斬魄刀は海を斬れるか   作:ひよこ大福

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第二話 深海に沈む国

光は、徐々に消えていった。

 

シャボンディの煌びやかな泡の光が遠ざかり、代わりに海の重みが船を包む。コーティングの膜越しに見える世界は、淡く歪み、深く、静かだった。

 

ヤルキマンの根を抜け、船は沈んでいく。

 

水圧が船体を押し潰そうとするような感覚。

 

空はもうない。

 

あるのは、青でも黒でもない、曖昧な深色。

 

氷輪丸が窓に手を当てた。

 

「……暗いな」

 

その声は少年らしく、だがどこか張り詰めている。

 

「光が届かぬ層だ」

 

流刃若火が低く言う。

 

神槍は笑った。

 

「ほんまに、海は広いなぁ。上と下でまるで別世界や」

 

千本桜は静かにイツキを見た。

 

「主様。違和感があります」

 

イツキは答えない。

 

ただ、目を閉じる。

 

海は能力者を拒む。

 

悪魔の実の力は、海に触れれば奪われる。

 

だが――

 

(魂はどうだ)

 

イツキの能力は“刀神”。

 

斬魄刀は魂を媒介とする。

 

それが海にどう作用するのか。

 

それを確かめるために、彼はここへ来た。

 

やがて、遠くに淡い光が見えた。

 

闇の中に浮かぶ巨大な泡。

 

魚人島。

 

海底一万メートル。

 

人魚と魚人の国。

 

船がゆっくりと泡の中へ入る。

 

圧が消え、空気が戻る。

 

魚人島は、幻想だった。

 

巨大な珊瑚。光る海藻。空の代わりに広がる水の天井。

 

人魚達が泳ぎ、魚人達が行き交う。

 

だが、空気は穏やかではない。

 

「人間……?」

 

警戒の視線。

 

魚人族と人間の間に横たわる溝は深い。

 

イツキは何も言わず、船を降りる。

 

氷輪丸が周囲を見回す。

 

「上より空気が重いな」

 

「歴史が重いのだ」

 

流刃若火。

 

神槍は小さく笑う。

 

「歓迎はされてへんな」

 

千本桜が静かに囁く。

 

「主様、視線が集まっております」

 

イツキは頷くだけだった。

 

騒ぎが起きたのは、その直後だった。

 

魚人島の一角で、怒号が響く。

 

「人間が何の用だ!」

 

武器を持った魚人達が現れる。

 

彼らは過去に傷を負っている。

 

人間に売られ、虐げられた歴史。

 

イツキは視線を向ける。

 

敵意。

 

怒り。

 

恐怖。

 

それらが混ざった目。

 

氷輪丸が一歩前に出る。

 

「やるか?」

 

「待て」

 

イツキが言う。

 

魚人の一人が叫ぶ。

 

「人間は帰れ!!」

 

その瞬間、遠くで爆発音。

 

別の勢力が暴れている。

 

新魚人海賊団。

 

魚人島内部の混乱。

 

警備兵が駆け抜ける。

 

イツキは空を見上げた。

 

水の天井が揺れる。

 

(歪みがある)

 

千本桜が静かに言う。

 

「主様、感じますか」

 

「ああ」

 

この島には、何かがある。

 

単なる差別や怒りではない。

 

もっと根深い、魂の歪み。

 

氷輪丸が空気を吸う。

 

「冷たい」

 

「海の底は、常に冷たい」

 

流刃若火。

 

イツキは刀に触れる。

 

戦うべきか。

 

観るべきか。

 

その時、巨大な影が現れた。

 

魚人族の戦士が、武装色を纏って襲いかかる。

 

「人間は信用できねぇ!」

 

拳が迫る。

 

氷輪丸が氷を放つ。

 

拳と氷が衝突。

 

水しぶきが舞う。

 

魚人は強い。

 

陸よりも、この環境でこそ本領を発揮する。

 

イツキは静かに前へ出る。

 

「俺は奪いに来たわけじゃない」

 

だが拳は止まらない。

 

イツキは氷輪丸を握る。

 

一閃。

 

魚人の武器が断たれる。

 

魚人が後退する。

 

その目に浮かぶのは怒りだけではない。

 

困惑。

 

(斬られたのに……殺されていない)

 

イツキは刀を下ろす。

 

「敵ではない」

 

短い言葉。

 

だが重い。

 

魚人達は、完全には納得しない。

 

だが攻撃は止まる。

 

遠くで再び爆発音。

 

混乱は拡大している。

 

神槍が肩を竦める。

 

「上も下も、騒がしいなぁ」

 

千本桜が静かに言う。

 

「主様、ここは嵐の中心かもしれません」

 

イツキは前を見据える。

 

「……なら、確かめる」

 

魚人島。

 

海底の国。

 

海は、能力者を拒む。

 

だが魂は。

 

それを試す時が来た。

 

魚人島の空気は、常にどこか張り詰めている。

 

海底一万メートル。

巨大な泡の中に守られた王国。

水の天井から差し込む光は柔らかいが、その下で交わされる視線は鋭い。

 

イツキ達を囲んでいた魚人達の間に、緊張が走っていた。

 

武器を持つ手。

揺れる瞳。

憎しみと恐れが混ざった視線。

 

「人間が、何の用だ」

 

低い声。

 

その背後から整然とした足音が響く。

 

王国軍だ。

 

青い装束を纏った兵士達が列を成し、槍を構える。

 

その中央に立つのは、王国軍の隊長格と思しき魚人。

 

冷静な目をしているが、その奥には長い歴史がある。

 

「武器を下ろせ」

 

隊長が部下に命じる。

 

だが視線はイツキから外れない。

 

「人間。目的を述べろ」

 

イツキは静かに立っている。

 

刀は抜いていない。

 

氷輪丸が一歩前に出かけるが、イツキが手で制す。

 

「……通過だ」

 

短い言葉。

 

隊長の眉が動く。

 

「通過?」

 

「新世界へ向かう」

 

ざわめき。

 

魚人達の間に不信が走る。

 

「人間は、ここを通る時に必ず何かを奪っていく」

 

別の魚人が吐き捨てる。

 

「奴隷だ。資源だ。情報だ。仲間だ」

 

その言葉は重い。

 

イツキは沈黙する。

 

否定はしない。

 

過去は消えない。

 

千本桜が静かに言う。

 

「主様」

 

その声は促すものではなく、問いかけだ。

 

イツキは目を閉じる。

 

そしてゆっくりと開いた。

 

「……俺は奪わない」

 

静かな声。

 

だが揺らぎはない。

 

隊長が一歩踏み出す。

 

「信用できるとでも?」

 

「信用は、求めない」

 

魚人達の間に困惑が広がる。

 

「だが」

 

イツキの目が、わずかに鋭くなる。

 

「俺の刀を、奪う者は斬る」

 

空気が変わる。

 

流刃若火が低く笑う。

 

「主よ、それでよい」

 

神槍が肩を竦める。

 

「交渉ってやつですか」

 

氷輪丸は周囲を睨む。

 

隊長はしばらく黙っていた。

 

そして言う。

 

「人間は、海を恐れる」

 

イツキは答える。

 

「能力者はな」

 

「貴様は能力者だろう」

 

「そうだ」

 

「ならば、海は貴様を拒む」

 

イツキは水の天井を見上げる。

 

光が揺れる。

 

「……拒むかどうか、確かめに来た」

 

ざわめき。

 

隊長が目を細める。

 

「何を言っている」

 

イツキは刀に触れる。

 

「海は悪魔の実を拒む」

 

その通りだ。

 

能力者は海に触れれば力を失う。

 

「だが、これは魂だ」

 

氷輪丸が僅かに笑う。

 

「俺たちは“実”じゃない」

 

千本桜が続ける。

 

「魂の刃でございます」

 

隊長の目が揺れる。

 

魚人族にとって、魂という概念は軽くない。

 

海と共に生きる種族。

 

死もまた、海へ還る。

 

「魂を……斬るだと?」

 

イツキは首を振る。

 

「違う」

 

間。

 

「斬れるかどうかを、知りたいだけだ」

 

その言葉は挑発ではない。

 

純粋な問い。

 

だがその問いは、魚人達の胸をざわつかせる。

 

「海を斬るなど……神への冒涜だ」

 

誰かが呟く。

 

イツキは淡々と返す。

 

「神ではない」

 

隊長が鋭く問う。

 

「ならば何だ」

 

イツキの目に、静かな熱が灯る。

 

「鍛冶師だ」

 

その言葉は重かった。

 

「創った責任を、確かめに来た」

 

魚人達は、黙る。

 

そこにあるのは敵意ではなく、理解できないという戸惑い。

 

王国軍の隊長はしばらくイツキを見つめた。

 

そして、槍を下ろす。

 

「通過を許可する」

 

周囲がざわめく。

 

「隊長!?」

 

「監視はつける」

 

隊長は続ける。

 

「だが……貴様の目は、奪う者の目ではない」

 

イツキはわずかに頷いた。

 

礼は言わない。

 

だが、背を向ける前に一言だけ落とす。

 

「……ありがとう」

 

小さな声だった。

 

それを聞いたのは、近くにいた者だけ。

 

氷輪丸が横目で見る。

 

「優しいな」

 

「違う」

 

イツキは否定する。

 

「対価だ」

 

信頼の対価。

 

通過の対価。

 

海底の国は、完全には受け入れない。

 

だが拒絶もしない。

 

その中間に、霊牙イツキは立った。

 

遠くで鐘が鳴る。

 

魚人島の夜が近づく。

 

水の天井がゆらりと揺れる。

 

流刃若火が低く言う。

 

「主よ。海は斬れるか」

 

イツキは答えない。

 

ただ、深海の光を見つめる。

 

その目の奥で、熱が消えずに残っていた。

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