役立たずの三輪 作:メカ丸ゥゥゥウウウ!
天保の大飢饉。
現代の歴史書にそう記されるその厄災は、天保四年から元号の終わりである天保十五年までの十一年間という長きにわたり、日本列島を文字通り生き地獄へと変貌させた、歴史上最大の飢饉である。
この十一年間で命を落とした者の数は推定四百万人に達し、これは当時の日本の総人口の約七分の一がこの世から消滅したことを意味していた。
最初の数年間は、異常気象による冷夏や自然災害の多発がもたらした、深刻な米の凶作が原因であった。泥水をすすり、草の根を齧り、餓死していく農民たち。しかし、単なる凶作による飢えであれば、日本の歴史上過去にも何度か起きており、その時点での死者は東北や関東を中心とした数十万人規模に留まっていたとされる。
天保の大飢饉が真に恐るべき厄災として歴史に消えない爪痕を残したのは、飢餓によって極限まで免疫力が低下した民衆を襲った、かつて類を見ない規模の疫病の蔓延であった。
コレラ、天然痘、インフルエンザ。
無数の病魔が日本中を蹂躙したが、中でもこの三種の疫病は、村から村へ、町から町へと死の影を落とし、人々の命を枯れ葉のように刈り取っていった。
西園寺瑠璃子がこの世に生を受けたのは、その凄惨な大飢饉が始まるちょうど十二年前のことであった。
彼女が生まれたのは、都から遠く離れた、ひどく貧しい寒村であった。物心ついた頃から、彼女には他の人間にはない異能が備わっていた。自身の髪の毛を、まるで手足のように自在に操る力。呪髪操術である。
閉鎖的な村において、異能を持つ子供は初めこそ得体の知れない化け物として恐れられ、石を投げられることもあった。しかし、村の大人たちはすぐに彼女のその力が、過酷な農作業において非常に便利で使い勝手の良い道具になることに気がついた。
幼い彼女は、重い鍬を何本も同時に髪で操って田畑を耕し、大人数人がかりで運ぶような収穫物の俵を髪で軽々と持ち上げて運搬した。恐怖は実利によって上書きされ、彼女は村にとって手放すことのできない便利な労働力として、朝から晩まで泥に塗れて酷使され続けた。
しかしそんな生活も、彼女にとっては幸せな日常であった。働いた分だけ他の村民より優遇され、また必要とされたからだ。
やがて、彼女が十二歳を迎えた年に、天保の大飢饉が始まった。
空はどんよりと濁り、夏になっても冷たい風が吹き荒れ、稲は実をつける前に枯れ果てた。近隣の村々から餓死者が出始めたという噂が風に乗って流れてきても、彼女の住む村は最初は問題がなかった。彼女という無尽蔵の労働力を酷使して前年までに蓄えていた豊かな備蓄と、来年に備えて山を切り拓いて作った新たな田畑があったからだ。
では、何が村を崩壊させたのかと言えば、やはり飢えではなく病魔であった。
ある日、村の子供が一人、高熱を出して倒れたのを皮切りに、村はたちまち天然痘の恐怖に呑み込まれた。全身に醜い水疱ができ、高熱にうなされ、次々と村人が死の淵を彷徨い始めた。
絶望が村を覆い尽くそうとしていたその時、一筋の光明が差し込んだ。
■■と名乗る、放浪の町医者が村を訪れたのだ。呪術による反転術式の使い手であったのか、あるいは未知の特効薬を持っていたのかは定かではないが、村中の天然痘の病人をまたたく間に完治させてみせたのである。
村に活気が戻り、人々はその人を生き神のように崇め、涙を流して感謝した。
しかし、運命は彼らを許しはしなかった。
安堵の息を吐いたのも束の間、今度は村を致死率の極めて高いコレラが襲ったのだ。
激しい嘔吐と下痢により、村人たちは干からびたミイラのように痩せ細り、次々と命を落としていった。村長は藁にもすがる思いで、以前村を救ってくれたあの医者を探し出せば、再び村は助かるかもしれないと叫んだ。
術師として生まれつき強靭な体力と呪力を持っていた西園寺は、コレラに感染することなく生き残っており、村の大人たちからその希望を託され、たった一人で医者を探す過酷な旅に出た。
泥だらけになり、足から血を流し、何日も寝ずに歩き続け、彼女はようやく隣藩の大きな宿場町でその町医者を見つけ出した。
しかし、そこで彼女が目撃した現実は、少女の心を根底から破壊するに十分なほど、あまりにも残酷なものであった。
生き神と崇められたあの医者は、豪奢な屋敷の奥で、美しい着物を着た裕福な商人や役人たちだけを優先して治療し、その対価として莫大な砂金や小判を受け取っていたのだ。
屋敷の門前には、治療を懇願する貧しい農民たちが数え切れないほど群がり、血を吐いて倒れていたが、医者は彼らに見向きもしなかった。
命の重さは平等ではない。どれだけ懸命に働き、どれだけ神仏に祈ろうとも、この世の命の価値は、持っている金の量によって明確に線引きされている。
その絶対的な真理を悟った彼女は、天元に声をかけることもなく、虚ろな目のまま村へと引き返した。
数日後、村に戻った彼女を迎えたのは、死臭と蠅の羽音だけが支配する、完全な地獄であった。
村人は一人残らずコレラで死に絶え、腐敗した屍が道端や家の中に無数に転がっていた。
彼女は、自分が必死に耕した田畑の中心で、村人たちの死体の山を見下ろしながら、ただ乾いた笑いを漏らすしかなかった。
労働も、善意も、道徳も、金がなければ何の意味も持たない。貧しさとは、それ自体が罰であり、死へと直結する罪なのだ。
その腐臭漂う死体の山の中に、いつの間にか、額に縫い目のある女が立っていた。
羂索であった。
羂索は彼女の持つ呪髪操術の才能と、その目に宿る深い絶望を見抜き、数百年後に執り行うという殺し合いの儀式への参加と引き換えに、呪物となって未来へ渡る契約を持ちかけた。
彼女にとって、殺し合いなどどうでもよかった。
ただ、今のこの貧しく惨めな人生を終わらせ、次の人生では絶対に、誰よりも金持ちになり、豪奢な服を着て、二度と飢えることのない贅沢な暮らしを手に入れたい。
その凄まじい執念と欲望だけが、彼女を呪物としての永い眠りへと誘ったのであった。
ーーー
荒廃した原宿のメインストリート。
冷たい夜風が、過去の亡霊の悲痛な独白を散らすように吹き抜けていく。
「……ふふっ。ありきたり過ぎて、自分でも笑えてきますわね」
西園寺瑠璃子は、自らの長い金髪を弄りながら、自嘲するように薄く笑った。
その言葉に対し、釘崎野薔薇は手にした金槌を下ろすことなく、冷たい視線を向けたまま短く言い放った。
「……笑えねえよ」
釘崎の胸中には、複雑な感情が渦巻いていた。田舎の閉鎖的な因習から逃げるように上京してきた自分。もし運命の歯車が少しでも掛け違っていれば、自分もまた、絶望の中で別の人生を渇望する亡霊になっていたかもしれない。時代が違うだけで、彼女の抱えた理不尽な絶望を完全に否定することなど、誰にもできない。
だが、だからといって、街を破壊し、他人の尊厳を奪う略奪行為が許されるわけではない。
釘崎は感情を振り払い、一つの疑問を口にした。
「……随分と長く話してくれたわね。自分の身の上話をペラペラと。何が目的よ」
戦闘の最中に、敵に自分の過去を語り聞かせるなど、常軌を逸している。
その問いに対し、西園寺の口角が、底知れぬ悪意に満ちた三日月型に吊り上がった。
「あら。あなたを確実に屠るための、時間稼ぎにちょうど良かったかしらと思って」
直後。
釘崎の立っていた足元のアスファルトが、下から突き上げられるように激しくひび割れた。
「なっ!?」
釘崎が跳躍して回避行動をとるよりも一瞬早く、ひび割れた大地の底から、大蛇の群れのようなおびただしい数の金色の髪の毛が爆発的に飛び出し、釘崎の足首、太もも、胴体、そして両腕へと、一瞬にして幾重にも巻き付いた。
「王手ですわ」
西園寺が冷酷に宣告する。
鋼鉄のワイヤーよりも強靭な髪の毛が、釘崎の身体を容赦なく締め付けながら、彼女の身体を空中へと高く持ち上げた。骨が軋み、肺から空気が強制的に押し出される激痛。
西園寺による長ったらしい身の上話。
それは、過去の絶望と鬱憤を口に出して和らげるための自己満足であったのと同時に、自らの髪の毛を地中深くに潜らせ、釘崎の足元の死角まで気配を殺して伝わせるための、完璧な時間稼ぎであったのだ。
西園寺の呪髪操術は、髪を極端に長く伸ばすまでに一定の時間を必要とする。しかも、今回のように十メートル以上も離れた距離の地中を掘り進ませるとなれば、相応の時間と莫大な呪力を消費する。
だが、その代償として、彼女の髪はどれほど距離を伸ばそうとも、その圧倒的な強度とパワーが一切落ちることはない。数トンの車すら軽々と投げつける暴力的な筋力が、今、釘崎の華奢な肉体を直接締め上げているのだ。
いくら呪力で肉体を強化して抵抗しようとも、並の術師が自力で抜け出せるような代物ではない。
釘崎は肝心なところで読みを外してしまった。
完全に動きを封じられた獲物を見上げ、西園寺は確信した。
勝った。このまま髪の圧力を強め、この生意気な小娘の全身の骨を砕き、内臓を破裂させてミンチに変えるだけだ。
しかし。
全身を拘束され、激痛に顔を歪めているはずの釘崎野薔薇は、空中で俯いたまま、フフッ、と不敵な笑みをこぼしたのだ。
「……チェックメイトじゃないんだ。まだ勝ちじゃないってあんたもわかってるじゃん」
その言葉の意味が理解できず、西園寺の眉間が怪訝に寄る。完全に身動きが取れない状態での強がりか。
釘崎は、拘束されて動かせない顔をゆっくりと上げ、西園寺を真っ直ぐに睨み据えて続けた。
「渋谷でさ。あんたみたいな、金髪で奇襲ばっかり仕掛けてくるクソムカつく男と戦ってから……もしもまた、あんな風に完全に動きを封じられた時は、こうしてやろうって、ずっと考えてたんだわ」
重面春太との死闘。あの時、圧倒的な力量差と不意打ちによって何もできずに倒れた悔しさが、釘崎に究極の自傷戦術を編み出させていた。
「――簪」
釘崎が、低くその名を紡いだ直後。
釘崎の右腕が、内側から激しく爆発した。
血肉が飛び散り、制服の袖が吹き飛ぶ。その凄まじい至近距離での呪力爆発に巻き込まれ、釘崎の右腕に何重にも巻き付いていた強靭な金色の髪の毛が、呪力の熱線によってチリヂリに焼き切られ、完全に断裂したのだ。
「なっ……!?」
西園寺の目が、驚愕に極限まで見開かれた。
まさか。この女、あらかじめ自分自身の右腕の肉に、起爆用の釘を深く打ち込んで隠し持っていたというのか。
敵の拘束を破るためだけに、自らの腕を爆破するという常軌を逸した激痛と狂気。
あまりの衝撃的な行動に、髪の操作が一瞬緩む。
爆発の衝撃で右腕の拘束が完全に解けた釘崎は、そのまま空中で身体を捻り、左腕や足に絡みついていた残りの髪の毛の拘束も強引に振り解いて、アスファルトへと着地した。
西園寺は戦慄しながらも、すぐに冷静な観察眼を取り戻し、釘崎の怪我の状況を分析した。
釘崎の右腕はボロボロに焼け焦げ、激しく血を流しているが、千切れて吹き飛ぶほどの致命的なダメージには至っていない。自身の呪力による爆発であるため、千切れないように威力をギリギリで調整したのだろう。
だが、あの怪我の深さを見れば、右腕でまともに金槌を振るえるのは、保ってあと一回が限界のはずだ。
その程度で、私の勝利の盤石さは揺らがない。再び髪を展開し、今度こそ距離をとってすり潰す。
西園寺がそう結論づけ、再び殺意を練り上げようとしたその時。
彼女は、気がついた。
着地した釘崎が、ボロボロになった右腕を高く天へと振り上げている。そして、その振り上げられた右腕の目の前の空中に、小さな人型がふわりと浮かんでいる。
それは、呪力で編み込まれた不気味な藁人形であった。
そして、その藁人形の胸の中心には、先ほどの戦闘で釘崎が密かに回収し、自らのポケットに忍ばせておいた、西園寺の金色の髪の毛がしっかりと結びつけられていた。
相手の身体の一部を欠損部位として藁人形に込め、本体へと直接呪力を打ち込む、対象との距離を完全に無視した必殺の呪法。
過去の術師である西園寺の脳裏に、古の呪術の知識が雷のようにフラッシュバックする。
丑の刻参り。
「嘘……」
西園寺が絶望の声を漏らした瞬間。
「共鳴り!!」
釘崎の限界を超えた右腕が、金槌を全力で振り下ろし、空中の藁人形の心臓部分に深く、深々と五寸釘を打ち込んだ。
ゴッ。
その瞬間、西園寺瑠璃子の胸の内で、見えない巨大な鉄槌が、彼女の心臓そのものを直接、粉々に殴りつけたかのような衝撃が炸裂した。
物理的な防御も、呪力による防御も一切意味をなさない、魂の根源に対する絶対的なダメージ。
これまで彼女が経験したことのない、肉体が内側から弾け飛ぶような異次元の激痛に、西園寺の思考は完全に白く染まった。
「ガ、アァァァァァァァッ!?」
西園寺の口から大量の鮮血が滝のように溢れ出し、彼女は肺から空気を全て吐き出して、その場にガクンと膝をついた。
術師の意識が一瞬飛んだことで、彼女の操っていたすべての髪の毛の呪力が霧散し、完全に力が抜け落ちる。
その一瞬の硬直を、釘崎が逃すはずがなかった。
右腕をだらりと下げた釘崎は、すかさず金槌を無傷の左手へと持ち替え、血走った目で西園寺の頭部を完全に叩き割るべく、一直線に駆け出した。
だが、過去の術師としての生存本能が、西園寺に最後の無意識の反撃を行わせた。
背後の瓦礫の山に潜ませていた一本のドリル状の髪の毛が、死角から射出され、駆け込んできた釘崎の脇腹を深く掠め、肉を大きく抉り取ったのだ。
「グッ……!」
焼けるような痛みが脇腹から全身を駆け巡る。
しかし、釘崎の足は止まらなかった。
右腕も使い物にならない。脇腹の肉も抉り取られた。だが、全く問題なし。
頭がそう判断し、心臓がまだ動いているのなら、あとはこの左手で金槌を振り抜くだけだ。
野薔薇の闘志が、肉体の限界を完全に凌駕した。
一歩、踏み込む。
西園寺が苦悶の表情で顔を上げた、その目前。
「終わりよ」
ひどく鈍く、重い音が廃墟に響き渡った。
釘崎の左手から放たれた金槌の渾身の一撃が、西園寺の側頭部を正確に打ち抜いた音であった。
西園寺の身体は、吹き飛ぶことすらなく、その場に崩れ落ちるようにして完全に倒れ伏した。
頭から血を流し、ピクリとも動かない。
その血だまりの中で倒れる亡霊を見下ろし、全身傷だらけで荒い息を吐きながら、釘崎野薔薇は堂々と立ち尽くしていた。
「……
釘崎は、ぽたぽたと自らの腕から流れる血を意に介さず、倒れた西園寺に向かって誇り高く勝利を宣言した。
「そして、これが本当の勝ち。……チェックメイトよ」
その言葉が風に溶けた直後。
完全に気を失ったかと思われていた西園寺が、わずかに指先を動かし、虚空に向かって掠れた声で呟いた。
「……コガネ。私の全ポイントを、この女に譲渡してちょうだい」
空中に現れた執事服のコガネが、即座にその命令を受理し、得点の譲渡処理を完了させるアナウンスを鳴らした。
自ら命乞いをするでもなく、あっさりと全ポイントを明け渡した敵の行動に、釘崎は眉をひそめた。
「……どういうつもりよ」
釘崎が警戒して金槌を構え直す。
「欲しかったのでしょう? あなたが」
西園寺は、頭から血を流したまま、よろよろとゆっくり立ち上がった。
見れば、彼女の側頭部に受けたはずの致命的な打撲傷や、全身の裂傷が、すでに塞がり始めている。
反転術式。西園寺のそれは呪髪操術に付随するものだが、釘崎はそれを知らない。
警戒レベルを最高に引き上げる釘崎に対し、西園寺は憑き物が落ちたような、ひどく晴れやかな、そして少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ふふっ。なんだか、憑き物が落ちたようにスッキリしましたわ。何百年も溜め込んでいた鬱憤を全て吐き出して、あなたのような強情で美しい獣に全力で打ち負かされたおかげかしら」
西園寺は、完全に敵意を消失した声で言い、自らの細い肩をポンポンと叩いてみせた。
「肩、貸してあげますわよ。早く止血しないと、いくらあなたでも死んでしまいますわよ」
罠か、それとも気まぐれな善意か。
普通に考えれば、つい先ほどまで殺し合いをしていた相手の肩を借りるなど、狂気の沙汰である。
しかし、釘崎はしばらく西園寺の顔を見つめた後、ふっと力を抜いて、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
ここで罠に嵌められて死ぬなら、自分がそれだけの間抜けだったというだけの話だ。
「……随分と上から目線じゃない。まあいいわ。頼むわよ、元・お嬢様」
釘崎は、血まみれの金槌をホルダーに収め、よろめきながら西園寺の細い肩へと自らの無事な左腕を回した。西園寺の髪が脇腹や右腕などを覆って止血する。
崩壊した原宿の街。
全く時代も価値観も異なる二人の女術師が、血だらけになりながらも互いに肩を支え合い、言葉もなく、朝焼けが近づく廃墟の彼方へとゆっくりと歩き始めた。
Wikiさん情報が正しければ人口が五年で125万人減ってるっぽい。
出生数-死者数=人口増減数だからもっと亡くなってるかも。
でぇじょうぶだ、日本の歴史への影響は羂索が何とかしてくれるさ。
次回、脹相の逃走