それを最初に見たのは、男から一番近かったアルベドだった。
(なに………?)
愛する御方の命を実行せんと、バルディッシュを振り上げたアルベドを襲ったのは、膨大な炎。
視界不良に対する耐性はある。熱にも炎にも、相応の対策は施している。何より、ナザリック地下大墳墓守護者統括たる己が、ただ燃え盛るだけの炎を恐れる理由などどこにもない。
事実、全身を包み込んだ炎に熱はある。だが鎧が焼けることも、生命力が削られる感覚もない。
ならば、目眩しかと、そう結論づけるのに、一秒とかからなかった。
(無駄な足掻きを…………)
男は既に瀕死。片腕を失い、身体は限界を迎え、アインズの御力によって死の淵に叩き込まれた。
それでもなお立ち上がったことに感嘆などない。寧ろ、腹立たしい。
デミウルゴスを殺し、シャルティアを殺し、コキュートスを殺した。
その記憶を奪い、あまつさえ今し方、再びデミウルゴスをアインズの目の前で死なせた。
結果として、アインズ自らが戦場へ立つ事態にまで至った。
守護者統括である己がいながらである。
(これ以上、アインズ様のお手を煩わせるなどーーー)
ーーー許せない。
男が、ではない。
そんな男一人を未だ仕留めきれていない、自分自身が許せなかった。
(ここで終わらせる)
必要ならば、この身を盾にしてでも仕留める。
元よりアルベドはそのための存在だ。
ナザリックでも随一の防御力を誇る己が前に立ち、あらゆる刃を、魔法を受け止める。
その背後にアインズがいる。それだけでいい。それこそが己に与えられた、何にも代え難い幸福なのだから。
(たとえこの身が砕けようとも、アインズ様には指一本触れさせない)
漆黒の全身鎧、ヘルメス・トリスメギストス。三層に重ねられた装甲と、自身が持つ防御能力。
こと物理攻撃を受けることに関して、アルベド以上に適した者はナザリックにもほぼ存在しない。
仮に未知の武技が飛んでこようとも、まず己が受ける。耐える。そして、その一瞬で他の守護者が仕留める。
それが最も確実で、何よりアインズを危険に晒さない。
「ナザリックに、そしてアインズ様に唾を吐いたその愚行ーーー」
炎の中を突き進み、バルディッシュを振り下ろす。そのはずだった。
「ーーーその身を持って償いなさい」
けれど予想に反して腕が動かない。バルディッシュの感触すら、残されていない。
(………?)
ほんの一瞬だけ、思考が止まる。だってあり得ないのだ。この状況の最中、真なる無を自ら手放すなどあり得ない。
ならば何故、柄を握っていたはずの両手から、何の感触も返ってこないのか。
(………は?)
炎が揺れるその向こうで、ゆっくりと宙を舞う、黒い物体が見えた。
見慣れた漆黒の装甲。しっかりとバルディッシュを握ったままの己の両腕。
「ーーーえ?」
理解が、追いつかない。
アルベド自身の認識よりも早く、両腕は既に身体から切り離されていた。
ヘルメス・トリスメギストスが。
至高の御方々によって与えられた装備が。
ナザリックでも最高峰を誇る己の防御が。
抵抗した感触さえ残さず、まるで最初からそこに何もなかったかのように斬られていた。
(斬られ、た………?)
痛みよりも先に浮かんだのは、疑問。そして、その次に脳裏を駆け巡ったのは愛しい御方の姿。
「ッ‼︎」
アルベドの背筋を恐怖が走る。自分が斬られたことではない。腕を失ったことでもない。
この炎の向こうにいる男の刃が、己という盾を抜けて、その先にいるアインズへ届き得るという事実に恐怖した。
「ッ、アインズ様‼︎」
それは反射だった。
腕もなく、武器もない。
それでもアルベドは翼を広げ、男とアインズの間に身体を滑り込ませようとする。
盾が壊れたのなら、鎧が役に立たないのなら、この肉体そのものを壁にすればいい。
首を斬られようが、胴を両断されようが、ほんの刹那でも男を止められるなら、それでいい。
(私が、あの御方をーーー)
守らなければならない。
最後までギルドに残ってくれた慈悲深き御方を。
己を愛する様にと、そう命じてくださった御方を。
ギルドよりも、創造主よりも、何より尊き至高の御方を。
炎の中、灰色の瞳がアルベドを見た。
そこに嘲りはなく、歓喜もない。ナザリック地下大墳墓守護者統括を斬ったという達成感すらない。
ただ次に斬るべきものを見定める、温度のない瞳。
(させ、るかぁあああ‼︎‼︎ )
翼を大きく広げる。
せめて少しでも、一瞬でも、愛する御方をその刃から隠すために。
「ーーーモモンガ、様」
一刃の煌めきが、炎の中を走った。
◇◆◇◆
(コレ、ハ………)
突如として男の身体から噴き出した炎。
瞬く間に周囲を飲み込んだそれに、コキュートスは反射的に四本の腕を交差させ、防御姿勢を取る。
種族的に炎は弱点。
外骨格による耐性や装備による補助があるとはいえ、警戒するに越したことはない。
ましてや、相手はナザリックの常識を幾度となく覆してきた存在。何が起ころうとも不思議ではない。
炎が、ライトブルーの甲殻を舐める。だが、予想に反して身を襲う様な灼熱は感じられない。
いや、熱そのものはある。
だが、それだけだ。生命力を削られる感覚もなければ、状態異常が付与された気配もない。甲殻が焼けることさえなかった。
(攻撃デハ、ナイ)
ならば、目眩ましかとそう考えかけて、すぐに否定する。
(否。ソレダケデ終ワルハズガナイ)
この男が、己を一度殺したとされる、この剣士が。死の間際に放った最後の一手が、ただの虚仮威しであるはずがない。
コキュートスには記憶がない。
自身がこの男と斬り結び、そして敗れた時の記憶は、何一つとして残っていない。
シャルティアとセバスと共に挑み、己は一対一の斬り合いを望み、そして敗れた。
ただ、それだけを報告として聞かされただけだ。
(以前ノ私ハ、何ヲ見タ?)
何を思い、何を感じ、何故最後まで刀を手放さなかったのか。
記録では分からない、報告では知ることができない情報。それがほんの少しだけ、惜しいと思った。
(ナレドーーー)
今ならばその答えが、分かるかもしれない。
炎の奥でゆらりと、男が立ち上がった。その姿にコキュートスの三対の瞳が、注視する。
左腕はなく、身体は満身創痍。髪は灰色に染まり、目から、耳から、鼻から血を流し、立っていることさえ不思議なほど。生命力など、もはや残滓と呼ぶべき状態。
普通ならばーーーいや、どのような戦士であろうとも、ここで終わる。終わらなければ、おかしい。
だというのに、男は立ち上がる。
失われた左腕、そこから噴き上がった炎が、急速にその姿を変え、人の腕を形作っていく。
(炎ヲ、腕ニ………?)
魔法ではなく、召喚物でもない。コキュートスの知るどの能力とも違う。
けれど、戦士だからこそ、分かることがあった。あれは、武器でなく、防具でもない。
(己自身、カ)
残された命、壊れた肉体、尽きかけた気力、その魂に至るまでの全てを燃やしているのだと、そう直感する。
「…………」
ぞくり、とコキュートスの全身を、これまで感じたことのない何かが駆け抜けた。
恐怖ではない。外的な恐怖など、そもそも己には通じない。
だからこそ、胸の内にあるこれは歓喜と、そう呼ぶしかない。
目の前の男は死ぬ。間違いなく死ぬ。
仮に自分たちが手を下さなかったとしても、この炎が消えた時には何も残らない。
生還を目的とした技ではなく、勝つためですらない。ただ、最後まで剣を振るうためだけの技なのだと、すとんと胸の内に落ちていた。
(ーーー武人)
コキュートスは心の底から、目の前の男をそう認識した。
アインズに歯向かった敵であり、ナザリックの仲間を殺した怨敵。その認識に、何一つ変わりはない。だがそれと、敬意を抱くことは別だ。
(見事)
炎の奥、男が刀を構える。残された右腕と炎で作られた左腕。二つの手が、刀を握る。
呼吸は荒いが姿勢に乱れはなく、身体はいつ崩壊してもおかしくないほど壊れているというのに、剣先だけは微塵も揺れていなかった。
その灰色の瞳には恐怖はなく、絶望もなく、 己の死を悟った諦観すらない。
ただ、斬る。
その意志だけが残っていた。
(以前ノ私ガ敗レタノモ、道理ダナ)
その記憶がないことを、初めて口惜しいと思った。
一体どのような斬り合いだったのか。己はどこまで刃を届かせたのか。最後に、何を思って死んだのか。
可能であるなら、今一度、一対一で正々堂々と、正面から。ただの武人として、刃を交えてみたかった。
だが、それはもう叶わぬ願い。
今の己は、ナザリックの守護者、アインズ・ウール・ゴウンの刃。
己の望みよりも、武人としての欲よりも、主人の命こそが、何よりも優先される。
ならばせめて、全力で殺そう。
数で囲んでいることへの羞恥などない。卑怯などとも思わない。これは決闘ではなく、至高の御方に仇なす敵を討つための戦いなのだから。
だが、己の一撃だけは、武人として誇れるものを。
「ーーー行クゾ」
小さく、誰にも聞こえないほどの声で、コキュートスは呟いた。
四本の腕が動き、創造主より与えられた得物を握る。背後に、不動明王が姿を現すと、その巨腕もまた、コキュートスと全く同じように刀を持ち上げた。
(武人建御雷様)
もし、創造主がこの場にいたなら、この男をなんと評したのだろうか。
それを聞くことは叶わない。ならば、己の刃で確かめるだけ。
(今度コソーーー)
名乗りはしない。既に名乗っているし、例え名乗っていなかったとしても男は覚えていないだろう。
それを悔しいとは思わない。ただこの一撃を、己の存在を、その身に刻み込んでやればいいだけだ。
「
踏み込もうとしたその瞬間、世界がずるりと傾いた。
攻撃されたと、そう理解するよりも早く構えていたはずの刀が、四本の腕が、己の身体が、全て遠ざかっていく。
(見エナカッタ)
速いなどと言うレベルではない。
技の起こりが、殺気が、踏み込みが、何一つとして、存在しなかった。
気がついた時には、全てが終わっていた。
(………アァ)
己の刃は届かず、至高の御方の敵を討つこともできない。守護者として、これは許されざる失態だろう。それを悔しいと思う己は確かにいる。
だが一方で、武人としての己だけが静かに、笑っていた。
(見事ーーー)
暗闇に沈む意識の中、最後にコキュートスの三対の瞳へと映ったのは、炎の腕で刀を握り、肉体を焼き、命さえ燃やしながらそれでもなお、前へと進む、一人の剣士の姿だった。
◇◆◇◆
シャルティアにとって、男は他ならぬ自分自身の仇だ。
かつて、自分はあの男に敗北した。その瞬間の記憶はない。どう戦い、何をされ、どのように死んだのかなど、何一つ覚えてはいない。
だが、それで敗北した事実まで消えてくれるわけではなかった。
一部の例外を除けば、ナザリック地下大墳墓において最強クラスの守護者である、シャルティア・ブラッドフォールンが、ただ一人の人間に殺された。
(…………気に入らないでありんす)
敗北そのものが気に入らないし、負けたことを覚えていないのも気に入らない。何より、男がそんなことなど覚えてすらいないらしいことが、気に入らない。
自分にとっては屈辱であり、汚点であり、決して許すことのできない敗北。だというのに男にとっては、道端の石を蹴飛ばした程度の出来事なのだ。
(ふざけやがって…………)
シャルティアは、己の強さに絶対の自負を持っている。それは慢心ではない。
至高の四十一人が一人、ペロロンチーノによって創造された存在。種族、職業、装備、能力。その全てに創造主の趣味と愛情が詰め込まれた、自慢の作品。
その身の全てが、ペロロンチーノから与えられたものと言っても過言ではない。
だからこそ、自分の敗北とは自分一人の問題ではないのだ。
ペロロンチーノ様のシャルティアを殺した。それはつまり、ペロロンチーノその人へ唾を吐いたも同然だと、シャルティアには思えてならない。
(あの時の私が、どんな無様を晒したかなんて知ったことではないでありんす)
覚えていないのならば、やり直せばいい。
今度こそ殺す。今度こそ自らの手で、肉を裂き、骨を砕き、血を啜り、その魂まで残らず踏み潰す。
すぐには殺してやらない。指から一本ずつ千切ってもいい。皮を剥ぎ、再生させ、また剥ぐのも悪くない。
死なない程度に血を抜き続け、命乞いの言葉すら出なくなったところでようやく終わらせてやる。
そうして最後に問うのだ。誰に刃を向けたのか理解したか、と。
(あぁ…………考えただけでゾクゾクするでありんす)
口元が自然と歪む。だが、その嗜虐心すら一瞬で吹き飛ばす声が響いた。
「守護者たちよ‼︎こいつを、今すぐ殺せぇえ‼︎‼︎」
「ッ‼︎」
普段の、全てを見通したかのような重厚な声ではない、アインズの絶叫。
怒りや悲痛、そして喪失。それらを剥き出しにした、聞いたこともない御声。
(アインズ様…………)
胸が震えた。
一瞬だけ、その苦悶に満ちた声に背筋を甘い痺れが駆け抜ける。
己の愛する至高の御方が、感情を剥き出しにしている。
その姿をもっと見たいという、己の内に刻まれた歪んだ欲求が顔を覗かせる。
だが、今だけは、それに身を委ねている場合ではないと、湧き上がるものに蓋をする。今はただアインズをここまで苦しめた元凶を、誅殺せねばならないのだから。
(殺す)
もう嬲る必要すらない。苦しめるのは後でもできるなどという考えも消えた。
アインズが殺せと命じた。ならば、この瞬間、この場で、この男を消し去ること以上に優先されることなど、何一つない。
「死ね」
スポイトランスを握る指に力が入る。
その時だった、男の身体から炎が噴き上がったのは。
「チッ、邪魔ぁ‼︎」
瞬く間に視界を埋め尽くす炎。だが、驚くほどのことではない。
炎熱耐性はある上に、元より自分はアンデッド。肉が焼けようとも痛みに動きを鈍らせるようなこともなく、恐怖に足を止めることもない。
ましてや、男は既に瀕死。片腕を失い、身体の至るところから血を流し、アインズの即死攻撃さえ凌いだ代償で今にも崩れ落ちそうな状態。
その程度の悪足掻きで、このシャルティア・ブラッドフォールンをどうにかできるとでも思っているのか。
(舐めやがって…………)
炎の向こうに男がいることは間違いない。見えなくとも問題はなく、それを補う手札をシャルティアは持っている。
「清浄投擲槍‼︎」
掌の上に、白銀の輝きが集うと三メートルを超える、聖なる戦神槍が生み出される。
MPを追加消費すれば、回避そのものを許さない必中効果さえ付与できる一撃。
一度は斬られたスキルであるが、だから何だというのだ。
あの時と違い男は満身創痍、そして自分は万全の状態。何より、これは至高の御方の命を受けて放つ一撃。
(今度こそ、ペロロンチーノ様から授かったこの力でーーー‼︎)
殺す。そして、敗北を上書きする。
創造主の名誉を取り戻し、アインズの悲しみを晴らす。
「臓物ぶちまけろやぁあ‼︎」
その時、ゆらりと炎が揺れた。その隙間から、ちろりと何かが見えた。
「ーーーッ‼︎ 」
男の灰色の瞳が、シャルティアを覗いている。ただ、それだけだった。
魔法が飛んできたわけではなく、攻撃されたわけでもない。
殺気に当てられただけならば、シャルティアに作用するはずがない。
恐怖に対する完全耐性はもちろん、精神作用への耐性も持ち合わせている。アンデッドである自分に、恐怖などという生者の感情が肉体を縛るはずがない。
(なに、を…………)
だというのに、ぴくりとも動かない。
清浄投擲槍を放とうとしていた腕が、前へ踏み出そうとしていた脚が。まるで石像にでもなったかのように、動こうとしてくれない。
(動け…………動け‼︎ )
必死に己の身体に命令を下す。ほんの少しでいい。指ひとつだけでも動かせば、清浄投擲槍は男を貫くために動き出すのだから。
けれど、どれだけ足掻こうと身体は意思に反して動かない。
(私は、シャルティア・ブラッドフォールンでありんすよ⁉︎)
ナザリックの階層守護者であり、ペロロンチーノによって生み出された最高傑作である存在。
それが、こんなところで、たかが人間一人を前に足を止める理由などない。
かち、と小さな音がした。
かち、かち、かち、と断続的に、そして次第に早くなる音の正体は自身の歯。上下の牙が震え、勝手にぶつかり合っている。
(な、んで…………)
呼吸など必要ないはずの胸が、息苦しい。
心臓などとうに動いていないはずなのに、胸の奥が締め付けられ、背筋を冷たい何かが這い回る。
逃げろと、身体の全てが、本能が全力でそう叫んでいた。
(何よ、これ…………)
理解できない。
自分はこの男に殺された時のことなど覚えておらず、刃を向けられた記憶も、首を落とされた記憶も、死んだ瞬間さえ、覚えていない。
(私は、知らないでありんす…………)
だが、身体は知っている。灰色の瞳と、その殺意を。存在しないはずの記憶が、殺される前に逃げろと、警鐘を全力で鳴らしていた。
「…………っ」
シャルティアの口元から笑みが消える。
先ほどまで思い描いていた拷問も、復讐も、誇りも、創造主への忠義さえも、その一瞬だけ、全てが頭から吹き飛んだ。
(嫌ーーー)
そんな言葉が浮かんだ自分に、シャルティア自身が最も驚いた。
嫌だと、このシャルティア・ブラッドフォールンが、ペロロンチーノ様に創造された自分が、男に恐れを抱いたなど、そんなはずあるわけがないと、震える歯を食いしばる。
しかし、気づけば男はシャルティアの目の前に。その灰色の瞳がシャルティアの視線と交差する。
「ヒッ‼︎」
シャルティアの喉の奥から漏れた音。恐怖に怯えた、ただの少女のような声。
遅れて、炎に反射して煌めく一刃。それがシャルティア・ブラッドフォールンの見た、最後の光景だった。
◇◆◇◆
レンジャー職についているアウラの目はいい。
地平線の彼方、その向こうまで見通す事が可能であり、夜闇の中だろうと、木々や建物が入り組んでいようと、獲物の僅かな動きさえ見逃さない。
だからこそ、目の前の光景には違和感しかなかった。
(な、にが………)
満身創痍。片腕を失い、身体中から血を流し、今まさに守護者たちの手によって殺されようとしていた男。その身体から、突如として炎が噴き上がった。
瞬く間に視界を埋め尽くす炎。それに熱はある。だが、それだけだ。肌を焼くことも、生命力を削ることもない。ただ視界だけを覆い隠す、奇妙な炎。
だが関係ないと、アウラは弓を握り直し、炎の奥を睨む。
そこには、失った左腕を補うように炎を纏わせ、ゆっくりと立ち上がる男の姿があった。
何をしたのか、何をするつもりなのか。そんなことは分からない。
だが、分からないなら分からないなりに、狩ればいい。
(あたし一人じゃ、たぶん勝てない)
それは認めるしかない。悔しいし、創造主であるぶくぶく茶釜に顔向けできないような気持ちもある。
けれど、狩りというのは一人でするものではないのだ。
相手を追い込み、逃げ道を塞ぎ、疲れさせ、隙を作り、そして最後に、確実に仕留める。
難しい策を考えるのはデミウルゴスやアルベドの役目。けれど獲物を追い詰める狩りならば、アウラの方が得意だ。
隣にはフェンリルのフェン。その反対には、周囲へ溶け込むように姿を隠す
フェンが正面から飛び込み、クアドラシルが死角を作る。そこへ自分の矢を叩き込む。
それでも駄目なら後方にいるマーレの役目だ。少し鈍くて、すぐおどおどして、何かあるたびに姉である自分の後ろへ隠れようとする弟。
けれど、大地ごと全部ひっくり返す、守護者の中でも屈指の殲滅力を持った自慢の弟。
(大丈夫。距離もあるし、みんなもいる。何より、マーレがいる)
そう思えば、不思議と恐怖は湧かない。代わりに胸の奥を満たすのは、怒りだ。手の中の弓が、ぎちりと嫌な音を立てる。
(アンタは、シャルティアを殺した)
シャルティアとは顔を合わせれば喧嘩ばかりだった。鬱陶しいと思うこともあるし、向こうも同じだろう。けれど、本気で嫌いだったことなど一度もない。
シャルティアを創ったペロロンチーノは、ぶくぶく茶釜の弟。恐れ多いとは思いつつも、どこか自分とマーレに似たものを感じていた。
そんな相手を殺した。そして何より、アインズをあれほど悲しませた。それが何よりも許せない。
(絶対、殺す)
言葉には出さず、フェンとクアドラシルへ視線を送る。それだけで二匹は理解した。
フェンが低く身を沈ませ、クアドラシルの姿が景色へ溶け込む。アウラも、ぶくぶく茶釜から与えられた弓へ矢を番える。
(まずフェン。次にクアドラシル。それで隙ができたら、あたしがーーー)
そこまで考えてふと、ほんの一瞬だけ、マーレの位置を確認しておこうと後方へ視線を向けた。
「おねえ………ちゃん………」
ずるり、とずれたマーレの首が、アウラの視界に入る。
「…………え?」
思考が、止まった。
いつからそこにいたのか、男がマーレの正面に立っている。炎に照らされた抜き身の刀が、手に握られている。
ほんの一瞬、コンマ数秒にも満たないほど、視線を外しただけ。ただ、それだけだと言うのに。
「ッ‼︎ マーレ‼︎」
頭から、戦術が消えた。アインズの命令さえ、うろ覚え。残ったのは、弟の名前だけ。
「このッ‼︎」
弓を男へ向けようとする。
射殺すためではなく、ただマーレのところへ行くために。邪魔な男をどかすために。そう思って腕を動かしたはずだった。
だが、いつまで経っても身体が言うことを聞かない。代わりに、世界がぐるりと回った。
「ーーーえ?」
回転する世界の中で、アウラは確かに見た。自分の身体が首から血を噴き出しながら倒れていく様子を。
少し離れた場所では、フェンとクアドラシルの首も宙を舞っていた。
(あたし、も……?)
ようやく理解した時には、もう遅い。灰色の瞳だけが、炎の向こうで静かに揺れている。
そこに喜びはなく、怒りもない。ただ、次に斬るべきものを探しているだけ。
最後の最後まで、アウラの目はその姿を捉えていた。
◇◆◇◆
アインズにとって、それは一瞬の出来事だった。
「は………?」
視界に映るのは膨大な炎。距離が離れているというのに、骨身に沁みるような熱は強く、焼くというよりは身体の芯にまで響くような、不思議な感覚。
男を包む炎が大きく揺らめく。
その背後で左右に広がった火勢は、ほんの一瞬、巨大な翼を模った。まるで炎の中から蘇る不死鳥のように。
そんなある種幻想的な光景の中、瀕死だったはずの男が動き出す。いや、その認識さえ遅い。気づいた時には既に、男はもう動いた後だった。
「やめ………」
コキュートスが武器を振り上げる。
ナザリックでも指折りの戦士。武人建御雷が作り上げた、誇るべき階層守護者。
その四本の腕が宙を舞い、一拍遅れて首が落ちる。
「やめてくれ………」
次に視界に入ったのはシャルティア。
普段ならば尊大に笑い、敵を嬲ることを楽しむ彼女が、恐怖とは無縁のはずの彼女が、今は怯えていた。
ペロロンチーノが心血を注いで作り上げ、理想の嫁だとそう紹介していた彼女は、ただ一人の少女のように恐怖し、歪んだ顔のまま首がずるりと横にズレる。
「もう、やめてくれ………」
遠くにいたはずのアウラとマーレ。ぶくぶく茶釜が愛情を注いで作り上げた双子。
仲の良い姉弟を引き裂く様に、マーレの首がずれ落ちる。そうして、叫んだアウラの首も同じ様にころりと転がった。
その周囲にいた魔獣たちも同じ。守る暇も、抗う暇も、逃げる暇さえ与えられない。
感傷に浸る暇もなく、ただ無慈悲にアインズの大切なものが斬られていく。
「ーーーモモンガ、様」
声のした方へと反射的に視線を送る。その先にアルベドがいた。
武器どころか両腕さえ失い、それでもなお翼を広げてこちらへ向かってくる。
ちょっとした悪戯心で、モモンガを愛していると書き換えてしまった、アインズの罪悪の塊。それが、逃げるでもなく、そのような姿になってもまだ、アインズを守ろうともがいていた。
「ッ‼︎ やめろぉおおお‼︎」
アインズは手を伸ばす。
届くはずないと自身でもわかっているというのに、それでも手を伸ばした。
「アルベドォォオオ‼︎ 」
炎に煌めく一刃。
ただそれだけでアルベドの身体は両断され、力を失った黒い翼が二つに分たれた身体と共に地に伏せる。
ナザリックが誇る、各階層守護者たち。
それ以前に仲間たちの思い出が詰まった、アインズにとって何より代え難い子供たち。それがまるで木端のように斬り殺された。
怒りはある。殺してやりたい気持ちもある。
しかし、それよりもなお深い喪失と、また自分だけ取り残された絶望に、アインズはただ叫ぶしかできなかった。
「もう、やめてくれ………俺が………俺たちが何をしたって言うんだ………」
確かに、この世界に来て殺人はした。法国の陽光聖典や、ミスリル級冒険者のクラルグラなど、数え出したらきりがない。
しかし、それら全て理由があってこそだ。何も無差別に、無遠慮に殺し回ったりなどしていない。
もしそれが罪だと言うのなら、アインズは声を大にして抗議する。
命の価値は等価ではない。アインズはただ、ナザリックとその他、それを天秤にかけてナザリックの子供達の幸福を願っただけだ。
「答えろ………答えろ、亡剣‼︎ 俺たちがやってきた事を、お前が裁く権利があるのか⁉︎」
アインズたちの手によって救われた命もあったはずだ。
逆に、男が斬ったことにより悪化した事例もあるはずだ。
「俺たちが悪で、お前は正義とでも言うのか⁉︎ 正義なら、何をしてもいいと言うのか‼︎⁉︎」
「ーーー知ら、ぬ」
いつの間にか、炎がそこにあった。
炎の中にいるそれは、最初の頃よりも皺が増え、声はしゃがれ、腕は枯れ枝のように細くなり、老人と言っても差し支えない見た目に変わっていた。
しかし、その灰色の瞳だけは変わらず、その奥に燃える様な意思を宿してアインズを見つめる。
「………無道、斬る………のみ」
「ッ‼︎ このッ、偽善者が‼︎」
音を置き去りに、男の刃が振るわれる。
一拍遅れて、骨の頭が宙を舞った。
◇◆◇◆
背後で崩れ落ちる骨の身体。それを確認するようなことはせず、男は静かに刃を鞘に収める。
それに合わせるように、全身から吹き出していた炎が衰えていく。
天を焦がさんばかりに燃え盛っていたそれは急速に勢いを失い、失われた左腕を模っていた炎もまた、最後の一片まで消え去った。
その瞬間、男の全身を襲う虚脱感。
「…………っ」
膝が折れる。刀を杖代わりにして何とか踏みとどまるが、その程度の動作でさえ、今の男には途方もない労力を必要とした。
魂を斬る代わりに自身の魂を削る絶剣よりも、なお深い喪失感。
肉体から何かが抜け落ちていく。
否、既に抜け落ちた後なのだろう。今まで当たり前のように存在していた何かが失われ、その空白だけが胸の奥にぽっかりと残っている。
呼吸をするたびに喉が軋み、肺が悲鳴を上げ、右手に握った刀は鉛のように重い。いや、腕そのものが己のものではなくなったかのように、指一本動かすことさえ億劫だった。
最早、視界はほとんど機能しておらず、目に映るのはぼやけた景色。己がどこに立っているのか、それさえ判然としない。
胸の奥、何かが燃え尽きてしまったのを感じる。それが何なのか、男は知らない。
ただ、己に次はないのだと、漠然と感じていた。
「次、なる………無、道………」
だからこそ、男は歩みを止めない。
口から出る声は掠れ、刀を握る手は細枝のように痩せ細っている。
音を置き去りにした速度は見る影もなく、亀の歩みの方がまだマシなほど。
一歩、また一歩と、足を持ち上げるたびに身体が傾ぎ、今にも地面へ倒れ込みそうになる。
もう十分だと、身体の全てが訴えているようだった。だが、男にはその意味が分からない。
まだ無道はいる。
己が斬らねばならぬものが、この世には幾らでも残っている。
そうである以上、立ち止まる理由などなかった。
それはもはや使命と呼べるものですらないのかもしれない。六百年という歳月の果て、最初に抱いたはずの何かさえ忘れ去り、それでもなお残り続けた執念。
呪いにも似たそれに突き動かされていた足が、ふと止まった。
「………」
おかしい。
前に進もうとしているのに、身体が言うことを聞かない。胸の奥に、何か妙な感覚がある。
痛みにゆるりと視線を下ろせば、そこから顔を出していたのは一本の剣先。
己の身体から生えているかのようなそれを、男はしばらく眺めていた。
(あぁ………)
刺されたのだと、ようやく理解した。その途端、身体が大きく痙攣する。ごぽり、と口から血の塊が溢れ、喉の奥から湿った音が漏れた。
剣が乱暴に引き抜かれ、支えを失った男は為す術もなく地面へと転がった。
「…………」
仰向けになった視界に、白銀の鎧が目に入る。見覚えがあるような、ないようなと、男がそれを確かめようとするよりも早く、鎧の輪郭がどろりと崩れた。
溶けるように姿を変え、そこから現れたのは軍服を着た奇妙な存在。卵に三つの穴を開けたような顔に目深に被った軍帽。その手には、己を刺したのであろう剣が握られていた。
「あなたにとって、我々は無道だったのでしょう」
静かな声だった。しかし、よく聞けば、その声は僅かに震えている。
軍帽の陰に隠れた表情を、男が窺い知ることはできない。
いや、そもそも今の男には、軍帽があろうとなかろうと、その顔を見分けることさえ難しいだろう。
だからこそ、目にあたる両の穴から零れ落ちる涙など、知る由もなかった。
「ですが、アインズ様は………モモンガ様は、我々にとって最後までこの地に残ってくださった、偉大な御方でした」
剣を握る手が、小刻みに震える。
それを抑えようとしているのか、軍服の男は一度だけ、柄を強く握り直した。
「我々を導き、守り、慈しんでくださった。至高の御方々が去られた後も、ただお一人、我々の傍にいてくださったのです」
言葉を重ねるたびに、声が掠れていく。
普段ならば大仰な身振りを交えて語るであろうその存在は、今はただ、目の前の男を見下ろしていた。
「そして、私にとってモモンガ様は生みの親………父上のような存在でした」
その言葉を聞いて、男は薄く目を開いた。
(あぁ………なる、ほど………)
つまりは、敵討ちだ。
親を殺された子の復讐。
なるほど、道理であると、頭の隅で思う。
男には、目の前の存在が抱いている悲しみも、憎しみも分からない。ただ、その理由は理解できた。
己が無道と断じ、斬り捨ててきた者たちにも、親しき者はいただろう。
親もいれば、子もいる。友も、伴侶もいたかもしれない。その者たちからすれば、己こそが憎むべき仇に違いない。
それでも男は無道を斬り歩いてきた。誰かが泣こうと、恨もうと、刃を振るうことをやめなかった。ならば、自分もまた斬られるのは当然のこと。感謝される謂れなどあるはずがない。
相手に恨みはなかった。己にも斬るべき理由があったように、目の前の存在にもまた、刃を振るう理由がある。ただ、それだけのことだ。
「…………」
ごぽり、と再び血が溢れた。
胸元へ触れれば、べっとりと生温かいものが手に付着する。傷口から溢れる血は止まらない。
けれど、もう痛みさえ感じなかった。それが死の近づいた証であることくらい、男にも分かっている。
不思議と、恐怖はない。ただ、少しばかり惜しいとは思う。まだ己には、為すべきことが残っているのだから。
「せめてもの慈悲です。この一撃で終わらせて差し上げましょう」
軍服の男が剣を持ち上げる。
その手はまだ震えていたが、しかし、振り下ろすことに躊躇いはないようだった。
天高く掲げられた剣。あと数秒もすれば、この命は潰える。男もそれを理解していた。
(………無念)
後悔はある。
まだ斬らなければならない無道はいるのだ。
まだ無道に泣く誰かがいるのだ。
そうした者たちを、この先は誰が斬るというのか。
残された力を振り絞ろうにも、身体は完全に役目を終えたとばかりに反応せず、指先はもはや動かない。それでもなお、男は足掻くように起き上がろうとする。
(まだ………)
けれど、その時ふと、男の胸に小さな疑問が浮かんだ。なぜ、己はこれほどまでに無道を許せぬのだろうか、と。
何百年もの間、斬り続けてきた。
幾度となく刃を振るい、命を奪い、時には己も死にかけた。それでも足を止めなかった。
その理由をかつては知っていたはずなのだ。
だが、いつからだったか。
斬らなければならないという思いばかりが残り、何故そう思うようになったのか、思い出すことさえなくなっていた。
遠い昔、まだ己がこれほど刀を振るっていなかった頃。何かがあったはずだ。大切な、何かが確かにあったはずなのだ。
男は霞んだ意識の中で、懸命に記憶を辿った。幾百年もの歳月に擦り減らされ、もはや形さえ残していない記憶。
誰かの声がしたような気がした。
顔も、名前も思い出せない。
ただ、その声を聞くことが、かつての自分には何よりも嬉しかったのだと、それだけが妙にはっきりと分かった。
(あぁ………)
不意に、口元が緩んだ。
そうだ。何故、忘れていたのだろう。
男は天に掲げられた剣を見上げる。
己を殺そうとしているのは、親を殺された子。その悲しみを、その憎しみを、己は知っている。
そうして、ようやく思い出した。遠い昔に置き去りにした、何よりも大切だったものを。
(あぁ、そうだ………我は………私にも、家族がいたのだったな……)
剣が振り下ろされる。
それと同時、男の火種がふっと消えた。