対的な力への自信。

 虎杖は、その貞綱の言葉を聞いた瞬間、自分の中で張り詰めていた最後の躊躇いの糸を完全に断ち切った。

 虎杖は、貞綱に握られた両手を力強く握り返し、泥だらけの顔を限界まで下げた。

 

「頼む……!! 釘崎を、渋谷で傷ついた皆を……助けてくれ!!」

 

 額が地面に擦り付けられんばかりの、土下座にも似た必死の懇願。

 それは、無力な少年が、絶対の力を持つ神――あるいは悪魔――へと捧げた、魂からの救いの祈りであった。

 

 貞綱は、自分にすがりつく虎杖の頭を、慈しむように優しく一撫でし、ただ一言、短く頷いた。

 

「分かりました」

 

 その言葉が渋谷の冷たい空気に溶け込むと同時。

 貞綱の姿は、虎杖の眼前から音もなく陽炎のように消失した。

 

 

ーーー

 

 

 次に貞綱が現れたのは、再び巨大なクレーターの縁、羂索のすぐ隣であった。

 彼女の歩法は、空間を跳躍したかのように一切の気配も呪力の残滓も残さない。

 

「随分と弟に肩入れするじゃないか。どうするつもりだい?」

 

 夏油が、面白そうに貞綱の顔を覗き込む。

 

「ええ。可愛い弟の頼みですからね、少しばかりお姉ちゃんの仕事をしてこようかと」

 

 貞綱は、スーツの埃を軽く払いながら、事も無げに答えた。

 

「好きにするといい。私はこれから、天元を手に入れるための最終段階に入る。それが完了し、盤面が整ったら、また君に連絡するよ」

「分かりました」

 

 そこで、貞綱はふと何かを思い出したように、三輪霞の記憶の海からある単語を引っ張り出した。

 江戸時代には存在しなかった、この現代における極めて便利な繋がりの道具。

 

「お母さん、ラインやってます?」

 

 その、凄惨な死闘が繰り広げられた渋谷の地獄の中心にはあまりにも不釣り合いな、女子高生のような軽い問いかけ。

 だが、千年の時を生き、現代の肉体と知識を完璧に我が物としている羂索は、その問いに対して一切の違和感を見せず、袈裟の懐に手を突っ込んだ。

 

「もちろん。フルフルでいくかい?」

「はい」

 

 羂索が最新型のスマートフォンを取り出し、貞綱もまた、スーツのポケットに入っていた、画面の端が少しだけ割れているスマートフォンを取り出した。

 血の海と瓦礫の山を背景に、千年の呪詛師と数百年前の最強の剣士が、スマートフォンの画面を近づけ合い、端末を軽く振る。

 ピロンッ、という、気の抜けるような電子音が二つの端末から同時に鳴り響いた。

 

「よし、登録完了だ。後でスタンプでも送っておくよ」

「ありがとうございます。お母さんからの連絡、待ってますね」

 

 互いにスマートフォンをポケットに仕舞い込む。

 

 狂気。

 

 その光景を端から見れば、あまりのシュールさと倫理観の欠如に、正気を疑うほかないだろう。だが、彼らにとっては、数万の人間が死のうが街が消滅しようが、それは些末な環境の変化に過ぎず、この日常的なやり取りこそが彼らの精神の平定を如実に表していた。

 

 その時。

 貞綱の異常に研ぎ澄まされた知覚センサーが、渋谷の街の遠方から、急速にこちらへと向かってくる巨大な呪力の気配を捉えた。

 

(……ほう。これは……)

 

 貞綱の目が、夜の闇の奥を射抜くように細められた。

 荒々しく、しかし洗練された、特級クラスの途方もない呪力の質量。

 

 五条悟でも、両面宿儺でもない。今日この渋谷で感じたどの呪力とも異なる、まだ見ぬ強者の気配。

 貞綱の胸の奥底で、純粋な戦闘狂としての血が熱く脈打ち、今すぐにでもその強者と刃を交えたいという凶暴な衝動が湧き上がってきた。折れた刀の柄を握る手に、ギリッと力が入る。

 

「……おや」

 

 羂索もまた、その巨大な気配に気づき、微かに顔をしかめた。

 

 貞綱は、数秒間その気配を吟味した後、ふぅ、と小さく息を吐いて刀の柄から手を離した。

 

 今は、我慢の時だ。

 これからお母さんが引き起こす死滅回游。全国規模で行われる、呪術師たちの未曾有の殺し合いの儀式。それが始まれば、今日のような強者たちとの命を懸けた戦いなど、いくらでも、それこそ飽きるほどに味わうことができる。

 数百年待ったのだ。あと数日、数週間待つことなど、造作もない。

 それに何より、今は弟からの頼み事を最優先でこなさなければならない気分なのだから。

 

「では、お母さん。私はこれにて」

「ああ。道中、気をつけてね」

 

 貞綱は羂索に深く一礼すると、足元の瓦礫を蹴り、音もなく夜の渋谷の闇の中へと溶けて消えていった。

 弟との約束を果たすため。そして、自らの果てなき気まぐれを満たすために。

 

 そして。

 貞綱がその場から完全に姿を消した、まさに数秒後。

 彼女と入れ替わるようにして、上空から凄まじい風圧と共に、一人の人物が虎杖の側へと舞い降りた。

 

 長身にライダースーツを纏い、背後には骨のような異形の式神を従えた女性。

 日本に四人しか存在しない特級呪術師の一人、九十九由基。

 

「……随分と、派手にやったみたいだね」

 

 九十九は、眼下の惨状と、無傷で立つ羂索を一瞥し、不敵な笑みを浮かべた。

 彼女の到着により、渋谷事変は最終局面――黒幕との最終問答へと突入していく。

 

 しかし、その激動の運命の渦から、規格外の化け物を宿した一人の少女は、すでに遠く離脱していた。

 呪術が全てを支配した、全盛の平安の世の再来。

 世界が根底から覆り、新たな地獄の蓋が開く死滅回游の幕開けまで、残された時間は、ほんの僅かであった。

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