魚人島のさらに奥。
王国の街明かりが届かないその場所は、まるで別の海だった。
泡の天井は遠く、光はほとんど届かない。珊瑚の森は巨大な影のように並び、その隙間を冷たい水流がゆっくりと通り抜けている。
静かだ。
だがその静けさは、安らぎではない。
“溜まり続けたもの”の静けさだった。
霊牙イツキは歩みを止めた。
足元の砂がわずかに揺れている。
氷輪丸がすぐに気づく。
「主」
「ああ」
空気が震えている。
いや、空気ではない。
魂の層。
魚人島に入ってから感じていた違和感が、ここで最も濃くなっていた。
王国軍の隊長が槍を構える。
「ここか」
「……近い」
イツキの視線は珊瑚の根の奥へ向けられていた。
そこには何も見えない。
だが“重さ”だけがある。
次の瞬間。
地面が裂けた。
轟音。
砂と珊瑚が吹き飛び、黒い塊が噴き出した。
それは巨大だった。
人の形をしている。
だが歪んでいる。
魚人の腕。
人間の顔。
別の魚人の尾。
無数の形が混ざり合い、ねじれた巨人のような姿を作っている。
王国軍の兵士が息を呑む。
「……なんだ、あれは」
流刃若火が低く言う。
「怨念の核」
黒い存在がゆっくりと動く。
声が響く。
「……にくい」
濁った声。
何百もの魂が重なったような音。
「……うばう」
氷輪丸が呟く。
「魂を喰って育ったな」
次の瞬間。
巨大な腕が振り下ろされた。
衝撃。
石畳が砕ける。
王国軍が散開する。
「回避!」
隊長の指示が飛ぶ。
神槍が動いた。
「伸びろ」
刃が一直線に伸びる。
影の胴を貫く。
だが黒い体は崩れ、すぐに再生する。
神槍が舌打ちする。
「効き悪いな」
千本桜が静かに前へ出る。
「分解いたします」
花弁が舞う。
無数の刃が影を削る。
しかし体積は減らない。
むしろ膨張する。
影が怒ったように揺れる。
地面からさらに黒い霧が吸い込まれていく。
氷輪丸が言う。
「主、島の魂を吸ってる」
「分かっている」
影が突進する。
速い。
王国軍の兵士を狙う。
イツキが踏み込む。
氷輪丸の刃が閃く。
冷気が影を裂く。
だが影の腕が迫る。
その瞬間。
覇気を纏った槍が叩きつけられる。
隊長だ。
衝撃で影の軌道が逸れる。
「人間!」
隊長が叫ぶ。
「集中しろ!」
イツキは頷く。
共闘だった。
影が体を膨らませる。
さらに巨大化する。
氷輪丸が低く言う。
「長引くと不味い」
「核を叩く」
イツキが言う。
流刃若火が炎を纏う。
「道を開ける」
炎が影を焼く。
黒い煙が上がる。
千本桜が花弁を集中させる。
影の体を削り取る。
その奥。
濁った塊が見える。
氷輪丸が叫ぶ。
「見えた!」
だが次の瞬間。
影の腕が振り下ろされる。
衝撃。
イツキが弾き飛ばされる。
氷輪丸が驚く。
「主!」
地面を滑る。
影が迫る。
巨大な腕が振り下ろされる。
イツキは刀を構える。
衝撃。
体が沈む。
重い。
魂の圧力。
氷輪丸が低く言う。
「主……卍解使うか」
その言葉が空気を震わせる。
卍解。
この戦いを一瞬で終わらせる力。
だが。
(ここで使えば)
数日動けない。
深海でそれは致命的。
イツキの目が鋭くなる。
「まだだ」
影が再び動く。
王国軍の兵士が吹き飛ばされる。
隊長が踏み込む。
覇気を纏った槍が影を抑える。
「今だ!」
神槍が核へ突き刺さる。
「逃がさん」
千本桜が分解を重ねる。
影の中心が露出する。
氷輪丸が叫ぶ。
「主!」
イツキが踏み込む。
氷輪丸を振り抜く。
一閃。
冷気が一直線に走る。
核に触れる。
影が大きく震える。
悲鳴が響く。
無数の声。
魚人。
人間。
怒り。
憎しみ。
すべてが混ざる。
イツキはさらに踏み込む。
「終わりだ」
二閃。
核が割れる。
黒い体が崩れる。
影が霧のように消えていく。
やがて。
完全に消えた。
水流が静まる。
王国軍の兵士が息を吐く。
「……終わった」
イツキは刀を収めた。
「……ああ」
戦いの翌日。
魚人島王宮――竜宮城。
巨大な珊瑚の柱が並び、天井の外では深い海がゆっくりと揺れている。泡の光が淡く差し込み、宮殿の床を青く染めていた。
広間の中央。
そこにネプチューン王が座っている。
大きな体。
長い髭。
その威圧感は、海王類に近い。
そしてその前に立つのが――
霊牙イツキ。
広間には王国軍の隊長も控えていた。
昨日の戦いを見た者だ。
しばらく沈黙が続く。
やがて王がゆっくり口を開いた。
「……聞いたんじゃもん」
低く響く声。
「島の外れで妙な騒ぎが起きたそうじゃもん」
イツキは何も言わない。
王は続けた。
「魂を喰う影」
「怨念の塊」
「そしてそれを斬った人間」
王の視線が静かにイツキを測る。
「それがお主じゃな」
イツキは首を振る。
「斬ったわけじゃない」
「ほう?」
「削っただけだ」
王の眉が僅かに動く。
しばらく沈黙。
そして王はゆっくりと天井の海を見上げた。
「海はのう……」
王の声は静かだった。
「いろんなものを抱え込む場所じゃもん」
怒り。
憎しみ。
悲しみ。
人間が落としたもの。
魚人が流したもの。
全部沈む。
「長い時間をかけてな」
「海の底には、いろんなものが溜まる」
王の目が細くなる。
「魚人島は特にそうじゃもん」
人間と魚人。
長い歴史。
奴隷。
差別。
争い。
それらの感情は、消えるわけではない。
沈むだけだ。
「今回の影も」
王は言う。
「そういうものが形になったのじゃろう」
イツキは静かに頷いた。
「魂が腐った」
「腐った……か」
王は髭を撫でる。
「確かにそうじゃもんな」
少しだけ沈黙。
やがて王が聞く。
「お主は人間じゃ」
「そうだ」
「それでもあの影を斬った」
「……」
「なぜじゃ」
イツキは少し考えた。
そして答える。
「鍛冶師だからだ」
広間が静まる。
王が目を細める。
「鍛冶師?」
「刀を作る」
「力を作る」
「なら、その先に何が起きるかを見る責任がある」
イツキの声は静かだった。
だが真っ直ぐだった。
「俺の刀は、斬るためだけのものじゃない」
王はしばらく黙った。
その言葉を測るように。
やがて。
小さく頷いた。
「……なるほどのう」
王国軍の隊長が口を開く。
「陛下」
「この男は、昨日の戦いで確かに我らを助けました」
「もし彼がいなければ、被害はさらに広がっていたでしょう」
王はゆっくり頷く。
「見ておった」
「遠くからじゃがな」
王の視線がイツキへ戻る。
「お主、卍解という力を持つそうじゃもん」
氷輪丸が僅かに反応する。
イツキは答える。
「使わなかった」
「なぜじゃ」
「ここでは危険だからだ」
王の目が僅かに光る。
「……ほう」
「卍解を使えば数日動けない」
「深海では致命的だ」
ネプチューン王は深く息を吐いた。
「考えておるのう」
しばらく沈黙。
そして王は言った。
「魚人島は長いこと人間を恐れてきた」
「それは理由のある恐れじゃもん」
奴隷商人。
人身売買。
差別。
すべて事実だ。
「じゃが」
王の声が少しだけ柔らかくなる。
「お主のような人間もおるんじゃもん」
「それもまた事実じゃもん」
イツキは何も言わない。
王はゆっくり立ち上がった。
巨大な体が動く。
広間の空気が少し揺れる。
「霊牙イツキ」
王は言った。
「魚人島は、お主を敵とは見ぬのじゃもん」
静かな宣言だった。
だが重い。
王国軍の兵士たちがざわめく。
王は続ける。
「新世界へ向かうのじゃろう」
「……ああ」
「ならば行くがよい」
王の声は低い。
「堂々とな」
そして最後にこう言った。
「海は広い」
「じゃが」
「抱え込むだけでは腐る」
「時には、斬る者も必要じゃもん」
イツキは静かに頷いた。
その日の夕方。
船は再びコーティングされた。
泡が船を包む。
氷輪丸が甲板に立つ。
「主」
「なんだ」
「王様、嫌いじゃなかったな」
神槍が笑う。
「ええ王様やな」
千本桜も静かに頷く。
流刃若火は目を閉じたままだ。
船がゆっくり動く。
魚人島が遠ざかる。
イツキは海を見る。
深海は静かだ。
だが、その奥にはまだ多くの魂が沈んでいる。
それでも。
船は進む。
新世界へ。
霊牙イツキの航海は、まだ続いていた。