貴族というのは扱いやすいと、ヒルマ・シュグネウスは考える。
確かに、その権力や一部の知恵のある貴族は厄介である。部門外とはいえ、奴隷売買に規制をかけたラナー姫を始め、レエブン侯など最たる例だ。
そう言った相手を取り込めれば、と考えたことはあるが、しかしリスクを視野に入れた瞬間に潰える。
対して、この夜会に出席している貴族はどうだ。
金銭や異性、自尊心などの欲を少し満たしてやれば面白いことに自ら首輪をつけてくれる。それでいて自分はこちらを利用していると思い込んでいるのだから、尚更笑いが止まらない。
「ヒルマ、そっちどうだ?」
「順調だよ。コイツら、黒粉の末期患者よりも能無しだよ」
「そう言うな。金を差し出す犬としてみれば上等だろう。これであの時の損害の補填になる」
夜会会場の地下、八本指が牛耳る空間の更に下に作られた部屋で金融部門の長が安堵の息を零す。
その言葉でヒルマの脳裏に呼び起こされるのは、かつて警備部門の長であったゼロの姿。配下の六腕を引き連れ、そして他部門の協力を得ておきながら何の成果を上げずに死んだマヌケ。
チッ、と苛立ちを隠さずに舌打ちすると、手元のキセルを燻らせる。出来得ることなら、ゼロを復活させた後、罵詈雑言を浴びせて再び殺してやりたい気分だ。
あいつのおかげでどれだけの損失が出たことか、と苛立ちを紛らわせようと手元の帳簿を見る。
若干のリスクはあったが、歴としたリターンが記されたそれに、胸の中に渦巻いていたものが軽く解される。
「しっかし、本当に上手くいったもんだね」
ヒルマは紫煙を吐きながら、机に積まれた帳簿へ目を落とす。
金融部門が貸した金は、そのまま賭博部門へ流れる。賭けに負けて機嫌を損ねた客には別の娯楽を、勝って気を大きくした客には女を。そして散財してしまえば、また金融部門が金を貸す。
何せ、最初に渡した金は、最終的に一枚残らず自分たちの懐へ帰ってくるのだから痛むものもない。本当に、自らを優秀だと思い込んでいる阿呆は御し易いものだ。
「初めてかもしれないね、あのバカ王子に感謝したいと思ったのは」
「いつもなら細々と稼ぐ程度だったかもしれないが、何せフールーダを引っ張ってきたからな。そりゃ信憑性も上がるもんだ」
元々、組織とズブズブの関係だったバルブロがこの夜会を提案したのだ。会場は同じく八本指の息のかかったボロロープ侯から、半ば強引に取り上げるように借り受けたもの。
そして費用もバルブロ持ちというのだから、この夜会にかける思いはかなりのもの。本気で王位を勝ち取れると思っているのだから、八本指としては笑いが止まらない。
最も、バルブロを王に仕立てることに異論はない。国が腐ろうが、稼げなくなれば別の土地へ移ればいい。
ましてフールーダが帝国を見限ったのなら、ジルクニフという最大の障害さえ大きく揺らぐ。
「それにしても、よくフールーダなんて大物が釣れたね。どこの部門だい?」
「なに?お前じゃないのか?」
「は?何の話だい?」
今は一時的に協力し合っているとはいえ、元々寝首を掻く事に躊躇などない間柄。情報を隠す事など日常茶飯事である。だが、フールーダというツテを持つなら公言した方が隠すよりも、メリットの方が高い。
目の前の金融部門の男が嘘をついているようには見えず、ならば他の部門、もしくはまとめ役かと考えるがどうにも納得がいかない。
フールーダほどの大物が、偶然この場を嗅ぎつけて訪れるはずがない。
招待状もなしに通せる相手でもなければ、こちらの事情を知らずに顔を出すような人物でもない。
ーーー何かが拙い。
それはヒルマだけでなく、目の前の男も同じ考えだったのだろう。二人の視線が交わると、言葉なく動き出す。
他の部門に知らせるような真似はせず、逃走は自分たちのみ。事前に用意していた脱出経路を使用すれば逃げ切れると、手早く必要なものだけをまとめ出す。
危機察知能力の高さは、流石は裏社会に身を置く者というべきだろう。
しかし、裁断の剣はすぐそこに。
◇◆◇◆
フールーダ・パラダインは、腹の底から湧き立つような怒りを抑えるのに必死だった。
「フールーダ様、我が家の歴史は古く、大凡二百年ほど前から存続しておりましてーーー」
「やはりフールーダ様も皇帝を見限っておいででしたのですね。いやはや、あの若造は身の丈というものを知る必要がーーー」
「フールーダ様、是非とも我が家と契約を結びませぬか?勿論、厚遇で迎えさせていただきますとも!」
「これはこれは………この老骨には身に余る光栄ですな」
(何を言っとるのだ、この阿呆共は)
内心で罵詈雑言を飛ばしながら、フールーダは笑みを絶やさない。社交界には疎いが、伊達に二百年の時を歩んでいないのだ。
目の前でただひたすら、自身の血筋や家柄しか自慢できない阿呆を騙すことくらいはできる。
そもそも、確かにフールーダは神に帝国やジルクニフ含めた全てを差し出すと言った。しかし、別にジルクニフに対して情を失くしたわけではないのだ。
フールーダの中では、ジルクニフは歴代でも有数の皇帝であるし、可愛い孫のような存在。決して目の前の無能どもに貶されて良いわけではないのだ。
(神からの命でなければ、このような場など参加しなかったと言うのに………)
影の御使から告げられた神の命令は、この夜会に参加し、その結果を報告すること。もし、亡剣と思わしき男がいたのなら、接触を図ること。
それがなければフールーダは今頃、神からその知識の一端を授かる方法を模索している。生産的ではないが、少なくともこの夜会に参加するよりは遥かにマシだ。
(いや、これでは我が深淵の主に不満があるように………ん?まさか、これは試練なのでは?)
神は我が身の忍耐を試しているのではないかと、そんな閃きが頭を過った瞬間である。件の男がいないかと彷徨わせていた視線が違和感を拾ったのは。
(………ん?)
ちらり、と視界に入ったのはVIPルームと称された扉を守る警備の姿。バルブロを始め、無能ではあっても権力や人脈だけは持つ有力貴族たちが案内された扉は鋼鉄製で、それを守る警備もまた屈強であり、暴力に身を置いた雰囲気を出していた。
扉の両脇を守る二人が微動だにせず、ただ虚空を眺めるだけ。ただそれだけだと言うのに、それが嫌になるくらい視線が固定される。
「失礼。少し外させていただきますぞ」
周りを囲う貴族たちの間をすり抜け、警備たちの元へ。フールーダが前に立つというのに視線を向ける事なく、そしてその手の中にあるハルバートを向ける様子も見られない。
「もし、お主たち」
声をかけるが、やはり反応はなし。ならばと、恐る恐るその肩に触れた瞬間であった。
ごとり、と。
まるでようやく思い出したかのように、首が落ちる。反射的に展開した防御魔法に噴水のように噴き出す血潮が付着。
会場に流れていた音楽さえ止まった一瞬の静寂のあと、恐怖と恐慌が場を支配した。
フールーダが乱心したと、我先にと貴族や給仕、楽団が逃げ惑う中、フールーダはそっと扉に触れる。
鍵と閂で固く閉ざされているはずの扉は、少し力を入れただけですんなりと開く。顔だけを出して中を覗けば、内側を守っていた警備たちの姿が目に入る。
侵入者を排除しようとしたのだろう、こちらに槍を向けたまま動きを止めた二人。そこから動き出そうとしないそれに視線を一瞬だけ向けると、フールーダは地下へと続く階段に目を向ける。
「これは………まさか」
あの男が来たのかと、そう判断するフールーダ。しかし、いつ来たのかわからない不安に、その足が止まる。
第六位階という、人類の中では魔法詠唱者の最高峰に座するフールーダ。その自身が、戦士ではないとはいえ実力のある自身が認識する間もなく侵入していた。
下手をすれば、次の瞬間には首が飛んでいるかもしれないと言う恐怖で足が竦む。しかし、頭を左右に振って恐怖を追い出した。
(いや、これこそが神の与えた試練!神の命に背いて、深淵を覗けるわけがない!)
震える脚を誤魔化すように、フールーダは慎重に一歩を踏み出した。
◇◆◇◆
ーーー時はフールーダが地下へと踏み込む少し前に遡る。
広間の中央、一番大きな円形の檻の中で取っ組み合う二人の男。互いの手の中にあるのは錆や欠けの酷い、辛うじて剣の体裁を保っているものだけ。
腰に襤褸を巻いただけの二人の目は恐怖に支配されており、忙しなく周囲に視線が注がれる。しかし、逃げ道はどこにもなく、また檻の外から聞こえる「殺せ!」という言葉と圧。
やがて焦れた観衆の一人が酒瓶を投げつけ、地面にぶつかる。パリンと、周囲からの怒号に比べれば非常に小さな音。
けれど、男たちの恐怖の堰を切るには十分だったそれを合図に、互いに奇声をあげて剣を振るう。
細い腕では碌に振れず、剣に振るわれるような無様な剣戟。それでも確実に互いの身体を傷つけ、そして鈍らな剣では致命打を中々与えられない。
やがて、片方の剣が打ち合いの末に砕け丸腰に。周囲からおお!と感嘆の声が上がり、相手も決着をつけようと大きく剣を振り上げる。
けれど、死にたくないと、がむしゃらに突き出したナイフにも満たない手の中の破片を突き出す。
ずぶり、と気味の悪い感触と共に喉を突き、相手の動きが止まる。互いに後悔と驚愕、恐れと安堵を綯い交ぜにした表情。けれど、喉を突き刺された相手の目から光が消え、ゆっくりと倒れると周囲から割れんばかりの歓声と怒号が響いた。
「くそっ、何をやっている!私が賭けているのに負けるとは何事だ!」
その中に混じり、声を上げるフルト。手の中で握りしめていた札を投げ捨て、何度も踏みつける。
しばらく踏みにじった後、懐へと手を伸ばし革袋を取り出すと、その中身を確認。最初は確かな輝きがあったそれも、すでに底が見えており、金の輝きは数える程度。
初めはほんの一枚から始めたはずだった。小さな勝ちと負けを繰り返し、そして気づけばこの有様。
けれど、フルトに焦りはない。既に二回追加融資を受けており、金融屋は嫌な顔ひとつせずに金を出すのだから。
(しかし、思っていたよりも楽しめるものだな)
ちらり、と視線を賭場へと向ければ再び試合が始まったのだろう、熱気が包んでいる。初めは躊躇っていたそれも、今は慣れたもの。むしろ共感さえしてしまう。
視線をそこから移せば、ジルクニフに似た容姿の男を殴る遊戯。さらにその奥はいくつもの扉が並んでおり、中には女がいるらしい。
流石にそこに脚を運ぶことはしなかったが、驚いたのはバルブロがそこを出入りしていたことだ。
なるほど、これが上流階級の遊びかと納得するフルト。もっとも、ここに入り浸る貴族よりも自分はまともだとそう認識しているが。
(奴隷は便利だが、麻薬に漬け込んでは使い道が限られるだろうに………やはり、王国貴族というのはどうにも頭が悪い)
だからこそ利用できるのだが、と内心で零し、フルトは金融屋から金を貰おうと脚を進める。そして、数歩進んだ所で脚が止まった。
(ん?やけに静かだな)
先ほどまで賭場から聞こえていたはずの喧騒。それがぴたりと止んでしまったのだ。
次の賭けは黒粉中毒の奴隷同士を戦わせるはずだから、より残酷な殺し合いになるだろうと予想していたが………と考えたところで賭場へと視線を向ける。
一点を見つめ、固まったように動かない観衆。あまりにも静かなそれに恐怖を覚えたフルト。
理性が近づくな、と叫ぶ。
本能が逃げろ、と警告を出す。
しかし、身体は反するように一歩、また一歩と観衆に近づいた。
「あの、どうかされましたか?」
一番手前にいた、馴染みの子爵の肩へと手をかける。その瞬間、思い出したかのように首がぐらりと大きく揺れると、そのまま床へと転がり落ちる。
それを皮切りに、周囲の首もころり、ころりと落ち始め、一拍遅れて血潮が噴水のように噴き出した。
「ーーーっ!」
ざっと十数人は下らない人間の首が落ちる様に、フルトは言葉を失くす。恐怖で固まる視線は、倒れた観衆の先を見つめた。
堅固な筈の檻が人一人分ほどの大きさに斬られており、そこには見窄らしい格好の男がいた。
男の視線の先には、次の対戦相手だったはずの奴隷二人の亡骸。周囲と同じく首を落とされた二人に暫し視線を向け、そしてフルトの視線に気づいたのだろう。その灰色の瞳がフルトを貫く。
「っ!」
その瞳を見た瞬間、フルトの呼吸が一瞬止まる。
爵位を奪われた時よりも、尚深い恐怖。生命に関わる重大な状態。
ゆらり、とまるで幽鬼のような動きで檻の外へと出た男に、フルトは悲鳴のような声をあげた。
「ま、待て!私の家は古くから続いた名家であり、ここにいる奴らとは違う!私は、ただーーー」
「…………」
男は言葉を発することなくフルトを一瞥すると、その姿を消す。見逃された、と息を吐こうとするフルトの背後で、静かに納刀の音が聞こえる。
それが、フルトがこの世で最後に聞いた音であった。
◇◆◇◆
地下へと続く階段を降りながら、フールーダは自らの鼓動がやけに大きく聞こえることに気づいていた。
老人とはいえ、英雄の領域に踏み入れた魔法詠唱者である。長い時の中で死地に赴いた経験も、一度や二度ではない。
だと言うのに、フールーダの胸中に渦巻く恐怖。
全身の産毛が逆立ち、一段降りるたびに首筋をなぞられるかのような寒気に襲われる。
(間違いない………この先に奴はおる)
それでも前に進むのは、神への忠誠。魔法の深淵への探究心。進むたびに濃厚になる血の匂いに脚が止まりそうになるが、それに喝を入れて尚進む。
「………これは」
そうして階段を降りた先、地下に作られた広間を見下ろした瞬間にフールーダは言葉を失くした。
道中、首無しの死体はいくつも見かけた。そのどれもが争った形跡はなく、そして不意を突かれ一刀の内に決していた。
しかし、広間にある死体の数はその比ではない。どれもこれも、気付かぬうちに首を落とされ、血で染め上げられているのだ。
仮面で顔を隠しているが、そのどれもが上で見かけた貴族たち。非合法な遊戯に興じていたのだろう、醜悪な笑みのまま息絶えたそれらに思うところはない。
だが、この異常事態にフールーダは対処できなかった。
「待て!貴様、俺を誰だと心得る!」
その時聞こえた、広間に響き渡る声にフールーダの意識は覚醒する。上階から下を見下ろせば、半裸のバルブロが何か叫んでいるのが見えた。
相手の姿は柱が死角になっており、見ることができない。しかし、遠目でもわかるバルブロの慌てようを見れば、自ずとその正体は察せる。
「私は王国の第一王子、バルブロ・アンドレアン・イエルド・ライル・ヴァイセルフ!次期国王だぞ!私に刃を向けると言うことは、国に刃を向けることと同義だと知ってのことか!」
勇ましく叫んでいるが、怯えるように後退するバルブロ。その腕には先ほどまで遊んでいたのだろう、ボロボロになった女が人質でも取るように抱えられていた。
泣くことさえ辞めた女性は、ただバルブロにされるがまま、抵抗する素振りすらない。王族だてら剣を振るっていたバルブロならば、容易に首をへし折ることも出来るだろう。
「い、いいか!それ以上近づけば、反逆者として処罰する!だが、私は寛大だ!このまま私に仕えるのならその罪を許してやろう!」
いくら口で丸め込もうとしても無駄だと、フールーダは直感する。現に、バルブロの顔から恐怖は消えていない。
「お、おい!聞いているのか⁉︎」
「…………無道」
静かに、けれど確かな怒りを孕んだ声。決して大きくなく、ともすれば聞き逃してしまいそうな独り言。それが離れたフールーダの元にまで届いてしまうのは、果たして使命感故に神経を尖らせていたお陰か、それとも恐怖心故か。
「私はこの国を背負うべき人間だ!他の人間よりも優れてーーー」
キン、と静かな納刀の音。一拍遅れてバルブロの首がコロリと落ちる。
続けて崩れるバルブロの身体。それに巻き込まれて人質の女性も崩れ落ちるが、困惑した様子で周囲を確認するだけ。そうして漸く状況を理解できると、声を上げて泣き出した。
「やはり、あれが神のおっしゃっていた………
逃してはなるまいと、空中を飛び急ぎ現場へと駆けつけるフールーダ。しかし、柱の影を覗いてもそこに誰も居らず、ただ女性の泣き声のみが響くだけ。
まだ近くにいるはずだと、周囲を探ろうとした瞬間、その首筋にひんやりとした刃が添えられる。
「っ!」
まるで自然現象のように、男はフールーダの背後にいた。肩越しに見る灰色の瞳には何の温度もなく、フールーダを脅威とすら見ていない。
「無道に、組みし者………」
「………私は、私の神に仕えておるだけじゃ」
両手を上げて無抵抗を装うフールーダ。振り返り様に魔法を打ち込むことも考えたが、それよりも早く刃は己の首を断ち切るだろうと、そう断言できるためにしない。
それよりも、今は神の命に従う方が重要だ。未だ刃が振られないという事は、言葉を交わす余裕があるということ。
喉の奥から溢れそうになる恐怖をぐっと飲み込み、震える声でフールーダは声を出す。
「貴様の………貴殿の目的は、何じゃ?」
「…………無道を、斬るのみ」
「………その無道とは、神も含まれるのか?」
「無道を、働けば」
「貴殿なら、斬れると?」
「知らぬ………」
すっと、刃がフールーダの首を離れる。その瞬間、背後を振り返るが男の姿は既にない。だが、耳元で囁かれるような、小さな声がフールーダの耳をくすぐった。
「その道、誤る時………刃は、落とされる………」
「っ!」
刹那、ぽとりとフールーダの肩を跳ねて何かが落ちた。そちらに視線を向ければ、人の耳が落ちている。
恐る恐る自身の耳に触れれば、そこにあるはずのものはなく、代わりに生暖かい血が流れるだけ。
認識した瞬間に襲われる、灼熱の痛み。それに蹲るフールーダは奥歯を噛み締めながら、影の中にいるであろう使者に声をかける。
「くっ………!き、聞いておりますかな、使者殿………っ!わ、私は、役目を果たしましたぞ………!」
影の中から返答はない。
しかし、確かに届いただろうと確信したフールーダは痛みを堪えながら立ち上がる。
じくじくとした痛みが未だフールーダには残っているが、それに勝るほどの達成感。
神の命に従えた幸福感。そして、魔法の深淵を覗ける興奮。
血塗られた空間の中、老人の狂気じみた笑い声がただ響いていた。
◇◆◇◆
屋敷から続く隠し通路を抜け、ゆらりと男が森の中から姿を現す。
背後から漂うのは、夜風でも隠しきれない濃厚な血の匂い。振り返れば、木々の向こうには先ほどまで夜会が開かれていた屋敷が見える。
華やかな音楽も、貴族たちの笑い声も、苦痛に泣く奴隷の声も、もう聞こえない。
残されたのは無道を働いた者たちの骸だけ。
そこから逃げ延びた者がどこへ向かったのか。救われた者が、この先どのように生きるのか。
それについて、男は関与しない。ただ、斬るべきものを斬った。ただそれだけだった。
そこに達成感も満足もない。男は次の無道を求め、森の外へと歩き出す。けれど、その幽鬼のような足取りが数歩進んだところで止まる。
灰色の瞳が夜の闇の向こうを睨む。
何も見えず、音も遠い。それでも腰の刀に手を添えた。
やがて、街道から一台の馬車が姿を現す。だが、それを曳くのは馬ではなかった。
膿のような黄色、輝くような緑色と靄のあちこちが点滅しており、範囲型の即死のオーラを振り撒くそれはこの世界において一体でも災厄に等しい存在。
それが六体連なって馬車を曳く光景は、あまりに現実離れしたものだろう。
しかし、男は逃げはしない。構えもしない。ただ、腰の刀に手を添えたまま、それを見ていた。
やがて馬車は男に近づくにつれ速度を落とすと、男の前で静かに止まる。
その側面に刻まれた紋章は王国のものでも、帝国のものでも、法国のものでもない。この世界のどの国にも属さない紋章。
馬車の扉が開くと、一人の老人が男の前に姿を現した。
「お待ちしておりました、亡剣」
寸分の乱れもない執事服。伸びた背筋。一挙手一投足に染みついた、洗練された所作。しかし、その眼差しだけはどこか冷たい。
ナザリック地下大墳墓が誇るハウス・スチュワード、セバス・チャンがそこにいた。
「我が主人、アインズ・ウール・ゴウン様がお待ちです。ご同行、願えますかな」
セバスは男の前で足を揃え、深々と腰を折る。礼儀正しい声音、完璧な所作。だが、その奥にある敵意まで隠しきるつもりはないらしい。
男がそれに反応した様子はない。ただ、暫しセバスを見つめると、男の手がゆっくりと刀から離れる。
それを答えと受け取ったセバスは、静かに馬車の扉を開いた。
次から最終章へと進みます