モノづくり大好きライバーによるハッピーエンドの作り方   作:超かぐや姫!脳焼きの民

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25話「代償、その先に」からの分岐です。

だいぶ暗めの内容になっているので、閲覧注意です。


Bad End 断絶の檻、壊れた幸福

月とのKASSENの後。

 

ツクヨミから現実に帰って来た彩葉が見たのは、

 

かぐやが着ていた黒いシャツ、そして猫耳のついたヘッドフォン。

 

そこにかぐやの姿はない。

 

持ち主を失ったそれらは、ただの無機質な物質としてそこに転がっている。

 

遠田はまだツクヨミの中だ。

 

誰もいないリビングへと、彩葉はふらふらと足を進めた。

 

(お金勝手に使うし...めちゃくちゃやるし...

片付けないし...)

 

溢れ出す思い出は、どれも手のかかる、けれど愛おしい記憶ばかり。

 

彼女は無意識に、キッチンの棚の戸に手をかけた。

 

かつて、ボロアパートで暮らしていた時。

 

キッチン下の戸に隠れていたことがあった。

 

今回もそんなオチであってくれという祈りと共に。

 

「ず~っと邪魔だったよ...

本当...最悪だよ...」

 

震える声で、彩葉は強がった。

 

そうでもしなければ、心が音を立てて砕けてしまいそうだったから。

 

そんな彩葉の携帯に通知が1つ。

 

『使っちゃった分、かえす!

ご迷惑かけました!』

 

画面に表示された通知と、ウォレットへの全額送金。

 

かぐやが手に入れた「この世界のすべて」を彩葉に預け、彼女は月へと消えたのだ。

 

「こんな大金使えるかよ...

バカやろう...」

 

彩葉は崩れ落ちるように膝を突き、その場に泣き崩れた。

 

 

 

バタン、と。

 

静まり返った家の中に、何かが崩れ落ちる不吉な音が響いた。

 

音の発生源は、先ほどまで居た配信部屋だ。

 

嫌な予感に急き立てられるように、彩葉は廊下を駆ける。

 

そこには、椅子から転げ落ち、床に横たわる遠田の姿があった。

 

「匠! 大丈夫!? 匠...っ!」

 

駆け寄り、その身体に触れた彩葉は短く悲鳴を上げた。

 

熱い。尋常ではない熱気が、彼の肌から、特に目元から陽炎のように立ち上っている。

 

スマコンの過剰排熱に焼かれた瞼は無惨に爛れ、彼は荒い呼吸を繰り返すばかりで反応がない。

 

彩葉は震える手でスマートフォンを掴み、救急車を呼んだ。

 

搬送先の病院で、緊急手術が開始される。

 

スマコンを眼球から摘出する執刀医たちの緊迫した声が、廊下まで漏れていた。

 

数時間後、彩葉に告げられた診断結果は、あまりに無慈悲なものだった。

 

 

 

・両目:視神経および眼球の完全な機能停止。

 

・瞼:熱傷による損傷激しく、切除する必要がある。

 

・脳:異常な高熱によるダメージ。意識がいつ戻るかは、現時点では不明。後遺症が残る可能性アリ。

 

白い廊下で一人、彩葉はその診断書を握りしめた。

 

彼は「虹」の先へ行かないことを選んだ。

 

「人」であることを選んだ。

 

けれど、その境界線に触れた代償は、彼の光を奪い去っていった。

 

 

 

消毒液の匂いが満ちる病室。

 

彩葉は、遠田が眠るベッドの傍らに、ただ腰を下ろしていた。

 

かぐやは月に帰り、もういない。

 

遠田は完全に光を失った。

 

このまま二度と目を覚まさないかもしれない。

 

彩葉の心は、暗く、冷たく、寂しい、底の見えない深淵へと沈み切っていた。

 

遠田の目元は、純白の包帯で幾重にも覆われている。

 

その下には、世界の全てを面白がり、光輝いていたあの瞳はもう存在しない。

 

摘出された眼球、切除された瞼。その無残な現実が、包帯の膨らみから否応なしに伝わってくる。

 

「私のせいで...私が弱かったから...わたしが...」

 

思考の歯車が、異音を立てて狂い始める。

 

自責の念は鋭い棘となり、彩葉の精神を内側からズタズタに引き裂いていった。

 

「...っ!」

 

耐えきれず、彩葉は椅子を蹴るようにして立ち上がった。

 

横たわる遠田への謝罪さえ言葉にならず、ただ、底の見えない深淵から逃れるように、彼女は病室から走り去った。

 

 

 

「あ...あぁ...私は...何してるんだろう...」

 

無我夢中で病院を飛び出し、夜の街を彷徨った彩葉が辿り着いたのは、皮肉にも慣れ親しんだはずの自室だった。

 

鍵を開け、一歩足を踏み入れた瞬間に押し寄せるのは、肺の奥まで凍てつかせるような無機質な静寂。

 

つい先日まで、ここには賑やかな声があった。

 

元気なかぐやの笑い声。

 

ずっと笑っており、彩葉を助けてくれた遠田の存在。

 

けれど、今の部屋は、ただ広いだけの箱だ。

 

「かぐや...たくみ...たすけて...ひとりにしないで...」

 

膝から崩れ落ち、フローリングの冷たさに震えながら、彩葉は届かない名前を呼ぶ。

 

視界が涙で滲み、喉の奥がヒリつくほどに、その名を、その温もりを求めて。

 

(...無駄だよ。もう、その2人は居ない)

 

脳裏に、冷酷なまでの「現実」が木霊する。

 

かぐやは遥か天空の彼方、手の届かない月へと還り、もうこの地上には存在しない。

 

そして――。

 

(救いだった彼を、ボロボロのまま病室に捨てて、逃げ出したのは...お前(彩葉)だ...)

 

自責の念が、黒い泥のように彩葉の心を侵食していく。

 

傷ついた彼から目を逸らし、その手を振り払うようにして逃げ出した自分に、助けの手を伸ばしてくれる「ヒーロー」など、もうこの世界には残されていない。

 

「あ...あぁ...っ...あああああ....!!!」

 

独りぼっちの部屋に、少女の慟哭だけが虚しく響き渡る。

 

彼女は意識を失うまで泣き、嘆き続けた。

 

 

 

 

「...は!......ろは!.........彩葉!!」

 

「ろ...か...?ま....み...?」

 

鼓膜を震わせる鋭い声に、意識の混濁から無理やり引き戻される。

 

重い瞼を持ち上げた彩葉の視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井ではなく、泣き腫らした目で自分を覗き込む芦花と真実の姿だった。

 

「彩葉! よかった、やっと目が覚めた...!」

 

連絡を一切絶ち、リビングで倒れ、衰弱しきっていた彩葉。

 

その異変を察知し、半ば強引に鍵を開けて踏み込んできた親友たちの温もりが、今の彩葉にはあまりにも眩しすぎた。

 

「彩葉、大丈夫...? 何があったの、そんなにボロボロになって...」

 

真実が、震える手で彩葉の頬を包み込む。

 

その問いかけは、優しさに満ちていた。けれど、その優しさが今の彩葉には、剥き出しの傷口を抉る刃のように鋭く響く。

 

「わ、わたしは...」

 

言葉を紡ごうとするたび、脳裏を過るのは病室の静寂。

 

幾重にも巻かれた純白の包帯。

 

その下にある、自分が奪ってしまった「光」。

 

(わたしは、にげた...たくみをおいてにげた...わたしは...)

 

喉の奥が熱く、せり上がってくる嗚咽を必死に飲み込む。

 

衰弱しきった身体は、もはや涙を流す水分さえ枯れ果てているかのようだった。

 

「彩葉、遠田のこと行こ?遠田も彩葉がそばに居た方が安心できるだろうから...」

 

芦花の言葉に彩葉の肩が震える。

 

「なん...で...」

 

掠れた声が、彩葉の唇からこぼれ落ちる。

 

芦花の言葉は、慈愛に満ちた救いの手のようでありながら、今の彩葉にとっては心臓を握り潰す万力に等しかった。

 

「先生が教えてくれたの...遠田のお母さんから学校に連絡があったんだって...」

 

担任から告げられた「遠田匠、入院」の報せ。

 

授業が終わるやいなや病院へ駆けつけた2人が見たのは、規則的な機械音だけが響く病室と、疲れ果てた表情で息子の手を握る遠田の両親の姿だった。

 

そして、そこに居るはずの「彩葉」の姿だけが、どこにもなかった。

 

「遠田のお母さんも彩葉のこと心配してたよ...

『どこかで匠のことで気を病んでるかもしれない』って」

 

「...っ、あ...」

 

心臓が、早鐘を打つ。

 

遠田母は、看護師から彩葉が飛び出していったことを聞いていた。

 

遠田の無残な姿から、現実から逃げた彩葉のことを心配しているのだ。

 

その残酷なまでの善意が、彩葉の精神をさらに摩耗させていく。

 

「彩葉、遠田のところ、行こう? 遠田も、彩葉がそばに居た方がきっと安心できるから...」

 

芦花が優しく差し出した手。

 

その温もりを感じる資格など、自分には一欠片もない。

 

けれど、拒絶する力さえ、今の彩葉には残っていなかった。

 

「わ、たし...」

 

「大丈夫。私たちも一緒にいるから。ね?」

 

真実が背中に手を添える。

 

2人に支えられるようにして、彩葉は幽霊のような足取りで、再びあの白い病室へと引き戻されていく。

 

逃げ出したはずの場所へ、彼女は最悪の形で連れ戻されようとしていた。

 

 

 

病室には遠田の両親の姿はなかった。

 

交代で休息を取るためか、あるいは医師からの説明を受けに行っているのか。

 

残されたのは、電子音の拍動だけが響く無機質な空間と、ベッドに横たわる遠田の成れの果て。

 

一歩、踏み出すたびに、彩葉の肺は凍りついていく。

 

視界の端で、純白の包帯が膨らんでいる。

 

その下には、二度と開かれることのない、抉り取られた虚無が隠されている。

 

「あ...っ、は、はぁ...っ...!!」

 

呼吸が浅くなり、酸素が脳まで届かない。

 

指先から血の気が引き、震えを止める術を、彼女はとうに失っていた。

 

「彩葉!!」

 

崩れ落ちそうになる身体を、芦花が背後から必死に支える。

 

だが、今の彩葉を支えられるものなど、この地上には何一つ存在しなかった。

 

(逃げだした癖によう戻ってこれたね。ほんまに彩葉は甘ちゃんやねんから)

 

脳裏に、氷のような冷徹な声が響き渡る。

 

それは自責の念が作り出した、実の母・紅葉の幻影。

 

完璧であることを求め、失敗を許さなかった母の形をして、その声は彩葉の魂を容赦なく切り刻む。

 

「あぁ...いや...ご...ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい...っ!!」

 

「彩葉!?しっかりして!!彩葉!!!」

 

真実が肩を掴んで激しく揺さぶるが、彩葉の瞳はもう親友たちの姿を捉えていなかった。

 

焦点の合わない瞳に映るのは、包帯に巻かれた被害者(遠田)と、酒寄紅葉の幻覚。

 

「わ、わたしが...たくみを...にげだして...ごめんなさい...ゆるして...わたしは...」

 

謝罪の言葉は、誰に届くこともなく虚空に霧散する。

 

その凄惨な取り乱し方に、芦花と真実は言葉を失った。

 

ただのお見舞いに来たつもりの2人は、ここでようやく悟ったのだ。

 

彩葉が抱えているのは、単なるショックではない。

 

それは、一生消えることのない罪の重みであることを。

 

 

 

白磁のような静寂が、病室の空気を支配していた。

 

取り乱し、過呼吸とパニックの果てに崩れ落ちた彩葉は、駆けつけた看護師たちによって処置を受け、そのまま深い眠りへと強制的に沈められた。

 

彼女が自室で独り、現実から逃避するように意識を閉ざしていた時間は3日間。

 

その間、喉を通ったのはわずかな水すらなく、心身ともに限界を迎えていた彼女の細い腕には、今、生を繋ぎ止めるための点滴が淡々と流し込まれている。

 

「...あ...れ...」

 

重い瞼を持ち上げた彩葉の視界に入ってきたのは、見慣れた自分の部屋の天井ではなく、無機質な医療用カーテンの白だった。

 

「彩葉? 彩葉!?気がついたの!?」

 

カーテンの隙間から顔を出したのは、泣き腫らした目の真実だった。

 

その隣には、祈るように手を合わせる芦花の姿もある。

 

「ま...み...ろ...か...」

 

「よかった...本当によかった...彩葉まで倒れちゃうなんて、私たち、どうしたらいいか分からなくて...っ」

 

二人の献身的な看病。それが今の彩葉には、痛いほどに眩しすぎる。

 

けれど、彩葉の意識は、自分の体調などよりも先に、ある一点へと吸い寄せられていった。

 

壁一枚隔てた隣。あるいは、同じフロアのどこか。

 

光を失った遠田が、今も暗闇の中に閉じ込められている。

 

「た、たくみは...?」

 

掠れた声で、彼女は問う。

 

彼はまだ、あの包帯の檻の中で、覚めない夢を見ているのだろうか。

 

それとも...もう――

 

「遠田はね...さっき意識を取り戻したって...」

 

芦花の言葉が、彩葉の耳の奥で、現実感を伴わないノイズのように響いた。

 

心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねる。喜びではない。

 

それは、逃げ場を失った罪人が、ついに刑執行を告げられたかのような、鋭い「恐怖」だった。

 

「いかなきゃ...わたしが...わたしの...」

 

彩葉は、生気のない青白い顔で、点滴のチューブに繋がれたままの身体を強引に引き起こした。

 

節々の痛みも、立ちくらみも、今の彼女には感じられなかった。

 

ただ、脳裏を支配しているのは、あの包帯に巻かれた「暗闇」の中にいる彼への、強迫観念にも似た謝罪の衝動。

 

「今はダメだよ!彩葉!

自分のことを大事にして...っ、まだ歩けるような状態じゃないんだから!」

 

真実が、細い彩葉の肩を必死に抑え込む。

 

芦花も、溢れそうな涙を堪えながら、点滴のスタンドを倒さないよう支えるのが精一杯だった。

 

「いかないと...にげちゃったから...あやまらないと...」

 

真実と芦花の制止を振り切り、彩葉は震える足で床を蹴った。

 

点滴台のキャスターが、無機質な廊下でガラガラと、耳障りな音を立てて転がる。

 

重いパジャマに包まれた身体は、今にも崩れ落ちそうなほどに脆い。

 

けれど、彼女を突き動かしているのは、自罰や自責という名の、決して癒えることのない猛毒であった。

 

(たくみ...ごめんなさい...わたしのせいで...わたしがよわいから...だから...わたしを...)

 

彩葉は壁を伝い、荒い呼吸を繰り返しながら、遠田の病室へ足を進める。

 

彼女が望むのは、遠田の無事か、自身への罰なのか。

 

それは誰にも分からない。彩葉自身にさえも。

 

その白い廊下は、まるで終わりのない地獄への一本道のようにも見えた。

 

やがて、辿り着いた病室のドアの前。

 

震える手でドアを開ける。

 

ドアの先に居たのは、上半身を起こしている遠田の姿。

 

「ん?もしかして彩葉?

ちょっと目が見えんから間違ってたらすまん...」

 

彼が自分の気配を感じ取り、暗闇の中で自分を呼んだ。

 

その事実に、彩葉の心臓は引きちぎられそうなほどの衝撃を受ける。

 

「た、たくみ...あぁ...たくみ...っ!!」

 

彩葉は、自分の体が点滴台に繋がれていることも忘れ、よろめきながら彼のベッドへと縋り付いた。

 

視界に映るのは、幾重にも巻かれた無機質な白。

 

世界の全てから楽しみを、娯楽を探していたあの瞳はもうない。

 

「たくみ...ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい...っ!!

わたしのせいで、目が...わたしがよわかったから...」

 

謝罪の言葉が、血を吐くような嗚咽とともに溢れ出す。

 

ボロボロの体は激しく震え、彩葉はただ、遠田の布団を握り締めて泣き崩れた。

 

自分への罰を、罵詈雑言を、絶交を――。どんな過酷な言葉でもいいから、自分を壊してほしいと。

 

そう願うほどの、自罰的な熱に浮かされていた。

 

「彩葉!?落ち着いて!!目については俺の自業自得やからさ!

だから...な...落ち着いて!!」

 

遠田の手が、暗闇を彷徨うようにして、彩葉の震える肩に触れた。

 

「ちが...ちがうの...っ!わたしがよわいから...たくみが...むちゃしないといけなくて...」

 

「彩葉!辞めてくれ!!」

 

病室の空気を切り裂くような遠田の絶叫。

 

その衝撃に、彩葉の喉から溢れ出ていた嘆きが、物理的に遮断されたように止まる。

 

静寂が戻った室内で、遠田の荒い呼吸だけが、異常なほど大きく響いていた。

 

「頼むから...これは俺が悪いねん...俺の自業自得やねん...

やから...それ以上は辞めてくれ...」

 

ベッドに横たわる遠田から差し伸べられた手が、空中で行き場を失い、細かく震えている。

 

その指先は、かつてキーボードを叩き、ゲームのコントローラーを操り、自由な設計を行っていたものだ。

 

けれど、今は、目の前の少女の涙を拭うことさえ、その位置を特定できずに彷徨っている。

 

「今、そんな風に謝られたら...彩葉が悪いわけじゃないのに...彩葉を責めてしまいそうになる...

やから...辞めてくれ...」

 

喉の奥から絞り出された声は、震えていた。

 

遠田は、人としての矜持で自分を律しようとしている。

 

だが、その中身はもう、限界までひび割れていた。

 

両目を失った遠田。

 

それは彼にとって、単に視界が閉ざされたという物理的な喪失以上の、致命的な「死」を意味していた。

 

ネットの海を泳ぐことも、物語を紡ぐことも、キャラクターの未来を想像して笑うことも――。

 

彼を彼たらしめていた趣味(生きる理由)を失ったに等しかった。

 

「ごめん...感情的になってもうた...」

 

声を荒げたことを謝罪する遠田。

 

自業自得。そう自分に言い聞かせなければ、精神が霧散してしまう。

 

けれど、突きつけられた現実は、遠田の心を深く傷つけた。

 

 

 

冷静さを失い、剥き出しの「恐怖」と「絶望」を晒す遠田。

 

差し伸べられた震える手を見て、彩葉は悟ってしまった。

 

彼は自分を許しているのではない。

 

自分を責めることで、かろうじて「自分」という形を保とうとしているだけなのだと。

 

「...あ...あぁ...」

 

彩葉は、彼の震える手を握りしめることさえできなかった。

 

謝罪の言葉さえ奪われた彩葉は、ただ、暗闇の中で壊れていく遠田を、絶望の瞳で見つめることしかできなかった。

 

 

 

その場で崩れ落ち、ただ嗚咽を漏らすことしかできなくなった彩葉。

 

異変に気づいた看護師の手によって、彼女は引き離されるように自分の病室へと連れ戻された。

 

極度の衰弱、栄養失調、および精神的ショックによる意識混濁。

 

診断書に並ぶ冷淡な言葉が、今の彼女の危うさを物語っている。

 

光を失い、自責の念に押し潰されかけている遠田は、今の彼女にとって癒やしではなく、精神を焼き切る劇物そのものだった。

 

その結果、病院側は非情な決断を下す。

 

2人の面会時間には厳格な制限が設けられ、常に看護師がその場に立ち会う「監視下の再会」という形がとられることとなった。

 

それでも。

 

点滴台を引きずり、幽霊のような足取りで、彩葉は毎日のように遠田の病室へと通い詰めた。

 

「たくみ...」

 

「彩葉...」

 

互いの心の傷を舐めあうように、2人は手を絡め、言葉を交わし合った。

 

趣味という「生きる理由」を断たれた遠田は、今、彩葉の体温と、その震える声だけを頼りに、かろうじて「自分」という存在を繋ぎ止めていた。

 

一方で彩葉もまた、彼を「壊してしまった」という地獄のような罪悪感から逃れるため、被害者(遠田)に縋ることでしか、己の存在を肯定できなくなっていた。

 

どちらかが欠ければ、そのまま深淵へと落ちてしまう。

 

それは純粋な愛というよりは、共倒れを防ぐための共依存に近い、歪で、切ない繋がり。

 

無機質な病室。カーテン越しに差し込む夕陽さえ、今の遠田には届かない。

 

2人の絡められた指先だけが、この暗い、静かな世界における唯一の「現実」となっていた。

 

病院の廊下では、その様子を伺う真実と芦花が、かける言葉も見つからぬまま、ただ立ち尽くしている。

 

かつての賑やかな日常は、もう、どこにもなかった。

 

 

退院後、彼らの世界は広くも寂しいマンションの一室と、そこを訪れる限られた身内だけの「箱庭」に成り果てていた。

 

光を奪われ、文字通り生きる意味を断たれた遠田。

 

彼を壊したという罪悪感に焼かれ、彼の「目」となることでしか呼吸ができない彩葉。

 

かつて、ツクヨミを賑わわせた姿はどこにもなく、そこには互いの傷を執拗に舐め合う、共依存の獣が二匹、静かにうずくまっているだけだった。

 

食事の世話、掃除、洗濯。

 

まともな日常生活さえ営めない彼らを支えていたのは、妹の変貌に唇を噛み締めながらも通い続ける朝日や、献身的な芦花と真実。

 

そして...悲劇の当事者の親である遠田の母だった。

 

 

 

そんなある日のこと。

 

真実と芦花が彩葉たちの元へ来ていたときだった。

 

彩葉が装着しているスマコンが唐突にARモードで起動する。

 

彼女の視界には白く、フワフワしたウミウシーーFUSHIの姿があった。

 

「着いてこい」

 

FUSHIはそう告げると、外へ飛び出す。

 

「...たくみ。ごめん...ちょっと、外に行ってくるね...」

 

「...ん? あぁ、分かった。いってらっしゃい、彩葉。...気ぃ付けてな」

 

ソファに座り、何も映らない虚空に向けて返事をする遠田。

 

その声に以前のような覇気はないが、彩葉への信頼(依存)だけは、病的なまでに純粋だった。

 

遠田に伝言を残し、彩葉はFUSHIを追いかける。

 

「彩葉!? 真実、ごめん遠田のこと任せた! 私は彩葉を追いかける!」

 

芦花が叫び、玄関を飛び出す彩葉の背中を追う。

 

残された真実は、静まり返った部屋で、一人ぽつんと座る遠田の横顔を見つめ、ギュッと拳を握りしめた。

 

 

 

 

「待って、彩葉! どこへ行くの!?」

 

芦花の呼びかけも、今の彩葉には届かない。

 

スマコンの視界を泳ぐFUSHIの残像だけが、彼女にとっての唯一の道標だった。

 

裸足に近いサンダルのまま、荒い息を吐きながら住宅街を駆ける。

 

そうして到着したのはなんの変哲もないアパート。

 

アパートの階段を駆け上がり、ある部屋の扉をFUSHIがすり抜けて入っていく。

 

彩葉がドアノブを掴む瞬間、ロックが外れる音がした。

 

彩葉と芦花は静かに、警戒して部屋に入る。

 

カーテンが閉め切られ、電気の消えた室内。

 

「...なにここ」

 

だがそこは、外観からは想像もつかないほど、無数のサーバーラックと精密な電子機器の山で埋め尽くされていた。

 

正面には何本ものコードにつながれたタケノコらしきもの。

 

右手にはこの空間には似合わない水槽が置かれている。

 

水槽の中にはFUSHIそっくりのウミウシの姿がある。

 

FUSHIはタケノコらしきものが収められたケースの前に佇んでいる。

 

「ここから入れ」

 

短く、重みのあるFUSHIの言葉。

 

彩葉はその場でツクヨミにログインした。

 

芦花も覚悟を決め、彩葉を追いかけるようにツクヨミにログインする。

 

 

 

提灯の淡い光が、畳の目を優しく照らす和室。

 

そこに佇んでいたのは、かつてステージで共に輝いたはずの、けれど決定的に違う存在感を持った女性。

 

「かぐや...?よかった...かぐや...かぐや...っ!」

 

「彩葉...その人はかぐやじゃ...っ!」

 

縋り付こうとする彩葉を、芦花が必死に止める。

 

だが、振り返った月見ヤチヨの瞳に宿っていたのは、あまりにも深い、慈愛と悲しみの色だった。

 

「大丈夫だよ...芦花。

ヤチヨはかぐやでもあるから間違ってないよ...」

 

ヤチヨは悲しそうな声で芦花に話しかける。

 

自分はかぐやであること。

 

月に帰った後に、彩葉の歌を聞いたこと。

 

そうして、時を超え、地球に帰ろうとしたこと。

 

隕石と衝突し、8000年前の地球に降り立ったこと。

 

「それって、本当なの?」

 

芦花の震える問いに、ヤチヨは静かに頷く。

 

 

 

「芦花...聞きたいことがあるんだ...

匠は無事なの?」

 

ヤチヨの問いは、震えていた。

 

「遠田は...両目を失って...心が壊れちゃった...

彩葉と共依存してなんとか生きてるって感じで...」

 

芦花が絞り出した言葉は、無慈悲な現実そのものだった。

 

光を失い、生きる理由を奪われ、互いの傷口を塞ぎ合うことでしか呼吸ができない2人。

 

その凄惨な現状を突きつけられた瞬間、管理者の仮面を被っていたヤチヨの表情が、1人の少女――かぐやとしての絶望に塗りつぶされる。

 

「ごめんね...ヤチヨが...私が...リミッターなんて外さなければ...」

 

ヤチヨの叫びは、仮想空間の静寂を鋭く引き裂いた。

 

あの月との最終決戦。遠田が自らの命すらチップとして積み上げ、持ち出した魔改造スマコン。

 

その「禁忌の鍵」を託されたのは、他ならぬヤチヨだった。

 

『俺一人が持ってると、土壇場の勢いでリミッターを切って、

そのまま死ぬまで加速し続けてまうかもしれん。

やから、俺が解除申請を出した時、

そっちの判断で『最後の一線』を外してくれ』

 

そう言って、全てをヤチヨに託した遠田。

 

勝利のために、かぐやを守るために、彩葉を救うために。

 

そして未来を変えることができるかもしれないと。

 

ヤチヨは託された鍵を外してしまった。

 

「匠...匠...っ!!」

 

大粒の涙が、ヤチヨの頬を伝い、縋り付く彩葉の肩を濡らす。

 

笑ってほしかった大切な人。

 

結局、自分の手で彼を壊してしまった。

 

「...かぐや...泣かないで...たくみは生きてるよ...」

 

虚ろな瞳の彩葉が、逆にヤチヨの背中を撫でる。

 

その虚ろな瞳が、今の二人の共依存という名の地獄を、何よりも雄弁に物語っていた。

 

「...違う...こんなのハッピーエンドじゃ...こんな結末にしたいわけじゃなかったのに...」

 

ヤチヨの涙は止まる様子がない。

 

彩葉と匠とかぐやの3人で笑い合う幸せな未来を願ったヤチヨ。

 

彼女は、そんな願いが大切な人の全てを壊してしまったことに絶望する。

 

「ねぇ...ヤチヨ...

なんとかして彩葉たちの傍に居てあげれない?」

 

泣き崩れる管理者の肩を、芦花が震える手で抱き寄せた。

 

現実は無慈悲だ。匠の目は失われ、彩葉の心は摩耗しきっている。

 

けれど、このまま共依存の底へ沈んでいく二人を、ただ見ていることなんてできない。

 

「スマホや、スマコン越しでもいいから。...彩葉の傍にいてあげてほしい。この子、もう1人じゃ...立てないんだよ」

 

芦花の切実な願いに、ヤチヨは涙に濡れた顔を上げた。

 

「分かったよ...ヤチヨが2人の傍に居るね...」

 

その約束は、電子の海を超え、現実世界の静寂に溶け込んでいった。

 

彩葉のスマコン、遠田の部屋のスピーカー、そして二人のスマートフォン。

 

あらゆるデバイスにヤチヨの意識が常駐し、かつてのような三人の賑やかな会話が、再びその部屋に満ちるようになった。

 

しかし、それで遠田の目が、心が治るわけでもなく、彩葉の目に明るい光が差すわけでもなかった。

 

ただ、これ以上壊れないようにする応急処置に過ぎなかった。

 

 

 

そんな、澱んだ空気の停滞を破ったのは、ある午後のことだった。

 

「彩葉ちゃん...

匠の目を一緒に作らへん?」

 

遠田の母が持ってきたのは、一筋の光だった。

 

iPS細胞による視神経再生と、超小型精密機械の統合。

 

この技術による外の世界を見ることのできる義眼。

 

「たぶんな...あと10年ぐらい研究すれば作れると思うねん...

彩葉ちゃんなら匠の新しい『光』になれると思うんよ」

 

遠田母の言葉は、慈愛に満ちていた。

 

共依存の果てに、ただ彼を「介護」することしか選べなかった彩葉にとって、それは彼の欠損を物理的に埋めるという、究極の贖罪の形に見えた。

 

「...たくみの光...私が...」

 

彩葉の濁った瞳に、数ヶ月ぶりに小さな光が灯る。

 

それは、彼を元に戻したいという純粋な願いか。

 

あるいは、自分が作り上げた「目」で、彼に最初に見られるのは自分でありたいという、歪な執着の産声か。

 

「やらせてください...私に...たくみを...匠の『世界』を返させてください...」

 

 

 

この日から灰色だった彩葉の世界に光が差した。

 

彩葉が高校に復学し、勉学を再開した。

 

何か月も休んでいたため、1年留年することになったが、些細な問題であった。

 

そうして、東大に合格し、赴任してきた遠田母、そしてヤチヨと共に義眼の研究を開始した。

 

 

 

しかし、これこそが皮肉にも、さらなる悲劇の引き金となった。

 

ヤチヨが寄り添い、彩葉の声に生気が戻り、研究という名の「未来」が提示されたことで、遠田匠の壊れていたはずの心が、ゆっくりと、残酷に再起動を始めてしまったのだ。

 

(彩葉の声...弾んでる...あいつ、俺のために、あんなに頑張って...」

 

暗闇の中で、遠田はひとり唇を噛む。

 

心が完全に壊れたままなら、この苦痛はなかった。

 

だが、意識が明晰になればなるほど、彼は自覚せざるを得なかった。

 

自分が彩葉の重りになっているのではないか。

 

自分のせいで彩葉の将来を歪めてしまったのではないか。

 

「...ごめんな、彩葉...俺のせいで、彩葉の人生が...」

 

「何言ってるの匠。私は後悔なんてしてないし、間違ったなんて思ってないよ」

 

彩葉の言葉に嘘はない。

 

けれど、その「幸せ」の定義が、遠田にとっては鋭利な刃となって心を削る。

 

お前がいなければ、この子たちはもっと自由に笑えていたんじゃないか?

 

お前は救われているんじゃない。周りの「未来」を食いつぶして、生かされているだけだ。

 

そんな悪意が遠田の心を人知れず、削り続けていく。

 

 

 

そんな生活が2年続いた2035年9月12日。

 

遠田の精神が限界を迎えた。

 

これ以上、彩葉の重りになりたくない。

 

これ以上、彩葉の将来を、夢を、未来を歪めたくない。

 

暗闇の中、彼はゆらゆらと、確かな足取りでキッチンへと向かう。

 

視覚はなくとも、この二年、彩葉が整え続けた部屋の間取りは、呪いのように脳に刻まれていた。

 

『匠!何してるの!?』

 

ヤチヨの声がどこからか聞こえる。

 

「もう疲れたんや...もうええわ...

これ以上、彩葉の邪魔になりたくない...」

 

遠田の手が、迷いなく記憶の場所にある包丁を掴む。

 

冷たい金属の感触。それは、この2年で彼が触れたどんな「温もり」よりも、今は清々しく感じられた。

 

『待って!落ち着いて!!今、彩葉を呼ぶから!』

 

ヤチヨの声がどこからか聞こえる。

 

「あぁ...最後に彩葉の声...聞きたかったな...」

 

微かに笑みが零れる。

 

それは、もう一度、光を得る未来への期待ではなく、彼女を「自分の存在」という呪縛から解き放つことへの、歪んだ安堵だった。

 

『匠!待って!!ダメ!!!匠――――っ!!!』

 

ヤチヨの声が、絶叫となって部屋中に木霊する。

 

しかし、その電子の悲鳴を置き去りにして、遠田は己の喉元に、研ぎ澄まされた刃を深く突き立てた。

 

 

 

 

『彩葉!!急いで家に戻って!!匠が!!匠がっ!!』

 

遠田母とミーティングをしていた彩葉のスマホからヤチヨの悲鳴が響く。

 

彩葉は血相を変え、家に向かって走る。

 

電車を乗り継ぎ、マンションのロビーを抜け、部屋の扉を開ける。

 

そこには、ヤチヨの連絡を受けて、一足先に到着した朝日の姿があった。

 

「彩葉...こっちに来たらあかん」

 

そんな言葉を振り切り、彩葉がキッチンで見たのは。

 

血の池に染まったキッチン。

 

その中央に倒れる遠田の姿。

 

その喉元には包丁が刺さっている。

 

「た、たくみ?ねえ、たくみ?」

 

「止まれ彩葉!」

 

遠田の元へ向かおうとする彩葉を無理やり止める朝日。

 

外から、サイレンの音が聞こえる。

 

「...あ、あぁ...っ...。嘘、だよね...?」

 

崩れ落ちる彩葉。

スピーカーからは、ただヤチヨの、壊れたレコードのような嗚咽だけが漏れていた。

 

彼を救うために捧げた2年間。

 

彼に笑ってもらう為に研究していた義眼。

 

そのすべてが、彼にとっては、死を選ぶほどの苦痛でしかなかったという残酷な真実。

 

彩葉の絶叫が、夕暮れの街に溶けていく。

 

 

警察の現場検証が終わり、遺されたノートパソコンのロックがヤチヨの手によって解除された。

 

そこには、残酷なまでに優しい遺書が綴られていた。

 

『彩葉へ

 

これまで、ずっと支えてくれてありがとう。

 

勝手に先に逝くこと、許してくれ。

 

彩葉の時間を、将来を、夢を、全部奪ってしまった。

 

俺がいる限り、彩葉は彩葉の人生を歩き出せない。

 

それが、俺には何よりも耐え難い苦痛やった。

 

だから、俺は俺を終わらせることにした。

 

 

 

 

最後に、一つだけ頼みがある。

 

彩葉、幸せに生きてくれ。

 

俺の分まで、誰よりも自由に、笑って生きてくれ』

 

 

 

 

「....っ、あ...あぁ...あぁぁぁ...っ!!」

 

遺書を読み終えた彩葉は、声にならない悲鳴を上げ、その場に突っ伏した。

 

遠田が最後に遺した言葉。

 

それは、一見すれば慈愛に満ちた願いに見える。

 

けれど、それは、遠田に対する贖罪の為に生きてきた彩葉にとって、それはこの世で最も重く、逃げ場のない呪いだった。

 

もし彼が「お前のせいだ」と責めて死んでくれたなら、彼女は後を追うことができただろう。

 

もし彼が「忘れてくれ」と突き放してくれたなら、彼女は絶望の中に沈み続けることができただろう。

 

けれど、彼は「幸せに生きろ」と残した。

 

彼が命を賭してまで願った「彩葉の幸せ」を、彼女自身が壊すことは、もはや遠田への二重の裏切りを意味する。

 

彩葉はもう、心が壊れることも、自死することも、足を止めることすら許されなかった。

 

彩葉は、血の気の引いた指で、動かなくなった匠の冷たい手を握りしめる。

 

自死することも許されず。

 

足を止めて、ただ泣き続けることも許されず。

 

彼女はこれから、愛した人を死に追いやったという地獄のような喪失感を抱えたまま、彼が望んだ「幸せな未来」を演じ続けなければならない。

 

傍らで、実体を持たないヤチヨが、ただ静かに彩葉の肩を抱くように光を明滅させていた。

 

すべてを注ぎ込んだ研究も、残されたのは「幸せに生きなければならない」という過酷な義務だけ。

 

 

 

 

2040年代。世界は一人の女性科学者の名を知らない者はいなかった。

 

バイオ・テクノロジーの寵児となった酒寄彩葉。

 

新世代の義手、義足、そして義眼の開発を行っていった。

 

彼女が作り上げた新世代の義肢は「失った手足よりも自由」と称えられ、その義眼は元の眼球と遜色ない色彩を脳に届ける。

 

彼女の技術は、今や世界中の数え切れないほどの人々を暗闇や不自由から救い出していた。

 

ただ一人、彼女が救いたかった人を除いて。

 

 

 

 

 

「はぁ...はぁ...はぁ...っ!!」

 

今も夢に見る。

 

血の池に沈む遠田の姿。

 

「うっ...げほっ、...っ」

 

こみ上げる嘔吐感を抑えきれず、彼女はバスルームへ駆け込んだ。

 

胃の中の物が逆流し、酸っぱい味が口内に広がる。

 

鏡に映った自分の顔は、世界を救う聖女のそれではなく、ただ過去の亡霊に怯える罪人のものだった。

 

「笑わないと...幸せに...」

 

震える手で蛇口をひねり、冷水を顔に叩きつける。

 

匠が命を賭けて遺した呪い――『幸せに生きてくれ』という言葉。

 

彼女はその言葉に従うために、この数年、狂ったように研究に没頭し、社会的成功を積み上げてきた。

 

周囲からは「強く、美しい女性」として羨望の眼差しを向けられる。

 

けれど。

 

「...どう...やって...笑うんだっけ...」

 

鏡の中の自分に問いかけても、答えは返ってこない。

 

彼女は「幸せ」という名の台本を演じ続ける、精巧な自動人形(オートマタ)に過ぎなかった。

 

『彩葉、顔色が悪いよ。

...少し休んだ方がいい』

 

スマコン越しに、ヤチヨの声が聞こえる。

 

かつての管理者も、今は彩葉のパーソナル・アシスタントとして、24時間彼女を見守り続けている。

 

ヤチヨもまた、匠を失った空虚を埋めるように、彩葉を支えることだけに己の存在意義を見出していた。

 

「大丈夫...大丈夫だよ、かぐや。

...明日も適合試験があるから...」

 

彩葉は無理やり、口角を吊り上げた。

 

筋肉の動かし方は知っている。表情筋の作り方は、解剖学的に理解している。

 

けれど、その内側に宿るべき「喜び」という感情だけが、あの2035年9月12日に、彼の鮮血と共に流れ去ってしまった。

 

彼女はこれからもその技術で人を救い続けるだろう。

 

彼から光を、未来を、幸福を奪ってしまった贖罪として。

 

月の光が差し込む部屋で、彩葉は再び、孤独な「幸せ」の演技へと戻っていく。

 

 

BADEND2 断絶の檻、壊れた幸福




本ルートに分岐する条件として、重要なのは遠田の両目喪失と彩葉が病室から逃亡し、自宅に帰ることです。

遠田のメンタルを壊すためには光を奪う必要があります。

また、遠田母と彩葉が遭遇すると遠田母式メンタル回復術によって曇りません。
そのため、彩葉が逃げ出す必要がありました。

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