悪女は"正解"を咀嚼する   作:ギャン吠えチワワ

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71話 桜ヶ崎カオリ-4

 

「お天気情報です。今日は帰宅時間帯から広い範囲で雨になっています」

 

 音がする。どうでもいい情報が頭に流れ込んでくる。

 荒唐無稽(こうとうむけい)な現実が未だに上手く咀嚼できない。それなのに今まで通りの日常だけが進んでいく。あの日のことは誰も触れない。意図的に触れないようにしてるわけではない。モモにとっても美柑姉にとっても既に終わったことなのだ。2人はなにも気に留めていないのだ。その光景は俺が異常だと突きつけられるようだった。

 

 なにが正解なのか分からない。自分の正義が曖昧になっていく。俺の中にあった正しさが2人に咀嚼され、別のものへと変貌していく。

 

「ねぇお兄ちゃん! 今度バレエ見に行こうよ!」

 

 モモは何事もなかったかのように笑顔で俺を誘う。俺は元の日常に戻ろうと、無理に笑みを作ってモモと話す。痛いほど自分が異質であることを突きつけられた。ここでは俺だけが異質だ。俺だけが馴染めない。

 

「バレエに興味あるのか?」

「うーん。バレエというより"不思議の国のアリス"の演目に興味あるんだよね」

 

 不思議の国のアリス。好奇心旺盛な少女が白兎を追っかけて穴に落ちて冒険する物語。この俺でも知っている有名な物語。そんな不思議の国のアリスの結末は"夢オチ"だった。全てが夢という身も蓋もない結末だった。アリスは空想の世界を冒険していたに過ぎない。

 

「アリスか……」

 

 アリスと自分が重なる。この現実も夢なのだろうかと思ってしまった。モモみたいな賢い子供なんているわけがない。美柑姉のような世界すら支配しうる天才なんて常識的に考えて創作でしかありえないだろう。これは俺が作り出した幻想だ。ただ勉強漬けにされる地獄から逃避するための夢。そんな考えが脳裏をよぎる。

 

「あの世界観がバレエという演目でどう表現されるのか凄く気になるんだよね」

 

 モモの笑みはいつもどおりだ。人を殺してるなんて想像もつかない普通の女児の笑み。それらしい表情で俺にねだる。モモは人を殺したり、身内が核ミサイルを落としたくらいで傷になったりしない。

 

 ああ。もう夢でもなんでもいいか。目覚めても待ってるのはろくでもないことばかり。この世界にいた方が俺も幸せだ。だって抑圧されて勉強に支配されてる現実なら今の夢の方がマシだろ?

 

「いいよ」

 

 この世界もいいことばかりじゃない。モモや美柑の倫理は俺には理解しがたい。人を人とも思わない彼女達の価値観には憤りを覚える。そんな憤りを覚えてしまう自分が許せない。殺人に対する忌避感のある自分に嫌悪する。この価値観があるから生き辛い。この夢を素直に楽しめない。

 

 ――俺も2人みたいに人じゃなければ良かったのに。そうすればこんなどうでもいいことを思い詰めずに済んだ。

 

 人として生まれた自分を恨む。どうして神はただの人間として俺を設計したのだ。どうして俺を2人と同じにしなかったのだ。

 

 モモが両親を殺した。美柑姉が核を落とした。そんな地獄の方が母親に自由を奪われていた時よりも遥かにマシだ。誰も俺に危害を加えない。俺から自由を奪わない。あの生活に戻るくらいならば、この夢の中で俺は過ごしていく。ここは地獄でもなんでもない。天国だ。

 

「そういえばお兄ちゃん」

「ん?」

「最後に絵を描いたのっていつ?」

 

 モモに言われて気づく。

 あれだけ描きたかった絵。それなのに自由になってからは描きたいすら思わなかった。絵を描くという考え自体が浮かばなかった。絵というものが俺の中から完全に抜け落ちていた。

 

 部屋に戻った俺は思い出したかのように筆を手に取った。描きたいものがあるわけでもない。強い衝動があるわけでもない。あれほどやりたいと思ったことなのだからやるべきだと思った。そんな義務感で絵を描く。

 

 描いた絵は幼女の絵だった。人を殺す幼女の絵だった。今までの俺が描かないような絵を描いていた。あの時の景色が今も脳裏に焼きついている。俺はその光景をまた見たいと思っている。なにせあれは俺にとって一番の光だったから。

 あの光を再び感じたい。モモの英雄としての姿を再び見たいという無意識が俺にこの絵をかかせた。

 

「……違う」

 

 その絵は俺になにももたらさなかった。あの時に感じた光がない。俺の絵からは希望が見えてこない。あの希望を伝える絵にならない。これは俺の描きたいものじゃない。

 

 熱が生まれる。強い熱が生まれる。

 

 あの希望を感じたい。モモが親を殺した時の感情を呼び起こすような絵を描きたい。そんな絵を描けるようになりたい。

 俺の魂がモモを求めている。モモのような存在を欲している。モモは俺にとっての妹であり――英雄なのだ。

 

「そういえば2人に姉としてせえへんといけへんことがあるの思い出したんよ」

 

 ある日の朝。美柑姉が俺達に2枚の紙を手渡す。それは進路希望調査と書かれた紙だった。俺はモモと2人で顔を見合わせる。

 

「それってどんな仕事に就きたいかってことか?」

「ちゃうで。どんな生き方をしたいかってことや」

「なるほどね」

「うちな。半年後に少し長めに海外旅行に行くつもりやから、最後に姉としての仕事をしとこうと思ってな」

「海外旅行って……今の治安で行くの? 正気?」

「心配せんでもええよ。うちのこと信用できへん?」

 

 たしかに美柑姉が事件に巻き込まれる場面が想像できない。むしろ事件を起こす側だろう。美柑姉ほどの人ならばどんなに危険な場所でも危うげなく歩ける。不思議とそんな確証があった。

 

「しかし生き方かぁ……ずっとニートしてダラダラ過ごしたいとかでもいいの?」

「それが本当にやりたいことだったら良いで。高尚な大人になれなんて言うつもりもらへんし」

 

 俺は美柑姉に与えられた課題に真剣に悩む。

 前までは絵描きになりたいという夢があった。しかし今ではそんな渇望はない。なにかになりたいという欲が湧いてこない。全てがどうでもいいとすら思えてくる。

 

「カオリはどうや?」

「ん……ああ……そうだな……」

「なんかあったら相談してな」

 

 きっと俺はこの生活が続くだけで満足なのだろう。俺は停滞を望んでいる。前に進みたいという熱がない。俺は俺が主役になりたいとは思わない。

 

「ねぇお兄ちゃん」

 

 モモが甘い声で俺を呼ぶ。最近はモモを見ると少しだけ怖くなる。もちろんモモが怖いということではない。モモがいなくなることが怖いのだ。

 

「そんなに自分に自信が持てない?」

「ああ」

「それなら少しだけゲームしようよ」

「なんのゲームだ?」

「お兄ちゃんの世界を変えるゲーム」

 

 まるでモモはそんな俺を見透かしているようだった。モモは俺以上に俺のことを理解している。俺の抱えてるものを分かってる。どうすれば俺が退屈から解放されるか知ってるのだ。

 

「モモ。ゲームってなにさせるつもりや?」

「そんなに難しいことはさせないし、危ないこともさせるつもりはないよ」

 

 俺にはモモはなにをさせようとしてるのか見当もつかなかった。俺はモモや美柑姉のようなことは出来ない。数億円を簡単に稼ぐことも出来なければ、人を殺すことも出来ない。全てにおいて凡人の俺。そんな俺にモモはなにを求めるのだ。

 

「今のお兄ちゃんに足りないのってさ。成功体験だよね。最初から最後まで自分でやるってことをしたことがない。だから自分を肯定できない」

 

 モモが痛いくらいの正論を突き刺してくる。モモは俺のことをよく見ている。俺に必要なものを俺以上に見抜いてくる。

 

「だからお兄ちゃんには――絵だけでフォロワー0のアカウントをフォロワー10万にしてもらう」

 

 モモが微笑むと同時に視界が霞んだ。それと同時に右腕に激しい痛みが走り抜けた。その痛みで思い出す。これが走馬灯であると。これは俺の過去の記憶だ。今の俺は死にかけている。そのことを思い出した。

 

「10万人に認めてもらうって相当凄いことだからね。そんなにフォロワー獲得できるなら絵師としても生きていけるよ」

 

 段々と痛みが強くなる。モモの顔すらもぼやけてくる。音も満足に聞こえなくなる。走馬灯が終わって現実に意識が引き戻されていく。そういえばモモが言っていたフォロワーは10万人突破出来たのだろうか。そこらの記憶は曖昧だ。

 

「失敗してもいいんだよ。また挑戦すればいいんだからさ」

 

 最後にモモの言葉が魂に響く。その言葉が頭にこびりついて離れない。

 じわじわと俺の意識が戻り、景色が切り替っていく。

 先ほどよりも鮮明に右腕に激しい熱と痛みを覚える。瓦礫の山と血の匂い――悪意を具現化したような敵がいる。目の前に絶望が迫っている。恐らくアリスは俺を殺さない。俺を拷問し、玩具のように扱うだろう。死が救済とも思えるくらいの地獄が待っている。

 

「カオリ君。貴方に選択肢なんてないんだよ?」

 

 存在を証明できなければ生きている資格はない。そんな言葉が脳裏を過ぎる。俺は存在を証明できなかった。だからこうなった。

 

 そこにいるだけで認めてもらえるなんてことはありえない。その当たり前をモモが時間をかけてほぐしていった。だからこそ忘れていた。俺の本質的な在り方を。

 

「ちゃんと聞いてる?」

 

 アリスの声がする。今まで感じたことのない寒さが走る。体感したことないような寒さ。内側から熱が消えていく。死が刻々と近づいている。

 

「ま……だ……」

「どうしたのかな?」

 

 ここで終わればどうなるのだろうか。夢から覚めて現実に戻るのだろうか。モモもルイス姉もいない……そしてメイもいない現実。母というモンスターが俺を支配する地獄に引き戻される。

 

 ……馬鹿馬鹿しい。なにが夢だ。いつまでも幻想に甘えるな。

 

「だ……」

 

 アリスは強い。しかし怖くはないはずだ。モモやルイス姉……いや、美柑姉に比べたら小物も良いところだ。あのような底知れなさがない。ただ強いだけの存在。そこには哲学もなければ思想もない。モモの出来損ないだ。怖がるような相手じゃない。それを俺の走馬灯が教えてくれたはずだ。俺はもっと怖いものを見てきたはずだ。

 

「おやまぁ♡」

 

 不思議の国のアリスを思い出す。

 いま起きてることは夢じゃなくて現実だ。この熱も痛みも全てが現実のものだ。俺の空想の産物だ。それ故に目の前のアリスを倒して証明する。アリスを名乗る悪魔を討ち、その物語を否定する。

 

 穴に落ちていくだけの自分に終止符を打つ。自分を取り巻く状況が変わり、それに流されるだけ人生だった。思い返せば周りに巻き込まれるだけの人生だった。まるで穴に落ち続けているような人生だった。

 

 その穴は俺自身が飛び込んだわけではない。偶発的に落ちてしまった穴だから、俺には関係ない。心の何処かでそんなことを思っていた。まるで不思議の国のアリスに出てくるアリスのように。

 

 だけど俺はアリスとは違う。アリスのような物語の主人公にはなれない。今の俺はアリスと違って、自分を自分だと叫べない。

 母親は俺に在り方を強制し、モモは在り方を混乱させ、メイは問い詰めた。お前の在り方はなんだと。その答えを俺は持っていない。アリスと違って、俺は俺だと確信を持てない。アリスのように答えることが出来ない。

 

 だから俺はここでアリスを倒して――主人公になる。俺は俺だと叫ぶ主人公にならなければならない

 

「俺は……桜ヶ崎カオリだ……」

 

 ふらふらとした足取りで立つ。血を失いすぎた。俺をずっと支え続けてくれたロストベリーも手元にはない。

 

 俺は今まで勘違いしていた。俺は強くあらねばと思っていた。弱いから負けると思っていた。しかし違う。ここで問われてるのは俺の強さじゃない。俺の存在だ。俺は弱いから負けてるわけではない。俺自身を肯定できなかったから負けたのだ。

 ここで戦えるか否かというのは関係ない。俺が俺であると叫ぶことが出来れば――きっとアリスに届くはずだ。

 

「お前を倒し――俺は英雄になる!」

 

 俺は立ち上がり、咆哮した。自分がここにいると叫ぶように叫んだ。

 そうして俺は再びアリスと戦う覚悟を決めた。

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