斬魄刀は海を斬れるか   作:ひよこ大福

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第七話 戦争前

夜の海は、昼の海よりも静かに見える。

 

だが本当に静かなわけではない。

見えていないだけだ。

 

昼間は波頭の白さや、風に引き裂かれた飛沫や、空を流れていく雲の速さが、海の荒れ方をそのまま目に見せてくれる。だが夜になると、海は急に“底知れないもの”に変わる。揺れているはずなのに、その揺れの輪郭が見えない。波は確かに船腹を打っているのに、何がどれほど荒れているのか、目だけでは測れない。

 

だから夜の海は、静かに見える。

 

そして、その静けさはたいてい嘘だ。

 

霊牙イツキたちの船は、その夜の海を進んでいた。

 

魚人島から出て、新世界へ足を踏み入れ、いくつかの海流を越え、ようやく辿り着こうとしている場所がある。目的地が明確になってからの航海は、速かった。速かったが、落ち着きはなかった。風向きを読み、波をいなし、必要なら進路をずらしながらも、船は確実に一つの場所へ向かっている。

 

海軍本部マリンフォード。

 

その名を思い浮かべるだけで、海の空気が一段重くなる気がした。

 

甲板に出ている者は多くない。

もともと船にいる人数自体が少ない。

 

船首に近い場所に氷輪丸。

マストの影に寄りかかる神槍。

欄干のそばに静かに立つ千本桜。

船尾寄りに腕を組み、目を閉じている流刃若火。

そして甲板の中央、最も風を正面から受ける場所にイツキが立っていた。

 

夜の風は冷たい。

 

だが、その冷たさは魚人島の深海の冷え方とは違う。あちらは、底に沈んだものに触れるような冷たさだった。今の風はもっと薄く、広く、そしてどこか乾いている。何かが燃える前の匂いがある。

 

氷輪丸が、しばらく黙ったあとで言った。

 

「……近いな」

 

その言葉は確認のようでもあり、自分に言い聞かせるようでもあった。

 

神槍が顔だけをそちらへ向ける。

 

「海軍本部か?」

 

「たぶんな」

 

氷輪丸は水平線の暗がりを見たまま答える。

 

「海の流れが違う。こんなに広い海域の水が、同じ方向に押し返されてる」

 

神槍はわずかに眉を上げた。

 

「軍艦か」

 

「それだけじゃない。砲台か、港の構造か……なんにせよ、不自然なくらい海が詰まってる」

 

千本桜が静かに目を伏せた。

 

「十万の兵。無数の艦隊。戦争のために一つの海域へそれだけのものを集めれば、海流も呼吸を乱しますか」

 

流刃若火が鼻を鳴らす。

 

「海もまた器じゃ。中に詰め込めば歪む。兵も憎しみも、入れすぎれば溢れる」

 

その言葉に、イツキは何も返さなかった。

 

返さなかったが、胸の奥では別の言葉が浮かんでいた。

 

溢れる。

 

魚人島で見たものも、結局はそれだった。抱え込んで、沈めて、見えなくして、それでもなくならないもの。怒りも、憎しみも、悲しみも、忘れられたまま底へ沈んでいくわけではない。沈んだ先で重なり、腐り、形を持つ。

 

ならば、これからマリンフォードで起きることも、いつかまた別の場所に沈んでいくのだろうかと、イツキは考える。

 

まだ流れてもいない血が、すでに海の底を重くしているような気がした。

 

船は進む。

 

空を見上げれば、雲が低い。星は見えているが、どれも輪郭が鈍い。風は止まらない。甲板に当たる波は大きくないのに、船は微妙に揺れ続けている。

 

落ち着かないのは、海だけではない。

 

イツキ自身もまた、静かに考え続けていた。

 

向かっている。

それはもう決めた。

 

だが、向かった先で何をするのかは、まだ言葉になっていない。

 

戦争を止めるためではない。

そんなことは、一人の海賊にできる規模ではない。

 

白ひげを助けるためでもない。

白ひげと面識はない。

 

エースを救うためでもない。

それを口にするには、理由が薄い。

 

ならば何のために行くのか。

 

その問いに対して、はっきりした美しい答えはまだ出ていない。だが、イツキの中では別の形で結論が出ている。

 

行かなければならない。

 

それだけは確かだった。

 

理由を綺麗に言葉へ整える前に、身体の方がもうそちらへ向いている。鍛冶師として、刃を作る者として、これほど大きな“時代の切断面”を見ずに通り過ぎることはできない。何かが大きく断たれようとしている時、その場にいなければ、自分の刀が何を斬るためにあるのかという問いからも逃げることになる。

 

それが、イツキには耐え難かった。

 

氷輪丸が再び口を開く。

 

「主」

 

「なんだ」

 

「おまえ、考えすぎてる顔してる」

 

神槍が小さく笑った。

 

「珍しいな。いや、いつも考えとるか」

 

イツキは少しだけ視線を横へ流した。

 

「考えていないわけじゃない」

 

「やろな」

 

氷輪丸は夜の海を見たまま言う。

 

「でも、もう決めてる顔でもある」

 

その言葉にイツキは否定しなかった。

 

千本桜が穏やかに続ける。

 

「主様は、迷っておられるのではなく、量っておられるのでしょう」

 

「何をだ?」

 

神槍が聞く。

 

「踏み込む深さを、です」

 

千本桜の声は静かだったが、言葉は正確だった。

 

イツキはただ戦場へ向かっているのではない。

どこまで踏み込むべきかを測っている。

 

見届けるだけなのか。

介入するのか。

誰かを斬るのか。

誰かを守るのか。

 

同じ“行く”でも、その先はいくつにも分かれている。そこを決めないまま刃を抜くことは、イツキにはできない。できないが、決めきる前に戦場へ着く可能性も高い。

 

戦争とはそういうものだ。

考える時間を与えるようでいて、実際には与えない。

 

流刃若火が低く言う。

 

「主よ」

 

「なんだ」

 

「戦は理屈の通らぬ場所じゃ。どれだけ備えても、いざ始まれば刃の届くものしか見えぬ」

 

「分かっている」

 

「ならば、最後は選ぶだけじゃ。考え抜いた先でなお迷うなら、その時は斬るか斬らぬかを決めるしかない」

 

イツキは短く息を吐いた。

 

その言葉は、冷たいようでいて正しい。鍛冶も同じだ。どれだけ鉄を見て、火を見て、打つ角度を考えても、最後は振り下ろすしかない瞬間がある。一打ごとに逡巡していては、刀身は歪む。

 

迷いをなくしてから打つのではない。

迷いごと、まっすぐ振り下ろすのだ。

 

やがて、前方に影が見えた。

 

氷輪丸の肩がわずかに強張る。

 

「見えた」

 

イツキも顔を上げる。

 

夜の海の向こう。水平線に沈むようにして、巨大な黒い輪郭が浮かんでいた。最初はただの陸影にも見える。だが近づくにつれて、それが自然の形ではないことが分かってくる。

 

壁。

 

砲台。

 

塔。

 

整えられた港湾施設。

 

そして、そのすべてを包み込むような圧。

 

マリンフォード。

 

海軍本部。

 

夜であるにもかかわらず、その姿ははっきりと見えた。むしろ夜だからこそ異様さが際立っている。要塞内外に灯された無数の明かりが、巨大な軍事拠点の輪郭をくっきり浮かび上がらせていた。海沿いには軍艦が幾重にも並び、湾内には大型艦の影が詰まっている。海の上に都市があるのではない。戦争そのものが形を取って港に停泊しているように見えた。

 

神槍が小さく口笛を鳴らす。

 

「……すごいな」

 

今度のそれは軽口ではない。

 

千本桜も、普段よりわずかに息を浅くした。

 

「想像を超えております」

 

流刃若火が目を開いた。

 

その瞳に映るのは、懐かしさでも驚きでもない。ただ、巨大な火を前にした時の静かな興奮だった。

 

「戦場じゃのう」

 

イツキは黙っていた。

 

黙って、マリンフォードの構造を目で追う。

 

外壁。

湾口。

砲台。

軍艦の位置。

高台。

本部要塞。

そして中央の高い位置に作られた処刑台。

 

遠い。だが分かる。

 

あの場所にエースが立たされる。

 

まだ見えない。

けれど、見えないからこそ、そこに置かれる“意味”だけが際立つ。

 

海軍が見せたいのは処刑そのものではない。

あの高い位置に、誰もが見上げる場所に、一人の男を立たせることで、世界に示したいのだ。

 

正義はここにある。

力はここに集まっている。

海賊時代を支える大きな柱を、我々は折れる。

そういう宣言だ。

 

氷輪丸が低く言う。

 

「静かだな」

 

たしかに、静かだった。

 

この規模の戦力が集まっているはずなのに、聞こえてくるのは風の音と波の音だけだ。軍艦は整然と並び、砲台は口を閉じ、海兵たちは灯りの下で小さく動いているだけ。あれほどの大軍勢がいるなら、もっと騒がしくてもいいはずなのに、遠目にはむしろ不気味なほど統制されている。

 

千本桜が言う。

 

「皆、息を潜めているのでしょう」

 

「始まる前やからな」

 

神槍が答える。

 

「始まってもうたら、静かでなんかおれへん」

 

流刃若火は低く笑った。

 

「戦はのう、始まる直前が最も静かで、最も騒がしい」

 

その言葉の意味を、イツキはよく分かっていた。

 

外から見れば静かだ。

だが中では、誰もが叫んでいる。

 

海軍は勝たねばならない。

白ひげは奪い返さねばならない。

七武海はそれぞれの思惑で立っている。

ガープは祖父であり海兵である。

センゴクは友であり元帥である。

エースは罪人であり、同時に一人の人間だ。

 

それぞれの正しさと、それぞれの都合が、まだぶつかっていないだけで既に存在している。だから静かに見えて、実際にはひどく騒がしい。

 

そして、その騒がしさは、海にも伝わっている。

 

イツキにはそう感じられた。

 

しばらくして、氷輪丸がぴくりと顔を上げた。

 

「……来る」

 

「何がや」

 

神槍が振り向く。

 

氷輪丸は海軍本部ではなく、そのさらに沖合を見ていた。

 

「向こう」

 

夜の海の、そのさらに暗い部分。視界の端に近い場所に、黒い点のようなものがいくつも浮かんでいた。最初は見間違いかと思うほど小さい。だが、それらは確実に動いている。しかも同じ方向へ、同じ意志を持って進んでいる。

 

千本桜が目を細めた。

 

「船影……」

 

「一つやない」

 

流刃若火が言う。

 

「複数じゃ。しかも数が増えておる」

 

神槍の口元から笑みが消える。

 

「来たな」

 

夜の海を裂くように、いくつもの艦影がマリンフォードへ向かってくる。

 

まだ遠い。

帆の形も旗の模様もはっきりしない。

だが、それでも分かる。

 

この海域で、今この時に、これだけの数で、あの本部へ向かってくる船団が何者なのか。

 

白ひげ海賊団。

 

そして、その傘下。

 

戦争の片側が、海へ姿を現した。

 

その瞬間、マリンフォードの灯りに変化が走る。

 

外壁の上を移動する明かり。

砲台の向き。

軍艦の配置転換。

湾内の細かな動き。

 

遠目でも分かるほど、海軍が一斉に動き始めた。

 

海が、息を止めたように感じられた。

 

始まる。

 

まだ最初の砲声はない。

まだ誰も斬られていない。

だが、もう“前夜”ですらないのかもしれない。

 

イツキはその両方を見た。

 

マリンフォード。

白ひげの船団。

 

片方だけでは戦争にならない。

両方が見えた時点で、それはもう避けられない現実になる。

 

氷輪丸が聞く。

 

「主」

 

「なんだ」

 

「どうする」

 

短い問いだが、その中に多くが含まれていた。

 

このまま遠巻きに見るのか。

戦場へ近づくのか。

いつ踏み込むのか。

何をきっかけに動くのか。

 

イツキはすぐには答えなかった。

 

海を見る。

 

軍艦の群れ。

白ひげの影。

遠くて、まだ顔も見えないのに、そこにいる者たちの感情だけは手に取るように分かる気がした。

 

恐れ。

覚悟。

怒り。

忠誠。

執着。

諦めきれないもの。

 

それらが一つの海域へ集まっている。

その重さに、海そのものが沈みかけているように思えた。

 

「様子を見る」

 

イツキはようやくそう言った。

 

神槍が目を細める。

 

「見学か?」

 

「違う」

 

イツキの声は低い。

 

「見極める」

 

千本桜が静かに問う。

 

「何を、でございますか」

 

「この戦争の意味を」

 

言葉にした瞬間、それは自分に向けた問いでもあるのだとイツキは分かった。

 

何のためにこの戦争が起きるのか。

誰が何を守ろうとしているのか。

誰が何を切り捨てようとしているのか。

そして、自分の刀はその中で何を斬るべきなのか。

 

ただ強い方へ刃を向けるだけなら簡単だ。

だがそれでは、刀を作る意味が薄い。

 

流刃若火が低く笑う。

 

「面白い」

 

「戦の意味を見極める、か。主らしい答えじゃ」

 

氷輪丸は息を吐く。

 

「でも、見てるだけで済むか?」

 

「済まないだろうな」

 

イツキはそう答えた。

 

それは予感ではなく、もうほとんど確信だった。

 

ここまで来て、ただ海の外から眺めるだけで終われるほど、この戦争は小さくない。どこかで必ず、自分の刃を抜く瞬間が来る。

 

問題は、その時に何を斬るかだけだ。

 

夜の海は相変わらず静かに見える。

 

だがもう、その静けさは完全な嘘になっていた。

 

マリンフォードは灯りに包まれ、白ひげの艦隊は闇の中から迫る。海軍十万。七武海。四皇。処刑台。白い正義。黒い怒り。すべてが一つの場所へ集まり、互いの姿を視認した。

 

戦争はまだ始まっていない。

 

それでも、もう始まっているのと同じだった。

 

イツキは氷輪丸の柄に触れた。

 

冷たい感触。

 

その冷たさが、今は妙に心地よかった。熱に呑まれないための冷たさだ。燃え上がろうとする戦場の前で、自分の中の熱を見失わないための冷たさ。

 

「来るぞ」

 

誰に向けた言葉だったのか、自分でもよく分からないまま、イツキはそう呟いた。

 

風が強く吹いた。

 

白い軍港の灯りが揺れる。

黒い艦影がさらに近づく。

海が唸る。

 

そして頂上戦争の幕は、あとほんのわずかで上がろうとしていた。

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