第24層、イドフロント最深部。
「調整室」の空気は、命の灯火が極限まで凝縮された際に放つ、芳醇でいて、魂が逆立つような甘い香りに満たされていました。
ボンドルドは、作業台の上に置かれた、鈍い輝きを放つ最新の「箱型カートリッジ」を、指先で慈しむように撫でていました。その中には今、解剖学的、そして神秘学的な処置を終えたアリーナの「核」が、生体維持液と共に収められています。
「……おやおや。素晴らしい。実に、実に素晴らしい。見てください、皆さん。アリーナのこの、凪のような穏やかな拍動を。愛です。これこそが、魂が真の安らぎと、至上の目的を見出した証なのですよ」
ボンドルドは、カートリッジから伸びる複雑な神経接続用の生体触手を、自らの背負った装置の基部へと、一本ずつ丁寧に、まるで行き届いた葬礼を執り行うかのように接続していきました。
「……アリーナ。聞こえますか? もう、あなたは独りではありません。あなたのその美しい皮膚も、神の血が刻んだ素晴らしい紋様も……。すべてはこの箱の中で、私を黎明へと押し上げるための、純粋な『意志』へと昇華されました」
ボンドルドは、カートリッジの側面に開いた小さな観測用窓から、内部を覗き込みました。
そこには、肉体という「無駄」を極限まで削ぎ落とされ、脳髄と脊髄、そして「恩恵(ファルナ)」の核のみとなったアリーナの残滓が、ボンドルドの思考と同期し、微かに、しかし幸福そうに震えていました。
「……おや。まだ、一欠片の不安が残っていますか? 大丈夫ですよ。今、最後の『絆』を結びましょう。……家族とは、血の繋がりではありません。私とあなたが、一つの黎明を、一つの真理を分かち合うこと。それこそが、何よりも強固な絆なのですから」
ボンドルドは、精神隷属機(ゾアホリック)の出力を、一気に、かつてないほど繊細な波長へと引き上げました。
自らの魂の一部を、直接アリーナの脳髄の深層へと流し込み、彼女の「自己」という最後の壁を、甘美なる溶解へと導きます。
その瞬間、アリーナの魂の中に残っていた「自分を失うことへの恐怖」は、ボンドルドという巨大な存在に包み込まれる「全能の安心感」へと、完全に上書きされました。
「……ああ、素晴らしい……。聴こえます。あなたの喜びが。私を支えたいという、その無垢な献身が、この箱の中でこれほどまでに力強い輝きを放っている。……愛です。愛ですよ。アイズ・ヴァレンシュタインの風さえも、この絆の前では、ただのそよ風に過ぎないでしょう」
ボンドルドは、重厚な金属音を立てて、カートリッジの天蓋を完全に閉鎖しました。
ガチリ。
その音は、一人の女性が「人間」であることを辞め、黎明卿の「手足」であり、「燃料」であり、そして「最愛の家族」となったことを告げる、呪いと祝福の合図でした。
彼は、装置のレバーを静かに引き下げました。
箱の中から、凄絶な魔力の逆流が始まりました。アリーナの全エクセリアが、ボンドルドを唯一の神と仰ぐ「親愛」を触媒として、本来の限界を遥かに超えた出力でボンドルドの肉体へと流れ込んでいきます。
「……素晴らしい……! 魂が、存在の根源から震えている……。アリーナ、あなたの愛が……私を、これほどまでに高い場所へと連れて行ってくれる……!」
ボンドルドの仮面が、狂おしいほどの紫の燐光を放ち、周囲の空間がその圧力だけでひび割れ始めました。
神の恩恵を外部から「搾取」し、それを家族という名の「加速器」で増幅する。これこそが、アビスの理と、この世界の神秘が融合した、至高の黎明の姿。
「……おやおや。いけませんね。あまりの喜びに、少しばかり語りすぎました。……ですが、アリーナ。あなたのその温もり、この使い捨ての箱が燃え尽きるその瞬間まで、私は心から、慈しみ続けますよ」
ボンドルドは、背中の装置に装填された、激しく脈動する「箱」をそっと背負い直し、暗闇の通路へと歩み出しました。
その足元には、かつてアリーナであった者の、不要な肉体の残骸が、冷たい執刀台の上に置き去りにされていました。
「さあ、お帰りなさい。ロキ・ファミリア。……皆さんが、私の新しい家族の産声を、最初のお客様として聴いてくださるのを……楽しみに待っていますよ」