魚人島の夜は、地上の夜と違う。
闇が落ちるのではなく、光が“薄まる”。泡の天井越しに揺れる海水の影が、珊瑚の街にゆっくりと染みていき、昼間は鮮やかだった色彩が、しっとりと落ち着いた青へ変わっていく。海藻の灯りは弱まらないのに、視界の輪郭だけが柔らかく曖昧になる。そのせいで、誰かの視線の棘が、昼よりも鋭く感じられる。
人間がここにいる――という事実は、音のない刃みたいに周囲を切っていた。
霊牙イツキは宿の窓辺に立ち、泡の天井を見上げていた。遠くを横切る大きな影は海王類か、それとも魚人島の守護のために巡回している巨大魚か。判別はつかない。だが、影の“重さ”だけは分かる。
海は重い。
それは物理の水圧だけじゃない。ここでは、記憶も感情も、沈む。沈み続ける。
「……強いな」
イツキが呟くと、壁にもたれていた氷輪丸が眉を寄せた。
「何がだよ。空気か? それとも視線か?」
返事の代わりに、イツキは指先を軽く握って開く。空気を掴むような仕草。鍛冶師が温度を測る時の癖だった。
「揺れだ。ここは……揺れている」
千本桜が静かに茶を置く。湯気の輪郭が夜の湿り気に溶け、上がり方が妙に遅い。
「規則がありません。潮の呼吸ではない」
神槍は椅子を逆向きに抱え、軽い笑みを浮かべた。
「ほな、誰かが揺らしてるってことやな。海を」
流刃若火は腕を組み、短く鼻を鳴らした。
「海を揺らすなど、愚か者の所業だ。海は均衡の器。余計なものを入れれば溢れる」
その瞬間、外から“悲鳴”が届いた。
一つではない。二つ、三つ。短く千切れるように上がり、すぐに雑踏の騒音に飲まれそうで、しかし確かに増えていく。
氷輪丸が体を起こす。
「……来たな」
イツキは黙って外套を手に取り、部屋を出た。足取りは速くない。だが迷いもない。
通りに出ると、魚人島の夜の賑わいが一部だけ裂けていた。人垣。押し寄せる気配。遠巻きの視線。焦げたような、苦い匂い――それは火ではなく、恐怖の匂いだとイツキは知っている。
倒れているのは魚人の青年だった。石畳に膝から崩れ、両腕で胸を掻きむしっている。外傷はない。血もない。だが、呼吸が乱れ、喉の奥から泡を噴いている。
異様なのは、その周囲の“水”だった。
泡の天井の下は空気だ。ここで水が流れるはずはない。それなのに、青年の周りだけ、空間の屈折が起きている。見えない水流が渦を巻き、泡が上へではなく横へ滑る。
――魂が、漏れている。
王国軍が到着した。整然とした槍の列。鱗の光る腕。硬い目。
隊長格の魚人が前に出る。昨日イツキに通過許可を与えた男だ。冷静で、必要以上に感情を表へ出さない。だが今夜は、その冷静がわずかに擦れている。
「またか……」
若い兵士が叫んだ。
「人間が来てからだ! こいつが原因に決まってる!」
視線が一斉にイツキへ刺さる。怒りと恐れが混じった矢。誰かの過去が、そのまま槍先になっている。
氷輪丸が一歩前に出かける。
「言わせておくのか?」
「抑えろ」
イツキの声は低い。けれど、その一言には“刃”があった。氷輪丸は舌打ちして止まる。
隊長が槍を少し下げ、イツキに問う。
「……貴様は何を見ている」
イツキは青年の前に膝をつき、そっと胸に手を置いた。魚人の皮膚は硬い。だが今は、硬さの下に震えがある。
触れた瞬間、冷たい感覚が走った。
温度じゃない。
魂の層が薄い。削られたように、軽い。芯だけが残り、周りが空洞に近い。
「喰われている」
短い結論。
ざわめきが波のように広がる。
「魂が……?」
隊長が息を詰めた。魚人族にとって魂は、海へ還るものだ。喰われるなど、想像したくない。
若手兵士が噛みつく。
「何を根拠に! 人間の言葉を信じろってのか!」
イツキは若手を見ない。見ても意味がない。恐れの矛先は論理では曲がらない。
千本桜が静かに口を挟む。
「根拠ならございます。これは“失われ方”が違う。病でも怪我でもない。外から削がれている」
「外から……?」
神槍が肩を竦める。
「食われてるっちゅうことや。海底のゴミ箱みたいに、恨みが溜まった結果やろな」
その言い方が刺さったのか、若手兵士の目が赤くなる。
「ゴミ箱だと? 魚人島を侮辱するな!」
氷輪丸が前へ出る。
「侮辱してんのはどっちだよ。倒れてる仲間を見ろ」
空気がさらに固くなる。槍が握り直される音。小さな金属の擦れが、夜にやけに響く。
その瞬間だった。
石畳の下から、かすかな“擦れる音”がした。
砂が落ちる音に似ている。だが砂は落ちていない。音だけが、すり鉢の底をなぞるように近づいてくる。
イツキの背筋が僅かに硬くなる。
(下だ)
「退け!」
隊長が叫ぶより早く、黒いものが跳ねた。
地面の亀裂から飛び出したそれは、魚でも人でもない。輪郭が揺れ、煙のように散り、また集まる。光を食っているのか、周囲の明るさが一段落ちる。
黒い塊は槍をすり抜け、若手兵士の足首へ絡みついた。
「うわっ――!」
兵士が引き剥がそうとする。だが黒いものは皮膚の上を滑り、筋肉の隙間へ潜り込むように“食い込んだ”。針を刺す痛みではなく、冷たい指で内側を撫でられるような嫌悪。
兵士の瞳が揺れる。息が止まる。言葉が出ない。
「放せ!」
隊長が槍で突く。すり抜ける。
別の兵士が刀で斬る。空を切る。
“実体”がない。
神槍が低く言う。
「霊的やな。物理でやったらアカン」
千本桜が花弁を舞わせる。淡い刃が無数に展開し、黒い塊の周りを囲む。切断ではなく、削り取るように薄く薄く刻む。
黒い塊が揺れ、悲鳴のような振動を放った。
その中心に、濁った核が見える。
暗い。重い。ぬめるように嫌な光。
流刃若火が吐き捨てる。
「怨念の凝固。魂の残滓だ」
若手兵士の口から、濁った声が漏れた。
「……にくい」
本人の声だ。だが意味が違う。言葉が骨に噛みついている。
「にんげん……にくい……」
その一言で、周囲の魚人たちの呼吸が乱れた。憎しみの言葉は、彼らにとって他人事じゃない。日常の裏側に常にある。
隊長が歯を食いしばる。
「やめろ……!」
イツキは氷輪丸を抜いた。刀身が白く光る。冷気が広がるが、周囲を凍らせない。凍らせれば、守るべき者も巻き込む。
「削る」
一閃。
黒い塊が裂ける。
裂け目から、淡い光が零れた。欠片。魂の欠片。
イツキの胸に熱が灯る。
(返せ)
叫ばない。だが、内側が燃える。刀を打つ責任――その言葉が、ここではただの美学では済まない。
神槍が刃を伸ばす。
「動くなや」
極細の刺突が核の周囲を縫い止め、逃げ道を削る。千本桜が分解を重ね、核だけを露にする。流刃若火が外側を“焼き締める”。燃やすのではない。形を崩さないように、封をする。
氷輪丸の冷気が核へ届く。
イツキは踏み込んだ。氷の上を滑るように。
二閃、三閃。
核の一部が欠け、黒い塊が暴れ、周囲の水――いや空間が大きく揺れた。
その揺れに反応するように、倒れていた魚人青年が呻き、周囲の魚人の顔色が変わる。
魂が、共鳴している。
(この島全体が、吸われてる)
イツキは瞬時に理解した。これは“個体”じゃない。点ではなく、面。魚人島のあちこちで同じ揺れが起きているなら、核はもっと大きい。
黒い塊がふいに跳ね、若手兵士の胸へ深く食い込んだ。
「が――っ!」
兵士の体が反り返り、口から泡が漏れる。目が白くなる。
隊長が叫ぶ。
「引き剥がせ!」
だが剥がせない。黒いものは兵士の輪郭に沿って膨らみ、皮膚の上に“仮面”のような膜を作り始めた。
人の形を模倣する。
魂を喰って、形を得る。
千本桜が低く言う。
「本体に近い個体です。成長が早い」
神槍が笑みを消す。
「面倒やなぁ……」
流刃若火の炎が強くなる。
「主よ、焼くぞ。これ以上取り込まれれば――」
「だめだ」
イツキが即答した。静かな声だが、拒絶が硬い。
「魂まで焼ける」
「ならどうする!」
隊長の声が割れた。冷静な男の声が割れるほどの状況。王国軍内部の亀裂が、今はただの亀裂ではなく、命の境界になっている。
イツキは兵士を見た。
若い。強硬派。疑っていた。憎んでいた。だが――それでも王国軍だ。魚人島を守る者だ。
「助ける」
たったそれだけ言った。
氷輪丸が息を吸う。
「主、俺が抑える」
「やれ」
氷輪丸が擬人化のまま両手を広げ、冷気を“糸”のように細く伸ばした。兵士の胸に絡みつく黒い塊の周囲だけを冷やし、動きを鈍らせる。凍結ではない。麻痺だ。
千本桜が花弁で外殻を薄く削る。神槍が核の逃げ道を塞ぐ。流刃若火が周囲の空間を熱で“締める”。
イツキが核に刃を当てた。
ここで斬れば、兵士の魂をさらに削るかもしれない。
だが、放置すれば喰われる。
(責任は、選択だ)
芯が熱くなる。怒りではない。決める熱だ。
「……斬る」
イツキは一閃した。
核が割れる。
黒い塊が霧散する。
兵士が崩れ落ち、隊長が受け止めた。呼吸はある。だが浅い。魂が少し削られた感覚が、空気に残る。
若手兵士が震えながら呟いた。
「俺たちの……怒りが……」
隊長が歯を食いしばる。
「黙れ。今は生きろ」
だが、イツキはその言葉の続きを心の中で言った。
――怒りは悪じゃない。
――ただ、溜め込み続ければ腐る。
――腐れば、喰う。
イツキは水の天井を見上げる。揺れが止まらない。むしろ、遠くで大きく波打った。
「源はまだある」
千本桜が頷く。
「この個体は、末端です。根は深い」
神槍が舌打ちする。
「ほな、本体がおる。腹いっぱいになったやつが」
流刃若火が低く笑った。
「よい。腹を裂けばよい」
隊長がイツキを見た。
疑念は消えていない。だが今夜、彼は一つ学んだ。目の前の人間は、奪いに来たわけではない。少なくとも今は、守る側に立っている。
「……貴様、どこへ行く」
「下だ」
「勝手は許さん」
「なら来い」
イツキの言葉は挑発ではなく、選択肢だった。
隊長は短く息を吐き、部下へ命じた。
「編成を変える。強硬派は後方に回せ。……ここから先は、感情で動くな」
若手の一人が噛みつく。
「隊長!」
「命令だ」
隊長の声は硬い。
王国軍の内部対立は消えない。だが今は、同じ方向を向くしかない。
イツキたちは街の外れ、珊瑚の根が複雑に絡む区域へ向かった。人通りが減り、灯りが途切れ、海の影が濃くなる場所だ。歩くたびに足元の砂がふわりと舞い、どこかから冷たい潮の匂いがする。泡の天井が遠く、圧迫感が増す。
(ここだ)
イツキは確信した。
この先に、“喰うもの”の溜まり場がある。
そして――この島が抱え続けたものの、形がある。
彼の胸の奥の熱は、静かに燃えていた。
怒りではなく、責任。
刀を打つ者が、打った刃の先に起きることから逃げないための熱。
イツキは氷輪丸を握り直す。
「来るぞ」
返事の代わりに、四振りがそれぞれ息を整えた。
深海の闇が揺れる。
その揺れの中心から、重い“気配”が立ち上がる。
魂を喰う存在――本体が、目を覚ます。