亡びぬ火、名もなき剣   作:桜大好き野郎

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燼生

 

 

 

 それを最初に見たのは、男から一番近かったアルベドだった。

 

 

(なに………?)

 

 

 愛する御方の命を実行せんと、バルディッシュを振り上げたアルベドを襲ったのは、膨大な炎。

 

 視界不良に対する耐性はある。熱にも炎にも、相応の対策は施している。何より、ナザリック地下大墳墓守護者統括たる己が、ただ燃え盛るだけの炎を恐れる理由などどこにもない。

 

 事実、全身を包み込んだ炎に熱はある。だが鎧が焼けることも、生命力が削られる感覚もない。

 

 ならば、目眩しかと、そう結論づけるのに、一秒とかからなかった。

 

(無駄な足掻きを…………)

 

 男は既に瀕死。片腕を失い、身体は限界を迎え、アインズの御力によって死の淵に叩き込まれた。

 

 それでもなお立ち上がったことに感嘆などない。寧ろ、腹立たしい。

 

 デミウルゴスを殺し、シャルティアを殺し、コキュートスを殺した。

 その記憶を奪い、あまつさえ今し方、再びデミウルゴスをアインズの目の前で死なせた。

 

 結果として、アインズ自らが戦場へ立つ事態にまで至った。

 守護者統括である己がいながらである。

 

 

(これ以上、アインズ様のお手を煩わせるなどーーー)

 

 ーーー許せない。

 

 男が、ではない。

 そんな男一人を未だ仕留めきれていない、自分自身が許せなかった。

 

 

(ここで終わらせる)

 

 

 必要ならば、この身を盾にしてでも仕留める。

 

 元よりアルベドはそのための存在だ。

 ナザリックでも随一の防御力を誇る己が前に立ち、あらゆる刃を、魔法を受け止める。

 

 その背後にアインズがいる。それだけでいい。それこそが己に与えられた、何にも代え難い幸福なのだから。

 

 

(たとえこの身が砕けようとも、アインズ様には指一本触れさせない)

 

 

 漆黒の全身鎧、ヘルメス・トリスメギストス。三層に重ねられた装甲と、自身が持つ防御能力。

 

 こと物理攻撃を受けることに関して、アルベド以上に適した者はナザリックにもほぼ存在しない。

 

 仮に未知の武技が飛んでこようとも、まず己が受ける。耐える。そして、その一瞬で他の守護者が仕留める。

 それが最も確実で、何よりアインズを危険に晒さない。

 

 

「ナザリックに、そしてアインズ様に唾を吐いたその愚行ーーー」

 

 炎の中を突き進み、バルディッシュを振り下ろす。そのはずだった。

 

 

「ーーーその身を持って償いなさい」

 

 

 けれど予想に反して腕が動かない。バルディッシュの感触すら、残されていない。

 

 

(………?)

 

 

 ほんの一瞬だけ、思考が止まる。だってあり得ないのだ。この状況の最中、真なる無を自ら手放すなどあり得ない。

 

 ならば何故、柄を握っていたはずの両手から、何の感触も返ってこないのか。

 

 

(………は?)

 

 

 炎が揺れるその向こうで、ゆっくりと宙を舞う、黒い物体が見えた。

 

 見慣れた漆黒の装甲。しっかりとバルディッシュを握ったままの己の両腕。

 

 

「ーーーえ?」

 

 

 理解が、追いつかない。

 アルベド自身の認識よりも早く、両腕は既に身体から切り離されていた。

 

 ヘルメス・トリスメギストスが。

 至高の御方々によって与えられた装備が。

 ナザリックでも最高峰を誇る己の防御が。

 

 抵抗した感触さえ残さず、まるで最初からそこに何もなかったかのように斬られていた。

 

 

(斬られ、た………?)

 

 

 痛みよりも先に浮かんだのは、疑問。そして、その次に脳裏を駆け巡ったのは愛しい御方の姿。

 

 

「ッ‼︎」

 

 

 アルベドの背筋を恐怖が走る。自分が斬られたことではない。腕を失ったことでもない。

 

 この炎の向こうにいる男の刃が、己という盾を抜けて、その先にいるアインズへ届き得るという事実に恐怖した。

 

 

「ッ、アインズ様‼︎」

 

 

 それは反射だった。

 

 腕もなく、武器もない。

 それでもアルベドは翼を広げ、男とアインズの間に身体を滑り込ませようとする。

 

 盾が壊れたのなら、鎧が役に立たないのなら、この肉体そのものを壁にすればいい。

 

 首を斬られようが、胴を両断されようが、ほんの刹那でも男を止められるなら、それでいい。

 

 

(私が、あの御方をーーー)

 

 

 守らなければならない。

 

 最後までギルドに残ってくれた慈悲深き御方を。

 己を愛する様にと、そう命じてくださった御方を。

 ギルドよりも、創造主よりも、何より尊き至高の御方を。

 

 炎の中、灰色の瞳がアルベドを見た。

 そこに嘲りはなく、歓喜もない。ナザリック地下大墳墓守護者統括を斬ったという達成感すらない。

 

 ただ次に斬るべきものを見定める、温度のない瞳。

 

 

(させ、るかぁあああ‼︎‼︎ )

 

 

 翼を大きく広げる。

 せめて少しでも、一瞬でも、愛する御方をその刃から隠すために。

 

 

「ーーーモモンガ、様」

 

 

 一刃の煌めきが、炎の中を走った。

 

 

◇◆◇◆

 

 

(コレ、ハ………)

 

 

 突如として男の身体から噴き出した炎。

 瞬く間に周囲を飲み込んだそれに、コキュートスは反射的に四本の腕を交差させ、防御姿勢を取る。

 

 種族的に炎は弱点。

 外骨格による耐性や装備による補助があるとはいえ、警戒するに越したことはない。

 

 ましてや、相手はナザリックの常識を幾度となく覆してきた存在。何が起ころうとも不思議ではない。

 炎が、ライトブルーの甲殻を舐める。だが、予想に反して身を襲う様な灼熱は感じられない。

 

 

 いや、熱そのものはある。

 

 だが、それだけだ。生命力を削られる感覚もなければ、状態異常が付与された気配もない。甲殻が焼けることさえなかった。

 

 

(攻撃デハ、ナイ)

 

 

 ならば、目眩ましかとそう考えかけて、すぐに否定する。

 

 

(否。ソレダケデ終ワルハズガナイ)

 

 

 この男が、己を一度殺したとされる、この剣士が。死の間際に放った最後の一手が、ただの虚仮威しであるはずがない。

 

 コキュートスには記憶がない。

 自身がこの男と斬り結び、そして敗れた時の記憶は、何一つとして残っていない。

 

 シャルティアとセバスと共に挑み、己は一対一の斬り合いを望み、そして敗れた。

 ただ、それだけを報告として聞かされただけだ。

 

 

(以前ノ私ハ、何ヲ見タ?)

 

 

 何を思い、何を感じ、何故最後まで刀を手放さなかったのか。

 

 記録では分からない、報告では知ることができない情報。それがほんの少しだけ、惜しいと思った。

 

 

(ナレドーーー)

 

 

 今ならばその答えが、分かるかもしれない。

 

 炎の奥でゆらりと、男が立ち上がった。その姿にコキュートスの三対の瞳が、注視する。

 

 左腕はなく、身体は満身創痍。髪は灰色に染まり、目から、耳から、鼻から血を流し、立っていることさえ不思議なほど。生命力など、もはや残滓と呼ぶべき状態。

 

 普通ならばーーーいや、どのような戦士であろうとも、ここで終わる。終わらなければ、おかしい。

 

 だというのに、男は立ち上がる。

 失われた左腕、そこから噴き上がった炎が、急速にその姿を変え、人の腕を形作っていく。

 

 

(炎ヲ、腕ニ………?)

 

 

 魔法ではなく、召喚物でもない。コキュートスの知るどの能力とも違う。

 

 けれど、戦士だからこそ、分かることがあった。あれは、武器でなく、防具でもない。

 

 

(己自身、カ)

 

 

 残された命、壊れた肉体、尽きかけた気力、その魂に至るまでの全てを燃やしているのだと、そう直感する。

 

 

「…………」

 

 ぞくり、とコキュートスの全身を、これまで感じたことのない何かが駆け抜けた。

 

 恐怖ではない。外的な恐怖など、そもそも己には通じない。

 だからこそ、胸の内にあるこれは歓喜と、そう呼ぶしかない。

 

 目の前の男は死ぬ。間違いなく死ぬ。

 仮に自分たちが手を下さなかったとしても、この炎が消えた時には何も残らない。

 

 生還を目的とした技ではなく、勝つためですらない。ただ、最後まで剣を振るうためだけの技なのだと、すとんと胸の内に落ちていた。

 

 

(ーーー武人)

 

 コキュートスは心の底から、目の前の男をそう認識した。

 

 アインズに歯向かった敵であり、ナザリックの仲間を殺した怨敵。その認識に、何一つ変わりはない。だがそれと、敬意を抱くことは別だ。

 

 

(見事)

 

 

 炎の奥、男が刀を構える。残された右腕と炎で作られた左腕。二つの手が、刀を握る。

 

 呼吸は荒いが姿勢に乱れはなく、身体はいつ崩壊してもおかしくないほど壊れているというのに、剣先だけは微塵も揺れていなかった。

 

 その灰色の瞳には恐怖はなく、絶望もなく、 己の死を悟った諦観すらない。

 

 ただ、斬る。

 

 その意志だけが残っていた。

 

 

(以前ノ私ガ敗レタノモ、道理ダナ)

 

 

 その記憶がないことを、初めて口惜しいと思った。

 一体どのような斬り合いだったのか。己はどこまで刃を届かせたのか。最後に、何を思って死んだのか。

 

 可能であるなら、今一度、一対一で正々堂々と、正面から。ただの武人として、刃を交えてみたかった。

 

 だが、それはもう叶わぬ願い。

 今の己は、ナザリックの守護者、アインズ・ウール・ゴウンの刃。

 

 己の望みよりも、武人としての欲よりも、主人の命こそが、何よりも優先される。

 

 

 ならばせめて、全力で殺そう。

 

 数で囲んでいることへの羞恥などない。卑怯などとも思わない。これは決闘ではなく、至高の御方に仇なす敵を討つための戦いなのだから。

 

 だが、己の一撃だけは、武人として誇れるものを。

 

 

「ーーー行クゾ」

 

 

 小さく、誰にも聞こえないほどの声で、コキュートスは呟いた。

 

 四本の腕が動き、創造主より与えられた得物を握る。背後に、不動明王が姿を現すと、その巨腕もまた、コキュートスと全く同じように刀を持ち上げた。

 

 

(武人建御雷様)

 

 

 もし、創造主がこの場にいたなら、この男をなんと評したのだろうか。

 

 それを聞くことは叶わない。ならば、己の刃で確かめるだけ。

 

 

(今度コソーーー)

 

 

 名乗りはしない。既に名乗っているし、例え名乗っていなかったとしても男は覚えていないだろう。

 

 それを悔しいとは思わない。ただこの一撃を、己の存在を、その身に刻み込んでやればいいだけだ。

 

 

「不動明王撃(アチャラナータ)‼︎」

 

 

 踏み込もうとしたその瞬間、世界がずるりと傾いた。

 

 攻撃されたと、そう理解するよりも早く構えていたはずの刀が、四本の腕が、己の身体が、全て遠ざかっていく。

 

 

(見エナカッタ)

 

 

 速いなどと言うレベルではない。

 技の起こりが、殺気が、踏み込みが、何一つとして、存在しなかった。

 

 気がついた時には、全てが終わっていた。

 

 

(………アァ)

 

 

 

 己の刃は届かず、至高の御方の敵を討つこともできない。守護者として、これは許されざる失態だろう。それを悔しいと思う己は確かにいる。

 

 だが一方で、武人としての己だけが静かに、笑っていた。

 

 

(見事ーーー)

 

 

 暗闇に沈む意識の中、最後にコキュートスの三対の瞳へと映ったのは、炎の腕で刀を握り、肉体を焼き、命さえ燃やしながらそれでもなお、前へと進む、一人の剣士の姿だった。

 

 

◇◆◇◆

 

 

シャルティアにとって、男は他ならぬ自分自身の仇だ。

 

 かつて、自分はあの男に敗北した。その瞬間の記憶はない。どう戦い、何をされ、どのように死んだのかなど、何一つ覚えてはいない。

 

 だが、それで敗北した事実まで消えてくれるわけではなかった。

 

 一部の例外を除けば、ナザリック地下大墳墓において最強クラスの守護者である、シャルティア・ブラッドフォールンが、ただ一人の人間に殺された。

 

 

(…………気に入らないでありんす)

 

 

 敗北そのものが気に入らないし、負けたことを覚えていないのも気に入らない。何より、男がそんなことなど覚えてすらいないらしいことが、気に入らない。

 

 自分にとっては屈辱であり、汚点であり、決して許すことのできない敗北。だというのに男にとっては、道端の石を蹴飛ばした程度の出来事なのだ。

 

 

(ふざけやがって…………)

 

 

 シャルティアは、己の強さに絶対の自負を持っている。それは慢心ではない。

 

 至高の四十一人が一人、ペロロンチーノによって創造された存在。種族、職業、装備、能力。その全てに創造主の趣味と愛情が詰め込まれた、自慢の作品。

 その身の全てが、ペロロンチーノから与えられたものと言っても過言ではない。

 

 だからこそ、自分の敗北とは自分一人の問題ではないのだ。

 

 ペロロンチーノ様のシャルティアを殺した。それはつまり、ペロロンチーノその人へ唾を吐いたも同然だと、シャルティアには思えてならない。

 

 

(あの時の私が、どんな無様を晒したかなんて知ったことではないでありんす)

 

 

 覚えていないのならば、やり直せばいい。

 

 今度こそ殺す。今度こそ自らの手で、肉を裂き、骨を砕き、血を啜り、その魂まで残らず踏み潰す。

 

 すぐには殺してやらない。指から一本ずつ千切ってもいい。皮を剥ぎ、再生させ、また剥ぐのも悪くない。

 死なない程度に血を抜き続け、命乞いの言葉すら出なくなったところでようやく終わらせてやる。

 

 そうして最後に問うのだ。誰に刃を向けたのか理解したか、と。

 

 

(あぁ…………考えただけでゾクゾクするでありんす)

 

 

 口元が自然と歪む。だが、その嗜虐心すら一瞬で吹き飛ばす声が響いた。

 

 

「守護者たちよ‼︎こいつを、今すぐ殺せぇえ‼︎‼︎」

 

「ッ‼︎」

 

 

 普段の、全てを見通したかのような重厚な声ではない、アインズの絶叫。

 

 怒りや悲痛、そして喪失。それらを剥き出しにした、聞いたこともない御声。

 

 

(アインズ様…………)

 

 

 胸が震えた。

 一瞬だけ、その苦悶に満ちた声に背筋を甘い痺れが駆け抜ける。

 

 己の愛する至高の御方が、感情を剥き出しにしている。

 その姿をもっと見たいという、己の内に刻まれた歪んだ欲求が顔を覗かせる。

 

 だが、今だけは、それに身を委ねている場合ではないと、湧き上がるものに蓋をする。今はただアインズをここまで苦しめた元凶を、誅殺せねばならないのだから。

 

 

(殺す)

 

 

 もう嬲る必要すらない。苦しめるのは後でもできるなどという考えも消えた。

 

 アインズが殺せと命じた。ならば、この瞬間、この場で、この男を消し去ること以上に優先されることなど、何一つない。

 

 

「死ね」

 

 

 スポイトランスを握る指に力が入る。

 その時だった、男の身体から炎が噴き上がったのは。

 

 

「チッ、邪魔ぁ‼︎」

 

 

 瞬く間に視界を埋め尽くす炎。だが、驚くほどのことではない。

 

 炎熱耐性はある上に、元より自分はアンデッド。肉が焼けようとも痛みに動きを鈍らせるようなこともなく、恐怖に足を止めることもない。

 

 ましてや、男は既に瀕死。片腕を失い、身体の至るところから血を流し、アインズの即死攻撃さえ凌いだ代償で今にも崩れ落ちそうな状態。

 

 その程度の悪足掻きで、このシャルティア・ブラッドフォールンをどうにかできるとでも思っているのか。

 

 

(舐めやがって…………)

 

 

 炎の向こうに男がいることは間違いない。見えなくとも問題はなく、それを補う手札をシャルティアは持っている。

 

 

「清浄投擲槍‼︎」

 

 

 掌の上に、白銀の輝きが集うと三メートルを超える、聖なる戦神槍が生み出される。

 

 MPを追加消費すれば、回避そのものを許さない必中効果さえ付与できる一撃。

 

 一度は斬られたスキルであるが、だから何だというのだ。

 

 あの時と違い男は満身創痍、そして自分は万全の状態。何より、これは至高の御方の命を受けて放つ一撃。

 

 

(今度こそ、ペロロンチーノ様から授かったこの力でーーー‼︎)

 

 

 殺す。そして、敗北を上書きする。

 創造主の名誉を取り戻し、アインズの悲しみを晴らす。

 

 

「臓物ぶちまけろやぁあ‼︎」

 

 

 その時、ゆらりと炎が揺れた。その隙間から、ちろりと何かが見えた。

 

 

「ーーーッ‼︎ 」

 

 

 男の灰色の瞳が、シャルティアを覗いている。ただ、それだけだった。

 

 魔法が飛んできたわけではなく、攻撃されたわけでもない。

 殺気に当てられただけならば、シャルティアに作用するはずがない。

 

 恐怖に対する完全耐性はもちろん、精神作用への耐性も持ち合わせている。アンデッドである自分に、恐怖などという生者の感情が肉体を縛るはずがない。

 

 

(なに、を…………)

 

 

 だというのに、ぴくりとも動かない。

 清浄投擲槍を放とうとしていた腕が、前へ踏み出そうとしていた脚が。まるで石像にでもなったかのように、動こうとしてくれない。

 

 

(動け…………動け‼︎ )

 

 

 必死に己の身体に命令を下す。ほんの少しでいい。指ひとつだけでも動かせば、清浄投擲槍は男を貫くために動き出すのだから。

 

 けれど、どれだけ足掻こうと身体は意思に反して動かない。

 

 

(私は、シャルティア・ブラッドフォールンでありんすよ⁉︎)

 

 

 ナザリックの階層守護者であり、ペロロンチーノによって生み出された最高傑作である存在。

 

 それが、こんなところで、たかが人間一人を前に足を止める理由などない。

 

 かち、と小さな音がした。

 かち、かち、かち、と断続的に、そして次第に早くなる音の正体は自身の歯。上下の牙が震え、勝手にぶつかり合っている。

 

 

(な、んで…………)

 

 

 呼吸など必要ないはずの胸が、息苦しい。

 心臓などとうに動いていないはずなのに、胸の奥が締め付けられ、背筋を冷たい何かが這い回る。

 

 逃げろと、身体の全てが、本能が全力でそう叫んでいた。

 

 

(何よ、これ…………)

 

 

 理解できない。

 自分はこの男に殺された時のことなど覚えておらず、刃を向けられた記憶も、首を落とされた記憶も、死んだ瞬間さえ、覚えていない。

 

 

(私は、知らないでありんす…………)

 

 

 だが、身体は知っている。灰色の瞳と、その殺意を。存在しないはずの記憶が、殺される前に逃げろと、警鐘を全力で鳴らしていた。

 

 

「…………っ」

 

 

 シャルティアの口元から笑みが消える。

 

 先ほどまで思い描いていた拷問も、復讐も、誇りも、創造主への忠義さえも、その一瞬だけ、全てが頭から吹き飛んだ。

 

 

(嫌ーーー)

 

 

 そんな言葉が浮かんだ自分に、シャルティア自身が最も驚いた。

 

 嫌だと、このシャルティア・ブラッドフォールンが、ペロロンチーノ様に創造された自分が、男に恐れを抱いたなど、そんなはずあるわけがないと、震える歯を食いしばる。

 

 しかし、気づけば男はシャルティアの目の前に。その灰色の瞳がシャルティアの視線と交差する。

 

 

「ヒッ‼︎」

 

 

 シャルティアの喉の奥から漏れた音。恐怖に怯えた、ただの少女のような声。

 

 遅れて、炎に反射して煌めく一刃。それがシャルティア・ブラッドフォールンの見た、最後の光景だった。

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 レンジャー職についているアウラの目はいい。

 

 地平線の彼方、その向こうまで見通す事が可能であり、夜闇の中だろうと、木々や建物が入り組んでいようと、獲物の僅かな動きさえ見逃さない。

 

 だからこそ、目の前の光景には違和感しかなかった。

 

 

(な、にが………)

 

 

 満身創痍。片腕を失い、身体中から血を流し、今まさに守護者たちの手によって殺されようとしていた男。その身体から、突如として炎が噴き上がった。

 

 瞬く間に視界を埋め尽くす炎。それに熱はある。だが、それだけだ。肌を焼くことも、生命力を削ることもない。ただ視界だけを覆い隠す、奇妙な炎。

 

 だが関係ないと、アウラは弓を握り直し、炎の奥を睨む。

 そこには、失った左腕を補うように炎を纏わせ、ゆっくりと立ち上がる男の姿があった。

 

 何をしたのか、何をするつもりなのか。そんなことは分からない。

 だが、分からないなら分からないなりに、狩ればいい。

 

 

(あたし一人じゃ、たぶん勝てない)

 

 

 それは認めるしかない。悔しいし、創造主であるぶくぶく茶釜に顔向けできないような気持ちもある。

 けれど、狩りというのは一人でするものではないのだ。

 

 相手を追い込み、逃げ道を塞ぎ、疲れさせ、隙を作り、そして最後に、確実に仕留める。

 

 難しい策を考えるのはデミウルゴスやアルベドの役目。けれど獲物を追い詰める狩りならば、アウラの方が得意だ。

 

 隣にはフェンリルのフェン。その反対には、周囲へ溶け込むように姿を隠す太陽鬣蜥蜴(イツァムナー)のクアドラシル。

 

 フェンが正面から飛び込み、クアドラシルが死角を作る。そこへ自分の矢を叩き込む。

 

 それでも駄目なら後方にいるマーレの役目だ。少し鈍くて、すぐおどおどして、何かあるたびに姉である自分の後ろへ隠れようとする弟。

 けれど、大地ごと全部ひっくり返す、守護者の中でも屈指の殲滅力を持った自慢の弟。

 

 

(大丈夫。距離もあるし、みんなもいる。何より、マーレがいる)

 

 

 そう思えば、不思議と恐怖は湧かない。代わりに胸の奥を満たすのは、怒りだ。手の中の弓が、ぎちりと嫌な音を立てる。

 

 

(アンタは、シャルティアを殺した)

 

 

 シャルティアとは顔を合わせれば喧嘩ばかりだった。鬱陶しいと思うこともあるし、向こうも同じだろう。けれど、本気で嫌いだったことなど一度もない。

 

 シャルティアを創ったペロロンチーノは、ぶくぶく茶釜の弟。恐れ多いとは思いつつも、どこか自分とマーレに似たものを感じていた。

 

 そんな相手を殺した。そして何より、アインズをあれほど悲しませた。それが何よりも許せない。

 

 

(絶対、殺す)

 

 

 言葉には出さず、フェンとクアドラシルへ視線を送る。それだけで二匹は理解した。

 

 フェンが低く身を沈ませ、クアドラシルの姿が景色へ溶け込む。アウラも、ぶくぶく茶釜から与えられた弓へ矢を番える。

 

 

(まずフェン。次にクアドラシル。それで隙ができたら、あたしがーーー)

 

 

 そこまで考えてふと、ほんの一瞬だけ、マーレの位置を確認しておこうと後方へ視線を向けた。

 

 

「おねえ………ちゃん………」

 

 

 ずるり、とずれたマーレの首が、アウラの視界に入る。

 

 

「…………え?」

 

 

 思考が、止まった。

 いつからそこにいたのか、男がマーレの正面に立っている。炎に照らされた抜き身の刀が、手に握られている。

 

 ほんの一瞬、コンマ数秒にも満たないほど、視線を外しただけ。ただ、それだけだと言うのに。

 

 

「ッ‼︎ マーレ‼︎」

 

 

 頭から、戦術が消えた。アインズの命令さえ、うろ覚え。残ったのは、弟の名前だけ。

 

 

「このッ‼︎」

 

 

 弓を男へ向けようとする。

 

 射殺すためではなく、ただマーレのところへ行くために。邪魔な男をどかすために。そう思って腕を動かしたはずだった。

 

 だが、いつまで経っても身体が言うことを聞かない。代わりに、世界がぐるりと回った。

 

 

「ーーーえ?」

 

 

 回転する世界の中で、アウラは確かに見た。自分の身体が首から血を噴き出しながら倒れていく様子を。

 

 少し離れた場所では、フェンとクアドラシルの首も宙を舞っていた。

 

 

(あたし、も……?)

 

 

 ようやく理解した時には、もう遅い。灰色の瞳だけが、炎の向こうで静かに揺れている。

 

 そこに喜びはなく、怒りもない。ただ、次に斬るべきものを探しているだけ。

 最後の最後まで、アウラの目はその姿を捉えていた。

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 アインズにとって、それは一瞬の出来事だった。

 

 

「は………?」

 

 

 視界に映るのは膨大な炎。距離が離れているというのに、骨身に沁みるような熱は強く、焼くというよりは身体の芯にまで響くような、不思議な感覚。

 

 男を包む炎が大きく揺らめく。

 その背後で左右に広がった火勢は、ほんの一瞬、巨大な翼を模った。まるで炎の中から蘇る不死鳥のように。

 

 そんなある種幻想的な光景の中、瀕死だったはずの男が動き出す。いや、その認識さえ遅い。気づいた時には既に、男はもう動いた後だった。

 

 

「やめ………」

 

 

 コキュートスが武器を振り上げる。

 ナザリックでも指折りの戦士。武人建御雷が作り上げた、誇るべき階層守護者。

 

 その四本の腕が宙を舞い、一拍遅れて首が落ちる。

 

 

「やめてくれ………」

 

 

 次に視界に入ったのはシャルティア。

 

 普段ならば尊大に笑い、敵を嬲ることを楽しむ彼女が、恐怖とは無縁のはずの彼女が、今は怯えていた。

 

 ペロロンチーノが心血を注いで作り上げ、理想の嫁だとそう紹介していた彼女は、ただ一人の少女のように恐怖し、歪んだ顔のまま首がずるりと横にズレる。

 

 

 

「もう、やめてくれ………」

 

 

 遠くにいたはずのアウラとマーレ。ぶくぶく茶釜が愛情を注いで作り上げた双子。

 

 仲の良い姉弟を引き裂く様に、マーレの首がずれ落ちる。そうして、叫んだアウラの首も同じ様にころりと転がった。

 

 その周囲にいた魔獣たちも同じ。守る暇も、抗う暇も、逃げる暇さえ与えられない。

 感傷に浸る暇もなく、ただ無慈悲にアインズの大切なものが斬られていく。

 

 

「ーーーモモンガ、様」

 

 

 声のした方へと反射的に視線を送る。その先にアルベドがいた。

 

 武器どころか両腕さえ失い、それでもなお翼を広げてこちらへ向かってくる。

 ちょっとした悪戯心で、モモンガを愛していると書き換えてしまった、アインズの罪悪の塊。それが、逃げるでもなく、そのような姿になってもまだ、アインズを守ろうともがいていた。

 

 

「ッ‼︎ やめろぉおおお‼︎」

 

 

 アインズは手を伸ばす。

 届くはずないと自身でもわかっているというのに、それでも手を伸ばした。

 

 

「アルベドォォオオ‼︎ 」

 

 

 炎に煌めく一刃。

 ただそれだけでアルベドの身体は両断され、力を失った黒い翼が二つに分たれた身体と共に地に伏せる。

 

 

 ナザリックが誇る、各階層守護者たち。

 それ以前に仲間たちの思い出が詰まった、アインズにとって何より代え難い子供たち。それがまるで木端のように斬り殺された。

 

 怒りはある。殺してやりたい気持ちもある。

 しかし、それよりもなお深い喪失と、また自分だけ取り残された絶望に、アインズはただ叫ぶしかできなかった。

 

 

「もう、やめてくれ………俺が………俺たちが何をしたって言うんだ………」

 

 

 確かに、この世界に来て殺人はした。法国の陽光聖典や、ミスリル級冒険者のクラルグラなど、数え出したらきりがない。

 しかし、それら全て理由があってこそだ。何も無差別に、無遠慮に殺し回ったりなどしていない。

 

 もしそれが罪だと言うのなら、アインズは声を大にして抗議する。

 命の価値は等価ではない。アインズはただ、ナザリックとその他、それを天秤にかけてナザリックの子供達の幸福を願っただけだ。

 

 

「答えろ………答えろ、亡剣‼︎ 俺たちがやってきた事を、お前が裁く権利があるのか⁉︎」

 

 

 アインズたちの手によって救われた命もあったはずだ。

 逆に、男が斬ったことにより悪化した事例もあるはずだ。

 

 

「俺たちが悪で、お前は正義とでも言うのか⁉︎ 正義なら、何をしてもいいと言うのか‼︎⁉︎」

 

「ーーー知ら、ぬ」

 

 

 いつの間にか、炎がそこにあった。

 炎の中にいるそれは、最初の頃よりも皺が増え、声はしゃがれ、腕は枯れ枝のように細くなり、老人と言っても差し支えない見た目に変わっていた。

 

 しかし、その灰色の瞳だけは変わらず、その奥に燃える様な意思を宿してアインズを見つめる。

 

 

「………無道、斬る………のみ」

 

「ッ‼︎ このッ、偽善者が‼︎」

 

 

 音を置き去りに、男の刃が振るわれる。

 一拍遅れて、骨の頭が宙を舞った。

 

 

 

◇◆◇◆

 

 背後で崩れ落ちる骨の身体。それを確認するようなことはせず、男は静かに刃を鞘に収める。

 それに合わせるように、全身から吹き出していた炎が衰えていく。

 

 天を焦がさんばかりに燃え盛っていたそれは急速に勢いを失い、失われた左腕を模っていた炎もまた、最後の一片まで消え去った。

 その瞬間、男の全身を襲う虚脱感。

 

 

「…………っ」

 

 

 膝が折れる。刀を杖代わりにして何とか踏みとどまるが、その程度の動作でさえ、今の男には途方もない労力を必要とした。

 

 魂を斬る代わりに自身の魂を削る絶剣よりも、なお深い喪失感。

 

 肉体から何かが抜け落ちていく。

 否、既に抜け落ちた後なのだろう。今まで当たり前のように存在していた何かが失われ、その空白だけが胸の奥にぽっかりと残っている。

 

 呼吸をするたびに喉が軋み、肺が悲鳴を上げ、右手に握った刀は鉛のように重い。いや、腕そのものが己のものではなくなったかのように、指一本動かすことさえ億劫だった。

 

 最早、視界はほとんど機能しておらず、目に映るのはぼやけた景色。己がどこに立っているのか、それさえ判然としない。

 

 胸の奥、何かが燃え尽きてしまったのを感じる。それが何なのか、男は知らない。

 ただ、己に次はないのだと、漠然と感じていた。

 

 

「次、なる………無、道………」

 

 

 だからこそ、男は歩みを止めない。

 口から出る声は掠れ、刀を握る手は細枝のように痩せ細っている。

 音を置き去りにした速度は見る影もなく、亀の歩みの方がまだマシなほど。

 

 一歩、また一歩と、足を持ち上げるたびに身体が傾ぎ、今にも地面へ倒れ込みそうになる。

 

 もう十分だと、身体の全てが訴えているようだった。だが、男にはその意味が分からない。

 

 まだ無道はいる。

 己が斬らねばならぬものが、この世には幾らでも残っている。

 

 そうである以上、立ち止まる理由などなかった。

 

 それはもはや使命と呼べるものですらないのかもしれない。六百年という歳月の果て、最初に抱いたはずの何かさえ忘れ去り、それでもなお残り続けた執念。

 呪いにも似たそれに突き動かされていた足が、ふと止まった。

 

 

「………」

 

 

 おかしい。

 前に進もうとしているのに、身体が言うことを聞かない。胸の奥に、何か妙な感覚がある。

 痛みにゆるりと視線を下ろせば、そこから顔を出していたのは一本の剣先。

 

 己の身体から生えているかのようなそれを、男はしばらく眺めていた。

 

 

(あぁ………)

 

 

 刺されたのだと、ようやく理解した。その途端、身体が大きく痙攣する。ごぽり、と口から血の塊が溢れ、喉の奥から湿った音が漏れた。

 

 剣が乱暴に引き抜かれ、支えを失った男は為す術もなく地面へと転がった。

 

 

「…………」

 

 

 仰向けになった視界に、白銀の鎧が目に入る。見覚えがあるような、ないようなと、男がそれを確かめようとするよりも早く、鎧の輪郭がどろりと崩れた。

 

 溶けるように姿を変え、そこから現れたのは軍服を着た奇妙な存在。卵に三つの穴を開けたような顔に目深に被った軍帽。その手には、己を刺したのであろう剣が握られていた。

 

 

「あなたにとって、我々は無道だったのでしょう」

 

 

 静かな声だった。しかし、よく聞けば、その声は僅かに震えている。

 軍帽の陰に隠れた表情を、男が窺い知ることはできない。

 いや、そもそも今の男には、軍帽があろうとなかろうと、その顔を見分けることさえ難しいだろう。

 

 だからこそ、目にあたる両の穴から零れ落ちる涙など、知る由もなかった。

 

 

「ですが、アインズ様は………モモンガ様は、我々にとって最後までこの地に残ってくださった、偉大な御方でした」

 

 

 剣を握る手が、小刻みに震える。

 それを抑えようとしているのか、軍服の男は一度だけ、柄を強く握り直した。

 

 

「我々を導き、守り、慈しんでくださった。至高の御方々が去られた後も、ただお一人、我々の傍にいてくださったのです」

 

 

 言葉を重ねるたびに、声が掠れていく。

 普段ならば大仰な身振りを交えて語るであろうその存在は、今はただ、目の前の男を見下ろしていた。

 

 

「そして、私にとってモモンガ様は生みの親………父上のような存在でした」

 

 

 その言葉を聞いて、男は薄く目を開いた。

 

 

(あぁ………なる、ほど………)

 

 

 つまりは、敵討ちだ。

 親を殺された子の復讐。

 なるほど、道理であると、頭の隅で思う。

 

 男には、目の前の存在が抱いている悲しみも、憎しみも分からない。ただ、その理由は理解できた。

 

 己が無道と断じ、斬り捨ててきた者たちにも、親しき者はいただろう。

 親もいれば、子もいる。友も、伴侶もいたかもしれない。その者たちからすれば、己こそが憎むべき仇に違いない。

 

 それでも男は無道を斬り歩いてきた。誰かが泣こうと、恨もうと、刃を振るうことをやめなかった。ならば、自分もまた斬られるのは当然のこと。感謝される謂れなどあるはずがない。

 

 相手に恨みはなかった。己にも斬るべき理由があったように、目の前の存在にもまた、刃を振るう理由がある。ただ、それだけのことだ。

 

 

「…………」

 

 

 ごぽり、と再び血が溢れた。

 胸元へ触れれば、べっとりと生温かいものが手に付着する。傷口から溢れる血は止まらない。

 

 けれど、もう痛みさえ感じなかった。それが死の近づいた証であることくらい、男にも分かっている。

 

 不思議と、恐怖はない。ただ、少しばかり惜しいとは思う。まだ己には、為すべきことが残っているのだから。

 

 

「せめてもの慈悲です。この一撃で終わらせて差し上げましょう」

 

 

 軍服の男が剣を持ち上げる。

 その手はまだ震えていたが、しかし、振り下ろすことに躊躇いはないようだった。

 

 天高く掲げられた剣。あと数秒もすれば、この命は潰える。男もそれを理解していた。

 

 

(………無念)

 

 

 後悔はある。

 まだ斬らなければならない無道はいるのだ。

 まだ無道に泣く誰かがいるのだ。

 そうした者たちを、この先は誰が斬るというのか。

 

 残された力を振り絞ろうにも、身体は完全に役目を終えたとばかりに反応せず、指先はもはや動かない。それでもなお、男は足掻くように起き上がろうとする。

 

 

(まだ………)

 

 

 けれど、その時ふと、男の胸に小さな疑問が浮かんだ。なぜ、己はこれほどまでに無道を許せぬのだろうか、と。

 

 何百年もの間、斬り続けてきた。

 幾度となく刃を振るい、命を奪い、時には己も死にかけた。それでも足を止めなかった。

 

 その理由をかつては知っていたはずなのだ。

 

 だが、いつからだったか。

 斬らなければならないという思いばかりが残り、何故そう思うようになったのか、思い出すことさえなくなっていた。

 

 遠い昔、まだ己がこれほど刀を振るっていなかった頃。何かがあったはずだ。大切な、何かが確かにあったはずなのだ。

 

 男は霞んだ意識の中で、懸命に記憶を辿った。幾百年もの歳月に擦り減らされ、もはや形さえ残していない記憶。

 

 誰かの声がしたような気がした。

 顔も、名前も思い出せない。

 ただ、その声を聞くことが、かつての自分には何よりも嬉しかったのだと、それだけが妙にはっきりと分かった。

 

 

(あぁ………)

 

 

 不意に、口元が緩んだ。

 

 そうだ。何故、忘れていたのだろう。

 

 男は天に掲げられた剣を見上げる。

 己を殺そうとしているのは、親を殺された子。その悲しみを、その憎しみを、己は知っている。

 

 そうして、ようやく思い出した。遠い昔に置き去りにした、何よりも大切だったものを。

 

 

(あぁ、そうだ………我は………私にも、家族がいたのだったな……)

 

 

 剣が振り下ろされる。

 それと同時、男の火種がふっと消えた。

 





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