『神々の箱庭に、黎明の光を』   作:もいもい130

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第8話

第18層、迷宮の「アンダー・リゾート」。

その上層へと続く巨大な縦穴の境界において、漆黒の外套を纏った異形――ボンドルドは、垂直の壁面に張り付いたまま、静かに仮面のスリットを明滅させていました。

「……おやおや。素晴らしい。実に、実に素晴らしい。これほどの高度、これほど急激な『上昇』を繰り返しながら……私の肉体には、微かな歪みすら生じていない。アビスの呪いという名の絶対的な理が、この地には存在しない。愛、愛ですよ。これはもはや、探求という名の階段を駆け上がる私への、この世界からの祝福に他なりません」

ボンドルドは背後の強靭な成れ果ての尾を岩壁に深く突き立て、自らの位置を固定しました。

アビスにおいて、五層から四層へ、あるいは四層から三層へと戻る行為は、人間性を泥へと変える絶望の同義語。しかし、このオラリオの迷宮において、彼は数百、数千メートルという高度差を、ただの「移動」として踏破してのけたのです。

「さあ、確かめに行きましょうか。この上昇負荷なき世界の『天井』が、どこまで続いているのか。……あるいは、私という異物を排除せんと、より高度な『免疫システム』が牙を剥く準備をしているのか。……おやおや。興味深い。実に、興味深いですね」

ボンドルドは、イドフロントで待機する純白の装束を纏った祈手(アンブラハンズ)たちへ、精神波を通じて穏やかな指示を飛ばしました。

「……皆さん。拠点の拡張は、私の思考の一部として滞りなく進めてください。私は少し、この世界の『空』の味を確かめてくるとしましょう。……大丈夫ですよ。私の愛は、常にあなた方と共にあります」

彼は壁面から離れ、月に触れる(ファーカレス)から滑り出した触手を、さらに上方の岩棚へと鋭く突き刺しました。触手の棘が岩を砕き、強靭な牽引力が彼の巨躯を、吸い込まれるような速度で上層へと引き上げていきます。

辿り着いたのは、第18層。

そこは下層の入り口でありながら、豊かな水源と植物、そして迷宮の自浄作用によって保たれた、偽りの安らぎが満ちる場所。

ボンドルドは、縦穴の縁を乗り越え、音もなくその地に降り立ちました。煤けた外套を翻し、成れ果ての尾を床に引きずりながら、彼は周囲の「光」を珍しそうに見渡します。

「おや……。これは驚きました。迷宮の中に、これほどまでに生命の瑞々しさが溢れる空間が存在するとは。……愛、愛ですよ。アビスの深層が『食らう場所』であるならば、ここは『育む場所』というわけですか。素晴らしい。実験体の鮮度を保つには、これ以上ない環境ではありませんか」

その時、近くの茂みから、数人の冒険者たちが姿を現しました。

彼らは第18層で休息をとっていた、中堅派閥の遠征隊の一部。彼らにとって、暗闇の縦穴から滑り出してきた漆黒の異形は、既存のどのモンスター図鑑にも載っていない、おぞましい「未知」そのものでした。

「……おい、見ろ。あそこ、何かいるぞ。……なんだあれは、人間か? いや、あの尾はなんだ……。おい、構えろ! モンスターだ!」

冒険者たちは足を止め、震える手で武器を構えました。煤けた仮面の縦一文字のスリットから漏れる紫の光、その奥にあるはずの「視線」。そして、生物の理を完全に逸脱した成れ果ての肉体。彼らが知る「闇派閥(イヴィルス)」の残党とも、凶悪な「強化種」とも違う、圧倒的なまでの異物感に、場が凍りつきます。

ボンドルドは、向けられた刃と、そこに宿る純粋な「恐怖」を慈しむように見つめ、優雅に、かつ至高の懃懃さをもって一礼しました。

「……おやおや。驚かせてしまいましたね。これは失礼いたしました。……初めまして。……私はボンドルド。……人呼んで、黎明卿(れいめいきょう)。……ただの探求者ですよ」

彼の声は、穏やかで、しかし心臓を直接撫で上げるような不気味な残響を伴っていました。

冒険者たちは悲鳴に近い声を上げ、数歩後退します。

「……な、何者だてめえ……! 黎明卿……? 聞いたこともねえ名前だ! 闇派閥の新しい幹部か! そこで何をしていた!」

ボンドルドは、一歩、また一歩と彼らへ歩み寄りました。その動作には一点の敵意もありませんが、それ故に、逃げ場のない狂気が周囲の空気を凝固させていきます。

「私はただ、この世界の『空』がどこまで続いているのか、その高度を確認していたに過ぎません。……素晴らしい。あなた方のその瑞々しい生命の輝き、そして私を見るその真っ直ぐな畏怖。……愛、愛ですよ。あなた方は、この素晴らしい迷宮の一部として、実によく馴染んでいる」

彼は至近距離まで、何の警戒もなく歩み寄りました。戦慄する冒険者の目前で、ボンドルドはそっと、羽根が舞い降りるような軽やかさで、自らの手のひらを彼らに向けました。

「さあ、協力してください。あなた方の命、その経験、その肉体。すべてを私の探求に捧げ、ともに新たな夜明けを見ようではありませんか。……大丈夫、痛みは一時的なものです。それが過ぎれば、あなた方は私の素晴らしい『家族』として、新たな価値を授かることができるのですから。……奈落(アビス)の夜を越え、光の届かぬ地を照らすのは……私と、あなた方の愛に他ならないのですから」

ボンドルドの仮面の光を見つめる冒険者たちの瞳から、徐々に光が消え、代わりに彼と同じ、紫の燐光が宿り始めました。

上昇負荷のないこの世界で、黎明卿は今、初めての「外の世界」の住人と触れ合い、その魂をイドフロントへと招き入れるための、慈愛に満ちた「処置」を開始しました。

「……おやおや、素晴らしい。これほどまでに素直に、私の精神を受け入れてくださるとは。……さあ、皆さんの『恩恵(ファルナ)』、じっくりと見せていただくとしましょうか。愛、愛ですよ」

ボンドルドは、膝をつき、呆然と自分を見上げる新しい「家族」の頭を、優しく撫で回しました。

 

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