役立たずの三輪   作:メカ丸ゥゥゥウウウ!

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禪院家で⑤

 深い、深い泥の底に沈んでいた意識が、ゆっくりと水面に向かって浮上していく。

 真希の脳髄は、致命的な腹部の裂傷による大量出血とショック状態から、何らかの強烈な外的要因によって再起動させられようとしていた。

 

 徐々に明瞭になっていく五感。

 鼻腔を突くのは、鉄錆のような濃厚な血の匂い。背中に感じるのは、冷たく硬い畳の感触。

 そして、意識の覚醒と比例するように、真希の心の奥底から、これまで感じたことのない異様な感覚が這い上がってきた。

 それは、腹を割かれた肉体的な激痛ではない。

 もっと根本的な、自らの魂の形を定義していた何かが、ごっそりと根こそぎ削り取られてしまったかのような、底無しの孤独感であった。

 

(……なんだ、これ)

 

 真希の目元から、熱い液体がツーッと零れ落ち、こめかみを伝って畳へと吸い込まれていく感覚があった。

 自分が泣いているのか。血なのか。それすらも分からない。

 ただ、失ってしまったその何かを求めて。暗闇の虚空を彷徨うように、真希は無意識のうちに右手をゆっくりと上空へと持ち上げた。

 何かを、掴もうとして。

 

 しかし。

 その血に濡れた指先が、空中の見えない幻影を掴み取るよりも一瞬早く。

 ガシッ、と。

 何者かの、ひどく冷たい手が、真希の持ち上げた右手首を力強く掴み取った。

 

「――おはようございます、真希さん」

 

 鼓膜を直接震わせるような、甘く、丁寧で、しかしどこまでも空虚な声。

 その声と、手首を掴む不自然な冷たさによって、真希の意識は暗闇の泥底から一気に現実の世界へと完全に引き摺り出された。

 バチッ、と見開かれた真希の瞳。

 視界の焦点が合うと同時に、目に飛び込んできたのは、血塗れの畳の上でしゃがみ込み、こちらを至近距離で覗き込んでいる一人の少女の姿であった。

 

 水色の髪。見慣れたスーツ姿。

 呪詛師に肉体を乗っ取られたという、京都校の三輪霞。

 彼女は、まるで新しい玩具の箱を開ける子供のように、ニコニコと何かを期待するような爛々と輝く笑顔を顔に貼り付けていた。

 

 だが、真希の視線は、その不気味な笑顔を通り越し、彼女の足元へと吸い寄せられた。

 そこには。

 仰向けに横たわったまま、ただポロポロと絶望の涙を零し続け、魂が抜け殻になったかのような虚ろな表情を浮かべる妹――真依の姿があった。

 

 真希の脳内で、理性の糸がちぎれ飛ぶ音がした。

 一瞬にして、全身の血液が沸騰し、頭のてっぺんへと駆け上る。

 状況の推察など必要ない。自らの魂に空いた巨大な喪失感と、目の前で泣いている半身の姿。真希の野生の直感は、この水色の髪の悪魔こそが、自分たち姉妹の絆を引き裂き、真依を泣かせた元凶であると、瞬時に見抜いていた。

 

「……テメェッ!!」

 

 真希の肉体が、思考を追い越して爆発した。

 仰向けに寝転がった体勢から、腹筋や背筋といった常識的な筋肉の連動を一切無視し、まるでバネが弾け飛ぶかのように一瞬にして上体を起こす。

 そして、手首を掴まれている右手とは反対の、完全に自由な左手。

 その拳を固く握り締め、腰の捻りと肩甲骨の回転を極限まで乗せた渾身の裏拳を、しゃがみ込んでいる貞綱の頬目掛けて全力で叩き込んだ。

 

 真希の認識では、せいぜい奥の和室の壁を一枚突き破って吹き飛ばす程度の、牽制と怒りに任せた力加減のつもりであった。

 

 しかし。

 拳が少女の頬に触れた瞬間、真希自身が想像もしていなかった、大砲の直撃すらをも凌駕する途方もない運動エネルギーが左腕から爆発した。

 叩き殴られた三輪の身体は、凄まじい衝撃波と共に和室の壁を紙くずのように粉砕し、そのまま奥の廊下、さらには数メートル先にある別棟の強固な外壁すらも連続してぶち抜き、土煙と木っ端微塵の建材を撒き散らしながら、遥か彼方の庭石へと一直線に吹き飛んでいったのだ。

 ゴロゴロと轟音を立てて崩落していく禪院家屋敷の一部。

 

「……は?」

 

 自らの放った一撃の、あまりにも理不尽で異常な破壊力。

 真希は、振り抜いた自身の左の拳と、大きく開いた壁の風穴を交互に見比べ、数秒間、困惑に支配された。

 呪力が完全に消え去り、天与の肉体が真の意味で覚醒したことによって引き起こされた、暴君の力。

 しかし、今の真希にとって、己の強さの理由などどうでもよかった。

 彼女はすぐさま思考を切り替え、足元で倒れている真依へと視線を戻し、血まみれの畳に膝をついた。

 

「真依! 真依ッ!!」

 

 真希は、動かない真依の頬を両手で包み込み、必死に呼びかけた。

 その悲痛な声に反応し、虚空を彷徨っていた真依の虚ろな瞳が、ゆっくりと、わずかに焦点を結んで真希の顔へと向けられた。

 

「……お姉ちゃん……」

 

 掠れた、消え入りそうな声。

 自分を見つめる真希の顔に、かつて夏祭りで手を繋いでくれた時の、頼もしい姉の面影が重なる。

 真依は、最後にもう一度だけその温かい顔を目に焼き付けると、安心したようにふっと瞳の光を落とし、深い気絶の淵へと沈んでいった。

 

「真依……ッ! くそっ!」

 

 真希は奥歯を噛み砕かんばかりに食い縛り、気を失った真依の身体をそっと畳の上に寝かせた。生命活動はしている。だが、精神に異常なまでの負荷がかかっている。

 

 その時。

 

 ザッ、ザッ、ザッ。

 半壊した壁の向こう、立ち込める土煙の奥から、瓦礫を踏み砕くゆっくりとした足音が響いてきた。

 

「てめえ……!真依に何しやがったァァァッ!!」

 

 真希は、立ち上がり、怒髪天を衝くような怒声を半壊した建物へ向けて叩きつけた。

 

 しかし。

 土煙を払い、瓦礫の陰から悠然と姿を現した水色の髪の少女には、真希の悲痛な叫び声など、ただの一言も耳に届いてはいなかった。

 貞綱の心中は今、怒りでも屈辱でもなく、嵐のように吹き荒れる暴力的な歓喜によって完全に満たされていた。

 

(……素晴らしい!!)

 

 貞綱は、殴られた自身の左頬を指で撫でながら、全身の血を沸騰させていた。

 先ほど食らった拳。

 京都校の交流会で対峙したという器の記憶に残る真希の打撃とは、比較にならない。途方もなく重く、速く、そして絶対的な質量を持った理不尽な暴力。

 同一人物という呪術のバグを切り離したことによる、フィジカルギフテッドの完全なる覚醒。

 数百年ぶりに味わう、自らの肉体を破壊し得るかもしれない本物の強者の誕生。

 

「あははっ! いいなァ、最高ですよ、お前は!!」

 

 貞綱の口から、三輪霞の丁寧な口調と、戦闘狂としての粗野な本性が入り交じった、ひどく歪な歓喜の声が迸った。

 

 ドォォォンッ!

 貞綱は、喜びに身を任せ、庭の石畳を粉砕するほどの踏み込みで、一瞬にして和室の真希の眼下へと駆け出した。

 

 真っ直ぐに突き出される、貞綱の右拳。

 それはあくまで様子見の一撃であったが、その初速と破壊力は、一級呪霊程度であれば即死させられるほどの神速の打撃であった。

 空気を切り裂き、真希の顔面へと迫る死の拳。

 

 しかし。

 真希は、その神速の拳を、まるで飛んでくる羽虫でも払うかのように、左手一本の滑らかな動きで下から軽く弾き、見事に受け流した。

 

 貞綱の拳が空を切り、無防備な顔面が真希の目の前に晒される。

 真希はその隙を逃さず、受け流した勢いそのままに身体を回転させ、強烈な右の裏拳を、再び貞綱の頬へと叩き込んだ。

 

 貞綱は、あえてその打撃を呪力でガードしようとはしなかった。

 多少手加減をして、傷を負ってでも、彼女は今、この目覚めたばかりの極上の獲物と、肉体と肉体のぶつかり合いで遊びたい気分だったのだ。

 

 真希の拳が貞綱の頬肉を潰し、口内が切れて、赤い血の飛沫が和室の空中に舞い散る。

 ペロッ。

 貞綱は、口の中に広がった鉄錆の味を舌で舐め取った。

 久方ぶりに味わう、痛みと血の味。それが、貞綱の精神をさらに深い戦闘の酩酊状態へと引きずり込んでいく。

 

「オラァッ!!」

 

 真希が連続して蹴り、拳、肘打ちを怒涛の勢いで繰り出す。

 貞綱もまた、それを素手で受け、弾き、笑いながら反撃の打撃を放つ。

 

 和室の畳が捲れ上がり、柱がへし折れ、天井が崩落していく。

 互いの徒手空拳による、超次元の近接格闘戦。

 

 純粋な肉体の出力という点においては、今の両者は極めて互角に近い状態であった。

 真希は完全な天与呪縛によって理不尽な身体能力を得ており、貞綱もまた、己の術式によって人体の筋繊維や骨格を弄ることで、フィジカルギフテッド並みの肉体を獲得している。

 

 肉体のスペックが互角。

 ならば、互いの実力を決定的に分かつものは、純粋な格闘の技量のみ。

 

 そして、その徒手空拳の技量という側面において、軍配は明確に真希へと上がっていた。

 

 何故か。

 蘆屋貞綱という化け物は、生前、比較的平和であった江戸の世において、すでに呪術師として絶対的な頂点に立っていた。その圧倒的な肉体と呪力を前にしては、敵は指先一つで沈む有象無象ばかり。ゆえに彼女は、わざわざ泥臭い徒手格闘の技量を極限まで磨き上げる機会も、その必要性も殆ど存在しなかったのだ。

 

 対して真希は違う。

 術式も呪力も持たない落ちこぼれとして禪院家に生まれ、唯一の伸びしろは、己の肉体を駆使した武術の技量のみであった。

 血を吐くような努力で薙刀を筆頭に数多の武器の扱いを極め、さらに、武器を失った最悪の状況を想定し、素手での戦い方を徹底的に脳と身体に叩き込んできた。

 その長年の血の滲むような修練の蓄積が、今、覚醒した暴君の肉体を得て、完璧な武の極致として開花していたのだ。

 

「遅えよ、バケモノッ!!」

 

 真希の動きは、貞綱の攻撃の軌道を完全に先読みし、一切の無駄を削ぎ落としていた。

 貞綱の大振りのフックをダッキングで躱し、その死角から鋭い膝蹴りを貞綱の鳩尾に深々と突き刺す。

 

「……ッ、効くじゃねぇか!」

 

 貞綱の口から再び歓喜の粗野な声が漏れた瞬間、真希は貞綱の胸ぐらを両手で掴み、その身体を背負い投げるようにして、和室から庭の方へと力任せに投げ飛ばした。

 

 貞綱の身体が庭の枯山水に激突し、砂と石を撒き散らす。

 真希は、気を失った真依をこれ以上戦闘に巻き込まないために、意図的に戦場を屋外へと移動させたのだ。

 

 真希は投げ飛ばした直後、足元の血の海に転がっていた竜骨を、爪先で力強く蹴り上げた。

 空中に舞い上がった漆黒の刃を、真希は跳躍しながら空中でガッチリと掴み取る。

 そして、跳躍力に重力の落下の威力を加え、地面で受け身を取ろうとしている貞綱の脳天目掛けて、竜骨の刃を全力で振り下ろした。

 

虎杖と宿儺の前例がある。殺してから三輪について考えればいいと判断した真希に躊躇というものは微塵もなかった。

 

「死ねェェェェェッ!!!」

 

 暴君の膂力と、呪具の重量が融合した必殺の断頭撃。

 刃が貞綱の肩口に直撃し、肉を断ち割る。

 はずだった。

 

 庭石の上に倒れ込んでいたはずの貞綱の左手が、腰の帯に差していた漆黒の鞘を的確に捉え、右手がその柄を握り締めていた。

 それは、真希の研ぎ澄まされた動体視力をもってしても、全く捉えることのできない神速の抜刀。

 先ほどまでの粗削りな徒手空拳とは次元が違う、極限まで洗練された、無駄の一切ない必殺の剣閃。

 

――ガキィィィィィンッ!!!!

 

 真希の腕に伝わってきたのは、肉を断ち割る感触ではない。

 自らの全てを乗せた竜骨の圧倒的な質量が、下から跳ね上がってきた細い刀身によって、いとも容易く、完璧な角度で受け流され、弾き返された強烈な反発力であった。

 火花が散り、竜骨の軌道が完全に逸らされる。

 

「なッ……!?」

 

 真希が空中で驚愕に目を見開いた。

 

 土煙の中から、貞綱がゆっくりと立ち上がる。

 彼女の右手には、あらゆる物質の硬度を無視して魂を切り裂く刀、釈魂刀が、日光を反射して妖しく鈍い光を放っていた。

 

「徒手はあなたの勝ちのようですが。……私の得意分野は、こっちなんですよ」

 

 貞綱は、三輪の丁寧な口調で優雅に微笑んだ。

 シン・陰流初代当主、蘆屋貞綱。

 彼女の本質は、呪術師である以前に、数多の剣客を葬り去ってきた最強の剣鬼である。

 

「――シッ!」

 

 短い呼気と共に、貞綱の足首が反転する。

 重力すら無視したかのような、異常な神速の踏み込み。弾かれた姿勢のまま空中にいる真希にとって、それは完全な死角からの絶対的な一撃であった。

 

 鮮血が、昼気の中に美しい赤い軌跡を描いた。

 真希の右肩から胸にかけて、釈魂刀の呪いの刃が、彼女の強靭な肉体を魂ごと鋭く切り裂いていた。

 

「くそっ……!」

 

 真希は強引に後方へと着地し、血の滴る肩を押さえながら、目の前でゆっくりと刀を正眼に構えるバケモノを睨みつけた。

 血の匂いと、暴君の怒り、そして剣鬼の微笑。

 昼の禪院家で、二人の規格外の怪物が、その命と誇りを懸けた真の死闘を開始しようとしていた。

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