ゆらり、と揺籠に揺られるような感覚。ふわふわと宙を浮かぶ様な、波の上で寝そべる様な、心地のよい感覚。
大きな存在に抱き抱えられながら、巨大な何かのひとつになっていくような、不思議な感覚。
けれど、意外にも恐怖はない。いや、恐怖という感情すら、よくわからない。
上も下もなく、右も左もない。目を開けているのかどうか、そもそも目というのは何だったのかすら理解できない。ただひとつわかるのは、これは自然なことなのだということ。
嵐に対して拳を振るうような、抵抗する事さえ考えられない摂理。
「ーーーっ‼︎」
その心地よい微睡に身を任せていれば不意に、誰かの声が聞こえた。
誰だ、と少しの苛立ちを覚える。誰かが自分を叩き起こそうとするそれに、必死に抵抗するが、けれど布団を引き剥がす様な、乱暴な声は止むことを知らず、その意識はゆっくりと浮上した。
◇◆◇◆
「アインズ様‼︎」
声に揺さぶられてゆっくりと目を開けば、まず目に入ったのは強烈な光。反射的に目を瞑り、そして何度か瞬きして慣れてくれば卵に三つの穴が空いたような顔の何かが視界に入る。
どこか見覚えのあるそれに頭を捻るが、どうにも頭が働かない。
ゆっくりと深呼吸すれば、肺を満たす新鮮な空気。光が肌を刺激する感覚。胸の奥から煩いくらいに聞こえる心臓の音。
ぼやけた頭は未だ状況を把握できず、けれど目の前の異形は粘度の高い涙のようなものを溢しながら、あぁ、と息を漏らした。
「アインズ様………あぁ、よかった………‼︎」
「アインズ………?」
どこか聞き覚えのあるそれに、なんだったか、と頭の奥から記憶を引っ張り出す。
アインズ。
アインズ・ウール・ゴウン。
かつて自分たちが作り上げた、大切なもの。仲間たちと築き上げた自分の居場所。それを皮切りに、関連した情報が脳裏を駆け巡った。
(あぁ、そうだ………確か、ゲームが現実になって………そうしてーーー)
そうして、なんだったのか?
ふわふわとした頭はそれ以上の情報を読み込めず、取り敢えずは立ちあがろうとゆっくりと身体を起こそうとする。
「ア、アインズ様‼︎ まだ安静にしていたほうが………‼︎」
「うわっ⁉︎」
心配した異形が触れた瞬間、ひんやりとした感触が肌を刺す。まるで初めて物に触れた様な、そんな感覚に驚き、思わず声を上げた。
それに驚いたのは異形の方だ。反射的に押し止めようとした手を離し、再び身体は地面に横たわる。その際に頭を強く打ち、痛みに涙が溢れた。
「いッ‼︎」
「も、申し訳ありません‼︎ お怪我はありませんか⁉︎」
「け、が………?」
言われて気づく。自分は骨の身しかないオーバーロードだったはずだと。けれど、いま頭部を襲うのは分厚い皮を挟むような痛みではなく、直接神経を刺激する痛み。
患部を抑える手にも神経の刺激が走り、不要だったはずの呼吸もしている。
恐る恐る顔を触れば、皮膚の触感があり、瞼や鼻、耳もある。手を目の前に持っていけば、そこにあるのは骨ではなく、筋肉と皮膚に包まれた手。身体に手を置けば、同じ様に皮膚の感覚が神経を刺激する。口内は唾液が湿り、脈は熱いほどに鼓動していた。
はっ、はっ、と呼吸が荒くなり、心臓が煩いくらいに高鳴る。慌てて空中へと手を伸ばせばその手が空間へと沈み、アイテム欄が顔を出せば探し出すのはひとつの鏡。
何の効果もない、ただの普通の鏡は、しかしその鏡面に映った真実を突きつける。
「こ、これは………」
鏡に映るのはオーバーロードになる前、ブラック企業に使い回され、それでもユグドラシルを日々の癒しとしてプレイしていた人間、鈴木悟としての身体がそこにあった。
「パ、パンドラ………私の身体は、どうなっている?」
「………アインズ様の身体は現在、人間のものとなっております」
ようやく思い出した異形の名前。それを呼べば少し言い淀みながらも、しっかりと誤魔化す事なく報告してくれる。
どうして、なにがあった、と様々な疑問が脳内に溢れる。オーバーロードの時は抑制されていた感情も、人間の身体はそれがダイレクトに伝わり、余計に混乱は深まるばかり。そして、視界の端にちらり、と映った死体に悟の目が向く。
片腕を失い、胸に深々と剣が突き刺さった男の死体。亡剣と呼ばれ、ナザリックに弓引いた存在。
どこか笑って死んだ様に見えるそれに、悟はゆっくりと指を向けた。
「パン、ドラ………あいつを、蘇生して、くれ………」
「それは………」
「頼む………」
悟の願いにパンドラは暫し熟考すると、「……畏まりました」と苦悩に満ちた声を漏らし、懐から杖をひとつ取り出す。
悟自身、男を蘇生して何をしたいのか、よくわかっていない。
守護者たちを殺した怒りをぶつけたいのか、人間の身にした事を問い詰めたいのか、それともオーバーロードというある種の呪縛から解放してくれたことへ感謝を述べたいのか。
ただ、知りたいのだ。
未知の現象を、既知としたいのだ。
パンドラの掲げた杖が光を放つ。その光に男の死体は包まれたが、しかし光は瞬きの間に消えてしまった。男が目を覚ます様子はなく、身体の損傷も癒やされた様子はない。
「む?これは………」
「パンドラ、どうか、したのか?」
「アインズ様………この男の蘇生は不可能のようです」
「え………?」
パンドラの言葉を裏付ける様に、男の死体が崩れ出す。それはまるで灰の塊のように染まると、微かな風に吹かれてその端からサラサラと空中へと消えていく。
「ま、待ってくれ!」
立ち上がることもうまくいかず、腹ばいになりながら男の死体へと近づくアインズ。その様子を、パンドラは止めようとしない。手助けもしない。ただ、自らの主人の行動を、その意味を焼き付けていた。
「あ、あぁ………」
ようやく悟が辿り着いた時には、男の死体はほんの一握りしか残されておらず、悟はそれを両手で強く握りしめると額に当てる。
悔しさからか、歯を食いしばる悟の背中に、パンドラが声をかけた。
「アインズ様、推測を述べさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「………聞かせてくれ」
「はい。先ほど、蘇生を試みた際、男の魂を掴む感覚がありませんでした」
「どう、言う事だ………?」
「アインズ様を蘇生する際、魂を掴み上げるといいますか、そう言った感覚があったのです。そして、魔法が行使され、アインズ様の肉体は人間のものに………ですが、男の魂はまるで空振り。このことから、男は消失したのではないのでしょうか?」
「消、失………」
それは聞き覚えのある言葉だった。
ワールドアイテム、ロンギヌスの槍。使用した者と、刺された者のデータを消失させると言うものだ。消失したデータはどのような手段でも戻らず、他のワールドアイテムでさえ干渉できないほど。
男が最後の瞬間に放った炎が悟の脳裏を掠める。守護者たちを一息のうちに斬り捨て、自分さえもあっさりと斬った、その超越した力の代償とでも言うのだろうか。
がくり、と肩を落とす悟の目に、一本の刀が目に映る。男が所持していた刀。常識外れの男が持っていた、常識外れの得物。
レア物に反応したのか、それとも無意識の内に縋っていたのか、何気なくそれに触れた瞬間である。
『よくも………っ‼︎』
「っ⁉︎」
頭に直接響く、怨嗟に満ちた声。恨み辛みなんて言葉では生温い憎しみを向けられ、悟の手は強張ったまま、意思に反して刀を握ってしまう。
『よくも………よくも、お師さんを………‼︎ もう、あの人はどこにもいない‼︎ 返せ………っ‼︎ お師さんを、返せぇええ‼︎』
「ヒッ‼︎」
「アインズ様、失礼いたします‼︎」
声だけで人を呪い殺せそうな怨嗟。恐怖に染まる悟を救ったのは、他でもないパンドラだった。
悟の手から強引に刀を奪うと、すぐに悟の手の治療を。そして、脳内に響く声を無視しながら、道具鑑定の魔法を刀へと向ける。
「これは………」
鑑定の結果、刀は
しかし、何より目を引くのは、その内部に魂が内包されていることだ。
パンドラの脳内に響く声もただの怨嗟であり、こちら側を操ることも、会話することもできない。ただその残滓が矮小に叫ぶことしかできない。
しかし、パンドラの腕の中の悟には関係ないこと。恐怖に震える悟だが、脳裏に呼び起こされるのは自身が行ってきたこと。
陽光聖典を殺し、クラルグラの面々を殺し、そして王都では予定より少ないとは言え千人を超える人間を捉え、実験等に使い回したこと。その他大小関わらず、脳は恐怖から逃れようと様々な場面を浮かび上げるが、人間視点では残虐に映るそれに、悟の許容は超えてしまった。
「うっ……おえっ、おぇえええっ‼︎」
「アインズ様‼︎」
たまらず胃の中の物を吐き出すが、復活直後で内容物が入っておらず、出てくるのは胃酸ばかり。
その弱々しいまでの姿に、パンドラは思わず手の中の刀を強く握る。いっそこのまま折ってしまった方がいいかもしれないと、自らの道具コレクターとしてのアイデンティティを放り出すことも考える。
しかし、そうあれかしと命じたのは、他でもないアインズだ。それを否定するということは、アインズ様を否定すること、とぐっと堪え、そして未だ吐き続ける悟へと視線を向ける。
姿形は以前とは変わってしまった。しかし、その慈悲深き性格や魂までは変わった様子はない。
(恐らく、オーバーロードとしてのアインズ様は斬られ、残った魂から身体が作られたようですが………いえ、真相解明は後回しに。今はとにかく、この御方を守らなければ)
メイドの一人である、ペストーニャならば神官魔法を扱える。それで恐怖を和らげることもできるはずだ。
そう思い立ち、伝言の魔法を使用しようとしたその刹那、パンドラの腕を悟が強く掴む。
「アインズ、様………?」
「パンドラ………俺を………殺してくれ………」
ヒュッ、とパンドラの口から音が出る。強く強く、パンドラの腕を掴む悟の瞳に浮かぶ昏い絶望。
それは悟の悲鳴だ。人を殺し、そして我が子の様に愛していた守護者たちを、自分の命令で殺してしまった。それはとても人の身で抱えることはできず、口の端から垂れる胃液を拭うことさえ忘れ、ただ願うのは命を断つこと。
虚な瞳はパンドラを映しておきながら、その視線はただひとつ、刀へと向けられていた。
わなわな、と震え出すパンドラ。それを止めようと言葉を紡がなければいけないのに、出てくるのは空気だけ。
「パンドラ………頼む………もう、いやなんだ………」
「ア、イン、ズ………様………」
ナザリックでも上位に入る賢さを持っていながらも、何と説得すればいいのかパンドラにはわからない。ただ、親に縋る子供の様に、腕の中にいた悟を、震えながら抱きしめることしかできなかった。
「パンドラ………お願いだ………」
「嫌、です………」
ぽつり、と溢された言葉に、今までの様な演技臭さはない。鈴木悟に、モモンガに創造された子供としての悲鳴だった。
「頼む………頼むよぉ………もう、わからないんだ………どうすれば許される?どうすれば、いいんだ………もう、死んで、楽にしてくれ………」
「ッ!嫌です!」
一際強く、それでいて潰さないようにパンドラは悟を抱きしめ叫ぶ。
「お願いです、アインズ様!貴方まで……貴方まで私から父上を奪おうとしないでください!」
「俺は……父親なんて、資格………」
「いいえ!誰が認めなくとも、貴方様は私の父上なのです!」
ぼとり、と。パンドラの目から粘度の高い涙が溢れる。悟の背を濡らすことなど、そもその身体を抱きしめること自体、本来であれば不敬と咎められても仕方がないだろう。
しかし、今のパンドラにできることはこれしかなかった。
「父上、お願いです!死にたいなど言わないでください!」
壊れそうになる悟を繋ぎ止める様に、パンドラはただ抱きしめる。その肩口に頭を乗せ、懇願する。
「辛いのでしょう、後悔に潰されているのでしょう………それでも私は!貴方様に生きていて欲しいのです!」
「ぅ………ぁあああああ‼︎」
「ぉおお、おおおおおお‼︎」
ナザリック第八階層、一部が砂地となった荒野にて、二人の慟哭だけがただ響いていた。
それから暫くして、泣き声も止んだ頃。真っ赤に目を腫らし、鼻を啜る悟。少しは落ち着いたのだろう、その瞳には微かに光が戻っていた。
パンドラ共々砂の上に腰を下ろし、気恥ずかしさから互いに見つめるのは砂だけ。けれど、視界の隅には確かに両者の存在を入れていた。
「………パンドラ」
「………はい、アインズ様」
「………これから、どうすればいい?」
自身の欲のため、ナザリックのため、人々を生贄にしてきた事実は消えない。それを償う方法はわからず、それを無視して今まで通り生きることもできない。
縋る様な悟の問いに、パンドラはゆるゆると首を振った。
「………如何様にも、なさってください」
「それ、は………」
「アインズ様ーーーいいえ、父上。我々ナザリックの僕は、貴方様のために存在しております」
パンドラの言葉は、悟にとって重いもの。ただのサラリーマンに過ぎなかった自分には、とても受け止められない重責だ。
それはパンドラにもわかっているのだろう。けれど、心を鬼とし、パンドラは言葉を続ける。
「貴方様が望むのならば、我々は世界すら敵に回しましょう。世界を慈しむのならば、それをお手伝いいたしましょう。我々が邪魔とおっしゃるのであれば、喜んでこの命をさしだしましょう………父上、我々に遠慮はいらないのです。御身に仕えること、それが至上の喜びなのですから」
「でも、それは………そう、思い込まされているだけだろう」
「そうかもしれません。ですが、今の私の気持ちは、確かなのです」
例えゲームシステム由来の感情だろうと、パンドラには関係ない。そも、本物か偽物か証明しろと言われても無理な話だ。
だからこそ、信じてもらうしかない。パンドラが、ナザリックの僕全員が、悟を愛していると言うことを。
「父上。最後までナザリックに残ってくださった慈悲深き御方………貴方様の願いは、何で御座いましょう?」
「俺、は………」
ちらり、と悟が視線を向けるのは、パンドラの横に置かれた刀。憎き男の遺品であり、そして自分たちが手を出さなければ違う誰かを救っていたであろう、男の刀。
「………パンドラ、その刀を、渡してくれるか?」
「それ、は………」
「頼む」
「………畏まりました」
パンドラが恭しく差し出すそれを、悟は両手で受け取る。その瞬間、再び脳内に響く怨嗟の声。
恐ろしいと思う。後悔もある。懺悔もある。けれど不思議と、手を離す真似はしたくなかった。
「………ごめんなさい。貴方の大切な人を、奪ってしまって………」
会話は通じない。怨嗟が止むことはない。所詮は自己満足だと言われても仕方がないだろう。
けれど、今やりたいことと問われたらこれしか浮かばず、悟はゆっくりと腰を上げた。
「パンドラ、ついてきてくれないか」
「どちらまで?」
「………エ・ランテルの、道場まで」
◇◆◇◆
リ・エスティーゼ王国が抱える都市の一つ、エ・ランテル。崩壊したトブの大森林にほど近いこの街は、かなりの被害を負っていた。
「おい、こっちに包帯持ってこい!」
「物資が足りねぇよ、バカ!回復薬だって足りやしねぇ!」
「焼いて塞げ!死ぬよりマシだ!」
飛び交う怒号。響き渡る泣き声。
森の奥から出てきたモンスターたちの被害は、当初よりも落ち着いたとはいえ、それでも亡くなっていないことは確か。
王都や他の街からの物資は滞り、怪我人や死人は増えていく一方。それでも街を捨てて逃げないのは、単純に受け入れ先がないということもあるが、愛着の湧いた故郷を捨てたくないという気持ちが大半だった。
「おい、相棒がヤベェ!早く回復薬をくれ!」
「は、はい!」
診療所は既にパンクしているため、臨時の救護施設として貸し出された道場の敷地。所狭しと怪我人が並べられた中で駆け回るのはエンリを始めとした、カルネ村の住人たちだ。
既に戻るべき場所を失い、居場所のない彼女達。それでも動き回るのは、絶望に暮れないためだ。
動いていなければ、働いていなければ、失くした村やジュゲムたちを思い出して足が止まりそうになる。けれど、生き残った者の責任として、生き続けなければならない。
不謹慎であるけれど、この多忙さは今のエンリ達にとってありがたいことだった。
駆けつけた先にいた冒険者の腹には装備ごと抉られた深い傷があり、中身が覗いている。最早見慣れてしまったそれに、手早く回復薬をかけてやれば荒かった呼吸が僅かに和らいだ。
「すまねぇ、助かった………!」
「すぐに回復魔法が使える人を探してきます!」
「ああ、頼んだ!」
手を握り、励ます仲間にとっては大切な人なのだろう。回復薬はあくまで回復力を高めるだけ。傷そのものを修復するわけではない。
回復魔法を使える魔法詠唱者は引っ張りだこで、街にいる誰もが疲弊している。それでもめげずに、きっと事態は好転すると信じるしかない。
エンリは素早く立ち上がると、魔法詠唱者を探して回ろうとする。そんな中、人混みに紛れて不審な人物を見つけた。
怪我をしているわけでもなく、冒険者のような体つきでもなく、ただ布に包んだ何かを抱え、しきりに周囲に視線を向ける男。
おどおどと、どこか困った様子の人物は、はっきり言って浮いている。けれど、周囲はそれどころではなく、男を気にかける余裕はない。
「あの………」
「は、はぃ⁉︎」
つい声をかければ、男は飛び上がるほど驚き、慌ててエンリに視線を向ける。どこか恐怖を孕んだそれは、この街ではよく見たもの。
きっと、道中でモンスターに襲われたのだろうと納得したエンリは、なるべく優しく声をかける。
「どうかしました?誰かのお見舞いに?」
「い、や、その………」
エンリに視線を合わせることなく、上手く言葉が出てこないのだろう、言い淀む男。しかし、腕の中の包みに視線を落とすと、何かを堪えるように口を結び、それをエンリに差し出す。
「あの、これを………ここに、奉納してもらえますか?」
「え?」
「………ここしか、知らないので」
「え、ちょっと⁉︎」
強引にエンリに引き渡すと、男は有無を言わずに踵を返す。その背中と、渡された包みへと視線が交互に動き、呼び止めようにも名前もわからないから何と呼べばいいのかとわからない。
けれど、その背中をどこかで見たような気がして、つい無意識のうちに叫んでしまった。
「ゴウン様‼︎」
ぴたり、と男の足が止まる。そして、顔だけこちらを向けると、疲れたように笑った。
「人違いですよ」
それだけ言い残して、男は去っていき、あっという間に人混みの中に紛れてしまう。
エンリ自身、なぜ男を恩人であるゴウン様と呼んだかわからない。記憶にある彼の人は背丈は高く、背中も広い。どう考えても男とは似ても似つかないというのに。
「なんだったんだろう………」
訳もわからず、腕の中の包みへと視線を向ける。布越しに感じるのは、硬い鋼鉄の感触。武器か何かなのだろうか、と疑問を浮かべるエンリ。
「おい、エンリ!魔法詠唱者はまだなのか!」
「あ、はい!すぐに!」
けれど、今はそのような場合ではなく、人命が優先。受け渡されたものを道場内の隅に立てかけるとエンリは一刻でも早くと、魔法詠唱者を探し出すのであった。
◇◆◇◆
それが噂になったのは、エ・ランテルのモンスター被害が落ち着いてきた頃だった。
人間とは案外適応できるもので、数々の犠牲を出しながらも、新たな道を切り開き、そして物流も徐々に回復していく。
何より大きかったのは、王国からようやく兵が派遣されたことだ。
先日の一件で貴族派に属する有力者が多数死亡、あるいは行方不明となったことで、これまで救援を阻んでいた声が弱まったのだ。
王派閥も無傷ではなかったが、それでも以前よりは動きやすくなり、ようやく地方救援へ兵を回す余裕が生まれていた。
その頃、道場同士の情報網に奇妙な噂が広がり始めた。発端はエ・ランテルの道場へ、見知らぬ男が置いていった一本の刀だった。
道場の者が何気なく包みを解けば、現れたのは三つものルーンが刻まれた刀。しかも、誰が握ろうとしても柄に触れた途端、強烈な拒絶の意思を感じるという眉唾な噂。
しかし、ブレインはその話を聞いた瞬間、制止の声も聞かずにエ・ランテルへと向かったのだ。
ドワーフ国から帰ってきて間もないというのに、そんな疲れなど感じさせず、御者を早く早くと脅しながらエ・ランテルの道場へと向かえば、未だ怪我人が寝転ぶ建物の中で確かに刀が飾られていた。
嘘だ、そんなはずない、と必死に己に言い聞かせ、それでも確かめるように刀を握る。その瞬間、頭の中に『触るな』とも言葉にならない感情が流れ込んだ。
それに一瞬だけ動揺するブレインだったが、意を決して柄から刃を引き抜く。打ったばかりのような輝かしい刀身に打ち込まれた三つのルーン。見覚えのある波紋に、見たことのある刀身。
あぁ、と自然に言葉が漏れた。それが刃の美しさから出た言葉ではないことは、ブレイン自身がよく知っていた。
「あ、あの………ブレイン・アングラウスさん、ですよね?」
「………あぁ、アンタは?」
「銀級冒険者、漆黒の剣のペテルと言います………その、どうしてここに?」
「………刀」
「へ?」
「………この刀、誰が持ってきた?」
低く、怒りと落胆がない交ぜになった様な声でそう問いかけるブレイン。その恐怖さえ感じる声に、ペテルはすくみ上がりながらも答えない場合が怖くて声を出す。
「さ、さぁ………それが、見たことのない男が持ってきたらしくて………詳しいことは」
「そうか………」
ブレインは刀身を鞘に収めると、静かに刀を元の場所へと戻す。ゆらり、と力なく歩き出したブレインに道を譲り、ペテルはその背中を見つめるしかできない。
「邪魔、したな………」
それだけ言い残して立ち去るブレイン。何だったんだ、と内心で漏らし、下からの呻き声に我に帰る。
そうだった、と自身の役割を思い出して取り出すのは包帯。近頃の戦闘では漆黒の剣は囮にもなれない強敵ばかり。ならばせめて、とこうして怪我人たちの介護に来ているのだ。
それは何も漆黒の剣に限った話ではなく、低ランクの冒険者たち全員の意思。街を直接守ることはできないが、せめて一助になればという願いからだ。
「すいません。包帯、今変えますからね」
そうして怪我人たちを介助するペテルとは反対に、王都に戻るブレインの足取りは重い。ガタガタと大して乗り心地の良くない行商人の馬車に乗せてもらい、そうして王都に帰ったところでブレインはすることがなく、ただ宿でやけ酒して寝るだけ。
いつかいつか、と思い描いていた理想はもういないと、そう理解していた。あの刀が何よりの証左。あれほどの剣士が得物を手放すなど、死ぬ時以外ありえない。
磨いていた剣の腕も、届くためにもがいた鍛錬も今はただノイズにしかならず、昼と夜が何度も無意味に繰り返されるだけ。
最早味さえわからない、ただ酔えればいいだけの酒瓶をひっくり返し、中身が無くなれば簡素な寝具に身を沈めた時だった。鍵をかけたはずの扉が荒々しく叩かれたのは。
「おーい、生きてるー?」
「チッ………」
扉の向こうから聞こえた声に、思わず舌打ちを。今は誰にも会いたくないのだ。布団を頭まで被り、居留守を決め込むが扉の向こうの人物は諦めるつもりはないのだろう。
「あ、そう。そう言うつもりね。ならーーー」
荒々しく叩かれていた扉は次第に悲鳴の様な軋みを上げて、そうして遂には轟音を立てて蹴り破られる。
扉の向こうにいたクレマンティーヌは、修復不可能になった扉を潜ると、今尚起きようともしないブレインの姿に鼻を鳴らす。
「ふん。まぁだ寝てるんだ。良いご身分だねぇ〜」
「………ほっとけ」
「あ、返事する気力はあるんだ」
持っていた棒状の包みを乱雑に置くと、足の踏み場もないほど溜まった空瓶を避けながら、クレマンティーヌは勝手知ったるとばかりに布団の隅に遠慮なく座る。
何をするでもなく、自分の爪を見たり、空瓶を足先で突いたりするクレマンティーヌ。暫しの沈黙の後、痺れを切らしたブレインが布団の中から口を開く。
「………何のつもりだ」
「ん?べっつにぃ〜。ただ、負け犬の顔を拝みに来ただけ〜」
「負け犬………?」
「あ、自覚ないの?アンタだよ、アンタ。中途半端に剣を捨てたアンタのことだよ」
遠慮のないクレマンティーヌの言葉に、一瞬だけ頭に血が昇る。しかし、相手のペースに飲まれるまいと耳を塞ぐと、クレマンティーヌへと背中を向けた。
それでもクレマンティーヌの言葉は両手の隙間から耳に入ってくる。
「ホント、なっさけないよねぇ〜。あの化け物を超えるんだ、なんて言っておきながら、死んだだけで立ち止まるなんて。迷子のガキかっての」
ぐさり、と。容赦のない言葉は刃となり、ブレインの心の柔い部分を突き刺す。
「あ、それなら納得だ。アンタ、棒切れ振ってるガキと変わらなかったんだね。よかったじゃん、現実を知れて」
「………うるせぇ」
耳を強く塞ぎ、布団の中で身体を縮めるブレイン。かつてガゼフにさえ届きうると噂された剣士の姿はそこにはなく、辛い現実を直視したくない子供のような姿。
それに手加減してやるほど、クレマンティーヌは優しくない。ようやく舌が温まってきたとばかりに、言葉を続けた。
「まぁさ、いいんじゃない?そこでずっと腐ったけば。ママに抱かれてるつもりで、布団の中で籠っておけば」
「っ!てめぇに、何がわかる!」
「わかるわけないじゃん」
「………は?」
布団の中から叫べば、あっさりと返された言葉。あまりの肩透かしにブレインの勢いが削がれる。
クレマンティーヌは肩を竦めると、つまらなさそうに床の空瓶を蹴った。
「私、アンタみたいな剣術バカじゃないし。そもそも、あんな化け物見て追いつきたいなんて思ってないし」
「だったら………」
「でもさ」
黙っていろと、そう紡ごうとしたブレインの言葉が遮られる。
「超えるって言ったの、アンタじゃん。勝手に憧れて、勝手に追いかけて、勝手に息巻いてたの、アンタでしょ?」
「…………」
返す言葉が浮かばなかった。クレマンティーヌの言う通りだ。
誰に頼まれた訳でもなく、あの男本人から期待されたわけでもなく、弟子にしてもらったわけでもなければ、そも存在さえ覚えられているかすら怪しい。
それでも追いかけたのは、憧れと嫉妬から。
あの一刀に。生涯をかけても届きうるかどうか分からない、遥か遠い高みを目指したかったからだ。
だがーーー
「………けど、あの人は、もういねぇ」
「なに?アンタ、あいつが居なけりゃ剣も振れないの?」
ぐさり、と。先ほどまでとは比べものにならないほど、その一言は胸の奥を突き刺した。
「だったらそこで立ち止まってなよ。剣じゃなくて、あの化け物本人を目指してたならさ」
「違ぇ、俺は………」
違うと、そう断言したい。けれど、胸の奥から溢れる気持ちは上手く言葉にならず、掠れた音に成り下がる。
事実、あの男がいなくなっただけで、自身は剣を置いてしまった。あれほど握り続けてきたものを、あれほど追い求めていたものを、自分から捨てようとしている。
「………蜥蜴共の集落、あったじゃん?」
唐突な言葉に、ブレインが眉を顰める。
「あいつら、二百年も前の教えをずっと守ってたわけでしょ?教えを広めた本人なんてとっくにくたばってるかもしれないってのに。それでも道場を作って、決闘のルールを決めて、今でもアホみたいに守り続けてる」
その口調に尊敬の念はない。ただ、どこまでも小馬鹿にして呆れたような口調。けれど、嘲笑うことはせず、ほんの少し、小指の先ほどの感嘆が確かにあった。
「あの化け物だって、刀やら何やら残してるわけじゃん。だったら、ちょうどいいじゃん」
「………何がだ?」
「勝手に追い続ければ」
その言葉に、ブレインの目が僅かに開かれる。
「そんでさ、いつかあいつより強くなったら吐き捨ててやればいいじゃん。剣を教えてやるよ、って」
にたり、と。クレマンティーヌが悪戯っぽく笑う。それが現実となれば、どれだけ胸の空く思いだろうか。
「死人は反論できないし、勝ったって言い張るにはちょうどいいでしょ」
「………テメェ、最低だな」
「知ってる〜」
布団の中で呆れのため息を溢すブレイン。この底意地の悪い性格には慣れてきたと思っていたが、どうやらまだ奥底は見せていなかったらしい。
打算的で、愉快犯で、どうしようもなく性格は終わっているが、しかし不思議と、本当に不思議なことに嫌ではなかった。
男は死んだ。
もう二度と刃を交えることはできない。己の成長を見せることも、今度こそ届いたと証明することもできない。
だが、その剣まで死んだわけではない。自分の腕も多少衰えたかもしれないが、失くしたわけでもない。
布団の中、耳に当てていた両手を目の前に持っていき、強く握る。酒で震えていたはずの手は、今もなお震えている。しかし、それは酒が原因ではないことを、ブレインは知っていた。
「それにさぁ」
「うおっ⁉︎」
立ち上がったクレマンティーヌが、床に置いていた棒状の包みを拾うと、無造作にブレインへと放り投げる。
ぼふ、と落下したそれに驚き、慌てて這い出してきたブレインは反射的にそれを握った。
布越しでもわかる、しっかりとした触り心地。初めて触れるというのに、手に馴染むその心地に釣られて包みを解けば、そこにあったのは一振りの刀。
鞘から引き抜けば、煌めく刀身と刻まれたふたつのルーンが目に入る。
「これ、は………」
「火髭のジジイから。『てめぇが先に折れてどうする、この鈍ら!』だってさ」
「あの、クソジジイ………」
脳裏に浮かぶのは、共に伝説を夢見たドワーフ。口は悪く、短気で頑固だが腕は確かな職人の姿。
「ドワーフ国から運んだ素材で、取り敢えず打った一本だって。未完成だから、すぐ返せって言ってたけど」
あの男の持っていた得物には似ても似つかない、未だその軌跡をなぞるだけの一振り。けれど、熱い男の魂が込められたそれは決して見劣りするものではない。
未だ高みに届かぬ刀。しかし、今の自分には勿体無いほどの素晴らしい刀だ。
うっとりと、まるで恋焦がれる乙女のようにその刀身を眺めていれば、クレマンティーヌの咳払いに現実に引き戻される。
「んん!で、どうすんの?そのまま布団の中で腐る?それとも、死んだ化け物相手に、負け惜しみ言えるくらい強くなる?」
クレマンティーヌが笑う。まるでブレインがどう答えるかなどお見通しとばかりに。
「………チッ!」
クレマンティーヌの思い通りに動くことは癪だ。けれど、そうも言っていられないのも事実。
脳裏に浮かぶのは、初めて見たあの一刀。
音もなく、迷いもなく、ただ相手を斬るためだけに振るわれた、遥か高みの一振り。
あれに届きたいと、身体が、本能が、叫んでいた。
布団を蹴り飛ばして、久方ぶりに立ち上がった脚は、少しばかり鈍っている。けれど、それは刀を振るわない理由にはならない。
「舐めんじゃねぇぞ。死人なんざ、すぐにでも超えてやる」
「お、いつもの馬鹿に戻った」
「誰が馬鹿だ、殺すぞ」
「はいはい。じゃ、早速道場?」
「ああ」
「まだ酒抜けてないんじゃないの?」
「動いてりゃ抜けるだろ」
「うわ、剣術馬鹿」
「うるせぇ」
壊された扉を跨ぎ、ブレインは外へ出る。
空はまだ暗く、夜明けにはまだ遠い。それでも、止まっていた足は再び前へと進み出していた。