役立たずの三輪   作:メカ丸ゥゥゥウウウ!

27 / 39
禪院家で③

 生臭い血の匂いが、広大な和室の空気を重く、ねっとりと支配していた。

 扇が渾身の呪力を込めて振り下ろした必殺の刃。真依の細い首を断ち切り、彼女を庇う真希ごと両断するはずだったその白刃は、突如として現れた水色の髪の少女の素手によって、いとも容易く、そして完全に停止させられていた。

 

 血飛沫に染まった凄惨な地獄の風景の中で、その少女――三輪霞の姿をした存在だけが、一切の汚れを知らないかのように静かに佇んでいた。

 刃を握り止めたまま、少女は足元で血まみれになって抱き合う姉妹を見下ろし、かつての三輪そのものの、とても優しく丁寧な口調で問いかけた。

 

「……真依さん。大丈夫でしょうか?」

 

 その声が鼓膜を震わせた瞬間。

 致命傷を負った姉を抱きしめ、死の恐怖に目を閉じていた真依は、弾かれたように目を見開いた。

 間違いない。京都校で共に過ごし、共に下らない話で笑い合った、かけがえのない同級生の声だ。

 だが、真依の心に安堵の色が浮かぶことはなかった。それどころか、彼女の背筋を、扇の刃とは比較にならないほどの氷のような悪寒が駆け抜けた。

 

 渋谷事変の終盤。

 九十九由基とその仲間たちに保護され、辛くも死線を脱した真依は、その後、京都校の仲間たちと合流を果たした。しかし、その輪の中に、ただ一人、三輪の姿だけがなかったのだ。

 どうしたのかと尋ねる真依に対し、上空から事の顛末を見ていた西宮は、涙を堪えながら絶望的な事実を口にした。

 ――三輪ちゃんは……もう、いない。得体の知れない昔の術師に、身体を乗っ取られたの。

 

 真依は、今自分が置かれている、父親に殺されかけているという絶望的な状況すらも完全に意識の外へと追いやり、目の前に立つ三輪の皮を被った化物を、激しい憎悪と拒絶の眼差しで睨みつけた。

 

「……ふざけないで」

 

 真依の口から、血の混じった掠れ声が漏れる。

 

「霞は……私のことを呼び捨てで呼ぶし、敬語だって使わないのよ」

 

 それは、最愛の後輩の姿を愚弄する悪魔に対する、彼女なりの精一杯の抵抗であり、鋭い拒絶の言葉だった。

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 少女の表情から、ピタリと感情の動きが消失した。

 ほんの数秒。ガラス玉のように透き通った瞳が、自身の内側――三輪霞の脳髄の最深部に刻まれた記憶の海を、恐るべき速度で検索し、解析する。

 そして、少女は再び、パッと花が咲いたような完璧な笑顔を顔に貼り付け、先ほどの自身の言葉を、まるでテープを上書きするように言い直した。

 

「――真依、大丈夫? 怪我はない?」

 

 その、イントネーションから声色、親愛の情に至るまで、生前の三輪霞と寸分違わぬ完璧な模倣。

 真依の全身の毛穴が粟立った。

 この呪詛師は、ただ肉体を奪っただけではない。器となった三輪霞の記憶の全てを、まるで自分の本棚から本を抜き出して読むように、自由に覗き見し、利用できるのだ。

 真依は、三輪の人生そのものを玩具として弄ぶこの化け物の悍ましさに、吐き気すら覚えていた。

 

 二人が言葉を交わすその傍らで。

 自らの刀を止められた禪院扇は、驚愕から立ち直り、油断なく少女から大きく距離をとっていた。

 

(……何者だ、こいつは)

 

 扇の老獪な目が、少女を頭の先から爪先まで冷徹に観察する。

 大した呪力の総量は感じられない。恐らくは何らかの強力な術式による防衛機構だと扇はあたりをつけた。

 でなければ、特別一級術師の呪力が込められた刃を素手で止め、その莫大な運動エネルギーを殺し尽くすことなど不可能なはずだ。

 

 その時、扇の耳に、足元の真依が吐き捨てた『三輪』という単語が入った。

 

(三輪……三輪霞か!?)

 

 扇の脳内で、呪術総監部からの通達がフラッシュバックした。

 渋谷事変における未曾有のテロの主犯格である夏油傑、五条悟。そして、それと同罪として、総監部より即時の死刑を宣告された京都校の少女。

 娘の真依たちには一切の関心を持っていなかった扇だが、次期当主の座を狙う上で上層部の動向を逐一探っていた彼は、死刑宣告された三名の情報を詳細に集めており、その中の一人が娘の同級生であることも当然掴んでいた。

 

 しかし、扇の思考に致命的なノイズが混じる。

 渋谷での情報によれば、彼女は異常な呪力出力を誇っていたはずだ。だが、目の前の存在から放たれている呪力量は、どう見積もってもそこまでの規格外には感じられない。情報の乖離。

 さらに、扇の視線が、少女の腰の帯に無造作に差されている一本の刀に止まった。

 黒く重厚な鞘。それは、禪院家の忌庫の最奥に厳重に封印されていたはずの特級呪具。あらゆる物質の硬度を無視して魂を切り裂く刀、釈魂刀の姿であった。

 

(何故、あの忌庫の呪具をこの小娘が……いや、理由は後だ)

 

 扇の心に、どす黒い野心が再び燃え上がる。

 上層部から死刑を宣告された大罪人が、今、無防備にも自らの目の前に立っている。しかも、視線はこちらから完全に外れ、足元の真依に気を取られているのだ。

 今なら。今この瞬間、この小娘を真希、真依もろとも葬り去り、その首を上層部への手土産に差し出せば、自らの禪院家当主の座は盤石なものとなる。

 焦りと野心が、扇の冷静な判断力を致命的に鈍らせていた。

 

「舐めるなよ、小娘がッ!!」

 

 扇は、手にした刀に己の全呪力を爆発的に注ぎ込んだ。

 

「術式解放!焦眉之赳(しょうびのきゅう)!!」

 

 ゴォォォォォォッ!!

 扇の刀身から、超高熱の炎のような呪力が猛烈な勢いで立ち上る。延長された呪力の切先が、和室の天井を容易く切り裂き、焦げ跡を残す。

 術式を完全に発動される前に、その細い首を間合いの外から切り落とす。

 そう判断した扇の踏み込みと、刀を振るう速度は、間違いなく特別一級術師の称号に相応しい、神速の剣技であった。

 

――ただただ、相手が悪すぎた。

 

「チッ……うるせぇな」

 

 少女――蘆屋貞綱の口から、先ほどまでの甘い声とは全く異なる、粗野で、ひどく苛立った男勝りの声が漏れた。

 扇の炎を纏った刃が、彼女の首筋に到達するコンマ数秒前。

 貞綱は、視線すら扇に向けないまま、軽く右手を振るった。

 

ガキンッ!!!

 

 ただの、素手による無造作な手刀。

 それが、扇の刀身の腹を的確に捉えた瞬間。特別一級術師の呪力で保護され、炎を纏っていたはずの頑強な名刀が、根元からあっさりと、まるで飴細工のように粉々に砕け散った。

 

「なッ――!?」

 

 自らの最大の攻撃を、視線すら向けられずにへし折られた驚愕。扇の思考が完全に停止した。

 

 その直後。

 刀を折った貞綱の右手が、返す刀の軌道で、流れるように扇の顎を下から撃ち抜いた。

 

 脳髄を激しく揺らす、完璧なカウンター。

 扇の身体は、床から数メートル浮き上がり、和室の壁に激突して白目を剥いたまま、ピクリとも動かなくなった。

 瞬殺。

 言葉の綾ではない。彼女にとって、禪院扇という特別一級術師は、最初から最後まで眼中にすら入っていない有象無象の虫けらに過ぎなかったのだ。

 

「さて、邪魔者も消えたことですし」

 

 鬱陶しい羽虫を叩き落とした貞綱は、再び三輪の丁寧な口調に戻り、血の海に倒れる真希と真依の元へと膝をついた。

 

 彼女がここ、禪院家本邸に足を運んだ理由はただ一つ。現在の呪術界における最高戦力、御三家の実力を確認するためであった。

 五条家は、五条悟という規格外が封印された今、もはや論外。

 加茂家は、自らのお母さんである羂索が当主の座に収まったため、気骨のある反抗的な術師はすでに皆殺しにされており、同じく論外。

 残る禪院家にも、彼女はすでに大して期待はしていなかった。屋敷に訪れた矢先、この奥の院から漂ってくる濃密な血の匂いに誘われて、ただの気まぐれでこの部屋を訪れたに過ぎない。

 

 貞綱の、真依に対する感情。

 それは、器である三輪の記憶から友達として個の認識はしているし、こうして目の前で死にかけていれば気まぐれに助けもするが、ただそれだけのこと。

 一日に銃弾を一つ作り出すのが関の山である、微弱な呪力と術式。弱者と呼ぶに相応しい実力の真依に、最強を求める貞綱の食指が動くことは決してない。

 

 そしてそれは、傍らで腹を割かれて倒れている姉の真希に対しても同様であった。

 本来術師として生まれてくるはずだった呪力と術式を犠牲にし、その代償として向上した身体能力。天与呪縛のフィジカルギフテッド。

 貞綱が生きていた数百年前の江戸の時代にも、そのような特異体質を持つ者はいないことはなかった。しかし、彼女が真の強者として覚醒する前に、こんなつまらない男の刃に遅れをとり、腹を割かれて死にかけている程度の存在に、貞綱が興味を抱く理由などどこにもない。

 そう、ないはずだった。

 

「……少し、痛みますよ」

 

 貞綱は、まず意識のある真依の傷口に手を当て、高度な反転術式を流し込んで切り傷を塞いだ。

 続いて、大量に出血し、完全に意識を失っている真希の身体へと向き直る。

 真希の腹部の傷は深く、切り裂かれた腹腔からは、内臓の一部が外へとこぼれ落ちそうになっていた。

 単なる欠損や裂傷であれば、外から正の呪力を流し込めばそのまま治る。しかし、内臓が溢れ出ている状態ならば、まずはそれを物理的に腹の中へと戻し、正しい位置に収めてから組織を癒着させる必要があった。

 

貞綱は、躊躇することなく血の海に手を突っ込み、真希の生温かい内臓を鷲掴みにした。

 そして、それを彼女の腹の中へと押し戻そうとした、その瞬間である。

 

――ビキッ。

 

 貞綱の脳髄に、強烈な電撃のようなインスピレーションが駆け巡った。

 彼女の手に触れた真希の生々しい臓器、そしてそこに流れる血液から、彼女の異常に研ぎ澄まされた呪力感知センサーを通して、真希という人間の情報が怒涛の勢いで流れ込んできたのだ。

 

(……ほう?)

 

 貞綱の目が、見開かれた。

 呪術界において、双子が凶兆とされるのは何故か。

 江戸時代を生きた貞綱は、他者の血筋や迷信などに興味がなかったため、その呪術的な詳細な理由を知らなかった。しかし今、真希の血液から読み取った呪力構造の情報が、その謎の答えを彼女に明確に理解させた。

 

 一卵性双生児は、呪術的な観点において同一人物として見做される。

 驚くべきことに、貞綱が触れているのは真希の肉体であるにも関わらず、真希の血を通して、隣にいる妹の真依の情報までもが、一つの混ざり合ったノイズとして貞綱の脳へと流れ込んできたのだ。

 姉は呪力を持たず、妹は呪力を持つ。しかし、両者は同一。

 だからこそ、真希の天与呪縛は不完全なのだ。真依が呪力を持っている限り、同一人物と見做される真希もまた、呪力の呪縛から完全に逃れることができない。互いが互いの足枷となり、決して本来のポテンシャルを発揮できないという、呪術の理不尽なバグ。

 

 その真実を理解した瞬間。

 貞綱の並外れた呪術的探究心と、己の術式の可能性が、バチバチと音を立てて激しく結びついた。

 

(同一人物……呪力構造が繋がっているというのなら。私の手で、その繋がりを断ち切る、あるいは片方の呪力を完全に消滅させることが、できるのではないか……?)

 

 貞綱の思考が、恐るべき速度で回転を始める。

 もし。もしも、真希の肉体から、真依という足枷を完全に排除し、完全なる呪力からの脱却を実現させたとしたら。

 その時、この不完全なフィジカルギフテッドは、呪縛から解き放たれ、真の意味での呪力から解き放たれた剝き出しの肉体へと覚醒するのではないか。

 はたまた、何の意味もなく、ただ死ぬだけか。

 

 ドクン、ドクン。

 貞綱の心臓が、数百年の時を経て、未知の実験への期待で激しく跳ねた。

 彼女は、血塗れの手をゆっくりと真希の腹から離し、傍らで姉を心配そうに見つめている真依へと、静かに視線を向けた。

 

「……え?」

 

 真依の身体が、ビクリと震えた。

 自分を見つめる水色の髪の少女の瞳。そこに宿っているのは、先ほどまでの取り繕われたような親愛の情でも、友達を心配する優しさでもなかった。

 それは、未知の生態を持つ虫を見つけた学者のような。

 あるいは、極上の素材を前にした狂気の芸術家のような。

 

 純粋で、悪辣で、絶対的な。

 狂気的な好奇心。

 

「ねえ、真依」

 

 貞綱は、三輪の口調のまま、ひどく甘ったるい声で囁いた。

 

「あなたたち姉妹の内側……私が、少しだけ弄ってあげようか?」

 

 和室の空気が、扇の殺意とは比較にならないほどの、本質的な恐怖に凍りついた。

 数百年の眠りから覚めた怪物が、今まさに、新たな化け物を生み出すための禁忌の実験に、その手を染めようとしていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。