ネブカドネザル号乗組員消失事案に関する資料 作:統合惑星連盟特務調査局
3001.01.20 記録⑯
一度中断した記録を再開する。
夢の内容を書く。書けるうちに書いておく。
場所はどこかの廊下だった。長い廊下で、端が見えなかった。光源がないのに明るかった。明るいのではなく、暗くなかっただけかもしれない。床も壁も天井も、素材がわからなかった。金属ではなかった。石でもなかった。何かが固まったような、そういう質感だった。
アマリーは廊下の中央に立っていた。
こちらに背を向けていた。白い服を着ていた。
医療着だったかもしれない。髪が長かった。
写真で見た髪型と同じだった。
私は近づこうとした。
足が動いたが距離が縮まらなかった。
歩いても歩いても、アマリーとの距離が変わらなかった。廊下が伸びているのか、私が縮んでいるのか、判断できなかった。
それでも歩き続けた。
アマリーがゆっくりと振り返った。
笑っていた。
穏やかな笑顔だった。
リラが描写した「誰にでも親切な」アマリーの笑顔が、そのままそこにあった。
しかしその笑顔を見た瞬間、私は動けなくなった。
理由を言語化できない。
笑顔が怖かったわけではない。笑顔は本物に見えた。しかし笑顔の奥に、別の何かがあった。何かが、笑顔の形をした穴から、こちらを覗いていた。
アマリーが口を開いた。
声ではなかった。聞こえたのではなく、頭の中に直接入ってきた言葉だった。
「来るのが遅い」
それだけだった。
目が覚めた。朝の4時だった。
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3001.01.21 記録⑰
エリックに連絡した。
夢の話はしなかった。ジャーナリストとして、夢の話を情報源に話す必要はない。ただノートを読んだことと、内容について確認したいことがある旨を伝えた。
エリックは慎重だった。直接会うことを避けたがった。テキストでのやり取りに限定したいと言った。
理由を聞くと、「最近、人と会うのが怖くなった」と言った。
詳しく聞こうとしたが、それ以上は話せないと言って、連絡が途絶えた。
ヴェルナーにも連絡を試みた。しかし指定された連絡先に繋がらなかった。エリックを通じてヴェルナーへのアクセスを試みたが、エリック自身が連絡を絶っている今、手段がない。
行き詰まりを感じながら、別の方向から調べることにした。
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3001.01.24 記録⑱
ハイネック博士の閲覧制限論文について、再度申請を出した。
前回の申請は「審査中」のまま返答がない。今回は申請と同時に、連盟情報公開請求制度を利用した正式な開示要求を提出した。制度上、30日以内に回答する義務がある。
また博士の試験跳躍実験に関する公式記録を改めて精査した。
連盟宇宙開発局の公開アーカイブには、実験の成功を報告する簡潔な文書が残っていた。実験日時、参加人数、結果の概要。しかし実験の詳細——具体的な跳躍距離、到達した位相空間の状態、実験後の観測データ——については「別途保管」と記載されるのみで、参照先が記されていなかった。
別途保管。
どこに誰が管理しているのか。
参加人数の欄に目が止まった。
実験参加者:7名。
しかし氏名は全員「識別コード」のみで記載されており、ハイネック博士を含む実名は一切出てこなかった。7名のうち現在も追跡できる人物がいないか、識別コードを手がかりに当たってみることにした。
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3001.01.28 記録⑲
識別コードによる追跡は難航した。
7名分の識別コードを連盟人事局の公開データベースと照合したが、マッチするレコードが存在しなかった。識別コードの形式自体は連盟の標準形式に準拠しているが、該当する職員記録が存在しない。
抹消されたのか。
最初から存在しなかったのか。
一つだけ手がかりがあった。7名のうちの一人、識別コード「RH-0042」が、実験から3年後に連盟宇宙物理学会誌に論文を発表していた。著者名は「R・ハルバッハ」。論文タイトルは「位相空間通過時における生体神経系への影響に関する予備的考察」。
論文の内容は高度に技術的なものだったが、要旨だけ読んだ。位相空間を通過した際に、神経系に一時的な「干渉パターン」が生じる可能性があると論じていた。干渉の原因については「外部要因の存在を排除できない」という慎重な表現に留まっていた。
外部要因。
ハイネック博士のノートを読んだ後では、その言葉が別の意味を持って見えた。
R・ハルバッハという人物を追った。論文はこの一本のみ。学会への登録記録はあるが、それ以降の活動記録がない。住所登録は西暦2984年を最後に更新されていない。
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3001.02.03 記録⑳
R・ハルバッハの最終登録住所を訪ねた。
外縁コロニーの古い居住区だった。現在は別の住人が入っており、ハルバッハという人物を知らないと言われた。管理組合の記録によれば、ハルバッハは西暦2984年に「転出」の手続きを経て退去している。転出先の記載はなかった。
転出先の記載がない転出。
連盟の手続き上、それは本来あり得ない。
管理組合の担当者に確認すると、「当時の記録は一部欠落している」と言われた。なぜ欠落しているのかは「わからない」とのことだった。
収穫なしで引き返した。
帰り道、ふと気づいたことがある。
私がこれまでに接触した人物の多くが、特定のタイミングで記録から消えている。K.V.は西暦3000年10月18日以降。エリックは現在進行形で連絡が取れない。ヴェルナーも同様だ。R・ハルバッハは西暦2984年。
そしてゾレンティーノ博士は西暦3000年9月以降。
消えたタイミングはそれぞれ異なる。しかし消え方が似ている。突然ではなく、静かに。記録が薄くなって、やがて途絶える。
私自身もいつかそうなるのだろうかと思った。
思ってから、その考えを頭から追い出した。
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3001.02.07 記録㉑
量子航行理論研究会の実態をもう一度調べ直した。
エリックから受け取った内部資料を再度精読した。第三章の内容は読んでいたが、余白のメモや頁番号の振り方、資料の印刷形式といった細部を改めて確認した。
気づいたことがあった。
資料の頁番号が連続していない。
第三章と表記されているにもかかわらず、内部の頁番号は「37」から始まっている。つまりこれは、より大きな文書体系の一部だ。全体が何頁あるのかはわからない。エリックが持っていたのは二章分だと言っていた。残りの五章分はどこにあるのか。
研究会が廃止されていないとすれば、現在も活動している可能性がある。現在の拠点がどこなのかを突き止めることが次の課題だ。
連盟中央大学の学内サークル登録記録を再確認した。
廃止記録がないことは以前から確認していた。
しかし今回、登録情報の「活動場所」欄を見た。
「非公開」と記載されていた。
登録上、活動場所が非公開になっているサークルは、データベース上で研究会だけだった。
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3001.02.11 記録㉒
論文データベースを使って、量子航行理論研究会に関連すると思われる人物の追跡を続けた。
研究会の設立者がハイネック博士であることは確認している。博士の退職後に研究会を継承したのがゾレンティーノ博士であることも、エリックの証言と複数の状況証拠から裏付けられている。
ではゾレンティーノ博士の前後にも、研究会に深く関与した人物がいないか。
博士の指導下で学んだ大学院生の論文リストを洗い出した。博士が連盟中央大学に在籍した西暦2970年代から2990年代にかけての期間に、博士を指導教員として博士号を取得した人物が14名いることが確認できた。
14名の現在の所在を一人ずつ当たった。
14名のうち9名は、現在も研究職や連盟関連機関に在籍していることが確認できた。3名は退職後の連絡先が不明。2名は——死亡記録があった。
死亡記録のある2名の死因を調べた。
1名は「事故死」。もう1名は「病死」。
どちらも詳細な記録にはアクセスできなかった。
在籍が確認できた9名のうち、I.E.S.P.関連業務に携わったことが記録に残っている人物が3名いた。そのうちの1名が、ネブカドネザル号の航路選定委員会のメンバーとして名前が出ていた。
ゾレンティーノ博士以外に、もう一人いた。
名前を記録しておく。フェリックス・オーレン。
連盟宇宙開発局上席研究員。現在の所在は——確認中だ。
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3001.02.14 記録㉓
フェリックス・オーレンへの接触を試みた。
連盟宇宙開発局の代表連絡先に問い合わせたところ、「現在、当該職員は長期休暇中であり、連絡が取れる状況にない」という回答が返ってきた。
長期休暇。
いつから休暇に入ったのかを聞くと、「個人情報のため回答できない」と言われた。
別の経路からオーレンの個人連絡先を探した。学術論文の著者連絡先として登録されているメールアドレスに連絡を送った。自動返信が来た。
「現在、メールの確認が困難な状況にあります。緊急の場合は連盟宇宙開発局代表までご連絡ください」
いつ設定された自動返信なのかは確認できなかった。
端末を閉じようとした時、着信があった。
番号は非通知だった。
出た。
沈黙があった。
3秒か4秒か。それから、男の声がした。
「カイ・ドレスナーさんですか」
「そうです」と私は答えた。
「どちら様ですか」
また沈黙があった。
「お会いしたいのですが」と男は言った。
「あなたが調べていることについて、話せることがあります」
「お名前を教えていただけますか」
男は答えた。
「ゾレンティーノです」
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3001.02.14 記録㉔
電話から3時間後、指定された場所に向かった。
外縁コロニーの中心部から少し外れた、古い喫茶店だった。営業しているのかどうか判断できないような外観だったが、ドアを開けると中は明るく、暖かかった。客は他にいなかった。
ゾレンティーノは奥の席に座っていた。
写真で見た人物と同一人物だとすぐにわかった。
60代前半のはずだが、実年齢より若く見えた。ヴェルナーとは正反対だった。髪は白いが艶があり、姿勢が良く、目に力があった。穏やかな微笑みを浮かべていた。
「来てくれてありがとう」と彼は言った。
声も穏やかだった。
「座ってください」
私は向かいの席に座った。
第一印象は、柔和な老人だった。
しかし話しながら、その印象が少しずつ剥がれていった。剥がれた、というより——最初から何も貼ってなかったのかもしれない。柔和さの下に何かがあるというより、柔和さそのものが表面として機能していて、その奥に何があるのかを、私はついに最後まで確認できなかった。
目が、笑っていなかった。
笑顔は本物に見えた。
声も穏やかだった。
言葉も丁寧だった。
しかし目だけが、別の何かを見ていた。私を見ているようで、私の少し後ろを見ているような目だった。
ヴェルナーが言っていた言葉を思い出した。
「目を見ればわかる」と。
ゾレンティーノは自分から話し始めた。
「量子航行理論研究会について、調べていますね」
「はい」
「どこまで知っていますか」
私は答えた。
設立者がハイネック博士であること。
博士の退職後にゾレンティーノ博士が継承したこと。
メンバーが優秀な学生を中心に構成されていたこと。
内部資料の一部を入手していること。
ゾレンティーノは聞きながら、小さく頷いていた。
否定も肯定もしなかった。
「では、なぜ研究会が作られたかは、知っていますか」
「ハイネック博士の思想を継承するためだと、資料には書かれていました」
「それは表向きの答えです」とゾレンティーノは言った。
穏やかに。
責めるような口調ではなく、事実を述べるような口調で。
「本当の経緯を、お話しします」
ゾレンティーノは語った。
ハイネック博士が試験跳躍を行った西暦2981年、博士はPCEと呼ぶべき何かと接触した。それは接触というより、受信に近かった。博士は何かを受け取った。知識ではなく、方向性だ。人類が向かうべき場所と、そのために何が必要かという、大まかな輪郭を。
「博士は最初、それを拒もうとした」とゾレンティーノは言った。
「ノートに書かれていたことは、本当のことです。博士は苦しんだ。しかし最終的に、受け入れた」
「受け入れた、というのは」
「理解したということです。自分が受け取ったものの意味を。人類にとって、これがどれほど大きなことかを」
ゾレンティーノの口調は穏やかなままだった。
まるで当然のことを話すように。
「博士は研究会を作った。優秀な人材を集め、少しずつ、必要な理解を深めさせた。私も、その一人でした。最初は戸惑いましたよ。しかし知っていくうちに、わかってくるんです。これは脅威じゃない。招待だということが」
「招待」と私は繰り返した。
「そうです」とゾレンティーノは微笑んだ。
「人類を、次の段階へ。そのために必要だったのは、運搬する器と、開く鍵です。ネブカドネザル号は器として最適でした。乗員のスペックは、人類史上最高峰に近いものを揃えた。知性、体力、精神的安定性——全てにおいて。優秀な種だけを選んで実らせる。農夫の仕事と同じです」
農夫。
ハイネック博士のノートと同じ言葉だった。
「アマリー・ヘッシュは」と私は聞いた。
「彼女も、その器の一人だったということですか」
ゾレンティーノの表情が、わずかに変わった。変わった、というより——初めて何かが滲んだ、という感じだった。誇り、とでも呼ぶべき何かが。
「アマリーは、特別でした」
彼はゆっくりと言葉を選んだ。
「他の乗員は器です。優秀な器。しかしアマリーは違う。彼女は17歳の時から、私たちが馴らしを行った。長い時間をかけて、少しずつ、少しずつ。彼女の神経系を、彼女の思考の構造を、PCEの受信に最適な形へ整えていった。10年以上かけて。彼女自身は気づいていなかった。気づかせる必要はなかった」
「馴らし」という言葉が、私の胃の中で何かを腐らせた。
「彼女は最高の器になりました」とゾレンティーノは続けた。嬉しそうだった。本当に嬉しそうだった。
それが一番、気持ち悪かった。
「PCEが三次元空間に干渉するための、最適なインターフェース。向こうの言葉を、こちらに持ち込むための。彼女ほど適した存在は、人類史上、他にいなかった」
私は少しの間、何も言えなかった。
それからようやく、聞いた。
「アマリーは、一体何になったんですか」
ゾレンティーノは私を見た。
目が、笑った。口ではなく、目が。初めて、目と口の笑顔が一致した瞬間だった。それがかえって、深く不気味だった。
「全てです」と彼は言った。
それだけだった。
それ以上の説明はなかった。
私は「全てとはどういう意味ですか」と聞こうとした。しかし声が出なかった。声を出してはいけない気がした。その答えを聞いたら、何かが変わる気がした。
ゾレンティーノは立ち上がった。
「お時間をいただきありがとうございました」と彼は言った。最初と同じ穏やかな声で。
「あなたは良いジャーナリストだ。よく調べた」
彼が出口に向かいながら、一度だけ振り返った。
「ただ」と彼は言った。
「よく調べた人間が、いつまでも調べ続けられるとは限らない」
脅しではなかった。
事実を述べるような言い方だった。
それがかえって、脅しより怖かった。
ドアが閉まった。
私はしばらく、席から立てなかった。
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3001.02.14 記録㉕
帰宅した。
部屋に入って、鍵をかけて、椅子に座った。
何かがおかしい。
おかしいというのは、状況ではなく、私自身の感覚だ。
ゾレンティーノと会ってから、現実感が薄い。
部屋の輪郭がぼんやりしている。輪郭がぼんやりしているのではなく、輪郭の意味がぼんやりしている。壁が壁として存在しているということが、当然のことではないような気がしている。
疲れているだけだと思う。
思おうとしている。
ノートを鞄から取り出した。
最後のページは読んでいない。ヴェルナーに止められた。今もまだ読んでいない。しかし今夜、手が伸びそうな気がする。理由はわからない。ただ、伸びそうだという予感がある。
読まない。読まないようにする。
この記録を書いていると、少し落ち着く。
文字を書いている間だけ、現実感が戻る。
ハイネック博士が数式を書いていた理由が、少しわかった気がする。
「数式を書いている間だけ私は私だ」
博士はそう書いていた。
私にとっての数式は、この記録だ。書いている間だけ、私は私だ。
続きを書く。
今夜、何かが来る気がする。
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3001.02.14 記録㉖
ドアの向こうにいる。
〔記録終わり〕
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【資料取り扱いに関する注記】
カイ・ドレスナーは西暦3001年2月14日以降、消息不明となった。
最後の記録が西暦3001年2月14日付けであることは確認されている。
ドレスナーの遺体は西暦3001年3月2日、かつて「ノイエ・ベルリン第三居住区」と呼ばれた外縁コロニーの廃棄区画内にて発見された。本資料の原本が発見されたのと同一の区画である。
遺体の状態について、担当法医の所見を以下に記録する。
外傷は全身にわたって確認されなかった。皮膚の損傷もなかった。骨格は正常な状態を保っていた。
ただし内臓の全てが消失していた。
胃、腸、肝臓、膵臓、腎臓、脾臓、肺、心臓——全ての臓器が、体腔から失われていた。いかなる外科的処置の痕跡も認められなかった。体腔内への外部からのアクセスを示す傷口が、どこにも存在しなかった。
死因は「不明」として処理されている。
担当法医の氏名は本資料には記載しない。記載しない理由については、本資料を管理する者が判断した結果である。
なお本資料の発見から3週間後、発見に携わった調査員のうち2名が体調不良を訴えて医療機関を受診した。症状は「睡眠障害」「視野の一部欠落」「他者の目が正常に見えない感覚」であった。現在も経過観察中である。
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【閲覧注意:以下の資料は精神的に強い影響を与える可能性があります】
【音声記録の文字起こしを閲覧する前に、必ず以下をお読みください】
本資料に収録する音声記録の文字起こしは、カイ・ドレスナーの自宅内設置のホームAIデバイスが西暦3001年2月14日深夜に自動記録したものである。
記録時刻は最後の取材記録と同日である。
原音声データの解析にあたっては、担当者への影響を最小化するため、全工程を自律型音声処理AIによって実施した。担当AIの識別コードは〔VOID-AI-007〕である。人間による直接試聴は行っていない。
文字起こしの過程において、以下の異常が確認された。
音声中に、人間の声帯では生成不可能な周波数帯域の音が複数回記録されていた。該当箇所については〔非可聴域:記録不能〕と表記している。また音声解析AIが処理を一時停止した箇所が3箇所あった。停止理由はいずれも「入力データの形式が既知のいかなるカテゴリにも分類できない」というエラーログのみが残されており、詳細は不明である。
音声記録の総時間は4分17秒である。
以下に文字起こしを収録する。
この記録を閲覧することで生じたいかなる影響についても、本資料の編集・管理者は責任を負わない。
閲覧を続ける場合は、次頁へ進むこと。
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〔音声記録文字起こし〕
〔記録日時:3001.02.14 23:41:08〜23:58:25〕
〔収録デバイス:ホームAI「LUMEN-7」〕
〔文字起こし処理:VOID-AI-007〕
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〔00:00〕
〔環境音:室内。換気システムの低周波音。静寂。〕
〔00:23〕
カイ:……来た。
〔3秒間の沈黙〕
カイ:来た、本当に来た、来るな、来るな来るな来るな——
〔椅子が引かれる音。足音。複数回。〕
〔00:41〕
カイ:ドアに鍵は——鍵はかかってる、かかってるはずだ、来るな、お願いだから来るな——
〔ドアノブが動く音。内側から押さえようとする音。〕
カイ:来るな、頼む、頼むから——
〔低い音。ドアの向こうから。人間の声ではない。空気が振動するような、低く持続する音。〕
〔01:02〕
〔非可聴域:記録不能〕
〔01:09〕
カイ:な、何なんだ、お前たちは——お前たちは何なんだ——
〔複数の足音。ドアが開く音。鍵が内側からかかっていたにもかかわらず。〕
カイ:来るな、来るな、来るな——何なんだお前たち、何なんだ、答えろ、何なんだ——
〔衣擦れの音。何かが床を引きずられるような音。〕
〔01:31〕
カイ:触るな——触るな——離せ、離せ——
〔息が乱れる音。〕
カイ:離してくれ、頼む、頼む——エリック、ヴェルナー——誰か——
〔沈黙。2秒。〕
カイ:……目が、お前たちの目が——
〔非可聴域:記録不能〕
〔01:52〕
カイ:痛い——
〔1秒の沈黙〕
カイ:痛い、痛い、痛い——何をして、何を——痛い痛い痛い痛い痛い——
〔物が倒れる音。床に何かが落ちる音。〕
カイ:痛い——中が、中が——内側が——痛い痛い痛い——
〔呼吸が速くなる。過呼吸に近い状態。〕
カイ:やめて、やめてくれ、やめてくれやめてくれやめてくれ——何が起きてる、何が——内側が、内側から——痛い——
〔02:19〕
〔カイの声が止まる。〕
〔沈黙。4秒。〕
〔別の音が始まる。人間の声帯から発せられているとは考えにくい音。しかし確かに、声の構造を持っている。言語ではない。言語の手前にある何かだ。低く、規則的で、反復する。〕
〔非可聴域:記録不能〕
〔02:38〕
カイ:〔かすれた声で〕……見える、見えてる、見たくない、見えてる——あそこが——あそこが——
〔声が途切れる。〕
カイ:アマリー——
〔沈黙。1秒。〕
カイ:……笑ってる——
〔02:51〕
〔激しい音。家具が倒れる音。壁に何かがぶつかる音。〕
カイ:痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い——やめろやめろやめろやめろ——抜くな、抜くな——中から抜くな——
〔声が歪む。人間の声として認識できるギリギリの領域まで歪む。〕
カイ:あ——あ——あ——
〔非可聴域:記録不能 / 処理AI一時停止:原因不明〕
〔03:14〕
〔処理再開〕
〔音が変化している。室内の音が、通常の物理法則に則った反響をしていない。音の減衰が起きていない。閉じた空間で発生したはずの音が、どこまでも続いていくような音響特性を示している。〕
〔カイの声がある。しかし声の方向が定まらない。室内の一点から発せられているのではなく、空間全体から発せられているように記録されている。〕
カイ:〔ほぼ聞き取り不能〕……まだ……私……私は……まだ……
〔非可聴域:記録不能 / 処理AI一時停止:原因不明〕
〔03:41〕
〔処理再開〕
〔人間の声は、もう聞こえない。〕
〔代わりに、音がある。言葉ではない。音楽でもない。ただの音だ。しかしその音には構造がある。繰り返しがある。何かを伝えようとしているかのような構造が。〕
〔音声処理AIによる分析コメント:当該音声は既知のいかなる音源カテゴリにも分類できない。人声、機械音、環境音、動物音、自然現象音——いずれにも該当しない。当該音声が何である
かについて、本AIは判断を保留する。〕
〔04:03〕
〔長いノイズ。全周波数帯域にわたる。〕
〔ノイズの中に、一瞬だけ、何かが聞こえる。言葉のように聞こえる。日本語でも英語でもない。しかし言語の構造を持っている。〕
〔音声処理AIによる文字起こし試行結果:「ウム・シャラ・ネフ・アタ・ウム」〕
〔04:17〕
〔記録終端〕
〔デバイスの自動記録機能がここで停止している。停止原因:不明。〕
〔デバイスは翌日、床に落ちた状態で発見された。電源は入っていた。内部データは全て正常に保存されていた。ただしカイ・ドレスナーの音声記録以外の、それ以前の全ての記録が削除されていた。削除を実行したログは残っていない。〕
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〔Ω班注記〕
本音声記録はΩ班の一部メンバーによって回収された。
回収を行ったメンバーの氏名は本資料には記載しない。
カイ・ドレスナーは死んだ。しかし彼が残した記録は存在する。彼が調べたことは、記録として残っている。
我々は調査を続けている。
カイが追えなかったものを、我々が追う。彼の遺志を継いで。
ただ一点だけ付記する。
音声記録の末尾に記録された言語不明の音声——「ウム・シャラ・ネフ・アタ・ウム」——は、本報告書の別の箇所にも登場する。
アマリー・ヘッシュの入院記録において、担当医K.V.が記録した「未同定言語での発話」と、完全に一致する。
調査は継続中である。