斬魄刀は海を斬れるか   作:ひよこ大福

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第三話 海底に巣食うもの

魚人島の夜は、地上の夜と違う。

 

闇が落ちるのではなく、光が“薄まる”。泡の天井越しに揺れる海水の影が、珊瑚の街にゆっくりと染みていき、昼間は鮮やかだった色彩が、しっとりと落ち着いた青へ変わっていく。海藻の灯りは弱まらないのに、視界の輪郭だけが柔らかく曖昧になる。そのせいで、誰かの視線の棘が、昼よりも鋭く感じられる。

 

人間がここにいる――という事実は、音のない刃みたいに周囲を切っていた。

 

霊牙イツキは宿の窓辺に立ち、泡の天井を見上げていた。遠くを横切る大きな影は海王類か、それとも魚人島の守護のために巡回している巨大魚か。判別はつかない。だが、影の“重さ”だけは分かる。

 

海は重い。

 

それは物理の水圧だけじゃない。ここでは、記憶も感情も、沈む。沈み続ける。

 

「……強いな」

 

イツキが呟くと、壁にもたれていた氷輪丸が眉を寄せた。

 

「何がだよ。空気か? それとも視線か?」

 

返事の代わりに、イツキは指先を軽く握って開く。空気を掴むような仕草。鍛冶師が温度を測る時の癖だった。

 

「揺れだ。ここは……揺れている」

 

千本桜が静かに茶を置く。湯気の輪郭が夜の湿り気に溶け、上がり方が妙に遅い。

 

「規則がありません。潮の呼吸ではない」

 

神槍は椅子を逆向きに抱え、軽い笑みを浮かべた。

 

「ほな、誰かが揺らしてるってことやな。海を」

 

流刃若火は腕を組み、短く鼻を鳴らした。

 

「海を揺らすなど、愚か者の所業だ。海は均衡の器。余計なものを入れれば溢れる」

 

その瞬間、外から“悲鳴”が届いた。

 

一つではない。二つ、三つ。短く千切れるように上がり、すぐに雑踏の騒音に飲まれそうで、しかし確かに増えていく。

 

氷輪丸が体を起こす。

 

「……来たな」

 

イツキは黙って外套を手に取り、部屋を出た。足取りは速くない。だが迷いもない。

 

通りに出ると、魚人島の夜の賑わいが一部だけ裂けていた。人垣。押し寄せる気配。遠巻きの視線。焦げたような、苦い匂い――それは火ではなく、恐怖の匂いだとイツキは知っている。

 

倒れているのは魚人の青年だった。石畳に膝から崩れ、両腕で胸を掻きむしっている。外傷はない。血もない。だが、呼吸が乱れ、喉の奥から泡を噴いている。

 

異様なのは、その周囲の“水”だった。

 

泡の天井の下は空気だ。ここで水が流れるはずはない。それなのに、青年の周りだけ、空間の屈折が起きている。見えない水流が渦を巻き、泡が上へではなく横へ滑る。

 

――魂が、漏れている。

 

王国軍が到着した。整然とした槍の列。鱗の光る腕。硬い目。

 

隊長格の魚人が前に出る。昨日イツキに通過許可を与えた男だ。冷静で、必要以上に感情を表へ出さない。だが今夜は、その冷静がわずかに擦れている。

 

「またか……」

 

若い兵士が叫んだ。

 

「人間が来てからだ! こいつが原因に決まってる!」

 

視線が一斉にイツキへ刺さる。怒りと恐れが混じった矢。誰かの過去が、そのまま槍先になっている。

 

氷輪丸が一歩前に出かける。

 

「言わせておくのか?」

 

「抑えろ」

 

イツキの声は低い。けれど、その一言には“刃”があった。氷輪丸は舌打ちして止まる。

 

隊長が槍を少し下げ、イツキに問う。

 

「……貴様は何を見ている」

 

イツキは青年の前に膝をつき、そっと胸に手を置いた。魚人の皮膚は硬い。だが今は、硬さの下に震えがある。

 

触れた瞬間、冷たい感覚が走った。

 

温度じゃない。

 

魂の層が薄い。削られたように、軽い。芯だけが残り、周りが空洞に近い。

 

「喰われている」

 

短い結論。

 

ざわめきが波のように広がる。

 

「魂が……?」

 

隊長が息を詰めた。魚人族にとって魂は、海へ還るものだ。喰われるなど、想像したくない。

 

若手兵士が噛みつく。

 

「何を根拠に! 人間の言葉を信じろってのか!」

 

イツキは若手を見ない。見ても意味がない。恐れの矛先は論理では曲がらない。

 

千本桜が静かに口を挟む。

 

「根拠ならございます。これは“失われ方”が違う。病でも怪我でもない。外から削がれている」

 

「外から……?」

 

神槍が肩を竦める。

 

「食われてるっちゅうことや。海底のゴミ箱みたいに、恨みが溜まった結果やろな」

 

その言い方が刺さったのか、若手兵士の目が赤くなる。

 

「ゴミ箱だと? 魚人島を侮辱するな!」

 

氷輪丸が前へ出る。

 

「侮辱してんのはどっちだよ。倒れてる仲間を見ろ」

 

空気がさらに固くなる。槍が握り直される音。小さな金属の擦れが、夜にやけに響く。

 

その瞬間だった。

 

石畳の下から、かすかな“擦れる音”がした。

 

砂が落ちる音に似ている。だが砂は落ちていない。音だけが、すり鉢の底をなぞるように近づいてくる。

 

イツキの背筋が僅かに硬くなる。

 

(下だ)

 

「退け!」

 

隊長が叫ぶより早く、黒いものが跳ねた。

 

地面の亀裂から飛び出したそれは、魚でも人でもない。輪郭が揺れ、煙のように散り、また集まる。光を食っているのか、周囲の明るさが一段落ちる。

 

黒い塊は槍をすり抜け、若手兵士の足首へ絡みついた。

 

「うわっ――!」

 

兵士が引き剥がそうとする。だが黒いものは皮膚の上を滑り、筋肉の隙間へ潜り込むように“食い込んだ”。針を刺す痛みではなく、冷たい指で内側を撫でられるような嫌悪。

 

兵士の瞳が揺れる。息が止まる。言葉が出ない。

 

「放せ!」

 

隊長が槍で突く。すり抜ける。

 

別の兵士が刀で斬る。空を切る。

 

“実体”がない。

 

神槍が低く言う。

 

「霊的やな。物理でやったらアカン」

 

千本桜が花弁を舞わせる。淡い刃が無数に展開し、黒い塊の周りを囲む。切断ではなく、削り取るように薄く薄く刻む。

 

黒い塊が揺れ、悲鳴のような振動を放った。

 

その中心に、濁った核が見える。

 

暗い。重い。ぬめるように嫌な光。

 

流刃若火が吐き捨てる。

 

「怨念の凝固。魂の残滓だ」

 

若手兵士の口から、濁った声が漏れた。

 

「……にくい」

 

本人の声だ。だが意味が違う。言葉が骨に噛みついている。

 

「にんげん……にくい……」

 

その一言で、周囲の魚人たちの呼吸が乱れた。憎しみの言葉は、彼らにとって他人事じゃない。日常の裏側に常にある。

 

隊長が歯を食いしばる。

 

「やめろ……!」

 

イツキは氷輪丸を抜いた。刀身が白く光る。冷気が広がるが、周囲を凍らせない。凍らせれば、守るべき者も巻き込む。

 

「削る」

 

一閃。

 

黒い塊が裂ける。

 

裂け目から、淡い光が零れた。欠片。魂の欠片。

 

イツキの胸に熱が灯る。

 

(返せ)

 

叫ばない。だが、内側が燃える。刀を打つ責任――その言葉が、ここではただの美学では済まない。

 

神槍が刃を伸ばす。

 

「動くなや」

 

極細の刺突が核の周囲を縫い止め、逃げ道を削る。千本桜が分解を重ね、核だけを露にする。流刃若火が外側を“焼き締める”。燃やすのではない。形を崩さないように、封をする。

 

氷輪丸の冷気が核へ届く。

 

イツキは踏み込んだ。氷の上を滑るように。

 

二閃、三閃。

 

核の一部が欠け、黒い塊が暴れ、周囲の水――いや空間が大きく揺れた。

 

その揺れに反応するように、倒れていた魚人青年が呻き、周囲の魚人の顔色が変わる。

 

魂が、共鳴している。

 

(この島全体が、吸われてる)

 

イツキは瞬時に理解した。これは“個体”じゃない。点ではなく、面。魚人島のあちこちで同じ揺れが起きているなら、核はもっと大きい。

 

黒い塊がふいに跳ね、若手兵士の胸へ深く食い込んだ。

 

「が――っ!」

 

兵士の体が反り返り、口から泡が漏れる。目が白くなる。

 

隊長が叫ぶ。

 

「引き剥がせ!」

 

だが剥がせない。黒いものは兵士の輪郭に沿って膨らみ、皮膚の上に“仮面”のような膜を作り始めた。

 

人の形を模倣する。

 

魂を喰って、形を得る。

 

千本桜が低く言う。

 

「本体に近い個体です。成長が早い」

 

神槍が笑みを消す。

 

「面倒やなぁ……」

 

流刃若火の炎が強くなる。

 

「主よ、焼くぞ。これ以上取り込まれれば――」

 

「だめだ」

 

イツキが即答した。静かな声だが、拒絶が硬い。

 

「魂まで焼ける」

 

「ならどうする!」

 

隊長の声が割れた。冷静な男の声が割れるほどの状況。王国軍内部の亀裂が、今はただの亀裂ではなく、命の境界になっている。

 

イツキは兵士を見た。

 

若い。強硬派。疑っていた。憎んでいた。だが――それでも王国軍だ。魚人島を守る者だ。

 

「助ける」

 

たったそれだけ言った。

 

氷輪丸が息を吸う。

 

「主、俺が抑える」

 

「やれ」

 

氷輪丸が擬人化のまま両手を広げ、冷気を“糸”のように細く伸ばした。兵士の胸に絡みつく黒い塊の周囲だけを冷やし、動きを鈍らせる。凍結ではない。麻痺だ。

 

千本桜が花弁で外殻を薄く削る。神槍が核の逃げ道を塞ぐ。流刃若火が周囲の空間を熱で“締める”。

 

イツキが核に刃を当てた。

 

ここで斬れば、兵士の魂をさらに削るかもしれない。

 

だが、放置すれば喰われる。

 

(責任は、選択だ)

 

芯が熱くなる。怒りではない。決める熱だ。

 

「……斬る」

 

イツキは一閃した。

 

核が割れる。

 

黒い塊が霧散する。

 

兵士が崩れ落ち、隊長が受け止めた。呼吸はある。だが浅い。魂が少し削られた感覚が、空気に残る。

 

若手兵士が震えながら呟いた。

 

「俺たちの……怒りが……」

 

隊長が歯を食いしばる。

 

「黙れ。今は生きろ」

 

だが、イツキはその言葉の続きを心の中で言った。

 

――怒りは悪じゃない。

――ただ、溜め込み続ければ腐る。

――腐れば、喰う。

 

イツキは水の天井を見上げる。揺れが止まらない。むしろ、遠くで大きく波打った。

 

「源はまだある」

 

千本桜が頷く。

 

「この個体は、末端です。根は深い」

 

神槍が舌打ちする。

 

「ほな、本体がおる。腹いっぱいになったやつが」

 

流刃若火が低く笑った。

 

「よい。腹を裂けばよい」

 

隊長がイツキを見た。

 

疑念は消えていない。だが今夜、彼は一つ学んだ。目の前の人間は、奪いに来たわけではない。少なくとも今は、守る側に立っている。

 

「……貴様、どこへ行く」

 

「下だ」

 

「勝手は許さん」

 

「なら来い」

 

イツキの言葉は挑発ではなく、選択肢だった。

 

隊長は短く息を吐き、部下へ命じた。

 

「編成を変える。強硬派は後方に回せ。……ここから先は、感情で動くな」

 

若手の一人が噛みつく。

 

「隊長!」

 

「命令だ」

 

隊長の声は硬い。

 

王国軍の内部対立は消えない。だが今は、同じ方向を向くしかない。

 

イツキたちは街の外れ、珊瑚の根が複雑に絡む区域へ向かった。人通りが減り、灯りが途切れ、海の影が濃くなる場所だ。歩くたびに足元の砂がふわりと舞い、どこかから冷たい潮の匂いがする。泡の天井が遠く、圧迫感が増す。

 

(ここだ)

 

イツキは確信した。

 

この先に、“喰うもの”の溜まり場がある。

 

そして――この島が抱え続けたものの、形がある。

 

彼の胸の奥の熱は、静かに燃えていた。

 

怒りではなく、責任。

 

刀を打つ者が、打った刃の先に起きることから逃げないための熱。

 

イツキは氷輪丸を握り直す。

 

「来るぞ」

 

返事の代わりに、四振りがそれぞれ息を整えた。

 

深海の闇が揺れる。

 

その揺れの中心から、重い“気配”が立ち上がる。

 

魂を喰う存在――本体が、目を覚ます。

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