役立たずの三輪 作:メカ丸ゥゥゥウウウ!
特級呪霊、花御の領域展開
どこまでも澄み渡る青空と、地平の彼方まで咲き誇る色鮮やかな花々。この大自然の慈愛を具現化したかのような極彩色の牢獄の中で、三輪霞は絶対的な死のうねりを前にして、ただ立ち尽くしていた。
彼女の魂を蝕むのは、恐怖ではなく、領域が強制するおぞましいほどの安らぎであった。花々が放つ見えざる精神干渉が、三輪の脳髄から闘争心を根こそぎ奪い去っていく。刀を握る指からは力が抜け、迫り来る特級の呪力砲を前にしても、回避行動をとるための神経信号は一切筋肉へと伝達されなかった。
(あぁ……綺麗……。もう、戦わなくてもいいんだ……)
三輪の意識が、泥のように甘い微睡みへと沈んでいく。
花御の左肩、巨大な供花から放たれた極太の呪力砲が、鼓膜を破るほどの轟音と共に空間を削り取りながら三輪の心臓へと迫る。必中の理を内包した、回避不能の死の閃光。
直撃まで、残り一秒。
三輪霞という少女の意識は、すでに自身の死を穏やかに受け入れ、完全に停止していた。
――しかし。
彼女の肉体は、決して死を許容してはいなかった。
器の破壊という決定的な危機。それに呼応するように、三輪の意識の最深部に封じられていた呪物の意志の残滓が、意思の仮死状態にある身体の主を置き去りにして、独自の防衛機構を築き始めた。
それは、これまでのように単なる筋繊維の密度を高めたり、骨格を硬化させたりといった、表面的な肉体強化ではない。
三輪の肉体を構成する器官の役割そのものを、根本から解体し、生存に特化した異形の構造へと再構築する、禁忌の生理変容であった。
ドクンッ!!
三輪の心臓が、限界を突破した恐ろしい音を立てて跳ねた。
まず変容したのは視覚であった。
光を網膜で捉え、脳の視覚野で処理するという人間の根源的な情報収集機能が、瞬時にして遮断される。そして、本来目玉が担うべきその役割は、全身を覆う皮膚、とりわけ刀の柄を握る指先の末梢神経へと強制的に繋ぎ変えられた。
「……ッ!?」
三輪の沈みかけていた意識が、突如として脳内に直接流れ込んできた膨大な映像によって強引に引き戻された。
彼女の目は、迫り来る眩い閃光を捉えてはいない。だが、彼女は視ていた。
全身の皮膚が、空気の僅かな振動、急激な温度の変化、そして何より、目前に迫る巨大な呪力の微細な揺らぎや質量を、完全な立体映像として脳内に直接投影しているのだ。
それは、呪力という負のエネルギーから完全に脱却した、純粋で剝き出しの肉体――天与呪縛のフィジカルギフテッドにのみ許された、世界そのものを肌で知覚する領域。その究極の感覚を、術式による強制的な器官の変容によって疑似的に、しかし完璧に再現したものであった。
肉体の異常な最適化は、なおも止まらない。
次に変容したのは呼吸器であった。
肺が酸素を取り込み二酸化炭素を排出するという生命維持の基本機能を停止し、その全機能を呪力の吸収と循環へと極限まで特化させた。
ここは特級呪霊の領域内部。大気中に充満しているのは、花御から溢れ出た潤沢で高密度な呪力そのものである。三輪が一度深く息を吸い込むだけで、肺は周囲の致死の呪力を貪欲に喰らい尽くし、自身のエネルギーとして血液中に循環させ始めた。
最後に、術式は三輪の交感神経と副腎髄質に直接作用し、致死量に近いノルアドレナリンとアドレナリンを体内に一気に分泌させた。
領域の花畑がもたらしていた平和な安らぎと戦意喪失の精神汚染が、化学的な怒りと生存本能によって跡形もなく焼き尽くされる。
「――っアアアッ!!」
三輪の喉から、理性を置き去りにした獣のような咆哮が漏れた。
強制的に戦闘モードへと引き戻された彼女の目は、大きく見開かれ、毛細血管が充血して赤く染まっている。
時間にして、わずかコンマ数秒にも満たない刹那の出来事。
しかし、最早巨大な呪力砲の直撃は目の前であり、回避行動をとる猶予も、刀を振るう時間すらも残されていない。取れる選択肢は、ただ一手のみ。
しかし、死が目前まで迫った極限の緊張感と、皮膚を通してこれまでの人生で一度も感じ取れなかった世界の真理を視たこと。そして、莫大な呪力が体内を駆け巡っていること。
これらの要因が奇跡的に噛み合い、三輪の脳髄はかつてないほどの高速回転を始めていた。
彼女の思考回路が、瞬時に現在の状況における最適解を弾き出す。
避けることはできない。斬ることも間に合わない。
ならば――。
三輪は、刀を握っていた手を放し、両の手のひらを迫り来る呪力砲に向けて真っ直ぐにかざした。
次の瞬間、花御の放った必殺の砲撃が、三輪の両掌に真正面から激突した。
領域の必中効果が乗った、大自然の怒りそのものとも言える莫大なエネルギーの奔流。並の術師であれば、触れた瞬間に細胞の一欠けらすら残さず消滅させられる威力の塊。
だが、三輪は一歩も退かなかった。
「フゥゥゥゥーーッ!!」
三輪は肺を極限まで膨らませ、領域内の呪力を猛烈な勢いで吸い込む。そして、体内で循環させたその呪力を、砲撃を受け止めている両掌の表面へと爆発的な勢いで放出、集中させた。
吸い込んでは、放出する。その常軌を逸した高速のサイクル。
三輪がガードに使用しているのは、自身の呪力ではない。花御の領域空間に満ちていた、花御自身の呪力である。
同質の呪力同士が正面から激突し、互いの威力を相殺し合う。
金属が軋むような恐ろしい悲鳴が空間に響き渡る。
砲撃の凄まじい余波が周囲の花畑を根こそぎ吹き飛ばし、無数の花びらが嵐のように舞い散って両者の視界を完全に遮った。
やがて、数秒にも数時間にも感じられた呪力砲の照射が終わり、舞い散る花びらがゆっくりと地面に落ちていく。
視界が晴れた先、花御の異形の顔に、明確な衝撃と戦慄が走った。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
土煙の中で、三輪霞は静かに立っていた。
砲撃を直接受け止めた両手は、皮膚が赤黒く爛れ、指先からはとめどなく鮮血が滴り落ちている。激痛に顔は歪み、肩で激しく息をしている。
しかし、ダメージはそれだけだった。
身につけていたパンツスーツが衝撃の余波で所々裂け、肌が露出してはいたが、それ以外の身体の部位には、致命傷はおろか掠り傷一つ見受けられない。
自身の全身全霊をかけた必中必殺の砲撃を、ただの小娘が、手の火傷だけで耐え凌いだ。
花御にとって、それは天地がひっくり返るほどの信じがたい光景であり、理解の範疇を超えた事象であった。完全な硬直。思考の停止。
その花御の致命的な隙を、三輪の皮膚が捉えた。
全身の感覚が、花御の呪力の揺らぎが停止したことを彼女の脳に伝達する。
三輪は、血に染まった両手をだらりと下げたまま、地面を蹴った。
爛れた手では、もう刀は握れない。だが、彼女の肉体には、今まさに最高潮に達した異常な筋力と、研ぎ澄まされた感覚が残っている。
(この動き……!)
猛然と花御へと駆ける三輪の脳裏に、森で刃を交えた一人の少女の姿が鮮明に浮かび上がっていた。
禪院真希。
呪力を持たない代わりに、極限まで肉体を練り上げた武の達人。彼女の無駄のない歩法、体重の乗せ方、そして関節の連動。
先ほどの戦闘で三輪の瞳に焼き付いていた体術のイメージが、今の、皮膚を通して世界を識る三輪の肉体の動きと完全に重なり合った。
音を置き去りにした踏み込み。
花御の懐に潜り込んだ三輪は、自身の身体を独楽のように鋭く回転させた。
遠心力、捻転による莫大な筋力、そして最適化された呪力の爆発。その全てを右足のつま先に収束させる。
「ッ――!!」
放たれた渾身の回し蹴りが、硬直していた花御の腹部に深々と突き刺さった。
特級呪霊の巨体がくの字に折れ曲がり、砲弾のような速度で後方へと吹き飛んでいく。
その同タイミング。
三輪の頭上の空間に、蜘蛛の巣状の巨大な亀裂が走った。
バリンッ!というガラスが砕けるような音と共に、花御の領域の強固な外殻が外部からの暴力によって破壊される。
破れた天蓋から降り注ぐ陽光を背に、空中に躍り出た二つの影。
虎杖悠仁と、東堂葵。
全身の皮膚で彼らの呪力を感知し、そして視界の端にその頼もしい姿を捉えた瞬間。
三輪の脳内を満たしていた極度の緊張と強制的な怒りのホルモンが、潮が引くように急速に薄れていった。
(……あぁ、良かった。二人とも、無事だったんだ……)
蹴り飛ばされた花御が、空中に現れた二人の間を横切っていくのをぼんやりと見つめながら、三輪は小さく微笑んだ。
これなら、もう大丈夫だ。
安堵の感情が広がると同時に、限界を超えて酷使された肉体に、凄まじい反動と疲労が襲いかかってきた。
三輪の意識が唐突に途切れ、彼女の身体は糸が切れた人形のように、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。
身体の主が完全に意識を手放したことで、防衛機構としての役目を終えた得体の知れない術式もまた、三輪の肉体に施していた負荷のかかる肉体改変を静かに取り消していく。
視覚は再び網膜へと戻り、肺は酸素を求め、神経回路は通常の人間としての正しい状態へと再接続されていく。
底知れぬ力は再び深い器の底へと沈み、そこには、両手に火傷を負って静かに眠る、一人の傷ついた少女の姿だけが残されたのであった。
※三輪ちゃんは本作の主人公ではありません。本来の主人公がいまだに出てこないのが悪いです。