斬魄刀は海を斬れるか   作:ひよこ大福

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第五話 世界が揺れる前

魚人島を離れてからしばらく、船は深海の暗がりを、音もなく進んでいた。

 

泡のコーティングに包まれた船体は、水圧を弾きながらゆっくりと浮上していく。外の海は青というより、もはや黒に近かった。深海魚が時折、刹那の光を灯しては闇の奥へ消え、巨大な海王類の影がずっと遠くを横切るたびに、光の届かない世界がなおさら広く見えた。

 

その静けさは、地上の静けさとはまるで違う。

 

風もない。雲もない。音の代わりにあるのは、ただ圧だけだった。

 

押し潰すような重み。

 

海の底に沈められた数え切れないものすべてが、見えないまま周囲を満たしているような感覚。

 

甲板の先端で、氷輪丸が膝を抱えて座っていた。窓越しの海をじっと見上げ、時折わずかに眉をひそめる。

 

「……近いな」

 

ぽつりと、少年らしい声が落ちる。

 

神槍が船縁にもたれ、気の抜けたような顔で外を見ていた。

 

「何がや」

 

「上」

 

氷輪丸は短く答える。

 

「水の流れが変わった。深海の底で淀んでた感じが薄い」

 

「へえ」

 

神槍は細く笑った。

 

「よう分かるなあ、そういうん」

 

「おまえが適当なだけだ」

 

「せやけど、まあ、空気は変わったな。魚人島の下とは違う」

 

その少し後ろで、千本桜が静かに帆柱を見上げていた。泡の膜に沿って揺れる光が、その横顔をいっそう冷ややかに見せている。

 

「ええ。海流だけではありません。何か……張り詰めております」

 

流刃若火は腕を組み、目を閉じたまま低く言った。

 

「新世界の海は、常に何かを孕んでおる。静かでも、眠ってはおらぬ」

 

その言葉に、誰も軽口を返さなかった。

 

霊牙イツキは甲板の中央に立ち、泡の向こうを見ていた。

 

深海を離れれば離れるほど、水の圧は軽くなっていく。だがその代わりに、別の“揺れ”が強くなっていた。魚人島で感じたような、底に溜まった歪みではない。もっと広い。もっと散っている。海のあちこちで、何かが張り詰めている。

 

それは争いの前の空気に似ていた。

 

まだ血は流れていない。まだ悲鳴は上がっていない。だが、どこかで誰かが息を潜め、刃を握り、怒りを押し殺している。そんな気配が、海流の隙間から少しずつ伝わってくる。

 

イツキはそれを、ただ“騒がしい”と感じた。

 

魚人島で向き合ったものが、海の底に沈んだ過去ならば。今、海の上で渦巻いているものは、これから沈むかもしれない未来だった。

 

やがて、船の先に薄い光が見えた。

 

泡の膜越しに差し込む白。

 

深海ではなく、海面の色。

 

氷輪丸が立ち上がる。

 

「来るぞ」

 

神槍が肩を回す。

 

「やっとやな」

 

次の瞬間、船体が大きく揺れ、泡の膜をまとったまま海面を突き破った。

 

轟、と水が落ちる。

 

泡が弾け、深海の圧が消える。

 

視界の一面に広がったのは、荒々しい青空だった。

 

眩しいほどの光。

 

だがその下にある海は、穏やかさとは程遠かった。

 

新世界の海は、まるで生き物のようにうねっている。波は高く、風は強く、雲は低い。空の色さえ、楽園側の海よりどこか濃く、重い。遠くで雷鳴がくぐもり、見えるか見えないかの境目で、黒い雨雲が幾筋も移動していた。

 

氷輪丸が目を細めた。

 

「……重いな」

 

「海も、空もな」

 

神槍が珍しく真面目な声で言う。

 

千本桜は風になびく髪を押さえながら、水平線の向こうを見つめた。

 

「新世界特有の荒れ方ですね。自然だけではない気配がございます」

 

流刃若火が目を開く。

 

「争いの匂いじゃ」

 

イツキは何も言わず、甲板の端へ歩いた。海を見下ろす。魚人島を出たばかりの海はまだ深く、色も濃い。だがその表面は落ち着きなく波打ち、泡を吐きながらどこかへ急いでいた。

 

そのとき、頭上で羽音がした。

 

一羽の鳥が風に乗って旋回している。

 

新聞鳥だ。

 

神槍が片手を上げる。

 

「おーい、こっちや」

 

新聞鳥は一度大きく円を描き、それから甲板へ舞い降りた。イツキがコインを放ると、鳥は器用に嘴で受け取り、代わりに一束の新聞を落とす。

 

氷輪丸が拾い上げる。

 

その顔つきが、数秒で変わった。

 

「……主」

 

いつもの軽さが消えていた。

 

神槍が横から覗き込み、すぐに笑みを失う。

 

千本桜が静かに歩み寄る。流刃若火はその場から動かないが、視線だけが新聞へ向けられた。

 

氷輪丸が黙って新聞を差し出す。

 

イツキは受け取り、一面を見た。

 

大きな文字が、紙面いっぱいに踊っていた。

 

『ポートガス・D・エース 公開処刑決定』

 

風が、新聞の端を大きく揺らした。

 

エース。

 

白ひげ海賊団二番隊隊長。

 

火拳。

 

その名は、新世界に生きる者なら誰もが知っている。白ひげという巨大な存在の旗下にありながら、単独でも十分に名の通る男だ。

 

イツキは記事を読み進める。

 

海軍本部マリンフォードにて公開処刑。

 

世界政府による正式発表。

 

七武海招集。

 

白ひげ海賊団との全面衝突の可能性。

 

記事の一文一文が、ただ事実を並べているだけのはずなのに、その行間からは既に火薬の匂いがした。

 

氷輪丸が低く言った。

 

「白ひげが黙ってるわけない」

 

神槍が新聞の別面をめくる。

 

「海軍本部に七武海まで集めるんやろ。大ごとやで、これ」

 

千本桜は静かな声で続ける。

 

「公開処刑という形を取る以上、これは単なる処刑ではありません。世界へ見せつけるためのものです」

 

流刃若火が鼻を鳴らした。

 

「威示じゃな。海軍が四皇へ向けて放つ、大きすぎる火種よ」

 

イツキは新聞を折らなかった。

 

紙の重みが、妙に手に残る。

 

処刑一つで世界が揺れる。そういう立場にある男がいるということ。そしてその男を奪われた側もまた、世界を揺らせるだけの力を持っているということ。

 

海が騒がしいのは当然だった。

 

まだ何も始まっていない。だが、始まると決まった時点で、世界はもう平静ではいられない。

 

「……荒れるな」

 

イツキがそう言うと、氷輪丸が甲板の先へ視線をやった。

 

「海だけじゃ済まない」

 

「世界そのものが荒れる」

 

神槍は珍しく笑わなかった。

 

「白ひげが動いたら、海軍も本気や。そこに七武海まで揃う。よう考えたら、海賊時代始まって以来の大戦争やないか」

 

千本桜が新聞の細かな記事を目で追う。

 

「七武海全員の招集には応じていない者もいるかもしれませんが、それでも戦力としては十分過ぎます。白ひげ海賊団と、その傘下。海軍本部。王下七武海。三つの巨大な力が一点に集まる」

 

流刃若火の声音は低く、だがどこか愉悦めいていた。

 

「海が割れるのう」

 

イツキは視線を空へ上げた。

 

風は強い。雲の流れも速い。遠くの雷鳴はまだはっきりとは聞こえないが、確実にこちらへ近づいている。

 

世界も同じだ。

 

今はまだ遠い。だが、止まりはしない。

 

その頃、海軍本部マリンフォードでは、海よりも重い空気が会議室を満たしていた。

 

巨大な軍港。砲台の並ぶ外壁。整然と立ち並ぶ軍艦。そこを行き交う海兵たちの顔には、普段以上の緊張が刻まれている。

 

本部要塞の上層。

 

重い扉の閉ざされた会議室の中央に、仏のセンゴクは座っていた。

 

卓上には何枚もの報告書。軍の配置図。マリンフォード周辺海域の海図。白ひげ海賊団の戦力推定。七武海の出席状況。そして、その一番上に置かれているのは、エース公開処刑に関する最終確認書類だった。

 

センゴクは書類から目を上げる。

 

向かいには、ガープがいた。

 

腕を組み、いつものような豪放さを表へ出してはいない。ただ黙って座っている。だが、その沈黙は普段の気楽さとは違う。机を一つ挟んでいるだけなのに、まるで別の場所にいるような遠さがあった。

 

会議室の左右には七武海の面々がいる。

 

鷹の目のミホークは椅子に深く腰掛け、腕を組んだまま一言も発さない。クロコダイルは口元に皮肉な笑みを浮かべ、退屈そうに天井を見ている。ドフラミンゴは脚を組み、楽しげに指を鳴らしていた。モリアは鼻で笑い、くぐもった声で何か呟いている。くまは相変わらずの無表情で、ただそこに立つ像のようだった。

 

異様な顔ぶれだ、と新任の海兵なら足が竦むだろう。

 

センゴクは低く言った。

 

「処刑は予定通り執行する」

 

誰も驚かない。

 

すでに何度も確認された方針だ。

 

「白ひげが動く可能性は極めて高い。いや、動くと見てよい」

 

ドフラミンゴが笑う。

 

「フッフッフッフ……“可能性”なんて回りくどい言い方はやめろよ。来るに決まってんだろうが。四皇が自分の隊長を見捨てたら、それだけで世界の均衡が揺らぐ」

 

クロコダイルが煙を吐いた。

 

「白ひげも老いた。だが、老いた怪物ほど面倒なものはねえ」

 

ミホークがそこで初めて口を開く。

 

「白ひげ本人より、その周囲がどう動くかだ」

 

静かな声だった。

 

だが会議室が一瞬、そちらを向く。

 

ミホークは淡々と続けた。

 

「四皇の名の下に集う者は多い。白ひげという名そのものが、一つの戦力だ」

 

センゴクは頷いた。

 

「その通りだ。だからこそ、こちらも見せねばならん。海軍本部、王下七武海、そして正義がここにあることを」

 

ガープは黙ったままだった。

 

センゴクは一度だけそちらを見た。だが何も言わない。

 

ガープが今、何を抱えているか。口にしなくても分かっている。だが、それでもこの場は進めねばならない。立場が人を裂くことは、誰よりセンゴクが知っていた。

 

その時、別の書類が机へ置かれた。

 

部下の海兵が敬礼し、言う。

 

「失礼します。新世界突入直後の海賊に関する報告です」

 

センゴクが眉を寄せる。

 

「今は白ひげを優先しろ」

 

「はっ。ですが、魚人島付近にて王国軍との接触、および現地での異常事態鎮圧に関する情報でして」

 

ドフラミンゴが興味深そうに首を傾げる。

 

「ほう?」

 

センゴクが書類を受け取る。

 

そこには一つの名が記されていた。

 

“魂刀の刀神” 霊牙イツキ

 

センゴクの目が細くなる。

 

「こいつか」

 

海兵が続ける。

 

「魚人島にて、不可解な魂の異変と、それに伴う騒乱が発生。現地王国軍と共同で鎮圧に当たったとのことです。詳細は不明ですが、現場証言では“人格を持つ刀”を伴っていたと……」

 

クロコダイルが薄く笑う。

 

「相変わらず胡散臭え能力だ」

 

ドフラミンゴが愉快そうに指を鳴らす。

 

「フッフッフッ……面白いじゃねえか。魚人島で王国軍と共闘? 海賊のやることじゃねえ」

 

ミホークは視線を落とし、書類の一部に目を通した。

 

「刀か」

 

その一言には、わずかだが興味が混じっていた。

 

センゴクが報告書を机へ置く。

 

「今は優先順位が違う」

 

そう言いながらも、その顔には完全な無関心ではない影があった。

 

四億二千万。新世界突入直後。魚人島での異常鎮圧。人格を持つ斬魄刀。情報としてはまだ断片的だが、海軍本部として無視できる類の海賊ではない。

 

「ただし、記録には残しておけ。戦争の後、海はさらに荒れる。その時、こういう手合いがどう動くかは見ておく必要がある」

 

ドフラミンゴが笑う。

 

「戦争の後、か。生き残ってりゃ、もっと面白くなるってわけだ」

 

ガープはそこで初めて口を開いた。

 

「……海は、また騒がしくなるのう」

 

それだけだった。

 

だが、その言葉には妙な重さがあった。

 

センゴクは何も返さない。

 

会議は続く。

 

処刑台の配置。包囲網。白ひげ出現時の対応。七武海の役割分担。すべてが冷徹に、効率よく、粛々と決められていく。

 

世界が燃える準備が、整えられていった。

 

その少し離れた新世界のどこか。

 

荒れた海域のただ中を、一隻の巨大な海賊船が進んでいた。

 

黒ひげ海賊団。

 

船首に立つ男は、分厚い闇のような存在感をまとっている。マーシャル・D・ティーチ。黒ひげ。

 

甲高くも腹の底に響く笑いを上げる男だが、今はまだ笑っていなかった。

 

船員の一人が新聞を持って駆け寄る。

 

「提督! 出ましたぜ!」

 

黒ひげは新聞を受け取り、一面を見た。

 

エース公開処刑。

 

その文字を見た瞬間、口角がゆっくりと吊り上がる。

 

「ゼハハハ……」

 

低い笑い。

 

「ついに来たなァ」

 

彼にとって、これはただの戦争ではない。

 

大きな転機だ。

 

時代が一つひっくり返る場所。そこに自分がいるかいないかで、その先の海の景色はまるで違う。

 

だが黒ひげの目は、次の面に滑った。

 

そこに小さく載っていた記事。

 

魚人島付近での異常騒動鎮圧。王国軍との協力。人格を持つ刀を従える海賊。

 

「……“魂刀の刀神”」

 

黒ひげがその名を口にする。

 

周囲の船員たちが顔を見合わせる。

 

「知ってるんですかい、提督?」

 

「ゼハハハ! 名前だけならなァ!」

 

黒ひげは記事を指で叩いた。

 

「面白ェじゃねえか。自分の魂を削って刀を作る? しかもその刀が動く?」

 

その目に浮かんでいるのは、単純な好奇心ではない。

 

値踏みだ。

 

利用できるか。奪えるか。ぶつければどうなるか。

 

そういう目。

 

「こういう“妙な”力はなァ……大抵、時代が荒れる時に表へ出てくるもんだ」

 

船員が首を傾げる。

 

「じゃあ、接触しやすか?」

 

黒ひげはすぐには答えなかった。

 

新聞をたたみ、海の向こうを見る。

 

その先にはマリンフォードがあり、白ひげがあり、エースがいる。今はまだ、そちらの方がはるかに大きい。

 

だが。

 

「今はまだいい」

 

黒ひげはにやりと笑った。

 

「ゼハハハ! だが覚えとけ! そのイツキって野郎、時代の波に飲まれねェなら、そのうち必ず面白い場所に出てくる!」

 

そして笑う。

 

今度はいつものように、腹の底から。

 

「ゼハハハハハ!」

 

新世界の海に、その笑いが広がる。

 

嵐の前に笑う男。

 

その笑い声は不吉で、妙に楽しげで、まるでこれから世界がどう壊れるかを先に知っているようだった。

 

イツキたちの船は、その頃も新世界の海を進んでいた。

 

新聞はすでに折りたたまれ、甲板の隅に置かれている。

 

だが、そこに書かれていた文字の重さは消えていない。

 

氷輪丸がマストにもたれ、空を見上げる。

 

「主」

 

「なんだ」

 

「行くのか」

 

短い問いだった。

 

どこへ、とは言わない。

 

だが意味は明白だった。

 

マリンフォード。処刑。戦争。

 

イツキは少しの間、答えなかった。

 

風が吹く。

 

船が大きく揺れる。

 

新世界の波は、高く、荒い。

 

だがその荒さも、これから起こることに比べれば前触れに過ぎないのだと、誰もがどこかで理解していた。

 

「……まだ決めない」

 

イツキはそう言った。

 

神槍が横目で見る。

 

「珍しいな。迷うんか」

 

「迷ってはいない」

 

千本桜が静かに問う。

 

「では、測っているのですね」

 

「ああ」

 

何をするかではなく、何をすべきか。

 

戦争に向かうことが正しいのか。行かなければならない理由があるのか。そこへ踏み込めば、自分たちの航海は確実に別の形へ歪む。

 

刀を打つ者は、軽々しく刃を抜いてはならない。

 

イツキの中には、その感覚が根のように深くある。

 

流刃若火が低く言った。

 

「世界は荒れる。主が望もうと望むまいと、のう」

 

「分かっている」

 

「ならば、ただ見ておるだけでは済まぬ時も来る」

 

イツキは海を見た。

 

魚人島で感じた“底に沈んだもの”とは違う。今、海の表面を覆っているのは、これから生まれる怒りと悲しみだ。

 

まだ沈んでいない。

 

だが、放っておけば必ず沈む。

 

「……騒がしい」

 

イツキがぽつりと言う。

 

氷輪丸が小さく笑った。

 

「前からそう言ってるな」

 

「事実だ」

 

神槍が肩を竦める。

 

「ほな、その騒がしい場所の中心、たぶん今世界で一番おもろいとこやで」

 

千本桜は静かに視線を落とした。

 

「面白い、で済む話ではありませんが」

 

流刃若火が目を閉じる。

 

「戦は、いつもそうじゃ。始まる前が最も静かで、最も騒がしい」

 

遠くで雷が鳴った。

 

空はさらに暗くなっていく。

 

船は波を越え、新世界の海を進む。

 

その先にあるのは、まだ名もない島かもしれない。あるいは、世界を変える戦場かもしれない。

 

どちらにせよ、海はもう静かではいられない。

 

そして霊牙イツキもまた、その騒がしさの外側に立ち続けることは、きっとできないのだろうと。

 

その予感だけが、強い風の中で静かに形を取り始めていた。

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