憑依者しかいないゲマトリアがキヴォトスの破滅を回避しようとする話   作:シャンタン

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マエストロに衣装差分があることって有名だよね

 

かつて子どもたちの声で満ちていた校舎は、今や静寂に包まれている。だが、その一角だけは異質だった。

色あせた廊下の先にある一室には、場違いなほどファンシーな装飾が施されている。棚にはぬいぐるみが整然と並び、壁際にも寄せられ、どこか幼稚で、どこか歪な温もりを醸し出していた。

そんな空間の入口で、無骨な声が響く。

 

「旦那、お客様をお連れしたぜ」

 

扉の奥、柔らかな光の中で椅子に腰掛けていた双頭の男は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「承知した。戻って貰って構わない」

 

短く告げると、案内役の少女の気配が遠ざかる。残されたのは、静寂と、もう一人の来訪者。

 

「······何かあったかね?」

 

わずかに首を傾げ、問いかける。ギシリと体から音が鳴った。

異音の正体である木製のマネキンの異形こそが、この部屋の主、マエストロである。

 

「空崎ヒナ」

 

そう呼ばれた少女は、ため息を一つ落とした。

 

「ええ。貴方が居所を決めたそうだから、ただの挨拶よ」

 

その声音は平静を装っているが、視線は鋭い。室内を一瞥し、わずかに眉をひそめる。

想像以上に······趣味が悪い。

いや、違う。これは作られた空気だ。そして、このぬいぐるみ達をみて、来て正解だったと確信したヒナ。

マエストロは、その視線を気にも留めずに話しかける。

 

「それだけではないだろう?ゲヘナの情報部なら、とっくの昔に居場所をつかんでいたはずだ」

 

図星を突かれ、ヒナは小さく息を吐く。

 

「······やっぱり、私に腹の探り合いは向かないわね」

 

一歩、踏み出す。距離はまだあるが、その圧は明確だった。

 

「単刀直入に聞くわ。この非公認自治区で、何を始めるつもり?」

 

しばしの沈黙。

やがて、マエストロは肩をすくめる。

 

「ああ、半年前から行われている野外劇のことか。想定以上の反響があり、私も驚いている。しかし、私と黒服が手を貸したからといって、この地区の者達は劇をやるつもりはない。場所は提供するかもしれないが······」

 

「はぐらかさないで」

 

ヒナの声が、ぴたりとそれを断ち切る。

 

「土地の名義が、場所によって違うのは把握してる。名義が貴方の土地では、傭兵稼業がスタートしているのも知ってる」

 

彼女の視線が、まっすぐに突き刺さる。

 

「私が聞きたいのは······最終的には、何をするつもりかよ」

 

一瞬、空気が張り詰める。

だが、マエストロは変わらない。ゆったりと背もたれに体を預け、どこか退屈そうに答える。

 

「残念ながら、私がこの土地をどうこうするつもりはない。一体、何を聞きたいのだ?」

 

その言葉に、ヒナはわずかに目を細めた。

 

「······まず、ゲヘナから自主退学者が多く出たわ。風紀委員会からもね。そして、退学後の行き先は、この場所だった」

 

一拍。

 

「どういうこと?」

 

マエストロは、興味なさげに視線を逸らす。

 

「そのことか。どう予想しているか分からんが、私が命令したなどの事実は存在しない」

 

「では、なぜ?」

「知らんよ」

 

即答だった。

思考する価値などないと、そう物語っていた。

 

「自身で決断したことに、外部が注釈を入れるなど無粋だろう」

 

その言葉に、ヒナはしばらく沈黙する。

やがて、小さく息を吐いた。

 

「······ひとまず納得してあげる」

 

完全ではない。だが、今はそれ以上を追及しないという判断だった。

 

「次に······これは何?」

 

差し出されたのは、一枚の写真。

マエストロはそれを受け取り、視線を落とす。

そして、固まった。

 

「なぜ······その姿を」

 

そこに写っていたのは、どう見てもマエストロだった。

しかし、その姿は着ぐるみ

妙に可愛らしい外装に身を包み、ポーズまで決めている。

完璧に、そして無駄に。

ヒナの声が、わずかに低くなる。

 

「この地区を調査中に撮影されたものよ」

 

一拍置いて、続ける。

 

「何人かの腹筋が崩壊したわ」

 

沈黙。

張り詰めていた空気も、何処かへ家出してしまった。もう帰ってくることはないだろう。

 

しかし、笑ってしまうのも無理はない。関わりのある大人の、全力の着ぐるみポーズ。マエストロを知っているゲヘナの生徒が、笑わないわけなかった。

マエストロはゆっくりと双顔を上げる。

その雰囲気からは、先ほどまでの余裕が、ほんの少しだけ、欠けていた。

 

「······それを私に伝えてどうしろと?可愛すぎてすまないとでも謝ればいいか?」

 

「いえ、謝らなくて結構よ。···それと、可愛くはないわ」

 

間髪入れずの否定だった。ヒナからすれば、あんなものは兵器である。

 

「······ただ、これを見たマコトがひとしきり笑った後、不可解なことを言い始めたのよ」

 

「···」

 

マエストロの動きが、完全に静止する。

先ほどまでの余裕は、完全になくなっていた。

 

「なんで、この着ぐるみは、"怪物の進行(モンスターパレード)"の時に見せた怪物と、同じ見た目なのかしら」

 

"怪物の進行(モンスターパレード)"。この世界線にて、ゲヘナを"雷帝"が統治していた時期に行われたクーデターである。

これは、ゲヘナの生徒(悪魔)とマエストロの作品(怪物)の行進を見た民衆がつけた別称となる。

結果的にクーデターに成功し、キヴォトスに混乱は訪れなかったものの、"雷帝"が行方不明となる大惨事を引き起こしていた。普通に致命傷だ。

 

「······勘の良いものだな」

 

「···それで、その事を踏まえた上で、これは何?」

 

ヒナが写真を、証拠品みたいな置き方で机に置く。

 

「伝える義理もないはずだが」

 

「“雷帝”の時の後始末をしたのは誰だったかしら?」

 

即カウンターだった。マエストロにとっては、引け目がありすぎた。

 

「それに、疚しいことがなければ答えられるはずよ」

 

「······」

 

数秒の沈黙。

ぬいぐるみの一体が、やけに圧をかけている気がする。

 

(お前も見るな)

 

「······仕方ない。作品の発表といこう」

 

マエストロは諦めたように手を広げた。

 

「とはいえ、失敗作なのだがな」

 

「失敗作?やっぱり、着ぐるみ趣味というわけではないのね」

 

「止めてくれたまえ。私にも恥辱を感じる情緒はある」

 

「嘘でしょう?あれだけ"雷帝"に関わっておきながら、私達には情報共有もなかったのに?」

 

「聞かれてもいないことに対して、御託を並べる趣味はないのでな」

 

2人にとって、どこか懐かしく感じる雰囲気が流れていく。

しかし、騒がしい茶々もなく、物足りなさを感じてしまう。

 

「······話がそれたわ。今は、その失敗作についてよ」

 

「······そうだな。発表を続けよう」

 

マエストロは一度咳払いし、演説のように再び語る。

 

「そもそもは、『感情の残滓や概念を、依り代を用意せず顕現させられないか』という、ゴルコンダの提案から始まった」

 

「感情の残滓?確か、貴方が創る怪物関連の単語だったかしら?」

 

「その通りだ。そなたらが怪物と呼ぶ、私の作品の礎となるものだ。このキヴォトスにて観測される感情や概念には、特別ともいえる力が眠っているのだ」

 

ヒナは腕を組み、完全に分からない顔をした。

 

「······もうこの時点で、意味不明なのだけど」

 

「例えばだ。"怪物の進行(モンスターパレード)"にて見せたのは、パレードという概念の複製だ。私が造形を行い、その器にパレードという概念を受肉させた、パレードのミメシスだ」

 

「······パレードの複製?概念が怪物に宿ったっていうの?」

 

「そうだ」

 

ドヤ顔だった。表情は変わらないはずであるのに、ドヤ顔だと感じられた。

 

「主軸を限定しないことで、場所に縛られない自由度を兼ねることに成功したのだ。崇高ほどの出力は到底でないが、私にとっては、確かな成功だ」

 

原作のマエストロからすれば、駄作というか、異色作とでも言いそうな作品である。しかし、このマエストロは、原作に無い概念をミメシスもどきとして作品を完成させ、ゲマトリアメンバー以外にも発表できてご機嫌だった。

 

「ドヤ顔をやめなさい」

 

「していない」

 

「やめなさい」

 

「······すまない」

 

ちょっとだけ反省した。流石に怒らせるのは後が恐い。

 

「もっとも、"怪物の進行(モンスターパレード)"にて出した作品は、私が恐怖を用いずに無理矢理作製したレプリカともいえない作品であるため、ミメシスとは到底呼べない代物であるが······」

 

「分かりやすく」

 

食い気味だった。これ以上の蛇足を許すと、いつまでも本題に入らなくなってしまう。

哀れ、ヒナはマエストロの扱いに慣れてしまっていた。

原作で"先生"に見せた、おしとやかさと優しさはどこに?

 

「······魂だ」

 

不服そうな雰囲気で語り始める。あからさまに、納得がいっていない雰囲気であった。

 

「急に雑になったわね?」

 

「感情の残滓や概念は、私の作品にとって魂とでもいえる」

 

指摘を入れられ、ぶっきらぼうに答える。明らかに拗ねていた。

 

「最初からそれでいいのよ」

 

「いや本来はもっと高尚で傑出した···」

 

「いいのよ」

 

圧で黙らせた。流石は未来の風紀委員長である。

 

「じゃあ、最初に言っていた提案っていうのは、魂から肉体を創れないか実験していたってこと?」

 

「·········その理解でも概ね問題ない。鑑賞者の感性を否定するつもりはない故な」

 

「じゃあ、この部屋一帯にあるぬいぐるみは······」

 

ヒナが周囲を見渡す。

ぬいぐるみたちが一斉に"ピシッ"とした気がした。

この場で逆らってはいけない者を理解している。

 

「パレードのミメシスを、黒服と私でパーツとでもいえる状態にまで貶め···」

 

「分かりやすく」

 

「材料にした」

 

「よろしい」

 

もはや、マエストロがなげやりの雰囲気を放ち始めている。ヒナは下手な評論家より理不尽であった。

 

「また、ゴルコンダとデカルコマニーは、虚像と非実在の象徴だ。非実在が虚像に干渉することで、ミメシスが器を創造し、虚像が非実在に干渉することで······」

 

「分かりやすく」

 

「ゴルコンダの人物画に、デカルコマニーがパーツを突っ込んだら、人形として出てきた」

 

「説明の緩急が凄いわね······」

 

「重要な部分は伝えている」

 

「勢いで押し切るのはやめて」

 

ヒナはため息をつきながらも、話を続ける。やれやれとした雰囲気を出しているが、こちらも大概である。

 

「だから、"怪物の進行(モンスターパレード)"でみられた怪物に類似してるのね」

 

「不服だがな」

 

マエストロはしぶしぶと頷いた。

 

「故に、これらの作品を失敗作と称したのだ。自由な存在(記号とテキスト)である筈なのに、既にミメシスが創造されていた故か、器という存在(記号とテキスト)が影響を受け、模造品となってしまった」

 

「似てるから失敗?」

 

「そうだ」

 

「厳しくない?」

 

「芸術に妥協はない」

 

「······着ぐるみ着てた人のセリフとは思えないわね」

 

「やめろ」

 

即答だった。これ以上は沽券に関わる。

既に沽券が売り切れていることには、目を瞑った。

 

「で、問題の本題よ」

 

ヒナは写真を指でトントン叩く。乾いた音が、やけに静かな室内に響いた。

ぬいぐるみたちが、その音に反応したかように揺れる。

 

「なんでこれになるの?」

 

「···この作品は、魂から肉体が創られている」

 

マエストロはわざとらしく間を置いてから答える。

ヒナの理解度を汲み取り、どう説明すべきか悩んでいるような間だった。

 

「うん」

 

ヒナは腕を組み、続きを促す。既に半分くらい嫌な予感はしている。

 

「つまり、器の自由度が高い」

 

「うん?」

 

この時点で、少し雲行きが怪しくなる。

 

「材料を与えると、好きな形になる」

 

「うん??」

 

ヒナの眉がぴくりと動いた。理解はしている。しているが······嫌な方向に理解が進んでいる。

 

「結果、着ぐるみになった」

 

「なんでよ」

 

即ツッコミだった。余りにも説明の過程が飛んでいた。

しかも、本人は一切疑問に思っていない雰囲気で言っているのが余計に質が悪い。

 

「パレードの概念だからだ。着ぐるみとして顕現することもあり得る」

 

マエストロは当然のように言い切る。

 

「納得できるようでできないラインね······」

 

ヒナはこめかみを押さえた。論理は通っている()()()()のが厄介だった。

 

「そして、材料は根幹に由来せずとも良い。キヴォトスの住人の神秘(材料)と共鳴し、宿主に憑依することも可能とする」

 

「ちょっと待ちなさい、急に危険なワード出てきたわね?」

 

一気に現実に引き戻される。

ぬいぐるみたちが、今度は関係ないふりをしているように見えた。

 

(絶対何か知ってる雰囲気してるわね······というか、思ったより自由すぎないかしら?)

 

「安心したまえ。意外と善良だ」

 

()()()、が不安なのよ」

 

「友好的な関係を築く傾向にある」

 

「でもパレードしたくなるのよね?」

 

「なる」

 

「ダメじゃない」

 

ヒナは額を押さえた。ずきり、と鈍い痛みが走る。

どうしてこう、この男の話は毎回、ギリギリ問題があるラインを正確に踏み抜いてくるのか。

 

「······勝手に宿主にされたりはしないのよね?」

 

「共鳴だ。強制ではない」

 

「どのくらいの時間でもとに戻るの?」

 

「宿主との神秘の相性による」

 

「命に別状は?」

 

「ない」

 

即答だった。そこだけは迷いがない。それだけは、断言せねばならなかったからだ。

 

「······ギリギリセーフね」

 

ヒナは長く息を吐く。少しシナシナしてきている。

 

「だろう?」

 

「アウト寄りのセーフだけど」

 

むしろほぼアウトだが、致命的ではないだけマシ、という評価だった。

 

一拍。

 

ヒナは、ふと嫌な予感を覚えた。

この男が、説明を終えた雰囲気をしている時、大体ロクなことがない。確実に、こちらが理解していない事象が残っている。

 

「······待ちなさい」

 

「なんだね」

 

「もしかして、憑依されるとパレードしたくなる以外の効果があるの?」

 

その問いに対して。

マエストロは、ほんの少しだけ······誇らしげに、胸を張った。

 

「共鳴と言ったのだがら、当たり前だろう?宿主にも強化という恩恵が与えられる。もっとも、各々の作品が宿主を認めればだがな」

 

「やっぱりね······」

 

ヒナはぼやくように、呟いた。予想はしていたが、聞きたくはなかった答えだった。

部屋のぬいぐるみが、一体だけぴょこんと傾いた気がした。

 

(煽られてる気がする······考えすぎね)

 

「つまり、ぬいぐるみに認められれば······」

 

「強化される着ぐるみを着用できる」

 

「最悪のシステムね」

 

即断だった。誰が利用するにしても、絵面がシリアスブレイカー過ぎた。

 

「業腹だがな。変化をする作品など、根幹が定まっていないのと同義である。ある意味ではレプリカにも劣るだろう」

 

「知らないわよ···」

 

ヒナは深く、深くため息をついた。ここまで来ると怒る気力も削がれてくる。

 

「······着ぐるみで強化って何よ······どうしたらそうなるのよ······」

 

ぼそっと漏れた本音に、マエストロは視線を逸らした。

 

「······気合いだ」

 

「そんなわけないじゃない」

 

間違いなく嘘だと判断できる言葉だった。

そして最後に、ヒナは確認するように言う。

 

「······他に問題作はないわよね?」

 

沈黙。

今度ははっきりと、ぬいぐるみの一体がコテンと倒れた。

誰も触れていないのに。

 

「······」

 

「···············」

 

マエストロは双顔を逸らした。

露骨だった。余りにも、露骨な動作であった。

 

「······あるのね?」

 

ヒナの低い声が、静まり返った室内に落ちる。

マエストロはわずかに視線を逸らし······そして、観念したように背後の棚へと手を伸ばした。

ぬいぐるみたちの隙間から、ひとつだけ異質な"空白"が引き抜かれる。

 

「······これだ。この作品達と同じ過程を辿った副産物にして、我々の傑作となる」

 

差し出されたのは、真っ白な一冊の本。

だがそれは、本の形をした何かだった。

装丁はある。紙の質感もある。だが······そこには、情報という概念そのものが欠落しているかのような、不気味な静けさがあった。

 

「本?」

 

ヒナは眉をひそめる。

 

「これは、ゴルコンダから"空白の物語(ロストアーカイブ)"と名付けられた代物だ」

 

「···何も書かれていない本ってことかしら?」

 

「そうだ。今は無名で、無意味の代物だ」

 

マエストロは静かに頷く。

 

「しかし、この代物は······担い手を選ぶ」

 

その言葉に、ヒナの視線がわずかに鋭くなる。

 

「担い手を······選ぶ?」

 

「この部屋にある作品は、パレードの概念をパーツにしたものだ」

 

ゆっくりとした口調。

しかし、その奥には、底知れない不気味な感情が宿っていた。

 

「そして、この"空白の物語(ロストアーカイブ)"は、······キヴォトスに揺蕩う神秘そのものを、パーツとしている」

 

一瞬、空気が凍る。

ヒナの思考が、急速に回転する。

理解が、追いついてしまった。

 

「···もしかして······そんなことがあり得るの?」

 

「······あぁ、あり得るのだ」

 

マエストロは断言する。

その声音には、一切の迷いがなかった。

 

「空崎ヒナ。このキヴォトスだからこそ、あり得るのだ」

 

ヒナは、言葉を失った。

もし、自身の仮説が正しいとするならば。

この本は、単なる本ではない。

選ぶのだ。

意味を。

役割を。

 

「だって···この部屋の人形には、宿主との相性があるのよね?私の考えがあっていたとしたら、その本に選ばれるということは······」

 

喉の奥から、言葉が絞り出される。

それは確認であり、同時に否定であってほしい願いでもあった。

しかし、空崎ヒナは思い至ってしまう······

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この世界(キヴォトス)に選ばれるのと同義?」

 

 

静寂。

人形達ですら、息を潜めたかのようだった。

 

「······やはり、そなたは聡明だ。空崎ヒナ」

 

肯定だった。

逃げ場のない、確定を告げる一言。

ヒナの指先が、わずかに強張る。

 

「じゃあ、貴方が今持っているというのなら······貴方がキヴォトスに選ばれたというの?」

 

「いや、そうではない」

 

マエストロは静かに首を振る。

 

「私は、この"空白の物語(ロストアーカイブ)"の中継者に過ぎない」

 

その言葉は、どこか自嘲を含んでいた。

 

「"空白の物語(ロストアーカイブ)"は、私を担い手とは認めず······担い手に運ぶための媒介者と判断した」

 

「……」

 

ヒナは黙り込む。

その視線は、本へと落ちていた。

 

「空崎ヒナ。そなたがここに来たのも······キヴォトスに導かれたからなのかもしれないな」

 

「······信じられないわ」

 

即答だった。

だが、その声にはわずかな揺らぎがあった。

 

「そんな話を、信じられる訳ないじゃない」

 

「では、試してみるかね?」

 

マエストロはあっさりと言った。

その手にあった本を······何の前触れもなく、ヒナへと放る。

 

「ちょっと!!そんな変な物を急に投げないでちょうだい?!」

 

反射的に受け止める。

その瞬間。

······()()()()()

確かな手応えが()()()

重さも、感触も、"実在"としてそこに()()()

 

「······やはり、そなたは導かれてここに来たか」

 

マエストロの声が、静かに響く。

 

「···タイトルには、何と書いてある?」

 

「······何を言っているの?」

 

ヒナは眉をひそめる。

本の表紙を見つめる。

そこには······

 

「さっきから、何も書かれてないわ」

 

完全な"空白"。

名も、意味も、まだ与えられていない。

 

「···なに?」

 

初めて、マエストロの声に明確な動揺が混じる。

 

「まさか······担い手ではなく、媒介者として選ばれたのか?」

 

「一人で勝手に納得しないでちょうだい」

 

ヒナはため息をつく。妙な雰囲気に、押しきられてしまったと、1人反省する。

 

「いろいろと言っていたけれど、普通に触れるじゃない」

 

「······あぁ」

 

マエストロは、ゆっくりと手を伸ばす。

そして······

本に触れようとした、その手は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()

 

「······っ」

 

わずかに目を見開くヒナ。

そこにあったのは、明確な"拒絶"だった。

 

「そなたが媒介者として認められた故だ」

 

マエストロは、低く呟く。

 

「よって、私には介入できなくなった。······今のようにな」

 

その事実は、静かに、しかし確実に重みを持って場に沈む。

 

「未だタイトルが付けられたのは、暁のホルスと聖女が持つ二冊のみ」

 

マエストロは続ける。自分自身に確認するかのように、ヒナの反応を気にせず続ける。

 

「しかし、ファウストと······空崎ヒナ。この2名の手に渡った。つまり、"空白の物語(ロストアーカイブ)"が媒介者として認めたということだ」

 

「······」

 

ヒナは何も言わない。

ただ、本を見つめている。

 

「トリニティとゲヘナにも、それぞれ担い手がいる可能性が高い」

 

淡々とした推論。

だが、その内容は重い。

 

「残るは、デカルコマニーの持つ代物のみ······それに関しては、担い手の見当すらつかないがな」

 

沈黙。

長い、長い沈黙。

 

「······その様子ならば、話は終わりであろうか?」

 

マエストロは静かに言った。

 

「では、ゲヘナへと帰るがいい。空崎ヒナ」

 

背を向ける。

まるで、これ以上関わるつもりはないと言わんばかりに。

 

「その"空白の物語(ロストアーカイブ)"に導かれるままにな」

 

ヒナは動かなかった。

視線は本に落ちたまま。

だが、その声は鋭く、静かに空気を切り裂いた。

 

「こんな変な代物を押し付けておいて······」

 

ゆっくりと顔を上げる。

その瞳には、先ほどまでの困惑はない。

代わりにあったのは、怒りの炎を灯した眼であった。

 

「覚悟はできてるのよね?」

 

マエストロの背が、わずかに止まる。

ほんの一瞬。

沈黙が落ちる。

 

「······すまないとは思っている」

 

そう答え、一目散に逃げ出すマエストロ。

しかし、部屋を出る直前に、腕を捕まれる。

 

「逃がすわけないでしょう?」

 

空崎ヒナからは、逃げられなかった。

 

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