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体調をどうにか回復させた先生が帰ってから2週間。私の心はどこか上の空だった。
機械の駆動音だけが響く部室。手に握ったレンチは、何十分も同じボルトを
"次に辛くなったら一番にウタハを頼るね"
先生は確かにそう言った。私と約束してくれた。それなのに、あれから一度も先生は姿を見せない。
「ウタハ先輩、さっきからソワソワしてどうしたの?」
「……別に何もないよ」
ヒビキにはバレているようだ。
視線を横にやると、部屋の隅には先生が休んだあの寝袋が、あの日から片付けられないまま置いてある。いつでも先生を迎え入れられるように。
私は待っているのだ。
先生が再び体調を崩し、弱り果ててここに逃げ込んでくることを。誰も寄り付かないこの場所で、先生を独り占めできる瞬間を。
……ああ、私は本当におかしくなってしまったようだ。
「……先生」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた、その時だった。
ガチャリ、と。
ずっと見つめていたドアがゆっくりと開いた。
ドアから顔を出したのは、私が待ち望んでいた先生だった。だが、その顔は青白く、今にも倒れそうだった。
「先生……!」
ヒビキが椅子から立ち上がる。だが、それより先に私が先生の元へ駆け寄った。崩れ落ちそうになる先生を私は支える。
"ごめんウタハ……またお世話になってもいいかな……"
ああ、私のためにここまで来てくれたのか。その事実だけで私は飛び上がりそうになるくらい、嬉しかった。弱々しい先生が私に助けを求めに来てくれる。私だけが先生を助けてあげられる。
「ヒビキ」
私は先生の体を抱え込みながら、目線すら向けずに言う。
「悪いけど、スポーツドリンクと解熱剤を買ってきてもらえないかい? 少し多めに頼むよ。お金は後で渡すから」
「……わかった。行ってくる」
ヒビキの足音が遠ざかり、ドアがパタンと閉まる。これで先生と私の2人きりになった。私は先生をお姫様抱っこで抱え、寝袋に運ぶ。
熱に浮かされ、苦しそうに呼吸する先生を横目で見ながら、私は手袋を外した。
これから先生に触れる手を石鹸で念入りに洗う。染み付いた油汚れまでは取り除けないが、多少マシになった。
そっと先生の元へ近づくと、先生は無防備な顔で私に微笑んだ。
"……ありがとうウタハ。迷惑かけてごめんね"
「迷惑じゃないよ。それに、私にならいくらでも迷惑をかけていい。……っと、熱を測るよ」
先生の額にそっと手を当てる。熱い。体温計を先生の胸元へ近づけて渡す。しばらくして、ピピピと無機質な電子音が鳴る。受け取った体温計の液晶は、38度半ばを示していた。
「……随分と高いね。少し冷やそうか」
冷却シートのフィルムを剥がし、先生の額にそっと貼り付ける。
熱い吐息を漏らす先生の顔を、私は至近距離で見下ろす。無防備で弱りきった先生の姿を、私だけが見ている。
ここは私の
いっそ、このままドアに内鍵をかけてしまおうか。ヒビキが帰ってきても、居留守を使って、ずっとここに閉じ込めてしまいたい。
そんな恐ろしく身勝手な考えが次々と脳裏に浮かぶ。
"……ウタハ"
先生が私に手を差し出す。体だけでなく心も弱っているのだろうか。私はその手をぎゅっと握った。
「何も心配しなくていい。私がずっとそばにいるから」
そっと先生が目を閉じる。
それからずっと、私は先生の手を離すことができなかった。
普通の女の子のように可愛くない私には、こうして先生が弱り切った時にしか、その心に触れる権利がないのだから。
+
数日後。ヒビキが備品の買い出しで席を外していた日の午後。
いつものように基盤と向き合っていた私の耳に、控えめなノックの音が届いた。
"入っていいかな、ウタハ"
ドアを開けて顔を出したのは、すっかり顔色の良くなった先生だった。あの日、私のそばで弱々しく息をしていた面影はどこにもない。
「先生。もう体調はいいのかい?」
"うん、すっかりね。今日はそのお礼に来たんだ"
先生はそう言って、私に小さな紙袋を手渡す。中には、私がよく徹夜明けに飲んでいる銘柄のコーヒーが入っていた。私の好みをわざわざ覚えていてくれたのだろうか。
「……ありがとう。わざわざすまないね」
"ううん。あの時は本当に助かったよ。ウタハがいなかったら、どうなっていたか"
先生は部屋を見渡し、あの日横になっていた寝袋のあたりに視線を落とす。そして、ふっと小さく笑った。
"ユウカやノアにも、結局バレずに済んだよ。ウタハが秘密を守ってくれたおかげだ"
「そうかい。それは……よかった」
"うん。情けない話だけど、あんな姿、他の生徒には見せられないからね"
ドクン、と。
心臓が大きく跳ねた。
『他の生徒には見せられない』
その言葉が、私の頭の中で急速に熱を帯びていく。
ユウカでも、ノアでもない。私だけが先生の弱さを知っている。優越感が私の理性を溶かしていく。ずっと抑え込んでいた感情が、今なら許される気がした。
「先生……」
気づけば、私は口を開いていた。
「私は、先生のことが───」
口に出しかけて、喉がヒュッと鳴った。私は慌てて目線を下げる。とても先生の目を見ながら話せない。それでも、私は懸命に自分の恋心を隠しながら、先生の気持ちを確認する。
「……いや、その。私は先生の秘密を知ってるし、私になら気兼ねなく話せるだろう? だから……これからもずっと、私だけが先生の面倒を見る。そういう、先生にとっての特別な存在に……して、くれないか。……私、先生のことが、好きだから」
自分でも情けないと思うほど不格好な告白だった。最後に消え入るような声で自分の気持ちを付け足す。
私の視線はずっと先生のお腹の辺りに固定されて動かせない。自分の手をもう片方の手でぎゅっと握り、体を縮こまらせる。
ああ……、言ってしまった。もう取り返しがつかない。
"ウタハ"
先生の顔をちらっと見る。驚きと困惑。
その顔を見た瞬間、絶対に断られると思った。これは喜んでる顔じゃない。私は間違えた。告白すべきじゃなかった。秘密を共有されたくらいで、自分が選ばれると勘違いした。
「待って、何も言わないでくれ。わかったから。聞かなくてもわかる。お願いだ。何も言わないでくれ」
先生が口を開く前に。しどろもどろに、先生の言葉を聞かないように、矢継ぎ早に話す。手を必死に振って、自分の出した言葉をかき消すように。
「違う。忘れてくれ。私たちはそういう関係じゃないだろう? わかってるよ。わかってる。ちょっとおかしくなってたみたいだ」
自分でもおかしくなってるのがわかる。言葉を途切れさせると、現実が襲ってくる気がした。私は振られたのかい? いや、振られてない。これはセーフだろう。そうだ。まだ大丈夫。私は冗談を言っただけだ。
"ウタハ"
先生の静かな声を聞いた瞬間、私は何も言えなくなってしまった。固まって動けない。先生の言葉一つで私の心は簡単に壊れる。
"ごまかさないで聞いてほしい。ウタハが勇気を出して伝えてくれた気持ちは、本当に嬉しいよ"
やめてくれ。そんな優しい声を出さないでくれ。
"でも、私は先生で、ウタハは私の大切な生徒だ。だから、その想いには応えられない。ごめんね"
言わなければよかった。何を思い上がっていたのだろう。浅ましい。滑稽だ。惨めだ。
目の周りが熱い。ダメだ。これ以上醜態を晒したくない。唇を噛んで、嗚咽が漏れるのを必死に抑える。
「……わかった」
私が必死に出せた言葉はそれだけだった。
"……ウタハ"
「……帰ってくれ。もういいだろう」
先生は少しの間、私を見つめる。やがて小さく「……また来るね」とだけ言い残して、部室を去った。
バタン、と鉄のドアが閉まる音が無機質に響く。私は力が抜けたようにその場にへたり込む。
胸の奥の痛みがずっと鋭くて、息ができない。
ぽた、ぽたと。床に暗い染みが広がっていく。一度溢れた涙は、袖でいくら乱暴に拭っても止まらなかった。
+
どれくらいそうしていただろう。しばらくして涙も枯れた頃。
ガチャリ、と再び扉が開く音がした。
「ウタハ先輩。買ってきたよ。……あれ、先生は?」
ヒビキの声に、私は咄嗟に背を向け、足早に作業机に向かう。
「……帰ったよ。急ぎの用事があったみたいだ」
「…………」
涙声をごまかすように、低く絞り出す。ヒビキは少しの間、無言で立っていた。
「ふーん、そうなんだ。……ん?」
ヒビキの足音が止まった。彼女が屈み込んだのは、先生が先ほどまで立っていた足元だった。
「ウタハ先輩。これ、先生が落としていったのかな」
ヒビキが拾い上げたのは、見覚えのある銀色のアルミシートの切れ端だった。あの日、先生が「大した病気じゃない」と言って飲んでた、白い錠剤の空き殻。複数あった錠剤は、すべて押し出されて空になっている。
「……ただの薬の殻だろう。捨てておいてくれ」
「……これ、ちょっと調べてみてもいい?」
私は背を向けたまま首肯する。ヒビキが自分の端末を叩く乾いた音が聞こえた。
「……ウタハ先輩、これ痛み止めの薬だよ」
だから、どうしたというのか。私は机につっ伏したまま、耳だけ傾けていた。
「これ、かなり強い鎮痛剤みたい。そこら辺で売ってる薬じゃないよ。よっぽどの激痛を伴う人にしか出されない、って書いてる」
激痛……? さっきまで普通に話してた先生が? 確かに体調が悪くなる頻度は多いと思っていたけど。
「先生から、何か聞いてない?」
「…………」
私はあんなに先生と一緒にいたのに。
先生の病気のことを何一つ知らなかった。