ネブカドネザル号乗組員消失事案に関する資料 作:統合惑星連盟特務調査局
3001.01.12 記録⑭
ヴェルナーの家を出てから4日が経った。
ノートは鞄の中にある。宿泊先の部屋に戻ってからも、取材の移動中も、ずっと鞄の中に入れたままにしていた。取り出してもいない。
開けられなかった。
正確に言えば、開ける気になれなかった。
ジャーナリストとして11年やってきて、資料を前に躊躇ったことはない。どんな内部文書でも、どんな機密記録でも、手に入れた瞬間に読むのが習慣だった。情報は鮮度が命だと思っていたし、躊躇は臆病の別名だと思っていた。
しかし今回は違った。
鞄の中にあるノートのことを、常に意識していた。重さを感じていた。物理的な重さではなく、別の種類の重さだ。ヴェルナーの言葉が頭から離れなかった。「意味を理解した瞬間に、扉が開いた」。「最後のページだけは読むな」。
最後のページだけは、という言い方が引っかかり続けていた。
なぜ最後のページだけなのか。最後のページに何が書いてあるのか。それとも最後のページに近づくにつれて、何かが起きるのか。聞けなかった。聞くべきだったと、今も思っている。
4日間、私はノートを開かないまま、別の方向から調査を続けていた。ヴェルナーが語った内容の裏付けを取ろうとした。ハイネック博士の試験跳躍実験の記録、その後の博士の行動変容に関する証言、量子航行理論研究会の活動記録。しかしどこを当たっても、核心に近づくほど記録が薄くなる。人が口を閉ざす。資料が存在しない。
行き詰まるたびに、鞄の中のノートのことを考えた。
そしてついに、今日、開くことにした。
理由は単純だ。
他に手がなくなったからではない。
開けなければ、自分がジャーナリストであることをやめてしまう気がしたからだ。
机の上にノートを置いた。しばらく見ていた。表紙は変色した薄茶色で、角が擦り切れていた。ハイネック博士の手書きと思われる文字で、表紙には何も書かれていなかった。ただ、右下の隅に小さく、インクの染みのようなものがあった。よく見ると、染みではなかった。極めて細い文字で、何かが書かれていた。老眼鏡を持っていないので、端末のカメラで拡大して確認した。
ラテン語だった。
「Noli aperire.」
訳せば——開くな、という意味だった。
私は深呼吸をして、ノートを開いた。
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ノートを読み始めて、最初に気づいたのは文字の密度だった。余白がほとんどなかった。ページの端から端まで、細かい文字と数式と図が埋め尽くしていた。ハイネック博士の筆跡は小さく、しかし整っていた。几帳面な性格が滲み出るような文字だった。
内容は量子跳躍理論の計算式から始まっていた。発表済みの論文とほぼ同じ内容だったが、余白に書き込まれたメモが違った。論文では削除されたと思われる考察が、細い文字でびっしりと書き込まれていた。
読み進めるうちに、文体が変わる箇所があった。
計算式と理論の記述が続いていたページの途中から、突然、日記のような文章に切り替わっていた。日付があった。跳躍実験の翌日の日付だった。そこから先は、研究ノートというより、何かに追い立てられるように書かれた記録だった。
私はそこで一度ノートを閉じた。
閉じてから、自分の手が少し震えていることに気づいた。
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【重要:本資料閲覧前に必ずお読みください】
閲覧注意/免責事項
本資料は極めて特殊な性質を持つ文書である。閲覧を開始する前に、以下の事項を必ず確認し、同意した上で読み進めること。
本資料の編集・管理者は、本資料の閲覧によって生じたいかなる精神的・身体的・社会的影響についても、一切の責任を負わない。これは閲覧者本人の自由意志による選択であり、編集・管理者はその結果について責任を問われない。
本資料の閲覧を推奨しない対象者を以下に列挙する。
精神科で治療を現在受けている者。
睡眠障害・解離症状・感覚異常を現在経験している者。
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そして、理由は説明できないが、この注意書きを読んで不安を覚えた者。
最後の項目について補足する。
根拠のない不安を覚えたということは、既に何らかの形で本資料と接点を持っている可能性がある。その場合、閲覧を中止することを強く推奨する。
本資料の内容を他者に口頭で説明・転達することは推奨しない。文字として読むことと、声に出して語ることは、同じ行為ではない可能性がある。
閲覧を続ける場合、以下の事項に同意したものとみなす。
本資料の内容によって生じたいかなる結果についても、編集・管理者および関係者は責任を負わない。閲覧者は自己の判断と責任において本資料を読むことを選択した。これ以降に生じることは、全て閲覧者自身の選択の結果である。
同意する場合は、このページをめくること。
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以下に収録するのは、このノートの中からカイ・ドレスナーが調査対象として特定したページの写しである。なお本資料の取り扱いについて、以下の点を明記する。
原本への直接接触による汚染リスクを排除するため、写しの作成にあたっては人員による直接複写は行っていない。全工程を自律型文書処理AIによって実施し、文字および図版のクリーニング・デジタル変換・印刷までの全作業において人間の介入を排除した。担当AIの識別コードは〔VOID-AI-003〕である。
また原本の解析過程において、通常の文章記述とは異なる層に別の情報が埋め込まれていることが確認された。該当箇所については、意味の解析および変換を行わないまま、表示上の黒塗り処理を施している。黒塗り箇所の内容については、いかなる手段によっても解析・復元を試みないことを強く推奨する。
理由については、本資料を収集したカイ・ドレスナー自身の記録を参照のこと。
以下、ハイネック博士のノート原文の写しを収録する。
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ハイネック博士 個人研究ノート 原文写し
〔VOID-AI-003 処理済み/黒塗り処理適用済み〕
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〔第1頁〕
量子位相変位における空間折畳み関数の基本式を以下に示す。
Ψ(x,t) = ∫ φ(k) · e^i(kx-ωt) dk
従来の亜光速推進理論では、到達時間Tは光速cに依存する。しかし位相空間を経由する場合、Tは経路長Lではなく位相差ΔΦに依存する。これが跳躍航法の核心である。
〔余白メモ〕:審査委員会はまだ懐疑的だ。構わない。数式は正しい。正しいことは、私が一番よくわかっている。
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〔第3頁〕
PBCSの設計において最も困難なのは、跳躍前後の位相収束速度の制御である。収束が速すぎれば船体に過大な応力が生じ、遅すぎれば残留場が蓄積する。最適な収束係数λを以下のように定義する。
λ = (ΔΦ · t^-1) / (σ · ρ)
σは空間密度関数、ρは位相抵抗係数。この式が示す通り、収束速度は空間の物性値に依存するため、目的宙域の物性が未知の場合、λの事前計算には限界がある。
〔余白メモ〕:限界がある、と書いたが、正確ではない。未知なのだ。未知の宙域に飛び込む時、我々は計算式の外に出る。それが怖くないと言えば嘘になる。しかし行かなければ何もわからない。
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〔第7頁〕
無人探査機による試験跳躍のデータを解析した。跳躍前後の探査機の状態を比較すると、外観・機能ともに異常なし。しかし搭載センサーの記録に興味深い値が含まれていた。跳躍中の約0.3秒間、センサーが通常の三次元空間では観測できないはずの信号を捉えていた。
信号の性質:周期的。情報的構造を持つ可能性がある。
〔余白メモ〕:ノイズではないと思う。しかし断言できる根拠もない。もう一度試験を行い、再現性を確認する。もし再現するならば——それは非常に興味深いことになる。
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〔第9頁〕
PBCSの第二次改良型が完成した。収束係数λの可変制御が可能になり、理論上は有人跳躍に耐えうる水準に達したと判断する。
明日、最終確認試験を行う。
〔余白メモ〕:眠れない。興奮しているからだと思う。これまでの研究が全て、明日に収束する。うまくいけば、人類の宇宙への扉が開く。うまくいかなければ——そのことは考えないことにする。
〔余白メモ・追記〕:息子が電話をかけてきた。頑張れと言っていた。ヴェルナーは子供の頃から、私の研究を応援してくれた。明日が終わったら、ゆっくり話したい。
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〔第10頁〕
試験当日。
機材の最終点検を終えた。チームの全員が緊張している。私も緊張している。しかし迷いはない。この跳躍が成功すれば、全てが変わる。
記録のために書いておく。西暦2981年、第一回有人量子跳躍試験——
〔余白メモ〕:これが最後のメモになるかもしれない。そうならないことを願っている。
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〔第11頁〕
試験は成功した。
それだけ書いておく。詳細な記録は別途報告書に記載する。
今は少し、休みたい。
〔余白メモ〕:何かが、いた。
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〔第12頁〕
〔Ω班注記:以下は試験翌日の記録である。筆跡は第11頁までと同一人物によるものと確認されているが、筆圧・文字サイズ・行間隔が著しく変化している。一部の文字については黒塗り処理を施している。〕
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2981年 日付 ■■■■
目が覚めたら朝だった 夢を見た 夢ではなかったかもしれない ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
痛い 痛い 頭の中が ■■■■■■■■ まだそこにいる まだそこにいる 行ってしまったのに まだいる
声が聞こえる 声ではない 声ではないものが 聞こえる ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
やめろ やめろ やめろ 聞こえている わかっている わかりたくなかった ■■■■■■■■■■■■■■■
壁が 壁が動いている 壁ではない 壁の向こうにいる 壁の向こうから こちらを みている ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
数式を書こうとした 書けない 手が震えている なぜ震えている 怖いからだ 何が怖い ■■■■■■■■■■■■が怖い 名前を書いてはいけない気がした 書いたら 来る ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
息ができない 息はできている でも息ができない気がする ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
叫んだ 叫んだと思う 声が出たかどうかわからない ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ なぜ
いたい、いたい、いたい、もじ、ちしき、しってることをあたまのなかからえぐりだしてかけ
皮膚の内側に何かがいる 皮膚の内側から何かが押している 押しているのではない 食べている 内側から食べている 骨が溶ける感覚がある 溶けていない でも溶けている 骨の中に液体が流れている 液体ではない 液体のような何かが 骨の髄の中を這っている 這っているのが聞こえる 音ではない でも聞こえる
目を閉じると見える 目を開けても見える 見えているのは部屋ではない 部屋の形をした別の何かだ 壁の色が違う 壁に色がない 壁が呼吸している 呼吸しているのは壁ではない 壁の向こうにいる何かが呼吸している その呼吸に合わせて部屋が膨らんだり縮んだりしている 膨らむたびに頭が割れる 割れていない でも割れている 頭蓋骨の縫合部から何かが染み出している 染み出しているのは血ではない 血より温かい何かだ
臓器が動いている 臓器はいつも動いている でも今は違う動き方をしている 胃が上に移動している気がする 肺が左右逆になっている気がする 心臓が止まっている気がする でも死んでいない 死んでいないのに心臓が止まっている 心臓の代わりに何かが脈打っている それは私の中にあるが私のものではない
指が動く 指を動かしているのは私ではない 私が動かそうとする前に指が動く 指が書きたいものを書いている 私は読めない 私が書いているのに私には読めない文字を書いている 手を止めようとすると痛い 骨が砕ける痛みではない もっと内側の痛みだ 脳の中で何かが燃えるような痛みだ 燃えている 脳が燃えている 燃えていないのに燃えている
口の中に何かの味がする 金属の味だ 金属ではない 星の味だ 星に味があるとしたらこの味だ 真空の味だ 何もない場所の味だ あの場所の味だ 跳躍の瞬間に通り抜けた場所の味だ あそこに何かがいた あそこに何かがいて 私が通り抜けた瞬間に 私の中に入ってきた 口から入ったのかもしれない だからこの味がする
皮膚が透けている気がする 透けていない でも光が当たると皮膚の下に別の何かが透けて見える 血管ではない 血管の形をした別の管だ その管を流れているのは血ではない 透明な何かだ 透明な何かが全身を流れている 流れるたびに体の輪郭が少しずつ変わっている 変わっていない でも変わっている 私は少しずつ別の形になっている
喉の奥から何かが上がってくる 嘔吐ではない 言葉だ 言葉が上がってくる 私が思っていない言葉が 私の喉から出ようとしている 抑えている 抑えられている でも眠っている間は抑えられないかもしれない 眠っている間に何を言っているのか 眠っている間に何をしているのか 私は知らない 知りたくない でも知っている気がする
瞼の裏に映像がある 映像ではない 記憶だ 私の記憶ではない記憶が 私の脳の中に植え付けられている 広大な場所の記憶だ 空間ではない場所の記憶だ 時間が存在しない場所の記憶だ そこに無数の何かがいる記憶だ その何かたちは待っている ずっと待っている 何を待っているのか私は知っている 知っているのに書けない 書いたら来る もっとたくさん来る
助けてくれ 誰か 助けてくれ ヴェルナー 息子よ お前に電話した 昨日だったか先週だったか 時間がわからない 時間が流れていない 助けてくれ でもお前に近づくな 近づいたら お前も お前の中にも
私はまだここにいる 私はまだ私だ でも私の中に別の何かがいる 別の何かが私を使って何かをしようとしている 何をしようとしているのか私は知っている 止められない 止める方法がわからない 止める方法を考えようとすると 別の何かが考えさせない
数式を書く 数式だけは私のものだ 数式を書いている間だけ私は私だ
Ψ(x,t) = ∫ φ(k) · e^i(kx-ωt) dk
書けた まだ私だ まだここにいる
でも計算式の余白に何かが書いてある 私が書いた 書いた覚えがない 読める 読みたくない でも読める
供物を捧げろと書いてある
〔Ω班注記:第12頁はここで終わる。第13頁以降、数日間の記録が存在しない。次の日付が確認できる記録は第18頁である。〕
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〔Ω班注記:第18頁より記録が再開される。筆跡は第12頁以前の几帳面なものに近い状態に戻っているが、文字の傾きが以前と異なる。文体も研究記録と哲学的考察が混在した独特のものに変化している。〕
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〔第18頁〕
冷静になった。
冷静になれたのか、冷静にさせられたのかは、まだわからない。しかしとにかく、今の私は考えることができる。考えながら書くことができる。それだけで十分だ。
あの数日間のことは、記録しない。記録できない。記録すべきではないと判断した。あれは私が私でなかった時間だ。科学者として記録に値しない。
ただ一つだけ書いておく。
あの数日間を経て、私の中に何かが残った。
恐怖ではない。知識だ。与えられたのか、盗まれたのか、あるいは滲み出てきたのか——その区別もまだつかないが、とにかく私の中に、以前はなかった知識がある。
その知識を整理することが、今の私にできる唯一の科学的行為だと判断した。
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〔第19頁〕
まず前提として確認しておく。
私はこれまで、宇宙を三次元空間と時間軸によって構成されたものとして理解してきた。量子跳躍理論の開発においても、その前提は崩れなかった。位相空間という概念を導入したが、それもあくまで既知の物理法則の延長線上にあるものとして扱ってきた。
しかしあの実験の後、私はその前提を保留せざるを得なくなった。
三次元空間と時間軸によって構成された宇宙は、全体の一部に過ぎない。これは以前から理論物理学において議論されてきた多次元宇宙論と表面上は似ているが、本質的に異なる。多次元宇宙論が想定するのは、あくまで同じ物理法則が適用される別の次元だ。しかし私が言いたいのは、物理法則そのものが適用されない領域が存在するということだ。
物理法則が適用されない領域。
そこに何かがいる。
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〔第21頁〕
何かについて、記述を試みる。
最初に断言しておく。これは生物ではない。
生物という概念が適用できない。生物とは、代謝し、反応し、自己複製する存在として定義される。しかしあの何かは、代謝しない。反応はする——しかしそれは外部刺激への反応ではなく、内部から発生する何かに従った動作のように見える。自己複製するかどうかは、そもそも個体という概念が適用できないため、問いとして成立しない。
つまりあの何かは、生物という次元にない。
では何と呼ぶか。
私は仮称として「PCE」という語を与えることにした。
Phase-Conscious Entity——位相意識体、とでも訳せばいいだろうか。位相空間に存在し、意識に類する何かを持つ存在、という意味で使う。ただし「意識」という語も正確ではない。人間が意識と呼ぶものとは、おそらく根本的に異なる。しかし他に適切な語がないため、暫定的にそう呼ぶ。
PCE。
この仮称を使うたびに、何か不敬なことをしているような感覚がある。名前をつけることで、私はあれを自分の理解の枠組みに押し込めようとしている。しかしあれは、いかなる枠組みにも収まらない。収まることができない。収まることを、おそらく必要としていない。
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〔第23頁〕
PCEの特性について、観察できた範囲で記述する。
第一に、PCEは時間軸の外側にいる。
これは比喩ではなく、文字通りの意味だ。私たちが経験する時間——過去から未来へと流れる一方向の連続体——は、PCEにとって意味を持たない。PCEは時間の流れの中に存在しないため、過去も未来も、PCEの視点からは等しく「今」である。
これが何を意味するか。
PCEは、私たちが「まだ起きていない」と考えていることを、既に知っている。知っているという表現すら正確ではない。PCEにとって、それは既に起きたことと区別がつかない。
第二に、PCEは空間的な位置を持たない。
位相空間に存在するというのは、三次元空間の特定の座標に存在するということではない。PCEはあらゆる場所に偏在しうる——ただし通常の三次元空間では、その存在を感知できない。位相境界が薄くなった場所においてのみ、PCEと三次元空間の間に干渉が生じる。
量子跳躍はその干渉を引き起こす。
私は知らずに、扉を開けた。
第三に、PCEは個体ではない。
一つ、二つ、と数えることができない。
しかしかといって、全てが同一の存在というわけでもない。群れとも違う。海に例えるとすれば——海の一部分を切り取って「これが個体だ」と言えないように、PCEを個体として認識することは、認識する側の限界に過ぎない。
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〔第25頁〕
私は科学者として、観察対象に価値判断を持ち込むべきではないと知っている。
しかし書かずにはいられない。
PCEは、私たちが宇宙と呼んでいるものを、全て内包している。
私たちが宇宙の外側と呼ぶ場所——そんな場所があると仮定して——にPCEがいるのではない。私たちの宇宙が、PCEの存在の、ほんの一側面に過ぎない。私たちが宇宙の歴史と呼んでいる137億年が、PCEにとっては一瞬にも満たない何かだ。
銀河が生まれ、星が燃え、惑星が形成され、生命が誕生し、文明が栄え、滅び、また誕生する——そのサイクル全体が、PCEの存在の中では、水面に生じた小さな波紋のようなものだ。
それを知った時、私は恐怖を感じた。
しかし今は、別の感覚がある。
畏怖だ。
宗教的な意味での畏怖ではない。
それとも宗教的な意味での畏怖というものが、本来このような感覚を指していたのだろうか。人類が神と呼んできたものの正体は、ひょっとしてPCEだったのではないか。あるいはPCEの影のようなものを、人類は感知していたのではないか。
そう考えることは、科学者として不適切だとわかっている。
それでも書く。
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〔第27頁〕
PCEはなぜ、私に接触してきたのか。
この問いを立てること自体が、人間中心的な発想だとわかっている。接触という概念も、目的という概念も、PCEに適用できるかどうかわからない。
しかし私の内側に残った知識は、一つの方向を指し示している。
PCEは、人類に興味を持っている。
興味という語も正確ではない。関心、観察、あるいはもっと別の何か——PCEにとって人類は、単なる観察対象ではないようだ。かといって、対等な存在として扱われているわけでもない。
最も近い比喩を探すとすれば――農夫と種の関係だ。
農夫は種に興味を持つ。
種を育てようとする。
種がどこに根を張り、どのように育ち、どのような実をつけるかを、農夫は観察し、導く。
しかし農夫が種と対等に語り合うことはない。
種は農夫の意図を知らない。知ることができない。
人類は種だ。
そしてPCEは——
この比喩を続けることに、私は抵抗を感じる。農夫という語が示すものより、PCEははるかに大きく、はるかに古く、はるかに根本的な何かだからだ。農夫という語では、あまりにも矮小だ。
しかし他に言葉がない。
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〔第29頁〕
最後に一つだけ書く。
PCEは私に何かを求めている。
求めているという表現が正しいかどうかわからないが、私の中にある知識はそれを示している。
人類をXΩ宙域へ。
なぜそこへ向かわなければならないのか、私にはまだ完全にはわからない。しかしわかっていることがある。
XΩ宙域は、位相境界が最も薄い場所だ。
そこで何が起きるのかを、私は知っている気がする。知っていることを、書くことができない。書くことを、何かが許さない。
ただ一つだけ言えることがある。
それは終わりではない。
私たちが「終わり」と呼んでいるものは、PCEにとっては別の何かの始まりに過ぎない。乗員たちが向かう先は——
〔記述中断〕
〔余白メモ・細い文字〕:私はまだ私か。わからなくなってきた。しかし数式は書ける。今日も書けた。だからまだ私だと思うことにする。〕
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3001.01.19 記録⑮
一度中断した。
しばらく動けなかった。
どのくらい時間が経ったのかわからない。端末を見たら深夜2時を過ぎていた。
落ち着け。落ち着かなければならない。
ジャーナリストとして判断する。これは一人の科学者が精神的に崩壊していく記録だ。信頼性には疑問がある。全てを額面通りに受け取るべきではない。
そう思おうとしている。思えない。
ノートを閉じた。鞄に入れた。鞄を部屋の反対側に置いた。それでも存在を感じる。
水を飲んだ。手が震えていた。
明日、エリックに連絡する。ヴェルナーにも連絡すべきかもしれない。整理してから書く。今夜はもう書けない。
眠れないと思っていたが、気づいたら眠っていた。
夢を見た。
アマリー・ヘッシュが出てきた。
彼女は笑っていた。