光は、徐々に消えていった。
シャボンディの煌びやかな泡の光が遠ざかり、代わりに海の重みが船を包む。コーティングの膜越しに見える世界は、淡く歪み、深く、静かだった。
ヤルキマンの根を抜け、船は沈んでいく。
水圧が船体を押し潰そうとするような感覚。
空はもうない。
あるのは、青でも黒でもない、曖昧な深色。
氷輪丸が窓に手を当てた。
「……暗いな」
その声は少年らしく、だがどこか張り詰めている。
「光が届かぬ層だ」
流刃若火が低く言う。
神槍は笑った。
「ほんまに、海は広いなぁ。上と下でまるで別世界や」
千本桜は静かにイツキを見た。
「主様。違和感があります」
イツキは答えない。
ただ、目を閉じる。
海は能力者を拒む。
悪魔の実の力は、海に触れれば奪われる。
だが――
(魂はどうだ)
イツキの能力は“刀神”。
斬魄刀は魂を媒介とする。
それが海にどう作用するのか。
それを確かめるために、彼はここへ来た。
やがて、遠くに淡い光が見えた。
闇の中に浮かぶ巨大な泡。
魚人島。
海底一万メートル。
人魚と魚人の国。
船がゆっくりと泡の中へ入る。
圧が消え、空気が戻る。
魚人島は、幻想だった。
巨大な珊瑚。光る海藻。空の代わりに広がる水の天井。
人魚達が泳ぎ、魚人達が行き交う。
だが、空気は穏やかではない。
「人間……?」
警戒の視線。
魚人族と人間の間に横たわる溝は深い。
イツキは何も言わず、船を降りる。
氷輪丸が周囲を見回す。
「上より空気が重いな」
「歴史が重いのだ」
流刃若火。
神槍は小さく笑う。
「歓迎はされてへんな」
千本桜が静かに囁く。
「主様、視線が集まっております」
イツキは頷くだけだった。
騒ぎが起きたのは、その直後だった。
魚人島の一角で、怒号が響く。
「人間が何の用だ!」
武器を持った魚人達が現れる。
彼らは過去に傷を負っている。
人間に売られ、虐げられた歴史。
イツキは視線を向ける。
敵意。
怒り。
恐怖。
それらが混ざった目。
氷輪丸が一歩前に出る。
「やるか?」
「待て」
イツキが言う。
魚人の一人が叫ぶ。
「人間は帰れ!!」
その瞬間、遠くで爆発音。
別の勢力が暴れている。
新魚人海賊団。
魚人島内部の混乱。
警備兵が駆け抜ける。
イツキは空を見上げた。
水の天井が揺れる。
(歪みがある)
千本桜が静かに言う。
「主様、感じますか」
「ああ」
この島には、何かがある。
単なる差別や怒りではない。
もっと根深い、魂の歪み。
氷輪丸が空気を吸う。
「冷たい」
「海の底は、常に冷たい」
流刃若火。
イツキは刀に触れる。
戦うべきか。
観るべきか。
その時、巨大な影が現れた。
魚人族の戦士が、武装色を纏って襲いかかる。
「人間は信用できねぇ!」
拳が迫る。
氷輪丸が氷を放つ。
拳と氷が衝突。
水しぶきが舞う。
魚人は強い。
陸よりも、この環境でこそ本領を発揮する。
イツキは静かに前へ出る。
「俺は奪いに来たわけじゃない」
だが拳は止まらない。
イツキは氷輪丸を握る。
一閃。
魚人の武器が断たれる。
魚人が後退する。
その目に浮かぶのは怒りだけではない。
困惑。
(斬られたのに……殺されていない)
イツキは刀を下ろす。
「敵ではない」
短い言葉。
だが重い。
魚人達は、完全には納得しない。
だが攻撃は止まる。
遠くで再び爆発音。
混乱は拡大している。
神槍が肩を竦める。
「上も下も、騒がしいなぁ」
千本桜が静かに言う。
「主様、ここは嵐の中心かもしれません」
イツキは前を見据える。
「……なら、確かめる」
魚人島。
海底の国。
海は、能力者を拒む。
だが魂は。
それを試す時が来た。
魚人島の空気は、常にどこか張り詰めている。
海底一万メートル。
巨大な泡の中に守られた王国。
水の天井から差し込む光は柔らかいが、その下で交わされる視線は鋭い。
イツキ達を囲んでいた魚人達の間に、緊張が走っていた。
武器を持つ手。
揺れる瞳。
憎しみと恐れが混ざった視線。
「人間が、何の用だ」
低い声。
その背後から整然とした足音が響く。
王国軍だ。
青い装束を纏った兵士達が列を成し、槍を構える。
その中央に立つのは、王国軍の隊長格と思しき魚人。
冷静な目をしているが、その奥には長い歴史がある。
「武器を下ろせ」
隊長が部下に命じる。
だが視線はイツキから外れない。
「人間。目的を述べろ」
イツキは静かに立っている。
刀は抜いていない。
氷輪丸が一歩前に出かけるが、イツキが手で制す。
「……通過だ」
短い言葉。
隊長の眉が動く。
「通過?」
「新世界へ向かう」
ざわめき。
魚人達の間に不信が走る。
「人間は、ここを通る時に必ず何かを奪っていく」
別の魚人が吐き捨てる。
「奴隷だ。資源だ。情報だ。仲間だ」
その言葉は重い。
イツキは沈黙する。
否定はしない。
過去は消えない。
千本桜が静かに言う。
「主様」
その声は促すものではなく、問いかけだ。
イツキは目を閉じる。
そしてゆっくりと開いた。
「……俺は奪わない」
静かな声。
だが揺らぎはない。
隊長が一歩踏み出す。
「信用できるとでも?」
「信用は、求めない」
魚人達の間に困惑が広がる。
「だが」
イツキの目が、わずかに鋭くなる。
「俺の刀を、奪う者は斬る」
空気が変わる。
流刃若火が低く笑う。
「主よ、それでよい」
神槍が肩を竦める。
「交渉ってやつですか」
氷輪丸は周囲を睨む。
隊長はしばらく黙っていた。
そして言う。
「人間は、海を恐れる」
イツキは答える。
「能力者はな」
「貴様は能力者だろう」
「そうだ」
「ならば、海は貴様を拒む」
イツキは水の天井を見上げる。
光が揺れる。
「……拒むかどうか、確かめに来た」
ざわめき。
隊長が目を細める。
「何を言っている」
イツキは刀に触れる。
「海は悪魔の実を拒む」
その通りだ。
能力者は海に触れれば力を失う。
「だが、これは魂だ」
氷輪丸が僅かに笑う。
「俺たちは“実”じゃない」
千本桜が続ける。
「魂の刃でございます」
隊長の目が揺れる。
魚人族にとって、魂という概念は軽くない。
海と共に生きる種族。
死もまた、海へ還る。
「魂を……斬るだと?」
イツキは首を振る。
「違う」
間。
「斬れるかどうかを、知りたいだけだ」
その言葉は挑発ではない。
純粋な問い。
だがその問いは、魚人達の胸をざわつかせる。
「海を斬るなど……神への冒涜だ」
誰かが呟く。
イツキは淡々と返す。
「神ではない」
隊長が鋭く問う。
「ならば何だ」
イツキの目に、静かな熱が灯る。
「鍛冶師だ」
その言葉は重かった。
「創った責任を、確かめに来た」
魚人達は、黙る。
そこにあるのは敵意ではなく、理解できないという戸惑い。
王国軍の隊長はしばらくイツキを見つめた。
そして、槍を下ろす。
「通過を許可する」
周囲がざわめく。
「隊長!?」
「監視はつける」
隊長は続ける。
「だが……貴様の目は、奪う者の目ではない」
イツキはわずかに頷いた。
礼は言わない。
だが、背を向ける前に一言だけ落とす。
「……ありがとう」
小さな声だった。
それを聞いたのは、近くにいた者だけ。
氷輪丸が横目で見る。
「優しいな」
「違う」
イツキは否定する。
「対価だ」
信頼の対価。
通過の対価。
海底の国は、完全には受け入れない。
だが拒絶もしない。
その中間に、霊牙イツキは立った。
遠くで鐘が鳴る。
魚人島の夜が近づく。
水の天井がゆらりと揺れる。
流刃若火が低く言う。
「主よ。海は斬れるか」
イツキは答えない。
ただ、深海の光を見つめる。
その目の奥で、熱が消えずに残っていた。