役立たずの三輪 作:メカ丸ゥゥゥウウウ!
11月16日の深夜。
冷たい木枯らしが吹き荒れる静寂の森の中を、一人の男がただひたすらに走り続けていた。
男の名前は脹相。特級呪物である呪胎九相図の長兄が受肉した存在である。
彼の肉体はすでに限界をとうに超えていた。衣服はボロボロに引き裂かれ、皮膚の至る所から赤黒い血が滲み出し、呼吸をするたびに肺の奥でひどく嫌な摩擦音が鳴る。一歩足を踏み出すごとに全身の骨が軋み、激痛が脳髄を直接殴りつけてくる。
彼は、敗残兵であった。
東京呪術高専の最下層、日本を結界で守護する天元が座す場所、薨星宮。そこで彼は、特級呪術師である九十九由基と共に、侵入してきた最悪の呪詛師である羂索を迎え撃った。
互いの命と矜持を懸けた、次元の違う死闘。しかし、結果は惨憺たるものであった。
羂索という男、いや、その肉体を乗っ取っている千年の術師の化け物は、彼らの想像を遥かに超える底知れぬ深淵を隠し持っていたのだ。呪霊操術とは異なる未知の術式、そして千年の時を生きて極め抜かれた神域の結界術。複数の術式の連携と、あまりにも老獪な盤面支配を前に、脹相と九十九は為す術もなく追い詰められていった。
戦闘の最終盤。致命傷を負い、自らの死を悟った九十九は、最後の力を振り絞って自身の術式を暴走させ、己の肉体をも巻き込む極小のブラックホールを発生させた。天元を守るため、そして羂索を確実に葬り去るための、文字通りの自爆攻撃。
その直前、脹相は九十九によって、彼女の生み出した空間のひずみへと強引に放り込まれ、戦線から強制的に離脱させられたのである。
だから、彼には薨星宮の奥底で最終的に何が起きたのか、明確な結末はわからない。
ただ、空間のひずみを抜けて地上に放り出された後、遥か地下の深くから、底知れぬ振動を感じ、薨星宮という空間そのものがこの世から完全に消え去ったことだけは確認できた。
それでも、脹相の直感は、鋭く警鐘を鳴らし続けていた。
あの羂索という怪物は、あの極限の自爆攻撃を受けてなお、まだどこかで確実に生き延びている。千年の呪縛は、そう簡単に断ち切れるものではないと、彼の血が告げていたのだ。
走りながら、脹相の脳裏に、九十九が最期に彼に向けて放った言葉が、何度も何度も繰り返しリフレインしていた。
呪霊としての君は今死んだ。これからは人として生きるんだ。
呪いとして生き、人間を殺してきた自分が、果たしてその言葉の通りに、人として生きていっていいものなのか。罪に塗れたこの両手で、人間の温もりを求めていいのか。今の脹相には、その答えはまだ見つかっていなかった。
しかし、彼には立ち止まって悩む暇など与えられていない。
どれほど身体が重くとも、どれほど傷口が焼けるように痛もうとも、彼はこの足を進めなければならないのだ。
彼の手には、一つの小さな、しかし日本の命運を左右する重い呪物が握り締められていた。
獄門疆裏。五条悟を解放するための、唯一の鍵。
これを、遠く離れた東京の結界にいるはずの、弟の虎杖悠仁たちの元へ、必ず送り届けなければならない。
赤血操術による血の繋がりが、はるか彼方にいる弟の確かな鼓動を微かに伝えてくる。それを道標にして、脹相は血だらけの足を前へ前へと繰り出していた。
月明かりが、雲の隙間から木々の間を縫って、冷たい森の地面に落ちる。
脹相が、太い木の根を乗り越えようとした、まさにその直後であった。
彼は、前方に踏み出そうとした足を、強引に、そしてピタリと止めざるを得なかった。
土を蹴る音も、草を踏む音も、風を切る音すらも一切なく。
彼の目の前の空間に、月明かりに照らされた水色の髪の少女が、まるで最初からそこに生えていた木々の一部であるかのように、唐突に、そしてあまりにも自然に立っていたからだ。
三輪霞。
いや、その肉体を乗っ取っている、底知れぬ狂気を孕んだ過去の亡霊。蘆屋貞綱。
脹相の全身の毛穴が、一瞬にして総毛立った。
彼我の戦力差は、もはや比較するまでもないほど一目瞭然であった。疲労困憊で呪力も底を突きかけている今の脹相と、傷一つなく、呼吸すら乱していない完全な状態の怪物。
万全の状態で挑んだとしても、勝てる見込みなど万に一つも存在しない絶対的な強者。
しかし、脹相は逃げなかった。
彼は血の気を失った顔を上げ、手にした獄門疆裏を自らの胸の奥底へと隠すようにしっかりと抱え込み、残された最後の呪力を振り絞って、いつでも赤血操術を放てるように身構えた。
たとえ相手が誰であろうと、この命を散らしてでも、必ずこの裏門を弟の元へ送り届ける。
なぜなら。自分が、彼らのたった一人の兄だからだ。
兄として、弟の未来を繋ぐために泥を被り、盾となる。その悲壮なまでの覚悟と決意を顔に浮かべて睨みつけてくる脹相を見て。
立ち塞がる水色の髪の少女は、敵意を向けるどころか、ひどく愛らしい、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべた。
「私はお姉ちゃんですよ。家族なんだから、仲良くしましょう」
少女の口から紡がれた、あまりにも場違いで、甘ったるい言葉。
その言葉が耳に届いた瞬間、脹相の心に築き上げられていた長兄としての覚悟や重い責任感が、ひび割れたガラスのように僅かに、しかし確実に揺らいだ。
彼はずっと、兄弟の中で一番上の存在として、常に弟たちを守り、導かなければならないという強烈な自負だけで自分を律してきた。
しかし、目の前にいるこの怪物は、羂索の血を受け継いでいるという点において、間違いなく自分よりも上の血脈に連なる姉という存在なのだ。
唯一の自身より上の存在。その今まで経験したことのない上位の家族の概念に、脹相の思考が一瞬だけ白く染まった。
直後。
目の前に立っていた少女の身体が、陽炎のように僅かにブレた。
風が吹いたわけでも、彼女が大きく動いたわけでもない。ただ、視界のピントが一瞬だけズレたような錯覚。
「……なんですか、これ?」
脹相が怪訝に思い、再び身構えようとした時。彼は自らの胸元に抱え込んでいたはずの重みが、完全に消失していることに気がついた。
戦慄が、背筋を氷のように駆け上がる。
脹相が慌てて視線を落とすと、数メートル離れた場所で微笑んでいる少女の華奢な手の中に、立方体の呪物である獄門疆裏が、すっぽりと収まっていたのだ。
あの一瞬で。殺気も、呪力の揺らぎも、筋肉の駆動すらも一切感知させない神速の歩法で、彼女は脹相の懐に潜り込み、呪物を奪い去り、元の位置へと戻っていた。
もし彼女の手に握られていたのが刃であったなら、脹相の首は今頃、地面に転がって泥を舐めていただろう。
しかし、脹相は冷や汗を流しながらも、冷静な分析を失ってはいなかった。
もし、先ほどの夏油との死闘でここまで肉体と精神をすり減らしていなければ、いくら相手が怪物であっても、これほど無防備に、赤子の手をひねるように簡単に取られることはなかったはずだ。今の自分は、それほどまでに限界を迎えている。
奪われた。弟の希望が、最悪の敵の手に渡ってしまった。
脹相が絶望に顔を歪め、それでもなお奪い返そうと血の刃を形成しようとした時。
少女は、手のひらの上にある獄門疆裏を、興味深そうにペタペタと指で触り、四方から一しきり眺め回していたが。
あろうことか、全く興味を失ったというふうに、それを放物線を描いて脹相の顔面に向けて無造作に放り投げたのだ。
思わず両手でそれを受け止めた脹相は、完全に困惑し、目を見開いて貞綱を見た。
「五条悟が解放されても別に構いませんよ。死滅回游を終わらせるには結局私が障害になりますから」
貞綱は、ふんわりと笑って言った。
それは、現代最強と謳われる五条悟の復活すらも自らの退屈しのぎのスパイスとしてしか見ていない、絶対的な強者ゆえの途方もない自信の表れであった。
お母さんは困るかも、と付け足してクスクスと笑うと、貞綱は突然スーツのポケットからスマートフォンを取り出し、液晶画面をタップして何やら操作を始めた。
そして、そのまま脹相にはもう用はないとばかりに、背を向けてその場を立ち去ろうとしたのだ。
「お前は何故羂索に付いたんだ?」
脹相の口から、無意識のうちにその言葉が絞り出されていた。
敵である自分を見逃し、目的の呪物すら返して立ち去ろうとする怪物の背中を止めたのだ。
脹相は、気になったのだ。どうしても知らなければならないと思った。
人とは何なのか。呪いとは何なのか。
九十九から人として生きろと呪いをかけられた脹相にとって、人間と呪いという相反する血を引く存在である自分自身のアイデンティティは、激しく揺れ動いていた。
そして、目の前にいるこの少女もまた、自分と同じように羂索の因果によって生み出され、人間の器に入り込んでいる存在だ。
ならば、なぜ彼女は、人間を慈しむでもなく、純粋な呪いとして破壊の限りを尽くすでもなく、あの羂索という狂気の親の側に立ち、この悲惨な殺し合いを楽しんでいるのか。
その声を聞いて、立ち去ろうとしていた貞綱の足が止まった。
彼女はゆっくりと振り返り、夜の森の闇の中で、ゾッとするほど美しい笑顔を浮かべた。
「私がどうしてお母さん側に立ったのか。確かに、弟であるあなたは知りたいでしょう」
貞綱はそう言うと、地面に分厚く降り積もった湿った枯葉の上に、スーツが泥や汚れで台無しになることなど全く気に留める様子もなく、スッと音を立てずに正座をした。
そして、自分の細い両膝を、手のひらでポンポンと二回、軽く叩いたのだ。
「何の真似だ」
脹相は、全く意図が読めないその奇行に、警戒を強めて後ずさった。
「一度やってみたかったんです、膝枕」
少女は、心底楽しそうに微笑んだ。
彼女はすでに、別の弟たちにもこの家族の触れ合いをお願いしていた。しかし、当然のことながら素気無く断られ続けていた。
「聞きましたよ。受胎九相図の一番のお兄ちゃん。でも、ずっとお兄ちゃんでいるのも辛いでしょう? たまには甘えないと、疲れてしまいますよ」
その言葉は、ある種の呪いのようであった。
脹相は、長男として、兄であることに疲れたことなど、生まれてからただの一度たりとも存在しない。弟たちを守り、愛することこそが自らの存在意義であり、喜びなのだ。
お門違いも甚だしい。そう反論し、このふざけた茶番を切り捨てようとした。
しかし。
彼の口から言葉が出るよりも先に、彼の限界を超えていた肉体が、そして、心の奥底のどこかで誰かに許されたいと願っていたほんの僅かな脆弱性が、彼女の放つ底知れぬ呪力の波動と甘い言葉に、無意識のうちに絡め取られていた。
気がつけば、脹相の身体は地面に崩れ落ち、彼の頭は、正座をした少女の細く柔らかい膝の上に乗せられ、仰向けに横たわっていたのである。
枯葉の匂いと、微かな花の香りが鼻をくすぐる。
「甘えたいわけじゃないぞ。こうしないとお前が話しそうにないと考えただけだ」
脹相は、見上げる少女の顔から目を逸らし、ひどく不機嫌な、しかし抵抗する気力も湧かない掠れた声で強がった。
「そういうことにしておきましょうか」
貞綱は、その脹相の不器用な言い訳を聞いて、クスクスと鈴が鳴るような心地よい声で笑った。
貞綱の冷たい、しかしどこか人間らしい温もりを持った指先が、脹相の血に塗れた額の髪を優しく梳くように撫でる。
その奇妙な安らぎの中で、怪物は静かに口を開き、自らの遠い遠い過去の記憶を語り始めた。
ーーー
時は、江戸時代後期。
徳川の世が長く続き、表向きは太平の世を謳歌していたが、その裏では数多の呪いと謀略が蠢いていた時代。
蘆屋貞綱という一人の命は、かの有名な大陰陽師、蘆屋道満を遥かな先祖に持つ、呪術界の呪われた名門、蘆屋家の長男としてこの世に生を受けた。
歴史と伝統、そして他家を圧倒する呪術の才を義務付けられた、重苦しい血脈。
しかし、その輝かしいはずの始まりは、絶望に満ちたものであった。
蘆屋家の長男として生まれたその少年は、わずか五歳にして、不治の病に侵され、死の淵を彷徨っていた。