役立たずの三輪   作:メカ丸ゥゥゥウウウ!

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主人公の名前も判明したのであらすじに変更を加えました。


怒髪冠を衝く

 十月三十一日の夜を境に、日本の歴史と常識は根底から完全に覆された。

 

 死滅回游。

 

 それは、呪術が全てを支配した平安の世の、現代における最悪の形での再来であった。

 首謀者である羂索が、千年の時をかけて呪物として契約を交わした過去の強力な呪術師たち。そして、彼が放った無為転変によって脳の構造を弄られ、突如として術師に覚醒した現代の人間たち。のべ一千人にも及ぶプレイヤーたちが、自らの命と呪術を懸けて殺し合う、狂気と血に塗れたデスゲーム。

 

 東京全域には、一千万体を超える無数の呪霊が野に放たれた。

 首都機能は完全に麻痺し、政府高官の消息は不明。通信網は寸断され、政治的空白と未曾有の超常災害により、日本全土が底無しの混乱の渦中へと突き落とされていた。

 

 その日本崩壊の最中、辛うじて機能を取り戻しつつあった呪術総監部の上層部は、薄暗い会議室で冷酷な決定を下し続けていた。

 

 両面宿儺の器であり、渋谷に甚大な被害をもたらした元凶である虎杖悠仁の、死刑執行の決定。その執行役として、特級呪術師・乙骨憂太の正式な派遣。

 そして、もう一つ。

 渋谷事変において夏油傑の傍らに立ち、その混乱の一翼を担う形となった京都校の二年生――三輪霞に対する、即時の死刑宣告であった。

 

 呪術界の最高決定機関が、二人の若き術師の命を事務的に刈り取ろうと動き出していた、まさにその頃。

 

 

ーーー

 

 

 日本の某所。

 

 東京の地獄絵図が嘘のように感じられる、古びた街角の平穏な風景。

 色褪せた日よけのテントと、ガラスの引き戸。昭和の香りを色濃く残す、小さな駄菓子屋の店内に、一人の少女の姿があった。

 水色の髪を揺らし、血の匂いなど一切しない清潔な私服に身を包んだ、蘆屋貞綱である。

 

「お婆ちゃん、これはいくらですか?」

 

 貞綱は、店番をしている腰の曲がった老婆に向かって、プラスチックの小さなカゴを片手に持ちながら、いつもの女子高生らしい、愛嬌のある笑顔で尋ねた。

 

「ああ、それは四十円だよ」

 

 老婆は、皺くちゃの顔をほころばせて優しく答える。

 

「じゃあ、これは?」

「それは五円だねぇ」

「こっちは?」

「それは三十円だよ」

 

 貞綱は、老婆に値段を聞いては、色鮮やかな飴玉や、きなこ棒、小さなラムネの瓶などを、楽しそうに次々とカゴの中へと放り込んでいった。

 商品を見ている途中、店先の隅にホコリを被って置かれている、古いガチャガチャの機械が彼女の目に留まった。

 三輪は自身の財布から百円玉を一枚取り出し、硬貨の投入口に入れると、ガチャガチャという小気味良い音を立てて回し口を回した。コロン、と出てきたプラスチックの丸いカプセルを拾い上げ、中身のチープな玩具を愛おしそうに見つめる。

 

「ふふっ。これもいただきましょう」

 

 目に付いたお菓子や玩具をあらかたカゴに詰め込んだ三輪は、レジ台にそれを置き、千円札を一枚渡して、お釣りを受け取った。

 

 普通の客であれば、ここで「ありがとうございました」と頭を下げて店を後にするだろう。

 しかし、三輪はカゴに入った駄菓子を見つめたまま、一向に店を出て行く気配を見せなかった。

 

「……本当に、いい時代になりましたね」

 

 三輪は、ラムネの瓶を指で弾きながら、どこか遠い目をしてポツリと呟いた。

 

「甘味という、かつては限られた者しか口にできなかったものが、たった数十円分の銅貨があれば容易く口にできる。チープですが、それなりの味がして、人々の心を豊かにしている。……素晴らしいことです」

「ほんとだよぉ」

 

 老婆は、貞綱の少し大人びた言葉に、深く頷いて相槌を打った。

 

「私が小さい頃には、こんなに色んな種類のお菓子が安く買えるなんて、考えられなかったからねぇ」

「……」

 

 三輪の動きが、ピタリと止まった。

 彼女の口元から、先ほどまでの愛らしい微笑みがスッと消え去る。

 

「……百五十年も前ですからね」

 

 その瞬間。

 店内の空気が、物理的に凍りついたかのように重くなった。

 これまで穏やかで、礼儀正しい女子高生そのものであった貞綱の全身から、底知れぬ呪力の圧力が静かに漏れ出し始める。

 そして、ゆっくりと老婆へと向けられたその眼差しは、凄まじい怒気を孕んで細められていた。

 

「なァ、三代目」

 

 突如として、三輪の口から発せられたその声は。

 先ほどまでの三輪霞の高く澄んだ声帯を使いながらも、その奥底から這い出るような、粗野で、低く、ドス黒い怒りに満ちた男勝りな口調であった。

 

 三代目。

 その言葉が意味するものは、この場においてただ一つ。

 シン・陰流、現在の当主である。

 

「ど、どこでそれを……」

 

 老婆――シン・陰流の現当主の顔が、驚愕と恐怖に引き攣った。

 身分を隠し、一般社会の片隅で息を潜めて御三家の没落と総監部の乗っ取りを画策する自分の正体を、なぜこの小娘が知っているのか。

 老婆が狼狽の声を上げた、まさにその直後であった。

 

 ドサッ。

 老婆の左腕が、肩の根元から完全に切断され、血飛沫と共に床に落ちた。

 

「ガ、アァァァァァァァッ!?」

 

 数秒遅れて脳に到達した激痛。老婆は、吹き出す左肩の傷口を右手で強く押さえ、その場に崩れ落ちて悲痛な呻き声を上げた。

 老婆は、脂汗を流しながら三輪を見た。

 三輪の手には、刀は握られていない。丸腰である。振りかぶる動作すら、一切見えなかった。

 しかし、老婆の濁った呪力感知センサーは、絶望的な事実を捉えていた。

 この小娘の足元から、老婆の身体をすっぽりと範囲に収める結界――シン・陰流 簡易領域が、音もなく展開されていたのだ。

 

 刀を持たずして、領域内の対象を不可避にして不可視の斬撃で切り裂く。

 

 否。老婆のシン・陰流当主としての観察眼がそれを否定する。これは刀によって切られたのではない。まるで老婆自らがこの状況に恐怖し、トカゲの尻尾のように自切したかのような……。

 

 その若さに到底釣り合わない、神域に達した完成された練度。そして、先ほどの百五十年も前という、常軌を逸した会話の内容。

 二つのピースが、老婆の老いた脳髄の中で、一つのあり得ない結論へと結びついた。

 

「ま、まさか……初代、様……!?」

 

 老婆の口から、畏怖と絶望の入り交じった叫びが漏れた。

 しかし、彼女がそれ以上言葉を紡ごうとした時、さらに不可解な現象が起きた。

 叫ぶ老婆の左肩の切断面から、先ほどまで滝のように吹き出していた血液が、ピタリと、不自然なほどに完全に止まったのだ。

 

 この老婆に、失った腕の出血を瞬時に止めるような高度な反転術式を扱う技量はない。ならば、必然的に目の前に立つ貞綱が、何らかの手を下して止血したということになる。

 しかし、老婆は彼女から正の呪力の気配を一切感じ取っていなかった。

 

 切断面の血管群が強制的に収縮し、筋肉組織が独自の法則で一瞬にして癒着、封鎖されたかのような異常現象。未知の止血に、老婆の混乱は頂点に達した。

 

「どうしました? なんで血が止まってるか、不思議ですか?」

 

 貞綱は、床で震える老婆を見下ろし、再び女子高生らしい、しかし極めて冷酷なトーンの丁寧語に戻って問いかけた。

 

「ねえ、お婆ちゃん。私が、何のためにシン・陰流を作ったと思います?」

「じ、弱者の……ため、だと……」

 

 老婆は、一門に伝わる教えを、震える声で絞り出した。

 

「そう。弱者のためです」

 

 貞綱は、小さく頷いた。しかし、次の瞬間、彼女の顔が怒りに歪み、その口調が再び粗野なものへと乱高下した。

 

「じゃあ、なんで弱者なんかに力をくれてやる必要があったんだよ。ええ? 答えろよ」

「そ、それは……」

 

 老婆は、答えられなかった。ただ弱者を守るため。それ以上の深い哲学を、彼女は持ち合わせていなかったのだ。

 

 貞綱は、落胆の入り交じった冷たい視線を向け、再び表面上の穏やかな口調を取り繕いながら言葉を紡ぎ始めた。

 

「……弱者とはね、いつか強者になる可能性を秘めている存在なんですよ。今は弱くとも、その命が繋がり、交われば、弱者の子孫もまた弱者であるとは限らない。いつの時代か、突然変異のような規格外が生まれ落ちるかもしれない」

 

 貞綱は、駄菓子の詰まったカゴをレジ台に置き、一歩、老婆へと距離を詰めた。

 

「でも、弱者ゆえに、奴らはすぐ死ぬんです。呪いに狩られ、時代に殺され、未来での可能性を見せる前に、その道が容易く途絶えてしまう。……だから、私は作ったんです。弱者が、理不尽な世界で生き残り、足掻いて戦うための術を。私は、未来への可能性の種を植えたんですよ」

 

 貞綱の眼光が、再び凄まじい怒気を帯びて鋭く光る。

 

「現代というこの時代で、数え切れないほどの弱者の種が花開くのを夢見て。……でも、現実はどうでしたか?」

 

 貞綱の脳裏に、渋谷で簡易領域を展開し、歌姫たちを守ってみせた一人の男の顔が浮かぶ。

 

「日下部先生……彼くらいしか、可能性を見せてくれなかったじゃないですか。他は、全くの期待外れ。何故、これほどまでに種が育たなかったのか……分かりますよね?」

 

 貞綱の声が、怒りで低く震え、ついにその感情の昂りが限界を突破した。

 完璧な三輪霞の仮面が剥がれ落ち、江戸の世を生き抜いた荒くれ者の術師としての本性が、剥き出しの牙となって老婆に襲いかかる。

 

「門外不出!! テメェがそんなクソみたいな縛りを作って、せっかくの技術を身内だけで独占しやがったからだろうが!!」

 

 特権階級に胡坐をかき、技術を囲い込み、弱者に広めるという本来の理念を完全に歪めた、老婆への激しい憎悪。

 貞綱が話し終える頃には、老婆の顔は、出血が止まっているにも関わらず、恐怖による大量の冷や汗でびっしりと濡れそぼっていた。

 

「……ひっ、ゆる、許して……!」

 

「あーあ、本当にガッカリしました」

 

 貞綱は、冷たく見下ろしたまま、ひどく低い、粗野な声で吐き捨てた。

 

「楽に死ねると思うなよ」

 

 その氷のような宣告が下されたのと同時。

 今度は明確に、圧倒的な純度を持った正の呪力が貞綱の身体から老婆へと流れ込んだ。

 

 反転術式。

 老婆の切断された左肩の傷口から、肉が泡立ち、骨が伸び、ものの数秒で、落とされたはずの左腕が完全に元の状態へと復元された。

 

「あ……腕が……」

 

 老婆が呆然と復元された腕を見つめる。

 しかし、それが永遠に続く拷問の始まりであることを理解し、老婆の瞳は完全な絶望に見開かれた。

 

 斬り落としては、治す。

 その無限の苦痛のループによって、この傲慢な三代目の精神が完全に崩壊するまで、貞綱の怒りが収まることはない。

 外の景色は、日が沈むには、まだ早すぎる時間だった。

 

 

ーーー

 

 

 その日の夜。

 血の匂いなど一切しない、穏やかな日常の空気が漂う、三輪霞の実家のリビング。

 貞綱は、ソファに深く腰掛け、テーブルで熱心にノートに向かっている二人の弟たちの姿を、スマートフォンを片手に見つめていた。

 

 夕方の駄菓子屋での残虐な拷問など微塵も感じさせない、ただの心優しいお姉ちゃんの顔。口調も、完全にいつもの彼女のものであった。

 

 彼女の手元のスマートフォンの画面には、LINEのトーク画面が開かれていた。

 相手は、シン・陰流の師範である日下部篤也。

 貞綱は、画面をフリックし、淡々とした手つきでメッセージを送信した。

 

『日下部先生、お疲れ様です! つい先ほど、シン陰流当主は隠居なさいました。今日から、先生がシン陰流の新たな当主ですよ。技術の独占は直ちに辞めて、門外不出の縛りはナシでお願いしますね!』

 

 スタンプを一つ添えて送信ボタンを押し、貞綱はスマートフォンの電源をプチリと切った。

 

「お姉ちゃん、ここ、どうしても分からないんだけど……」

 

 弟の一人が、数学の教科書を持って貞綱の元へと駆け寄ってきた。

 

「どうしたの? どこが分からない?」

 

 貞綱は優しく微笑み、教科書を受け取る。

 彼女自身は江戸時代の人間であり、現代の数学など知る由もない。しかし、三輪霞の脳裏に刻まれた記憶の海を静かに洗い直せば、必要な知識はすぐに見つかる。

 貞綱は、記憶の中から該当する解法のプロセスを瞬時に引きずり出すと、弟の隣に座って、極めて分かりやすく、丁寧に教え始めた。

 

「ええとね、ここは、この公式に当てはめて、こうやって展開していくんだよ」

「あ、そっか! すごい、お姉ちゃん分かりやすい!」

「ふふっ。頑張って勉強して、立派な大人になってね」

 

 弟の頭を優しく撫でる貞綱の横顔は、まるで本物の姉のように、愛情に満ちていた。

 外の世界では、呪術界が彼女の死刑を宣告し、死滅回游という地獄のゲームがその口を開けている。

 しかし、彼女にとってはこの小さな平穏もまた、気まぐれに楽しむべき一つの余興に過ぎない。

 窓の外では、夜の闇が静かに深まっていた。

 強者たちが殺し合う、狂乱の夜は、まだ始まったばかりであった。

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