斬魄刀は海を斬れるか   作:ひよこ大福

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第四話 深海の底に残るもの

魚人島のさらに奥。

 

王国の街明かりが届かないその場所は、まるで別の海だった。

 

泡の天井は遠く、光はほとんど届かない。珊瑚の森は巨大な影のように並び、その隙間を冷たい水流がゆっくりと通り抜けている。

 

静かだ。

 

だがその静けさは、安らぎではない。

 

“溜まり続けたもの”の静けさだった。

 

霊牙イツキは歩みを止めた。

 

足元の砂がわずかに揺れている。

 

氷輪丸がすぐに気づく。

 

「主」

 

「ああ」

 

空気が震えている。

 

いや、空気ではない。

 

魂の層。

 

魚人島に入ってから感じていた違和感が、ここで最も濃くなっていた。

 

王国軍の隊長が槍を構える。

 

「ここか」

 

「……近い」

 

イツキの視線は珊瑚の根の奥へ向けられていた。

 

そこには何も見えない。

 

だが“重さ”だけがある。

 

次の瞬間。

 

地面が裂けた。

 

轟音。

 

砂と珊瑚が吹き飛び、黒い塊が噴き出した。

 

それは巨大だった。

 

人の形をしている。

 

だが歪んでいる。

 

魚人の腕。

 

人間の顔。

 

別の魚人の尾。

 

無数の形が混ざり合い、ねじれた巨人のような姿を作っている。

 

王国軍の兵士が息を呑む。

 

「……なんだ、あれは」

 

流刃若火が低く言う。

 

「怨念の核」

 

黒い存在がゆっくりと動く。

 

声が響く。

 

「……にくい」

 

濁った声。

 

何百もの魂が重なったような音。

 

「……うばう」

 

氷輪丸が呟く。

 

「魂を喰って育ったな」

 

次の瞬間。

 

巨大な腕が振り下ろされた。

 

衝撃。

 

石畳が砕ける。

 

王国軍が散開する。

 

「回避!」

 

隊長の指示が飛ぶ。

 

神槍が動いた。

 

「伸びろ」

 

刃が一直線に伸びる。

 

影の胴を貫く。

 

だが黒い体は崩れ、すぐに再生する。

 

神槍が舌打ちする。

 

「効き悪いな」

 

千本桜が静かに前へ出る。

 

「分解いたします」

 

花弁が舞う。

 

無数の刃が影を削る。

 

しかし体積は減らない。

 

むしろ膨張する。

 

影が怒ったように揺れる。

 

地面からさらに黒い霧が吸い込まれていく。

 

氷輪丸が言う。

 

「主、島の魂を吸ってる」

 

「分かっている」

 

影が突進する。

 

速い。

 

王国軍の兵士を狙う。

 

イツキが踏み込む。

 

氷輪丸の刃が閃く。

 

冷気が影を裂く。

 

だが影の腕が迫る。

 

その瞬間。

 

覇気を纏った槍が叩きつけられる。

 

隊長だ。

 

衝撃で影の軌道が逸れる。

 

「人間!」

 

隊長が叫ぶ。

 

「集中しろ!」

 

イツキは頷く。

 

共闘だった。

 

影が体を膨らませる。

 

さらに巨大化する。

 

氷輪丸が低く言う。

 

「長引くと不味い」

 

「核を叩く」

 

イツキが言う。

 

流刃若火が炎を纏う。

 

「道を開ける」

 

炎が影を焼く。

 

黒い煙が上がる。

 

千本桜が花弁を集中させる。

 

影の体を削り取る。

 

その奥。

 

濁った塊が見える。

 

氷輪丸が叫ぶ。

 

「見えた!」

 

だが次の瞬間。

 

影の腕が振り下ろされる。

 

衝撃。

 

イツキが弾き飛ばされる。

 

氷輪丸が驚く。

 

「主!」

 

地面を滑る。

 

影が迫る。

 

巨大な腕が振り下ろされる。

 

イツキは刀を構える。

 

衝撃。

 

体が沈む。

 

重い。

 

魂の圧力。

 

氷輪丸が低く言う。

 

「主……卍解使うか」

 

その言葉が空気を震わせる。

 

卍解。

 

この戦いを一瞬で終わらせる力。

 

だが。

 

(ここで使えば)

 

数日動けない。

 

深海でそれは致命的。

 

イツキの目が鋭くなる。

 

「まだだ」

 

影が再び動く。

 

王国軍の兵士が吹き飛ばされる。

 

隊長が踏み込む。

 

覇気を纏った槍が影を抑える。

 

「今だ!」

 

神槍が核へ突き刺さる。

 

「逃がさん」

 

千本桜が分解を重ねる。

 

影の中心が露出する。

 

氷輪丸が叫ぶ。

 

「主!」

 

イツキが踏み込む。

 

氷輪丸を振り抜く。

 

一閃。

 

冷気が一直線に走る。

 

核に触れる。

 

影が大きく震える。

 

悲鳴が響く。

 

無数の声。

 

魚人。

 

人間。

 

怒り。

 

憎しみ。

 

すべてが混ざる。

 

イツキはさらに踏み込む。

 

「終わりだ」

 

二閃。

 

核が割れる。

 

黒い体が崩れる。

 

影が霧のように消えていく。

 

やがて。

 

完全に消えた。

 

水流が静まる。

 

王国軍の兵士が息を吐く。

 

「……終わった」

 

イツキは刀を収めた。

 

「……ああ」

 

 

戦いの翌日。

 

魚人島王宮――竜宮城。

 

巨大な珊瑚の柱が並び、天井の外では深い海がゆっくりと揺れている。泡の光が淡く差し込み、宮殿の床を青く染めていた。

 

広間の中央。

 

そこにネプチューン王が座っている。

 

大きな体。

 

長い髭。

 

その威圧感は、海王類に近い。

 

そしてその前に立つのが――

 

霊牙イツキ。

 

広間には王国軍の隊長も控えていた。

 

昨日の戦いを見た者だ。

 

しばらく沈黙が続く。

 

やがて王がゆっくり口を開いた。

 

「……聞いたんじゃもん」

 

低く響く声。

 

「島の外れで妙な騒ぎが起きたそうじゃもん」

 

イツキは何も言わない。

 

王は続けた。

 

「魂を喰う影」

 

「怨念の塊」

 

「そしてそれを斬った人間」

 

王の視線が静かにイツキを測る。

 

「それがお主じゃな」

 

イツキは首を振る。

 

「斬ったわけじゃない」

 

「ほう?」

 

「削っただけだ」

 

王の眉が僅かに動く。

 

しばらく沈黙。

 

そして王はゆっくりと天井の海を見上げた。

 

「海はのう……」

 

王の声は静かだった。

 

「いろんなものを抱え込む場所じゃもん」

 

怒り。

 

憎しみ。

 

悲しみ。

 

人間が落としたもの。

 

魚人が流したもの。

 

全部沈む。

 

「長い時間をかけてな」

 

「海の底には、いろんなものが溜まる」

 

王の目が細くなる。

 

「魚人島は特にそうじゃもん」

 

人間と魚人。

 

長い歴史。

 

奴隷。

 

差別。

 

争い。

 

それらの感情は、消えるわけではない。

 

沈むだけだ。

 

「今回の影も」

 

王は言う。

 

「そういうものが形になったのじゃろう」

 

イツキは静かに頷いた。

 

「魂が腐った」

 

「腐った……か」

 

王は髭を撫でる。

 

「確かにそうじゃもんな」

 

少しだけ沈黙。

 

やがて王が聞く。

 

「お主は人間じゃ」

 

「そうだ」

 

「それでもあの影を斬った」

 

「……」

 

「なぜじゃ」

 

イツキは少し考えた。

 

そして答える。

 

「鍛冶師だからだ」

 

広間が静まる。

 

王が目を細める。

 

「鍛冶師?」

 

「刀を作る」

 

「力を作る」

 

「なら、その先に何が起きるかを見る責任がある」

 

イツキの声は静かだった。

 

だが真っ直ぐだった。

 

「俺の刀は、斬るためだけのものじゃない」

 

王はしばらく黙った。

 

その言葉を測るように。

 

やがて。

 

小さく頷いた。

 

「……なるほどのう」

 

王国軍の隊長が口を開く。

 

「陛下」

 

「この男は、昨日の戦いで確かに我らを助けました」

 

「もし彼がいなければ、被害はさらに広がっていたでしょう」

 

王はゆっくり頷く。

 

「見ておった」

 

「遠くからじゃがな」

 

王の視線がイツキへ戻る。

 

「お主、卍解という力を持つそうじゃもん」

 

氷輪丸が僅かに反応する。

 

イツキは答える。

 

「使わなかった」

 

「なぜじゃ」

 

「ここでは危険だからだ」

 

王の目が僅かに光る。

 

「……ほう」

 

「卍解を使えば数日動けない」

 

「深海では致命的だ」

 

ネプチューン王は深く息を吐いた。

 

「考えておるのう」

 

しばらく沈黙。

 

そして王は言った。

 

「魚人島は長いこと人間を恐れてきた」

 

「それは理由のある恐れじゃもん」

 

奴隷商人。

 

人身売買。

 

差別。

 

すべて事実だ。

 

「じゃが」

 

王の声が少しだけ柔らかくなる。

 

「お主のような人間もおるんじゃもん」

 

「それもまた事実じゃもん」

 

イツキは何も言わない。

 

王はゆっくり立ち上がった。

 

巨大な体が動く。

 

広間の空気が少し揺れる。

 

「霊牙イツキ」

 

王は言った。

 

「魚人島は、お主を敵とは見ぬのじゃもん」

 

静かな宣言だった。

 

だが重い。

 

王国軍の兵士たちがざわめく。

 

王は続ける。

 

「新世界へ向かうのじゃろう」

 

「……ああ」

 

「ならば行くがよい」

 

王の声は低い。

 

「堂々とな」

 

そして最後にこう言った。

 

「海は広い」

 

「じゃが」

 

「抱え込むだけでは腐る」

 

「時には、斬る者も必要じゃもん」

 

イツキは静かに頷いた。

 

その日の夕方。

 

船は再びコーティングされた。

 

泡が船を包む。

 

氷輪丸が甲板に立つ。

 

「主」

 

「なんだ」

 

「王様、嫌いじゃなかったな」

 

神槍が笑う。

 

「ええ王様やな」

 

千本桜も静かに頷く。

 

流刃若火は目を閉じたままだ。

 

船がゆっくり動く。

 

魚人島が遠ざかる。

 

イツキは海を見る。

 

深海は静かだ。

 

だが、その奥にはまだ多くの魂が沈んでいる。

 

それでも。

 

船は進む。

 

新世界へ。

 

霊牙イツキの航海は、まだ続いていた。

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