モノづくり大好きライバーによるハッピーエンドの作り方 作:超かぐや姫!脳焼きの民
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かぐやがツクヨミから去ったあと。
KASSENのリスポーン地点で7人は集まっていた。
「俺らのわがままに付き合ってくれてありがとう」
静寂を破ったのは、遠田の声だった。
かぐやを守るために全力を尽くしてくれた仲間たちへ。言葉にならない想いを込めて、彼は深く頭を下げる。
「みんな、お疲れ様でした
本当にありがとう」
彩葉も遠田に続き感謝を述べる。
「先帰るね...
...ごめん」
彩葉は力なく言葉と共に消える。
笑顔で送り出すという約束。
それを果たすためだけに繋ぎ止めていた彼女の心は、すでに限界を超えていた。
「俺はヤチヨに礼言って来るわ」
遠田はヤチヨのところへ向かう。
「匠...
生きてる?大丈夫なの...?」
ヤチヨの元へ辿り着くや否や、彼女は溢れんばかりの涙を瞳に溜め、縋り付くように遠田を案じた。
「大丈夫大丈夫!
目元の感覚がおかしいけどいたって問題ない」
そう言ってマスターアクセスによる同期を解除する。
「っ...い...ッ!?」
瞬間、遠田に頭痛が襲い掛かる。
限界ギリギリまで加速した思考と理性による反動であった。
「大丈夫!?匠!」
ヤチヨがふらつく遠田を支える。
「疲れと反動で頭痛すごいけど、休めば大丈夫や...
すまんな、色々迷惑かけて...」
痛みで視界を滲ませながらも、遠田はヤチヨに最後の謝辞を述べた。
「ありがとな。ヤチヨのおかげや」
その言葉を最後に、彼はツクヨミの世界から、自身の意識を切り離した。
現実に帰って来た彩葉が見たのは、
かぐやが着ていた黒いシャツ、そして猫耳のついたヘッドフォン。
そこにかぐやの姿はない。
持ち主を失ったそれらは、ただの無機質な物質としてそこに転がっている。
遠田はまだツクヨミの中だ。
誰もいないリビングへと、彩葉はふらふらと足を進めた。
(お金勝手に使うし...めちゃくちゃやるし...
片付けないし...)
溢れ出す思い出は、どれも手のかかる、けれど愛おしい記憶ばかり。
彼女は無意識に、キッチンの棚の戸に手をかけた。
かつて、ボロアパートで暮らしていた時。
キッチン下の戸に隠れていたことがあった。
今回もそんなオチであってくれという祈りと共に。
「ず~っと邪魔だったよ...
本当...最悪だよ...」
震える声で、彩葉は強がった。
そうでもしなければ、心が音を立てて砕けてしまいそうだったから。
そんな彩葉の携帯に通知が1つ。
『使っちゃった分、かえす!
ご迷惑かけました!』
画面に表示された通知と、ウォレットへの全額送金。
かぐやが手に入れた「この世界のすべて」を彩葉に預け、彼女は月へと消えたのだ。
「こんな大金使えるかよ...
バカやろう...」
彩葉は崩れ落ちるように膝を突き、その場に泣き崩れた。
バタン、と。
静まり返った家の中に、何かが崩れ落ちる不吉な音が響いた。
音の発生源は、先ほどまで居た配信部屋だ。
嫌な予感に急き立てられるように、彩葉は廊下を駆ける。
そこには、椅子から転げ落ち、床に横たわる遠田の姿があった。
「匠! 大丈夫!? 匠...っ!」
駆け寄り、その身体に触れた彩葉は短く悲鳴を上げた。
熱い。尋常ではない熱気が、彼の肌から、特に目元から陽炎のように立ち上っている。
スマコンの過剰排熱に焼かれた瞼は無惨に爛れ、彼は荒い呼吸を繰り返すばかりで反応がない。
彩葉は震える手でスマートフォンを掴み、救急車を呼んだ。
搬送先の病院で、緊急手術が開始される。
スマコンを眼球から摘出する執刀医たちの緊迫した声が、廊下まで漏れていた。
数時間後、彩葉に告げられた診断結果は、あまりに無慈悲なものだった。
・左目:視神経および眼球の完全な機能停止。
・右目:辛うじて機能は維持しているが、深刻な視力障害が残る可能性。
・瞼:熱傷による損傷激しく、皮膚の自然再生には時間を要する。
・脳:異常な高熱によるダメージ。意識がいつ戻るかは、現時点では不明。
白い廊下で一人、彩葉はその診断書を握りしめた。
彼は「虹」の先へ行かないことを選んだ。
「人」であることを選んだ。
けれど、その境界線に触れた代償は、彼の光を奪い去っていった。
消毒液の匂いが満ちる病室。
彩葉は、遠田が眠るベッドの傍らに、ただ腰を下ろしていた。
かぐやは月に帰り、もういない。
遠田は光を失い、このまま二度と目を覚まさないかもしれない。
彩葉の心は、底の見えない深淵へと沈み切っていた。
頬を濡らす涙さえない。
泣くという行為に必要な心の余力すら、今の彼女には残されていなかった。
遠田の目元は、純白の包帯で幾重にも覆われている。
その下にあるはずの、世界を面白がっていたあの瞳が、もう二度と開かないのではないか。
明るく笑う遠田の声が、このまま永遠に失われてしまうのではないか。
規則的な人工呼吸器の駆動音と、モニターに映し出される心臓の鼓動。
張り詰めた沈黙の中で響くそれらは、彼がまだ死んでいないことを事務的に告げるだけで、
彼の魂がどこにいるのかは教えてくれない。
独りぼっちの病室で、彩葉は独り。
彼女に許されたのは、ただ、横たわる遠田を、その白すぎる包帯を見つめることだけ。
彼を揺り起こす勇気も、永遠の眠りを認める覚悟も持てないまま、
彩葉は自分の指先が冷え切っていくのをただ感じていた。
午前3時。
静寂を切り裂くように、病室の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、見知らぬ男女の二人連れだった。
彩葉の母と同年代に見える、眼鏡をかけた穏やかそうな男性。
そして、モデルや女優と言われても疑いようのない、凛とした美しさを持つ女性。
その目元や口元の端々に、眠り続ける遠田匠の面影を感じさせる二人。
「彩葉ちゃん...?」
呆然とする彩葉に向けて、女性が口を開いた。
その瞬間、美貌に見合わぬ、けれど聞き覚えのある強烈な関西のトーンが響く。
かつて、配信に訪れて好き放題暴れて遠田だけをノシて帰って行った、あのバイタリティの塊のような声。
忘れるはずもない。
遠田匠をこの世に送り出した、彼の母親だった。
病院から連絡を受け、急いで大阪からやってきたのだ。
「彩葉ちゃん...
うちの息子が迷惑かけてごめんな~」
遠田母は、そう言って彩葉の肩に優しく手を置いた。
2人も、医師から匠の容体については詳しく聞いているはずだった。
二度と光を拝めないかもしれないこと。
意識がこのまま戻らない恐れがあること。
なのに、その声には悲壮感が驚くほど薄かった。
「た...匠が心配じゃ...」
震える、消え入りそうな声で彩葉が問う。
その瞳には、親である彼らの冷静さが、信じられないもののように映っていた。
「そりゃ、心配だよ...」
遠田の父は、眼鏡の奥の瞳を伏せ、事実を淡々と紡ぎ出した。
「でもね...
こうなるだろうなって、予想はついていたんだ。
意識がないだけで済んで、むしろ『まし』だったのかもしれない」
その言葉の重みに、彩葉は息を呑む。
「僕らはね...
匠が『
知っていて託した。
脳が焼き切れ、その場で命を落とす。
そんな最悪の結末を、ずっと想定していたんだよ」
「おばちゃん達もね、かぐやちゃんの卒業ライブ見ててん...
加速し続ける匠を見てな、『あ、もう帰ってくる気ないんやな...』って思ってん...
って、お父さんと二人で覚悟決めて見てたんよ」
遠田の母は、遠くを見るような目で、けれど穏やかに笑った。
「でもな、最後あの子は足を止めてん。
ギリギリまで生き残ろうとしたんやと思う...」
母は、彩葉の震える手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「多分やけど...
匠がそんな選択をしたんは、彩葉ちゃんが居るからやと思うねん...」
眩しそうに、けれど確かな確信を込めて、母は彩葉の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「だからな。
ありがとう。
...息子を引き留めてくれて」
彩葉の唇が小さく震え、視界がゆっくりと、熱く歪んでいく。
これまで、泣くことさえ忘れていた彼女の喉の奥から、せき止めていたものが溢れ出した。
「...っ、...ぅ...あぁっ...!」
漏れ出た嗚咽は、すぐに制御のきかない号泣へと変わった。
かぐやを失った寂しさも、匠を壊してしまったかもしれない後悔も、
そして彼が生きていてくれたことへの安堵も。
彩葉は、遠田母の腕の中で子供のように声を上げて泣いた。
遠田母は何も言わず、ただその小さな背中を、何度も、何度も優しく叩き続けた。
泣いて、泣いて、泣いて。
溜まっていた毒をすべて流し去り、少しだけ心が軽くなった彩葉に、
遠田母が静かに声をかけた。
「...かぐやちゃん、ほんまに月に帰ったん?」
その問いに、彩葉はただ小さく頷いた。
遠田の両親は、彩葉がかぐやを拾い、遠田と育てることになったあの日、真っ先に相談を受けていた。
だからこそ、彼女が真の意味で月に帰ったことを察していた。
それでも。
科学と論理の世界で生きてきた彼らにとって、
その摩訶不思議な結末をそのまま信じ切るには、あまりに理性が邪魔をしていた。
「そうか...。ほんまに、行ってもうたんやな」
母は窓の外、まだ昼の光に溶けて見えない月があるはずの空を、眩しそうに見上げた。
「せっかく孫ができたと思ったのに...
残念やわ~」
遠田の母は、あえて空気を読まない、とんでもない角度からの発言を放った。
「っ、げほっ、ごほっ...!?」
涙も引っ込むような唐突な言葉に、彩葉は思わず激しくせき込む。
隣では、遠田父が片手で顔を覆いながら、肩を小刻みに震わせて笑いをこらえていた。
この両親あって遠田があるのだと、彩葉は心の底から理解した。
「だって、匠と彩葉ちゃんが育てた赤ん坊がかぐやちゃんやろ?
そんなん実質おばちゃんの孫やん!
ん?っってことはやで...?」
遠田母の暴走は止まらない。
彩葉の脳裏に、嫌な予感がよぎる。
自分の胃に致命的なダメージを与えかねない、とんでもない発言の予感。
「彩葉ちゃんは実質、うちの義理の娘ってことやん!
あら~~~! お義母さんって呼んでもええんよぉ?」
「ぶふっ! はははは!」
ついに堪えきれなくなった遠田父が、その場に崩れ落ちた。
膝を突き、お腹を抱えて笑い転げる遠田父。
顔を真っ赤にして固まる彩葉。
死の影が漂っていた病室は、今や一組の夫婦によって、
やかましくも愛おしい日常に完全に乗っ取られていた。
夜が明け、白み始めた空の下、彩葉は一度家に戻ることにした。
遠田の両親がもたらした明るさによって、心に余裕が出来ていた。
けれど、それと引き換えにするように、
一睡もしていない肉体には、隠しきれない疲労が蓄積していた。
帰宅する彩葉の隣には遠田母もいた。
「彩葉ちゃんいっぺん帰んのね。
彩葉ちゃんと匠の新居、おばちゃん一度見てみたかったんよ!
着いてってええ?」
と言い放ち、ついてきたのだ。
遠田母は、息子が引っ越した先が気になるようだ。
実にパワフルなおばちゃんである。
遠田父は「済まんなぁ」と苦笑いしながら、一人、息子に付き添うために病室に残っている。
匠がどんな場所で、誰と、どんな暮らしをしていたのか。
母親としての純粋な好奇心と、そして何より、今の彩葉を1人きりにしたくないという強引なまでの気遣い。
静かすぎるはずだった帰路は、図らずも賑やかな「家庭訪問」へと変わっていた。
「...まじか。
めっちゃええとこ住んでるやん...」
流石の遠田母も、月37万のタワマンに言葉を失う。
「え?うちより豪華ちゃう?」
驚きを隠さないまま、彼女はさっそく家の中の探索を始めた。
自由奔放に家の中を歩き回るその背中を見ながら、彩葉はついに苦笑を漏らした。
寂寥感に押しつぶされそうだったこの部屋が、
彼女がいるだけで、まるで引っ越し初日のような騒がしさに塗り替えられていく。
「彩葉ちゃん、あんたは寝とき。
おばちゃんが適当に朝ごはん作るから」
探索を終え、すっかり家の構造を把握した遠田母に半ば拉致される形で、
彩葉は寝室の布団へと放り込まれた。
布団に入った瞬間、彩葉の意識は夢の中へ旅立った。
「えっ、でも、おばちゃんにそんなこと...」
言いかけたまどろっこしい遠慮も、母が頭まで布団を被せたことで遮られる。
「ええのええの! 匠が迷惑かけたんやから、これくらい当然や!
ほら、目ぇ閉じて!」
カーテンが引かれ、部屋が穏やかな暗がりに包まれる。
布団に入った瞬間、氷が溶けるように全身の力が抜け、
彩葉の意識は深い、深い夢の中へと旅立った。
夢の淵から帰ってきた彩葉がリビングで目にしたのは、
立ち上る湯気の中で鰹節が軽快に躍る、焼きたてのお好み焼きだった。
「え?かんた...え?」
寝起きの頭に、あまりにも「浪速」すぎるビジュアルが突き刺さる。
彩葉は状況が飲み込めず、ただ呆然と立ち尽くした。
壁の時計に目をやると、時刻は昼前。
泥のように眠っていたのは、時間にしてほんの数時間。
けれど、その短い間にキッチンは完全に遠田母の領域へと変貌を遂げていたらしい。
「彩葉ちゃん、起きた? あんた昨日からなんも食べてへんかったやろ。
お腹空いてると思って、一番元気出るもん焼いといたで!」
遠田母はコテを片手に、太陽のような明るさで豪快に笑った。
彩葉の困惑を余所に、テーブルには手際よく皿と箸が並べられていく。
「「いただきます」」
2人は声を合わせ、箸を動かした。
口に運んだ瞬間、甘辛いソースの香りと、出汁の効いた生地のふっくらとした食感が広がる。
「おいしい...」
嘘偽りのない、彩葉の本音だった。
「やろ!おばちゃんの得意料理や!」
彩葉の言葉に、遠田の母は本当に嬉しそうに目を細めた。
「あんた、ちゃんと噛んで食べや。
匠が起きた時に、彩葉ちゃんがフラフラやったら、
あの子また無理して格好つけようとするからね」
冗談めかして言いながらも、母の眼差しはどこまでも温かい。
彼女は、食べること、笑うこと、そして生きることを、何よりも力強く彩葉に示していた。
食事を終えた彩葉たちは、再び病院へと戻った。
病室に横たわる遠田は、まだ深い眠りの中にいる。
規則正しい人工呼吸器の音と、点滴の滴る音だけが室内に響いていた。
だが、今の彩葉の表情に、もう暗い影はない。
遠田が目を覚ますことを信じて待つことにした。
遠田母のお好み焼きの温かさと、力強い言葉が彩葉の胸の中に残っている。
「匠...」
彩葉は遠田の指先に手を重ねる。
焦る必要はない。彼は必ず、この騒がしくて温かい日常へと帰ってくる。
窓から差し込む午後の柔らかな光を浴びながら、彩葉は穏やかな気持ちで、その時を待つことに決めた。
...が、そんな感動的な光景を、半開きの扉の隙間から執拗に盗撮する影があった。
もちろん、遠田の母である。
遠田が目を覚ましたらこれをネタにいじってやろうと画策していた。
息子に対する扱いが雑である。
遠田父も止めない。
もはやいつものことであるからだ。
終わっている一族である。
「片付けなあかん仕事残ってるし、一旦大阪帰るわ!
また戻ってくるけど、それまで匠をよろしくな、彩葉ちゃん!」
遠田の両親はそう言い残して大阪へ帰っていた。
先ほどまで騒がしかった光景が幻であったかのように、静まり返る。
けれど、彩葉が感じる「静けさ」は、昨日までのものとは全く違っていた。
「匠...やっぱり匠のお母さんってすごいひとだね...
いろんな意味でだけど...」
彩葉は眠り続ける彼に語りかけ、ふっと苦笑した。
「やっぱり親子なんだって思ったよ...
私を振り回して、そして助けてくれた...」
握りしめた彼の指先に、自分の体温が伝わっていくのを感じる。
彩葉の瞳から、今度は悲しみではない、温かい雫が一粒だけ零れて、遠田の手に落ちた。
「でもね。
遠田が居ないのは寂しいよ...
だから、早く起きて...」
かぐやが去り、日常の音が一つ消えた。
けれど、もしここで遠田までいなくなってしまったら、彩葉の世界は完成しない。
強がって見せた笑顔も、お腹を満たした温もりも、
すべては彼に「おかえり」と言うための準備でしかなかった。
「彩葉!遠田は!
大丈夫なの?」
静まり返っていた病室のドアが勢いよく開き、真実と芦花が飛び込んできた。
学校に来ていない2人を心配していた矢先、教員から聞かされた
「遠田が事故で入院した」という信じがたい知らせ。
おそらく、昨日の戦いで何かあったと考えた真実と芦花は、
授業が終わったとすぐに病院へ駆けつけたのだ。
そんな彼女たちの目に入る目元が包帯で覆われた遠田。
「遠田の容体は安定してるよ...
ただ...」
彩葉は、医師から告げられた診断結果を静かに共有した。
意識は戻るはずだが、視力を失っている可能性が高いこと。
それを聞いた2人の顔から、さっと血の気が引いていく。
「い、彩葉は大丈夫なの...?」
芦花が声を震わせながら問う。
かぐやが月に帰り、遠田が光を失う。
大切なものを一度に奪われた彩葉の心が、壊れてしまっていないか。
それが何より怖かった。
「実はちょっと前までやばかったよ」
彩葉は、包帯に隠された匠の顔を見つめながら、自嘲気味に笑った。
「でも、遠田の両親に助けられちゃった。
...だから、大丈夫」
心配そうに顔を見合わせる二人に、彩葉は真っ直ぐな視線を返す。
「かぐやが居なくなったことは辛いし、
匠がこんなことになってるのも辛い。
...それでも、下ばっかり向いてはいられないから」
泣き腫らしたはずのその瞳には、今、彼女自身の足で立とうとする力強い光が宿っていた。
「そっか...
でも!何かあったら連絡して!
力になるから」
真実が彩葉の手を強く握りしめ、芦花も大きく何度も頷く。
「ありがと。
その時は2人の力を借りるね」
彩葉は、心からの微笑みを返した。
かつての彼女なら、1人で抱え込んで壊れてしまっていたかもしれない。
けれど今の彼女には、嵐のように現れては笑い飛ばしていった匠の両親がいて、
そしてこうして駆けつけてくれる最高の友人がいる。
2人が去り、パタンとドアが閉まると、病室には再び穏やかな静寂が戻ってきた。
彩葉は彼の右手を両手で包み込み、そっと額を押し当てた。
祈りのような、静かな沈黙。
――その時だった。
彩葉の手の中で、彼の指先が、微かな意志を持って跳ねた。
「...っ!」
驚いて顔を上げた彩葉の視線の先。
光を奪っているはずの、厚い包帯の下。
遠田の瞼が、何かを追い求めるように、小さく、けれど確かに震えた。
遠田の意識は、深い湖の底に沈んでいるような感覚の中にあった。
上も下もわからない。
重力さえもが希薄な、底知れない青黒い世界。
覚えているのは、ツクヨミからログアウトして、立ち上がろうとした時だ。
何も見えなかった。
世界が突然、焼き切れたフィルムのように光を失い、自分の体が重力に負けて倒れていく感触。
かぐやは本当に帰ってしまったのか?
彩葉は大丈夫なのか?
何も、わからない。
何も見えない。
何も聞こえない。
永遠とも思える虚無の世界を、遠田の意識はただ漂っていた。
出口も、入り口も、そして自分という存在の終わりさえも見つからないまま。
しかし。
そんな虚無を切り裂くように、一筋の光が差し込んだ。
遠田はその光に向かって進み始める。
それは本能だった。
夜を飛ぶ羽虫が炎に集まるように。
向日葵が太陽を追いかけるように。
そして、その光の渦の中心から、
『...くみ...
早く起きて...』
自分を呼ぶ声がする。
喉の奥が震えるような、切実で、温かな響き。
恋焦がれた人が、何度も、何度も、遠田の名を呼んでいる。
遠田は前に進む以外の手段を知らない。
声のする方へ。
眩いほどの光が差す方へ。
「...っ、...ぁ」
掠れた呼気が、喉を焼いた。
意識の湖を突き破り、現実の酸素が肺を突き刺す。
重なり合っていた彩葉の手のひらに、びくり、と強烈な脈動が伝わった。
「い...ろ...は...?」
乾ききった喉を震わせ、遠田の唇が、迷子のような、けれど確かな意志を持って動いた。
「匠...? 匠...!よかった...よかった...!」
重ねていた手に力がこもった瞬間、彩葉の視界は再び涙で滲んだ。
けれど、今度は溢れ出すのを止めようとはしなかった。
名前を呼ぶ。何度も、何度も、何度だって。
「いや...そんな何回も呼ばんでも聞こえてるて...」
掠れた、けれど酷く呆れたような声。
彩葉の心臓が、跳ねるように脈打った。
涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、包帯に覆われたまま、
口元だけを僅かに歪めて苦笑する匠の姿があった。
「でさ、なんも見えんのやけど...
なんや?包帯?」
遠田は、いつもの調子でそう言いながら、ぎこちない動作で目元に手を当てた。
指先に触れる、幾重にも巻かれたガーゼの厚み。
彩葉は、震える声で今の状況を伝えた。
左目は、もう。そして右目も、光を捉えられる保証はないということ。
静まり返る病室。
彩葉は、彼が絶望に打ちひしがれるのを覚悟し、その手をさらに強く握りしめた。
「そっか~
そんだけで済んだんか~」
遠田の口から漏れたのは、拍子抜けするほど軽い、独り言のような納得の声だった。
その言葉を聞いた瞬間、彩葉の胸の奥で、せき止めていた熱い塊が爆発した。
「...っ、なんで...なんで、そんな風に笑えるの...!?」
繋いでいた遠田の手を、砕かんばかりに強く握りしめる。
沸き上がってきたのは、安堵を飲み込むほどの怒り、悲しみ、そして消えない恐怖だった。
「なんで...なんで、あんな危ないことしたの!?
かぐやが居なくなって...匠まで居なくなったら...
私...」
彩葉の目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。
「なんで...自分の命をそんなに簡単に懸けられるの!
置いていかれる側の気持ちだって、少しは考えてよ...!」
叫ぶように問いかけながら、彩葉は彼の胸元に顔を埋めた。
「...ごめん...」
消え入るような声で、遠田は絞り出すように謝罪の言葉を述べた。
「...彩葉を悲しませる気はなかってん...
ただ...彩葉に笑っていてほしかってん...
ごめん...」
包帯に覆われたままの顔を、彼は申し訳なさそうに少しだけ伏せた。
ただ、目の前にいる大切な人に笑っていてほしかった。
そんな、あまりにも不器用で、ひたむきな願いと、彩葉の泣き声だけが、病室の静寂に溶けていった。