役立たずの三輪   作:メカ丸ゥゥゥウウウ!

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地獄の足音の前で

 消毒液と、微かに鼻を突く血の匂い。

 それが、三輪霞が意識を取り戻した時に感じた最初の情報だった。

 

「ん……ぁ……」

 

 重い瞼を開けると、真っ白な天井と、蛍光灯の無機質な光が視界に飛び込んできた。背中には硬いベッドの感触。どうやら自分は、東京校の医務室に運び込まれたらしい。

 ぼんやりとする頭で記憶を遡る。特級呪霊の領域展開。絶対的な死の予感。そして――自身の肉体に起きた、あの悍ましくも圧倒的な変異。

 ビクリと肩を震わせ、三輪は弾かれたように上体を起こした。

 

「起きたか。気分はどうだ」

 

 気怠げな声と共に、白衣を着た女性――東京校の医師(ブラックジャック)であり、反転術式の使い手である家入硝子が、カルテから視線を外してこちらを見た。

 三輪は慌てて自分の両手を見下ろした。

 供花の莫大な呪力を込めた砲撃を正面から受け止めた両手。皮膚は赤黒く爛れ、肉が焦げ、動かすことすら不可能だったはずの掌。

 しかし今、彼女の目の前にある両手には、火傷の痕一つ残っていなかった。うっすらと新しいピンク色の皮膚が形成されている箇所はあるものの、痛みは全くなく、指先まで完全に動かすことができる。

 

「あ、あの……私の手、家入先生が反転術式で治してくれたんですか……?」

「ん? ああ、一応診たよ。でもね」

 

 家入は少しだけ不思議そうな顔をして、自身の首を掻いた。

 

「お前がここに運び込まれた時点で、その手はほとんど治りかけてた。私の反転術式のアウトプットは、ほんの少し表面を整えただけだ。三級の小娘が特級の呪力砲をモロに受けて、しかも自力で再生しかけてるなんて、どこのバケモノかと思ったよ」

 

 その言葉に、三輪の心臓がドクンと冷たく跳ねた。

 

(違う。私は反転術式なんて使えない。それに、あの領域内での出来事……)

 

 三輪は自身の両手を強く握り締めた。

 領域内で死を覚悟した瞬間。突如として視覚が眼球から切り離され、全身の皮膚を通して呪力や空気の揺らぎを立体的な映像として脳に直接取り込んだあの感覚。

 肺が酸素ではなく、周囲の高密度な呪力を呼吸し、自らの血液として全身に循環させたあの異常な生理機能。

 そして、感情を全て焼き尽くすほどの、致死量のホルモン分泌による強制的な怒りと戦闘本能の励起。

 あれは、自分が“自分ではない何か”へと作り変えられたような、恐ろしい体験だった。

 

(私の身体の中で、何かが起きている。私じゃない、得体の知れない何かが、私を侵食している……?)

 

 自分が未知の化け物に変わっていくような恐怖。冷や汗が背筋を伝い、三輪の顔から血の気が引いていく。

 だが、その深刻な自己分析は、家入の無情な声によって断ち切られた。

 

「よし、異常がないならさっさとベッドから降りてね。他にも重傷者が運ばれてきてるんだ。ピンピンしてる奴に構ってる暇はないよ」

 

 有無を言わさぬ家入の宣告。確かに、隣のベッドからは呻き声が聞こえ、医療器具の音が絶え間なく鳴っている。

 三輪は「はいっ、ありがとうございました!」と条件反射で頭を下げ、逃げるように医務室を後にした。

 

 

 ーーー

 

 

 交流会一日目は、特級呪霊花御を含む外部からの襲撃というイレギュラーな事態によって中断され、幕を閉じた。

 事後処理と結界の再構築、そして負傷者の治療のため、交流会二日目は一日開けてから続行されることとなった。

 突如として湧き上がった、一日の休息日。

 死線から生還した呪術師たちが、すり減った精神を回復させるために与えられた僅かな猶予。

 京都校の面々もそれぞれに休息をとる中、三輪霞は、日本の若者文化とファッションの中心地――渋谷の街にいた。

 

「なに頼むの。早く決めなさいよ」

 

 少し苛立ったような、しかしどこか楽しげな声が、三輪の意識を過去から現実へと引き戻した。

 ハッと顔を上げると、向かいの席に座る西宮桃が、ストローを咥えながらジト目でこちらを見ている。その隣では、禪院真依がスマートフォンをいじりながら、退屈そうに頬杖をついていた。

 

「あ、ご、ごめんなさい!」

 

 ここは渋谷の中心部にある、若者たちでごった返すお洒落なカフェの一角。大きなガラス張りの窓からは、スクランブル交差点を忙しなく行き交う人々の波が見える。呪いも血も存在しない、ただの平和な日常の景色。

 三輪、真衣、西宮の三人は、午前中から渋谷でショッピングを楽しみ、沢山の紙袋を抱えてこの映えスイーツで有名なカフェへと休憩に訪れていたのである。

 

 周囲を見渡せば、真衣の席には色鮮やかなマカロンのセットが、西宮の席には可愛らしいラテアートが施されたカプチーノとパンケーキがすでに運ばれている。

 そして、三輪のテーブルの横には、注文を取るために電子端末を持った店員が、営業スマイルを顔に貼り付けて静かに待機していた。

 どうやら、自分の注文だけがまだらしい。

 

(どうしよう、ずっと自分の身体のことばかり考えてて、メニューなんて全然見てなかった……!)

 

 三輪は慌ててテーブルの上に広げられたメニュー表に視線を落とした。

 色とりどりのスイーツの写真が並んでいるが、焦っているせいで全く頭に入ってこない。店員の「お決まりでしょうか?」という無言のプレッシャーが、三輪の生真面目な性格をさらに追い詰める。

 

 ええい、ままよ!

 

 三輪は、メニュー表の最も大きな写真が載っているページを指差した。

 

「こ、これ! これをお願いします!」

「かしこまりました。……マウンテン・ギャラクシー・パフェを一つですね」

 

 店員が僅かに目を見開き、そして深く一礼して去っていった。

 その直後。

 向かいに座る真衣と西宮が、信じられないものを見るような目で三輪を凝視していることに気がついた。

 

「……三輪。あんた、それ本気で頼んだの?」

 

 真衣が、呆れたような、それでいて少し面白がるような声で問う。

 

「え? なんですか? 一番美味しそうだったから……」

「そう。なら、いいけど」

 

 真衣は薄く笑い、西宮は「後で泣きついても知らないからね」と肩をすくめた。

 二人の反応の理由を、三輪は数分後に身をもって知ることになる。

 

「お待たせいたしました。マウンテン・ギャラクシー・パフェでございます」

 

 ズシンッ。

 テーブルの上に置かれたソレは、三輪の想像を絶する巨大な建造物であった。

 高さは優に五十センチを超え、花瓶のような巨大なガラス容器の中には、地層のように重なったコーンフレーク、ブラウニー、各種フルーツのコンポート、数種類のアイスクリームが詰め込まれている。そして頂上には、雪山のようにそびえ立つ生クリームのタワーと、色鮮やかな飴細工。

 メニュー表の端に、極小の文字で「※7~8名様でシェアしていただくサイズです」と書かれていたことに、三輪はこの時初めて気がついた。

 

「うっわ、やば。生で見るとマジでエグいわねこれ」

「真依ちゃん真依ちゃん、一緒に撮って!」

 

 真依と西宮は即座にスマートフォンを取り出し、青ざめて固まる三輪と巨大パフェを背景に、楽しそうに自撮り写真を何枚も撮り始めた。

 

「あ、あの……真依、西宮先輩。これ、さすがに一人じゃ……一緒に食べてくれたり……?」

 

 三輪は涙声で助けを求めた。

 

「無理に決まってんでしょ。私マカロンあるし」

「私も。そんなカロリー爆弾、絶対太るもん」

 

 二人は冷酷に三輪の嘆願を切り捨て、優雅に自分のスイーツを食べ始めた。

 逃げ道はない。残すことは、生産者と料理人に対して失礼極まりない。三輪の生真面目な性格が、この暴力的なまでの質量のスイーツと正面から向き合うことを決定づけた。

 

(やるしかない。これも呪霊討伐と同じ、一つの任務だ。一口ずつ確実に削っていけば、いつかは底が見えるはず……!)

 

 三輪は覚悟を決め、巨大なスプーンを手に取った。

 そして、頂上の生クリームとイチゴをすくい、口へと運ぶ。

 

 ――瞬間、脳髄を直撃する強烈な甘味と酸味。

 

「……っ! 美味しい!!」

 

 三輪の顔がパッと明るくなった。死線から生還した極度の疲労とストレスに、上質な糖分が染み渡っていく。

 これならいけるかもしれない。三輪は勢いづき、見事なペースでパフェの山を切り崩し始めた。甘い、冷たい、サクサクする。幸せな味覚の連続に、先ほどまで抱えていた自身の肉体への恐怖すら一時的に忘却の彼方へと追いやられていた。

 

 しかし。

 物理的な質量というものは、決して精神論でどうにかなるものではない。

 通常の二人分、およそ七百グラム近いスイーツを胃袋に収めたあたりで、三輪の手がピタリと止まった。

 

「……うぐっ」

 

 腹部が風船のようにはち切れそうになり、胃液が逆流してくるような不快感が彼女を襲う。

 視線を落とせば、巨大なパフェはまだ5分の4以上も残っている。

 

(限界……これ以上食べたら、本気で吐く……!)

 

 冷や汗が吹き出し、スプーンを持つ手が小刻みに震え始めた。

 十七歳の一般的な少女の胃袋の容量。それはすでに限界に達していた。

 

 その時だった。

 三輪の意識の底で、再びアレが静かに蠢いた。

 胃袋の限界、内臓破裂の危機。それを肉体の主に対する極めて深刻な危機的状況であると、肉体の深淵に潜む本能――術式が誤認したのだ。

 連日の死闘によって活性化していたその力は、三輪の同意を得ることもなく、再び彼女の肉体に強制的な最適化を施し始めた。

 

 三輪の体内で、異常な変異現象が巻き起こる。

 胃の壁が異常な弾力性を持ち始め、容積を物理的な限界を超えて拡張させる。同時に、消化液の分泌と濃度が常軌を逸したレベルへと引き上げられ、取り込んだ糖分と脂質を、秒単位で熱量と微細な呪力へと強制的に変換、分解していく。

 より早く、より多くを喰らい、そして消化するための器官。

 それは一時的とはいえ、人間ではなく、貪欲な魔獣のそれと寸分違わぬ構造への変異であった。

 

「……あれ?」

 

 三輪は目を瞬かせた。

 数秒前まで感じていた、はち切れんばかりの胃の苦しさと吐き気が、嘘のように綺麗さっぱりと消え失せていたのだ。

 それどころか、お腹の底に底なしの巨大な空洞がぽっかりと空いたような、強烈な空腹感すら感じ始めた。

 

(よく分からないけど……お腹にスペースができた! これならいける!)

 

 三輪は深く考えることをやめた。生真面目な彼女だが、目の前の甘い誘惑と空腹感の前では、己の肉体の異常性への恐怖も後回しになっていた。

 三輪は再びスプーンを握り直し、先ほどまでの苦悶が嘘のような、恐ろしいスピードでパフェを口に運び始めた。

 

 ザクッ、パクッ。スッ、パクッ。

 機械のように正確な反復運動。山のように積まれていたアイスクリームが、ブラウニーが、フルーツが、みるみるうちに三輪の胃袋という名のブラックホールへと吸い込まれていく。

 

「え、ちょっと……」

「嘘でしょ……?」

 

 向かいに座っていた真依と西宮が、その常軌を逸した食事風景に気づき、持っていたフォークを取り落としそうになっていた。

 わずか十数分。

 三輪は、八人前はあろうかという巨大パフェを最後の一欠けらまで平らげ、満足げにスプーンを置いた。

 

「ふぅ……ごちそうさまでした!」

 

 満面の笑みを浮かべる三輪。そのお腹は少し膨れているものの、二.五キロ以上の質量を収めたとは到底思えないほど平らであった。

 彼女の体内では、驚異的な速度でカロリーが呪力と熱に変換され、全く無駄なく処理されていることなど、彼女自身を含め、誰も知る由もない。

 

「……三輪。あんた、胃袋どうなってんのよ。バケモノね」

 

 真依がドン引きしたような顔で呟く。

 

「本当にね。呪霊よりよっぽど怖いんだけど」

 

 西宮も呆れ果ててため息をついた。

 

「あはは、私って意外と大食いだったみたいです!」

 

 三輪は照れ隠しに頭を掻いた。

 自身の肉体に施された、人外の領域へと足を踏み入れかねない悍ましい機能変異。それが、ただの大食いという笑い話として記憶に刻まれ処理されていく。

 得体の知れない違和感と恐怖は、甘いパフェの記憶と共に、再び彼女の意識の底へと沈み込んでいった。

 

 窓の外では、夕暮れ時の渋谷の街が、茜色に染まり始めていた。

 スクランブル交差点を歩く若者たちの笑い声。カフェに流れるポップな音楽。

 真依の皮肉に西宮がツッコミを入れ、三輪が慌てて二人の仲を取り持つ。

 そんな下らない、しかし何物にも代えがたい、穏やかな青い春。

 

 彼女たちはまだ知らない。

 今、笑い合い、歩いているこの渋谷という街が。

 おびただしい数の呪いと、血と、絶望に塗れた文字通りの地獄へと変わるまで――あと一ヶ月と少し。




家入さんって医師免許持ってましたっけ?
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