役立たずの三輪 作:メカ丸ゥゥゥウウウ!
事の始まりを辿れば、羂索が自らの知的好奇心と、新たな混沌を生み出すための実験として、出産と子育てという人間の根源的な営みを自ら経験しようと思い立ったことが全ての元凶であった。
羂索は、時の権力と強大な呪術の血脈を併せ持つ呪術界の名門、蘆屋家において、極めて有望な呪力耐性と術式素養を持つ一人の女の肉体を乗っ取った。そして、蘆屋家の当主の妻として懐装し、跡取りとなるべき子をその腹に宿したのだ。
しかし、いざその命が産み落とされた直後から。
仮に過去に戻って己の行動をやり直せるのであれば、羂索は自身の強力な結界術を張り巡らせてでも、過去の自分を全力で止めていただろう。
それほどまでに、人間の赤子を育てるという行為は、羂索の想像を絶する苦行の連続であった。
七百年以上の長きにわたり、数多の術師を謀略で操ってきた羂索のあらゆるノウハウが、自らの腹を痛めて産んだこの小さな命の前では、ただの一つも通用しなかったのだ。
赤子は、昼夜を問わず、鼓膜を劈くような甲高い声で泣き喚いた。
羂索の肉体的な疲労は極限に達し、精神の余裕は見る間に削り取られていく。
泣く理由すら、全く予測がつかない。
空腹を訴える泣き声。胃に溜まった空気を吐き出したいというげっぷの要求。気温の変化による暑さや寒さ。喉の渇き。産着の擦れによる微かな痒み。寝かされている体勢への不満。ただ天井を見つめていることへの退屈。周囲の音や光といった刺激の強さ。興奮。
そして何より羂索を苛立たせたのは、明確な理由すら存在しない、ただ不機嫌であるというだけの理不尽な泣き喚きであった。
これまでも、他人の赤子を世話をした経験はあった。しかし、それら有象無象の命の管理とは真剣さが違った。己の血と肉を分け与えた唯一の存在という重圧が、羂索の首を真綿で絞めるように苦しめた。
さらに不運なことに、この長男は深刻な早産で産み落とされたため、身体がひどく小さく、そして致命的なまでに病弱であった。
呪術の名門である蘆屋家において、肉体の虚弱さは最大の欠陥である。家の長老たちや当主は、この赤子がすぐに死ぬだろうと冷酷な判断を下した。
彼らは跡取りの育成を早々に諦め、呪われた忌み子を遠ざけるように、羂索と赤子を本邸から遠く離れたみすぼらしい離れに隔離した。乳母や使用人の助けを寄越すこともなく、完全なる育児の孤立状態へと追い込んだのだ。
それでも、羂索は子育てを放棄することはなかった。
自らの実験の成果を、この手で完全に開花させるまでは。
疲労の果てに、現代の言葉で言うところの産後うつのような精神状態に陥りながらも、羂索はただ一人で、泥に塗れるようにして赤子の世話を続けた。
たった一、二年の辛抱だ。この時期を乗り越え、言葉を理解するようになれば、自らの呪術の知識を叩き込み、必ずや最強の術師へと育て上げることができる。そう固く信じていたからだ。
だが、その期待もまた、無惨に打ち砕かれることとなる。
羂索の膨大な記憶と知識によれば、人間の子供は二歳ごろになれば、簡単な言葉や単語をいくつか話し始め、意思の疎通が図れるようになるとされていた。
しかし、隔離された離れで二歳を迎えた貞綱が、唯一話し始めた言葉は、たったの一言だけであった。
イヤ。
何をしても。どれほど優しく話しかけても。食事を与えようとしても。
返ってくるのは、首を横に振る動作と、そのたった一言の強烈な拒絶のみ。
自我の芽生えによる反抗期であることを理解してはいても、疲弊しきった羂索の精神に、その一言は鋭い刃となって突き刺さった。
徒労感。そして、この子は本当に呪術師として大成するのだろうかという、底知れぬ育児への不安が、埃まみれの離れの中でドロドロと募っていく日々。
そして。
五年の歳月が流れた冬。
羂索の張り詰めていた心の糸を完全に断ち切る、最後の一押しが訪れた。
貞綱が、当時の日本では不治の病と恐れられていた結核に感染したのだ。
早産で元々虚弱であった小さな肉体は、病魔によってあっという間に蝕まれていった。
かつて羂索をあれほど苛立たせていた、甲高い泣き声も。イヤイヤと床を転げ回って喚く我儘も。次第にその回数を減らしていった。
泣くこと、喚くこと。それは生きようとする生命力の証であり、有り余る体力の証明でもあったのだ。
その体力が完全に底を尽き、代わりに増えていったのは、小さな胸を激しく上下させて苦しむ、乾いた咳ばかりであった。
咳き込むたびに、細い唇から赤い血痰が吐き出され、薄汚れた布団を黒く染めていく。
初めて自らの腹を痛めて産み落とした、我が子。
産んだ当初、その小さな命を腕に抱いた時に確かに感じていた愛着や、未来への期待も。この頃には、もうほんの小さな欠片程度しか羂索の心には残っていなかった。
残っているのは、ただ底知れぬ疲労と、失敗作を作り出してしまった己への失望だけであった。
冷たい雪が降る、ある日の深夜。
布団の中で、もはや自力で寝返りを打つことすらできず、骨と皮だけになりながら浅い呼吸を繰り返す五歳の貞綱を見下ろし。
羂索は、完全にこの命を見限った。
羂索は、いや、蘆屋家の女の皮を被った怪物は、音もなく立ち上がり、振り返ることなく離れの扉を開けて、そのまま雪闇の中へと姿を消した。
残されたのは、底冷えのする薄暗い部屋で死を待つばかりの、齢五つの子供のみ。
その時、意識を失いかけていた貞綱の枕元のすぐ横の畳に、どこから現れたのか、古めかしい和綴じの一冊の本が落ちていた。そしてその隣には、墨がたっぷりと染み込んだ一本の筆が転がっていたが、去り行く羂索がそれに気がつくことはなかった。
ーーー
冷たい雪が舞い散る、江戸の往来。
蘆屋家の敷地を完全に抜け出した羂索は、凍りつくような寒さを感じながらも、その足取りはどこか未練を断ち切ったように軽かった。
頭の中で思考しているのは、我が子の死を悼むことではなく、次に乗っ取るべき優秀な肉体の選定と、計画の修正についてであった。
蘆屋家の長男を見捨てて逃げ出したのだ。いくら家の者から見放されていた忌み子とはいえ、跡取りを死なせたとなれば、女の肉体ごとあの家に戻る居場所は完全に失われたことになる。
惜しいという気持ちは、確かにあった。
あの子供は、肉体こそ虚弱の極みであったが、その奥底に秘められた呪力の質は決して悪くはなかった。教育と環境次第で、あるいは強力な術師としてどこまで伸びたのか。羂索の知的好奇心を刺激する要素は十分に持ち合わせていたのだ。
しかし、それも結核という不治の病を前にしては、どうしようもない。
ただでさえ華奢だった肉体は、病を患ってからさらに細く、朽木のように枯れ果てていた。持って今日か、明日の命。死者を蘇らせることは、いかなる呪術を用いても不可能である。
失敗作は切り捨て、次へと進む。それが七百年の時を生きる呪詛師の絶対的な合理性であった。
羂索が、完全に心を切り替え、雪降る街道を歩き去ろうとした。
まさにその時である。
背後から、遥か遠く離れた蘆屋家の本邸の方向から。
凄まじい密度の、しかしどこか感じ覚えのある異様な呪力の波動が、吹雪を掻き消すような勢いで羂索の肌を撫でたのだ。
羂索の足が、ピタリと止まった。
振り向いたその顔には、完全な驚愕が張り付いていた。
この呪力の波長。間違いない。あの離れに置いてきた、今にも息絶えようとしていた五歳の我が子の呪力だ。
しかし、その出力と質は、先ほどまでの今にも消え入りそうな微弱なものとは全く異なっていた。まるで、深く暗い地底湖から、一気に灼熱のマグマが噴出したかのような、暴力的なまでの生命の爆発。
気がつけば、羂索は自らの意思とは裏腹に、来た雪道を猛烈な速度で引き返していた。
なぜ自分が走っているのか、羂索自身にもわからなかった。
腹を痛めて産んだ女としての抗いがたい母性本能がそうさせたのか。
はたまた、完全に諦めていた実験材料が突然変異を起こしたことに対する、呪術師としての抑えきれない未知への好奇心か。
羂索は、自らの内に生じた感情の矛盾に混乱する頭を抱えながら、ただひたすらに雪を蹴って走り続けた。
やがて。
息を切らして蘆屋家本邸の敷地に忍び込み、あの隔離されたみすぼらしい離れに辿り着いた時。
羂索は、己の目を疑い、その場に立ち尽くした。
離れの建物を中心にして、周囲の空間そのものが奇妙に歪んでいた。
そして、空の雪とは全く違う、黒く濁った結界の破片が、まるで割れたガラスのように辺り一面をフワフワと舞い散っていたのである。
領域展開。
七百年の知識を持つ羂索の脳髄が、その痕跡の正体を即座に弾き出した。
だが、有り得ない。絶対に有り得ないことだ。
領域展開とは、呪術戦の極致。限られた一握りの天才だけが、長い年月をかけた血の滲むような鍛錬と呪力操作の果てにようやく到達できる、生得領域の具現化である。
それを、術式の使い方も知らない、呪力操作すら覚束ない、今まさに死にかけている五歳の子供が、無意識のうちに発動させたというのか。
有り得ないと思う常識と、もしかしたらという狂気的な期待。
羂索は、震える手で、離れの木戸を激しく引き開けた。
部屋の中は、先ほど彼が去った時と何一つ変わっていなかった。
しかし。
薄汚れた布団の中で眠る子供の姿を見た瞬間、羂索の心臓は大きく跳ね上がった。
羂索は雪まみれの着物のまま駆け寄り、布団の中で静かに寝息を立てている我が子を、両腕でそっと抱き上げた。
その肉体からは、先ほどまでの恐ろしいまでの熱も、死の影も、完全に消え去っていた。
そして何よりも羂索を驚愕させたのは。
結核によって蝕まれ、咳をするたびに血を吐いていた肺の病巣が完全に消滅し、病魔が完治していること。
いや、それどころではない。
数時間前まで、栄養失調と病で骨と皮だけになっていたはずのその小さな肉体に、信じられないほどの速度で細胞が分裂し、筋肉が形成され、健康的な赤味を帯びたふっくらとした肉がしっかりと付いていたのだ。
羂索は、その信じられない生命の神秘を抱きしめて、我が子の温もりと、その奥底で静かに脈打つ底知れぬ呪力の深淵を感じ取りながら。
誰もいない雪降る離れの部屋で、未知の混沌の誕生を確信し、ひどく嬉しそうに、一人で狂ったように笑い声を上げた。