役立たずの三輪 作:メカ丸ゥゥゥウウウ!
血の海と化した禪院家の奥の院。
扇が白目を剥いて壁際に転がるその空間で、水色の髪の少女――蘆屋貞綱は、両手を血に染めながら、無惨に腹を割かれた真希の治療を終えようとしていた。
溢れ出た生温かい内臓を本来の正しい位置へと物理的に押し戻し、その上から圧倒的な純度の正の呪力を流し込む。千切れた血管が繋がり、筋肉組織が急速に癒着して、致命傷であったはずの巨大な裂傷が、ほんの数秒で完全に塞がっていく。
「……ふぅ。まずは物理的な修復、完了です」
貞綱は、三輪の丁寧な口調のまま小さく息を吐き、立ち上がった。
真希の命の危機は去った。しかし、貞綱の瞳に宿る狂気的な好奇心の炎は、治療を終えた安堵などではなく、これから始まる未知の大手術への興奮によって、さらに赤黒く燃え上がっていた。
「さて、次は……あなたの番だよ、真依」
貞綱は、ゆっくりと振り返り、傍らで震えながら姉の無事を祈っていた真依の細い腕を、血塗れの手でガシッと強引に掴み取った。
「ッ!? やめ……離して!」
真依は、恐怖に顔を引き攣らせ、貞綱の拘束から逃れようと必死にもがいた。姉を治してくれた恩人などではない。目の前にいるのは、人間の皮を被った底知れぬ化け物だという本能的な警鐘が、彼女の全身で鳴り響いていた。
しかし、呪力で底上げされた貞綱の膂力は、か弱い真依の力などでは微塵も揺るがない。
貞綱は、真依の腕を引き寄せながら、呪力で作った針を振るった。
「暴れないでくださいな。……少し、眠っていてもらうから」
貞綱の呪力が、真依の頸椎から下へと流れる神経伝達物質の分泌を、物理的かつ強制的に遮断した。
ビクンッ、と。
真依の身体が一度だけ大きく跳ね、次の瞬間、彼女の首から下のすべての運動機能が完全に麻痺し、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
呼吸と心臓の鼓動、そして首から上の機能だけは残されているが、指先一つ、足の指一本すら動かすことはできない。完全な不随状態。
「……あ、あ、ぁ……」
畳の上に仰向けに寝かされた真依の口から、絶望の掠れ声が漏れる。
貞綱は、真依のすぐ隣に、気を失ったままの真希の身体を並べて横たわらせた。
血溜まりの中に並べられた、一卵性双生児の姉妹。
貞綱は、その二人の間に正座し、満足そうに頷いた。
「ええ、とても美しい対比です。……では、始めましょうか」
貞綱が左手をスッと虚空に翳すと、彼女の呪力が凝縮し、一つの物質を形成した。
それは、和紙を和綴じにした、古めかしい書物であった。
紐でまとめられたその本が貞綱の左手の中に収まると同時、彼女の右手の傍らの空中に、一本の古い毛筆が独りでに浮かび上がった。彼女はそれに触れることなく、右手を真希の腹部に置いた。
貞綱は本を開き、何やらブツブツと、江戸の古い言葉や人体構造の名称が入り交じった難解な独り言を高速で呟き始める。
その独り言に呼応するように、宙に浮いた筆が勝手に動き出し、開かれた古い本の真新しい紙面の上を、サラサラ、シャカシャカと、恐るべき速度で何かを書き込み始めた。
(……この術式を以てしても、通常、他者間で生来の呪力を移動させることなど不可能)
貞綱は、筆の動きを見つめながら、己の頭脳で呪術の絶対的な法則を再確認していた。
もし、他者の呪力を奪い、別の肉体へと自在に移し替えることができるのであれば。貞綱は生前、江戸の世において、凡夫たちの呪力をかき集め、自らの手で最強の術師をいくらでも創り出していたことだろう。しかし、呪力とは魂と肉体に深く根ざしたものであり、独立した個と個の間でそれを譲渡することは、呪術の理が許さない。
(だが……この二人は例外だ)
貞綱の目が、爛々と輝く。
真希と真依。一卵性双生児は、呪術的な観点において同一人物と見做される。
根源のところで太いへその緒のように繋がっているのだ。
つまり、真希の体内にわずかに残る呪力と、真依が持つ呪力は、本来一つの器に収まるべき水が、二つのコップに分けられているに過ぎない。
(同一人物の肉体の中で、機能やエネルギーを偏らせること。……それは即ち、右半身の眼球を、左半身へと移植するようなもの。大抵の人間にとっては不可能な神業だが……こと、人体の構造操作において、この俺の右に出る者はこの世に存在しない)
シャカシャカシャカッ!
筆の動く速度が、さらに一段階跳ね上がる。
貞綱は、真希の肉体と魂に微かにへばりついている一般人並みの呪力を、呪術的なへその緒を通して、強引に、かつ完全に、真依の肉体へと押し付け始めた。
真希の体内から、呪力というエネルギーの残滓が、一滴残らず絞り出されていく。
(これで、真希側の呪力は完全にゼロになった。……しかし、これだけでは終わらない)
貞綱の探究心は、さらに深い深淵へと足を踏み入れていた。
呪力を真依に押し付けただけでは、二人の双子であるという呪縛はまだ存在している。いずれまた呪力が真希へと逆流するか、あるいは同一視されることによる足枷が機能し続けるだろう。
完全なるフィジカルギフテッドを完成させるためには、呪力をゼロにするだけでなく、この
(……左半身である真依を殺すことで、魂の繋がりを強制終了させ、フィジカルギフテッドの完成を目指す。……最初はそう考えたが、却下だな)
貞綱は、冷徹な計算で一つの手段を切り捨てた。
もし、真依を殺したとしても。死後もなお、二人の魂が同一人物として世界に認識され続けた場合、真希は永遠に半身を失った不完全な存在として固定されてしまう。
いかに規格外の貞綱であろうとも、すでに死の淵を越えた死者の魂に干渉し、いじくり回す術は持っていない。失敗すれば、極上の実験素材がただのゴミと化す。打つ手がなくなるのだ。
(故に、最も確実で、最も美しい手段をとる。……二人の身体と魂の繋がりを、生かしたまま根本から弄り回し、双子でなくしてしまえばいい)
血の繋がり、魂の同一性。その絶対的な法則そのものを、己の術式によって分断し、赤の他人と同じように独立させる。
神の領域を侵すような、傲慢極まりない大手術。
宙に浮く筆が、黒い墨を飛び散らせながら、狂ったように本の上を走り続ける。
ふと、貞綱の視線が、足元で寝かされている真依の顔へと向けられた。
首から下が完全に麻痺している真依は、己の体内へと姉の呪力が濁流のように注ぎ込まれ、同時に、生まれる前からずっと繋がっていた姉との魂の繋がりが、ノコギリで削り落とされるようにゴリゴリと切断されていく、未知の激痛と喪失感に苛まれていた。
「……ぁ……」
声帯を震わせる力すら残っていない真依は、ただ首だけを僅かに動かし、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、口の形だけで必死に、音にならない言葉を紡いでいた。
やめて。
やめて。
やめて。
姉との繋がりを、切らないで。
たとえそれが呪いであっても、私たちが双子として生まれてきた証を、奪わないで。
何度も、何度も。真依の口唇が、必死の懇願を繰り返す。
貞綱は、その口の動きから、卓越した読唇術によって真依の言葉を完璧に読み取った。
そして。
悲痛な願いを突きつけられた化け物は、血塗れの顔を歪ませて。
ニコリと、慈愛に満ちた聖母のように、どこまでも優しく笑った。
その、一切の感情が通い合わない完璧な笑顔を見た瞬間。
真依の意識は、肉体の苦痛と精神の絶望を逃れるように、深い、深い記憶の底へと急速に沈み込んでいった。
ーーー
気がつけば、むせ返るような夏の匂いがしていた。
ソースの焦げる匂い、綿飴の甘い香り、そして、遠くで鳴り響く太鼓の音。
色鮮やかな提灯が、夜の闇を暖かく照らし出している。
真依の脳裏に浮かび上がったのは、まだ彼女たちが禪院家のドロドロとした因習に本格的に巻き込まれる前の、ほんの幼い頃の記憶だった。
小さな神社の境内で行われていた、町内の小さな夏祭り。
厳しい大人たちの目を盗んで、二人だけでこっそりと抜け出してきた夜。
幼い真依は、浴衣も着られず普段着のままであったが、それでも屋台の光に目を輝かせ、隣を歩く自分と同じ顔をした少女の小さな手を、ギュッと強く握り締めていた。
「お姉ちゃん、手、離さないでよ」
人混みに流されるのが怖くて、幼い真依は不安げに姉を見上げた。
すると、幼い真希は、少し得意げな、頼もしい笑顔を浮かべて、握りしめた手にグッと力を込めて返してくれた。
「離さねえよ。絶対、ずっと一緒だからな」
その言葉の温かさと、手のひらから伝わってくる姉の体温が、真依にとってはこの世界の何よりも絶対的で、安心できるものであった。
二人でいれば、どんなに嫌な家でも耐えられる。
ずっと、この手を繋いだまま、大人になっていくのだと、疑いもしなかった。
しかし。
その温かい二人の繋いだ手のひらの上に。
突然、何者かの冷たい手が、音もなく重なった。
ハッとして真依が見上げると、そこには、夏祭りの提灯の光すら吸い込むような、輪郭すらはっきりしない、ドス黒い影のような人型の靄が立っていた。
その靄は、異常な力で、真希と真依の繋いだ手を、無理やり引き剥がそうと割り込んできた。
「やめ……離して!」
幼い真依が、恐怖に涙を浮かべて叫ぶ。真希も必死に真依の手を握り直し、影の靄に抵抗する。
しかし、その影は、男の低い声と、女の高い声が不気味に混ざり合ったような、耳障りな声色で、冷酷に囁いた。
――言われずとも
その言葉と共に、靄の圧倒的な暴力が、二人の小さな手を無慈悲に分断した。
ブチィッ!!
という、肉が千切れるような幻聴。
真希の手から、真依の手が完全に離れる。
抵抗は虚しく、二人の体温は引き離され、真依は人混みの底の暗闇へと、真っ逆さまに突き落とされていく。
「お姉ちゃん!!」
「真依ッ!!」
遠ざかっていく、自分と同じ顔をした姉の叫び声。
暗闇に落ちていく真依は、伸ばした手を空中で虚しく掴み、そして悟った。
ああ。
あの子の手を、私が再び握ることは、もう二度とないのだと。
そして、あの子もまた、私の手を握ることはない。
私たちは、双子ではなくなる。互いに違う生き物になって、全く違う道を、ただ一人で歩いていくしかないのだ。
夏の匂いと提灯の光が、完全に意識の彼方へと消え去っていく。
血まみれの和室。
天井を見つめたまま、首から下が動かない真依の瞳から、一筋のツーッとした涙がこぼれ落ち、冷たい畳へと染み込んでいった。
宙に浮く筆が、古めかしい本に最後の墨を下ろす。
ここに、呪術の理を捻じ曲げた、最も残酷で、最も美しい分離の儀式が完了した。
禪院真希の肉体から、呪力の残滓と双子の呪縛が完全に消え去り。
真の天与の暴君が、産声を上げようとしていた。