ネブカドネザル号乗組員消失事案に関する資料   作:統合惑星連盟特務調査局

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とあるフリージャーナリストの取材記録②

3000.12.17 記録⑨

 

リラへの取材から3日後、私は量子航行理論研究会の元メンバーを探し始めた。

 

手がかりは少なかった。

研究会は学内の非公開サークルであり、会員名簿は外部から照会できない。リラの証言から、研究会に入った後に宇宙関係の仕事に就いた人間が複数いるという情報は得ていた。しかし具体的な名前は出てこなかった。

 

連盟中央大学の卒業生データベースを改めて精査した。医学部・物理学部・工学部の卒業生の中から、卒業後に連盟宇宙開発局・連盟宇宙物理学研究所・I.E.S.P.関連機関に就職した人物を抽出した。さらにその中から、ハイネック博士の在職期間と在学期間が重なる人物を絞り込んだ。

 

リストアップされた人数は47名。

 

その47名に対して、公開されている連絡先へ順番に当たっていった。名目は「連盟中央大学の卒業生を対象とした宇宙開発に関する取材」という名目にした。研究会の名前は出さなかった。

 

返答があったのは11名。

そのうち取材に応じると言ったのは3名。

しかし約束した日時に連絡が取れなくなったのが2名。

残った1名は、取材当日になって「やはり話せない」と言って電話を切った。

 

振り出しに戻った。

 

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3000.12.21 記録⑩

 

行き詰まりを感じていた頃、意外な経路から連絡が来た。

リラだった。

 

「一人、話せるかもしれない人がいます」というメッセージだった。

 

「ただ、慎重な人なので、私から話を通してもいいですか」

 

もちろんですと答えた。

3日後、リラから返信が来た。

 

「会ってくれると言っています。ただ条件があります。名前は一切出さないこと。録音は禁止。メモは取材中に限り可。資料の写真撮影は相手の許可が出たものだけ。そして取材後、この人物との接触があったことを第三者に話さないこと」

 

条件を全て受け入れた。

 

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3000.12.24 記録⑪

 

協力者——以下、仮名で「エリック」と記録する——は、私が想像していたよりずっと若かった。30代前半に見えた。

 

待ち合わせ場所は彼が指定した、外縁コロニーの中でも人気の少ない区画の一室だった。個人の住居ではなく、一時的に借りたと思われる空室だった。椅子が二脚だけ置いてあった。

 

エリックは私が部屋に入ると、ドアに鍵をかけた。

それから私のことを上から下まで見て、「端末を机の上に置いてください。画面を上にして」と言った。

 

私は従った。

 

「録音していないことを確認させてください」と言われ、端末の設定画面を見せた。

それだけの手順を踏んでから、エリックは椅子に座った。

 

「リラから聞きました。アマリーのことを調べているんですね」

「はい。それと、量子航行理論研究会についても」

 

 エリックは少しの間、私を見ていた。

「なぜ今更」と彼は言った。

 

「ネブカドネザルが消えてから、もう半年近く経ちますよ」

「情報を得たのが最近なんです」

「どこから」

「それは答えられません」

 

 エリックはしばらく黙った後、「まあいいです」と言った。

 

「どうせ、誰かが外に出したんでしょう。そうなることは、ある程度予想していたので」

「研究会のメンバーだったんですか」

「元、です。4年間在籍して、抜けました。抜ける時はそれなりに大変でしたけど」

「大変、というのは」

「後で話します。まず、あなたがどこまで知っているかを教えてください」

 

 私は資料の概要を伝えた。

 ハイネック博士との関係、アマリーの在籍、研究会が段階的に引き継がれてきた経緯。エリックは私の話を聞きながら、時折小さく頷いた。

 

「だいたい合っています」と彼は言った。

 

「では、これを見てください」

 

 エリックはバッグから封筒を取り出した。

 中から紙の束を出して、机の上に置いた。

 

「研究会の内部資料です。在籍中に配布されたものの一部を、私は保管していました。当時はなぜ保管したのか自分でもわかりませんでしたが、今思えば、どこかおかしいと気づいていたのかもしれない」

 

資料を手に取った瞬間、最初に気づいたのは印刷の質だった。古い紙ではなく、きちんとした装丁がなされている。

表紙には「量子航行理論研究会 内部講義録 第三章 人類の指向性について」と書かれていた。

 

副題は「我々はなぜ外へ向かわなければならないか」

 

最初の数ページは、純粋に学術的な内容だった。

地球環境の悪化に関するデータ、コロニー体制の限界についての論考、恒星間移民の必要性についての議論。いずれも論理的で、読みやすく、説得力があった。引用されている文献も正当な学術論文だった。

 

しかし10ページを過ぎた辺りから、少しずつ文体が変わり始めた。

 

学術的な記述の中に、奇妙な文章が混じり始めた。

 

「人類は自らの意志で外縁へ向かうのではない。向かうことを、既に決められている。我々の役割は、その決定を実行することである。」

 

私は手を止めた。

エリックを見た。

彼は黙って、読み続けるよう目で促した。

読み進めた。

 

「ハイネック博士の理論は、単なる物理学の進歩ではない。それは人類への啓示である。博士は量子跳躍の開発を通じて、高次元に存在するものからの接触を受けた。博士自身はそれを直接的には語らなかったが、その著作と論文の全体を通読することで、受け取ったメッセージの輪郭が見えてくる。」

 

「高次元に存在するものとの接触」という記述で、私は思わず資料をめくる手を止めた。

 

さらに続けた。

 

「アルゴ=XΩ宙域は、接触の場として最適な条件を備えている。そこへ人類が到達することが、次の段階への扉を開く。我々研究会の使命は、その到達を確実なものにすることである。そのために必要な人材を育成し、必要な立場に配置し、必要な時が来た時に行動できる準備を整えることが、我々に与えられた役割である。」

 

私は資料を置いた。

部屋が急に狭く感じた。

 

「これは」と私は言った。

言葉が続かなかった。

「カルトです」とエリックが静かに言った。

 

「私もそう思っています。ただ非常に巧妙なのは、最初はそう見えないことです。学術的な内容から始まって、少しずつ、気づかないうちに、全く別の話になっていく。読んでいる間は論理的に見えるんです。でも読み終わってから、全体を振り返った時に、急に気持ち悪くなる」

 

「必要な人材を育成し、必要な立場に配置し」という部分が、私の頭の中で繰り返されていた。

 

「アマリー・ヘッシュも、この資料を読んでいたんですか」

「おそらく」とエリックは言った。

 

「これは第三章ですが、全部で七章あります。私が持っているのはこのうちの二章分だけです。残りは、抜ける時に返却を求められた」

「抜ける時が大変だったというのは」

「脅されたわけじゃないんです。でも、やめると言った後から、周囲の人間の態度が変わった。友人だと思っていた研究会のメンバーが、急に連絡を取らなくなった。指導教員との関係もぎくしゃくした。何かをされたというより、じわじわと孤立していく感じがして。結局、私は転部して、研究会とは無関係の進路に進みました」

「その後は」

「平穏です。ただ、たまに思うことがあります。私が抜けたのは、単に運が良かっただけなのかもしれない、と」

 

エリックは手を組んで、机の上の資料を見た。

 

「一つ、伝えておきたいことがあります」

「どうぞ」

「ハイネック博士のご遺族と、連絡が取れる可能性があります」

 

私は思わず身を乗り出した。

 

「博士には、息子さんがいます。博士が晩年に疎遠になっていた方で、研究会とも無関係です。ただ非常に気難しい人で、メディアへの不信感が強い。連絡を取ること自体は不可能ではないと思いますが、取材に応じてもらえるかどうかは、かなり時間がかかると思います」

「それでも構いません」

「私からアプローチすることはできます。ただ約束はできない。それだけは理解しておいてください」

「わかりました」

 

エリックは立ち上がり、机の上の資料を封筒に戻した。

そして私に手渡した。

 

「持っていってください。どうせ私が持っていても、いつか誰かに取られるだけだと思うので」

 

私は封筒を受け取りながら、一つだけ聞いた。

 

「怖くないですか。協力することが」

 

エリックはしばらく黙ってから、答えた。

 

「怖いです。でも、アマリーが帰ってきたと聞いた時から、もっと怖いことが始まっている気がしていて。どうせ怖いなら、知っている方がまだましだと思うことにしました」

 

部屋を出る時、エリックは私の背中に向かって言った。

 

「カイさん。気をつけてください。この件を調べている人間が、皆無事でいるわけじゃないので」

 

振り返った時には、エリックはすでにドアの方を向いていた。

 

〔本記録は以上で一時中断されている。次の記録は西暦3001年1月4日付けである。〕

 

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3001.01.04 記録⑫

 

年を越した。

年明け早々、エリックから連絡が来た。

 

「息子さんが了承しました」

 

それだけのメッセージだった。

私はしばらく端末を持ったまま動けなかった。

了承してくれると思っていなかった。エリックも「時間がかかる」と言っていた。それが年を跨いで10日も経たないうちに返事が来た。

 

なぜこのタイミングで了承したのか。

その理由を考えると、少し背筋が冷たくなった。

 

エリックから送られてきた場所の情報を地図で確認した。

首都から遠く離れた、外縁コロニーの中でも辺境に位置する居住区だった。公共の交通手段では複数回の乗り換えが必要で、最後の区間は徒歩になるという。人口は数百人規模。コロニーの中でも特に古い区画で、建造から200年以上が経過しているとデータベースには記載されていた。

なぜそんな場所に。

理由を考えながら、荷物をまとめた。

 

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3001.01.09 記録⑬

 

移動に4日かかった。

最後の乗り換え駅から徒歩で1時間以上歩いた。

案内板も少なく、エリックから送られてきた手書きの地図を頼りに進んだ。道中、すれ違った人間は3人だけだった。

 

目的地は、居住区の端に建つ古い建物だった。

外壁は古いが、手入れはされていた。インターフォンを押すと、すぐに応答があった。

 

「カイ・ドレスナーか」

「はい」

「入れ」

 

ドアが開いた。

部屋に通されて、私は一瞬自分の表情が崩れそうになるのを堪えた。

 

ハイネック博士の息子——以下、「ヴェルナー」と記録する——は、エリックから聞いていた年齢より遥かに老いて見えた。実年齢は50代のはずだった。しかし目の前に座っている男は、70代か80代と言われても疑わなかったと思う。肌の色は悪く、手の甲には血管が浮き上がり、背中は丸く曲がっていた。髪はほとんど白く、量も少なかった。

それでも目だけは、鋭かった。

私を見る目が、部屋に入った瞬間から離れなかった。全身を観察するような、測るような目だった。

 

「座れ」

 

椅子を示された。私は礼を言って座った。

 

「お時間をいただきありがとうございます。遠いところまで来ていただくわけにもいかず、こちらから伺いました」

 

ヴェルナーは私の言葉を聞きながら、まだ私を見ていた。

しばらくして、「お前は大丈夫そうだな」と言った。

意味がわからなかった。

何が大丈夫なのか。

 

私は「と、言いますと」と聞き返した。

「目だ」とヴェルナーは言った。

 

「目を見ればわかる。お前はまだ、ちゃんとお前だ」

 

私はその言葉の意味を、その時点では完全には理解できなかった。しかし聞き返す前に、ヴェルナーが続けた。

 

「エリックから聞いた。研究会のことを調べているそうだな」

「はい。それと、ハイネック博士のことも」

 

ヴェルナーは低く、短く笑った。

笑い声というより、溜め息に近かった。

 

「父の話をするのは、久しぶりだ」

「父は」とヴェルナーは話し始めた。

 

「最初から、おかしかったわけじゃない」

 

私はメモを取りながら聞いた。

 

「私が子供の頃の父は、情熱のある科学者でした。宇宙のことしか考えていないような人で、家族との時間は少なかった。でも話す時は、本当に目を輝かせて話した。量子跳躍の理論を開発している頃は、毎晩遅くまで研究室にいて、それでも家に帰ってくると私に星の話をしてくれた。子供だった私には難しいことばかりだったけれど、父が楽しそうにしているのは伝わった」

 

ヴェルナーは手を膝の上で組んだ。

 

「私も父のような科学者になりたいと思っていた時期があった。実際に物理学を学んだ。でも私は父ほど優秀じゃなかった。それはわかっていた。それでも、父の背中を追いかけていた」

「変わったのはいつ頃ですか」と私は聞いた。

 

ヴェルナーの目が少し細くなった。

 

「跳躍実験が成功した後からです」

「西暦2981年の試験跳躍ですか」

「そうだ。あの実験の後から、父は変わった」

 

ヴェルナーは言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。

 

「最初は、ただ疲れているのだと思った。大きな実験が成功した後の燃え尽きのようなものだと。でも違った。疲れているのではなく、別の方向に向かっていた」

「どんな変化でしたか」

「睡眠が変わった。以前は短い睡眠でも元気だった父が、突然、夜中に起き出すようになった。部屋の中で一人で何かをしている音がした。何をしているのか聞いても、『考えていた』とだけ言った。話していた、じゃなくて、考えていた、と」

 

私はメモを取りながら、艦内映像記録の解析報告に記録されていた乗員の行動を思い出していた。夜中に起座して壁を見つめていた乗員の記録。

 

「食事の様子も変わりました。食べることに、興味がなくなったような感じがして。でも体は元気だった。むしろ体は、以前より動いていた」

「精神的には」

「そこが一番不気味だったんです」とヴェルナーは言った。「脳の検査をさせたことがあります。医師の知人に頼んで。結果は、異常なし。それどころか、認知機能は年齢に比べて非常に高いという結果が出た。知能が、上がっていた」

 

私は手を止めた。

 

「上がっていた……?」

「そう。衰えるはずの年齢なのに。父は以前より速く計算し、以前より多くのことを記憶し、以前より複雑な理論を構築するようになった。数値だけ見れば、理想的な状態だった」

 

「でも」と私は促した。

「でも、中身が、違った」ヴェルナーは静かに、しかし明確に言った。

 

「数値は上がっていた。でも父じゃなかった。話し方が変わった。笑い方が変わった。私を見る目が変わった。以前は私を見る時、息子を見る目をしていた。それが、何かを観察するような目になった。愛情がなくなったのとも違う。ただ……私が、父にとって別の何かになった、そんな感じがして」

「具体的にどんな話をするようになりましたか」

「人類が外へ向かうことについて、よく話すようになりました。連盟の移民計画のことを、まるで自分が計画したかのような口ぶりで話した。アルゴ=XΩ宙域のことを、何度も口にした。あそこへ行かなければならない、という言い方を繰り返した。なぜそこへ行かなければならないのか聞いても、明確には答えなかった。ただ、行くことが決まっているから、と言うだけで」

 

私の手が、少し震えていた。

 

「行くことが決まっている」

「そうだ。誰が決めたのかは言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。自分でもわかっていなかったのかもしれない。今となっては、確認する方法がない」

 

ヴェルナーはしばらく沈黙した。窓の外の暗い廊下を見ていた。

 

「一度だけ、父の研究所に忍び込んだことがある」

「忍び込んだ」

「父が長期の学会で不在の間に。鍵は知っていた。子供の頃から出入りしていた場所だったから」

「何を見たんですか」

「理論式が、壁一面に書かれていた。紙ではなく、壁に直接。インクで。おそらく父自身が書いたものだった。量子跳躍の式だけじゃなかった。私には読めない記号が混じっていた。数式とも言語とも判断できないものが、規則的な形で書き込まれていた」

 

私は担当医K.V.のメモを思い出した。暗闇の中で壁に何かを書いていたアマリーの記録。爪で刻んだ溝が、ある角度から光を当てると文字のように見えたという記録。

 

「それだけじゃなかった」とヴェルナーは続けた。

 

「引き出しの中に、ノートがあった。父の字で書かれていたが、内容は……今でも思い出すと、気分が悪くなる」

「どんな内容でしたか」

「人類が次の段階へ移行するための条件について、書かれていた。移行というのは、私が解釈した言葉です。父が使っていた言葉は違った。もっと……受け身な言葉だった。連れて行かれる、という言葉を使っていた。人類は連れて行かれる準備ができていない。準備を整えさせなければならない。そのために、扉を開く必要がある。扉はXΩにある——そういった内容が、延々と書かれていた」

 

部屋の空気が、重くなった気がした。

 

「そのノートは」

「持ち出した。父に見つかる前に。今もここにある」

 

ヴェルナーは立ち上がり、部屋の奥へ歩いていった。しばらくして、古い箱を抱えて戻ってきた。箱を机の上に置き、中から一冊のノートを取り出した。

 

表紙は変色していた。

相当な年数が経過していることがわかった。

 

「これを、お前に渡す」とヴェルナーは言った。

私は手を伸ばしかけた。しかしヴェルナーはノートを渡す前に、私の手首を掴んだ。力が強かった。見た目に似合わない力だった。

 

「一つだけ、約束しろ」

「なんでしょう」

「このノートの中に、特定の箇所に、文字が隠されている」

 

 ヴェルナーの目が、私の目から離れなかった。

 

「通常の文章の中に、別の層として書き込まれている。気づかなければそのままでいい。しかし気づいたとしても、解析して意味を理解しようとするな」

「なぜですか」

「私の知人が一人、解析した。意味を理解した瞬間から、おかしくなった」

 

ヴェルナーは静かに、一語一語を区切るように言った。

 

「目が変わった。話し方が変わった。父と同じように。連れて行かれたんだ。意味を理解した瞬間に、扉が開いたのだ」

 

 私は息を呑んだ。扉とは何だ。

 

「意味を理解することが、トリガーになるということですか」

「私にはそうとしか思えない。だから読むな。文章として読め。記号として見るな。意味を追うな」

 

ヴェルナーは私の手首を放し、ノートを手渡した。

受け取った瞬間、思ったより重かった。

 

「なぜ私に渡すんですか」と私は聞いた。

 

「危険なものなら、なぜ」

 

ヴェルナーは私を見た。

しばらく何も言わなかった。

それから窓の方を向いて、静かに言った。

 

「お前が来る前から、この場所がもうすぐ見つかると思っていた。私が持っていても、意味がなくなる。ならば外に出した方がいい。ただし、意味を理解できる人間の手に渡る前に」

「見つかるというのは、誰に」

 

ヴェルナーは答えなかった。

代わりに私の目をもう一度見て、「お前はまだ大丈夫だ」と言った。最初に言ったのと同じ言葉だった。

 

「でも気をつけろ。このノートを持ち歩いている間、周りの人間の目を見ろ。目が変わっていたら、距離を置け。理由を聞くな。ただ離れろ」

「目が変わるというのは、具体的に」

「わかる」とヴェルナーは言った。

 

「見た瞬間に、わかる。説明できないが、わかる。私は父の目が変わった瞬間を、今でも覚えている。それからずっと、人の目を見る癖がついた」

 

私はノートを鞄にしまった。

 

「最後に一つだけ聞かせてください。息子さんから見て、ハイネック博士は幸せでしたか。晩年、研究に没頭していた時期」

 

ヴェルナーはしばらく黙っていた。

 

「わからない」とやがて言った。

 

「幸せかどうかを、父はもう判断していなかったと思う。判断する必要がなくなっていたのかもしれない。ただ……動いていた。目的に向かって、迷いなく。それが父にとって何だったのかは、私には聞けなかった」

 

部屋を出る時、ヴェルナーは玄関まで送ってきた。

ドアを開ける前に、一度だけ振り返った。

「カイ」と彼は言った。初めて私の名前を呼んだ。

 

「ノートの最後のページだけは読むな」

 

理由を聞く前に、ドアが閉まった。

 

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外に出ると、来た時と同じ静かな廊下が続いていた。

しかし同じには見えなかった。

鞄の中のノートが、妙に重く感じた。

 

私は歩きながら、ヴェルナーの言葉を反芻していた。

 

「意味を理解した瞬間に、扉が開いた」

「お前はまだ大丈夫だ」

「最後のページだけは読むな」

 

最後のページだけは、と彼は言った。

それはつまり、最後のページ以外は読んでいいということなのか。それとも、全てのページが危険だが、最後のページは特に、ということなのか。

 

聞けばよかった。

しかし引き返す気にはなれなかった。

 

〔本記録は以上で一時中断されている。次の記録は西暦3001年1月12日付けである。〕




Iam in ventre nostro es. Semper fuisti.
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