━━入学二日目
研究員寮のエントランスを出た瞬間、まだ冷たい春の空気が頬を撫でた。
あやめは立ち止まり、胸いっぱいに朝の空気を吸い込む。
夜の名残をわずかに含んだ透明な空気。空は高く、雲は薄い。穏やかな一日の始まりを予感させる景色とは裏腹に、あやめの胸の奥はわずかに落ち着かなかった。
「...今日から本格的に始まるんですね。」
小さく呟いたところで、柔らかな声が背後からかかる。
「おはよう、あやめちゃん。」
振り返ると、そこには吉祥寺が立っていた。寮のエントランス前、いつも通り自然に合流する。
「おはようございます、真紅郎くん。」
「緊張してる?」
「...少しだけ。」
視線を泳がせながらも、あやめは正直に答える。
嘘ではない。だが、その“少し”の中身は人よりずっと複雑だ。昨日と違って注目は避けられないだろう。
「今日は上級生の実技見学と工房案内だったよね。」
「はい。第三高校の実技のレベルは高いとお聞きしました。」
あやめの声音は期待と不安が半々だ。実技に重きを置く第三高校には腕っぷしの強い魔法師が多いと聞く、トラブルに巻き込まることは早々ないかと思うが、それでも不安だった。
「真紅郎くんは、楽しみですか?」
「もちろん。理論と実践の接続点を見るのは面白いからね。」
研究者の顔つきで微笑む吉祥寺を、あやめは少しだけ眩しそうに見つめた。
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校門へ向かう二人の距離は自然と近い。
周囲の視線を感じないわけではないが、昨日ほど不躾ではない。それでも、ひそひそと囁く声は耳に入ってきた。
「飛び級の子だ。」
「カーディナル・ジョージと一緒みたいだね。仲良いのかな?」
あやめがぎゅっと指先を握る。すると、さりげなく吉祥寺が体を半歩だけ前に出した。あやめの斜め前、自然な位置取りだった。
「......。」
「どうかした?」
「いえ、なんでもありません。」
おどおどとした微笑み。その微笑み奥で、あやめの計算は正確に働いている。
――盾役、今日も機能良好。
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今日と明日、新入生には授業見学の時間が設けられており、ホームルームが終わると各々が授業見学に向かった。
二人が向かった先、広い演習場では、二年生が物体制御訓練を行っていた。
起動式が高速展開されると、風圧が頬を撫で、地面が微かに振動する。
「...凄い。」
あやめは小さく息を漏らした。
十師族として様々な魔法の講師に指導を受けたあやめだが、他の魔法師の修練を実際に見る機会はそうそうなかった。
純粋に、胸が高鳴る。だが、それと同時に冷静な分析も始まっていた。
真剣な様子で授業を見学しているあやめの頭の中ではあれやこれやと魔法に関する議論が飛び交っている。
吉祥寺は、純粋に楽しんでいるあやめの様子を横目にほっとしていた。
続いて二人は工房見学に向かった。
第三高校のCAD調整室は、想像以上に整備されており、汎用機から個別カスタム機まで揃っていた。
「一年生でも申請すれば個別調整は可能らしいよ。」
「...そうなのですか?」
あやめの瞳がわずかに輝く。CADの調整は得意分野というわけでもないが、そこそこに好きな部類であった。
「でもまずは基礎課程を受けてからだね。」
「そうですね。」
少し残念そうにしつつも、素直に頷く。
そんなあやめたちの様子を、遠巻きに見ている男子生徒が複数名いたがあやめは気づいていない“ふり”をした。
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昼休みになると、示し合わせたかのようにあやめの元にA組の生徒が押し寄せた。
「三矢さん、よかったら――」
「飛び級って本当?」
押し寄せる質問にあやめは困ったように眉を下げる。
「す、すみません......あの......。」
完全に囲まれる寸前で、低く落ち着いた声が響いた。
「ジョージ。」
あやめが振り向くと、そこには一条将輝が立っていた。凛とした佇まいに自然と周囲の視線が吸い寄せられる。
「昼食、一緒にどうだ?」
「ああ、いいね。」
どうやら、あやめの隣で揉みくちゃにされかけている吉祥寺を昼食に誘いに来たようだ。将輝の誘いに、吉祥寺が頷くと将輝の視線があやめへと向けられる。
「三矢さんも一緒にどうだ?」
唐突な誘いではあるが、不自然ではない。あやめと将輝は十師族同士でもあるし、吉祥寺の隣にいるあやめを誘わない方が不自然だろう。
あやめは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「ではお言葉に甘えてご一緒させていただいても、よろしいですか?」
「もちろん。」
三人が食堂に向かい周囲に取り残された生徒たちの間には、何とも言えぬ微妙な空気が流れていた。
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三人並んで食堂へ向かう廊下。その背中に視線が集まる。
「一条様と仲がよろしいのかしら?」
「カーディナル・ジョージもいるし......。」
嫌でも耳に入ってくるひそひそ声にあやめは小さく息を整えた。
(注目は、想定内。)
各々トレーに昼食を取り、席を探す。四人掛けのテーブルを見つけ、三人が腰を下ろそうとした瞬間━━
「あ、あの...!」
同じくトレーを手にした女子生徒が駆け寄ってきた。
「よろしければ、相席しても...?」
女子生徒のお目当ては将輝なようで、吉祥寺もあやめも居るというのに伺いを立てる目は将輝にしか向いていない。だが、そんな無礼を一々咎めるほど二人の心は狭くなかった。
続いて男子生徒も声を上げる。
「俺たちもいいかな? 三矢さんに色々聞きたいことがあってさ。」
瞬く間にテーブル周辺に人が集まる。一条のプリンス、カーディナル・ジョージ、三矢家の飛び級少女。A組の有名人が揃っているのだ。無理もない。
「えっと...。」
あやめが戸惑ったように視線を泳がせつつどう答えたものかと内心で首を捻っていると聞き覚えのある澄んだ声が背後から響いた。
「まあ、随分と賑やかね。」
振り向けば、金の髪を揺らしながら立つ一色愛梨。その隣には十七夜栞と四十九院沓子がいた。
「一条くん、吉祥寺くんに三矢さん。奇遇ね。」
にこやかだが、有無を言わせぬ気配。食堂の空気がさらに一段引き締まる。
A組の主要人物が勢揃いし、周囲の生徒たちは一瞬、言葉を失った。先ほどまで相席を申し出ていた男子生徒が苦笑いを浮かべる。
「......あー、なんか場違いかな。」
「そ、そうだよね......。」
女子生徒も小さく身を引く。
「ご、ごめんなさい、お邪魔しました。」
自然と、人垣が解けていき、A組の“名の知れた者”が一卓に集結する形となった。
「せっかくですもの。ご一緒してもいいかしら?」
「はい、ぜひ。」
愛梨の誘いにあやめはアイコンタクトで吉祥寺と将輝の了承を取って頷く。周囲からの視線は依然として集まっているが、先ほどまでの無遠慮な接近は消えていた。
気後れ。
遠慮。
格の差。
二日目にして、A組の力関係は目に見える形で示された。
食堂の一角。
静かながら圧倒的な存在感を放つテーブル。
そしてその中心で、あやめは柔らかく微笑んでいた。